非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」 -3ページ目

非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

「気づき」について語る人は、世の中にたくさんいます。


同じ「気づき」という言葉を使っていても、それが何を意味しているかについては、天と地ほどの違いがあります。



気づきは、時間をかけて磨けるものでしょうか?


気づきは、徐々に、何らかの努力によって育成できるものでしょうか?


もし、そういったものであるなら、それは「気づき」ではなく、特定の何かにエネルギーを注ぎこむ「精神集中」です。


集中力は、時間をかけて訓練すれば、高めることができます。


しかし、「気づき」は、努力によって高められる何かではありません。


たとえば、「気づき」があるなら、そこに「怒り」はありません。


怒りの感情は、気づきの光にさらされることで、消えてなくなるからです。


しかし、「気づき」と「集中」を混同して(「精神集中」を「気づきだ」と思い込んだまま)、怒りに意識の焦点をあてると、怒りが消えるどころか、怒りが強調されてしまいます。


このようなトラップにかからないようにするには、「気づき」と「精神集中」の違いを明確に理解する必要があります。


そして、この理解は、もちろん「言語的な理解」ではなく、事実を私見なく(歪みなく)見ることから生じる理解であり、それが「知恵」を備えた慈悲心です。


お知らせ

8月オンライン開催の講話会の受付を開始しました。

先日、京都駅近くのお寺まで自転車を走らせ、紫陽花を見に行きました。



色とりどりの紫陽花を見ていたとき、突然、「キャーっ」と叫ぶ女性の声が聞こえました。


そちらの方向を見ると、紫陽花を見に来ていた二人連れの女性の一人が逃げまどっている姿が見えました。


すると、もう一人の女性が「虫、苦手なの?」と訊ねると、彼女は「ダメ、ダメ」と答え、「蝶々も?」と訊ね返すと、「蝶々もダメ〜」という二人のやりとりが聞こえてきました。


花を見に来たなら、そこには必ず、何らかの虫が存在しています。


紫陽花は、そのままここにあっていいけれど、虫は、そのままここにあってはいけない。


これが彼女の中で起こっている、矛盾であり葛藤です。


彼女は、もちろん、さまざまな生き物たちが生息している自然やジャングルの中では平和に暮らせません。


では、自然の中ではなく、たとえば都会であれば、不自由なく暮らせるかというと、ここまで述べてきた通り、どうやら適応できていないようです。


では、なぜ、このような矛盾と葛藤、つまり平和ではいられない反応が起こるのでしょうか?


それは、自分に起きている心理的、感情的反応に対する「気づき」がないまま、ここまで生きてきたからです。


ここで私は「気づき」という言葉を使いましたが、この「気づき」という言葉が何を意味しているか、ということにおいても、人それぞれ、ずいぶん異なるとらえ方がなされています。


たとえば、もし、私が彼女と直接会話を交わせたなら、彼女は私に対して、きっと「私は、虫を見た瞬間に起こる自分の反応、怖い、という反応が起こることに、ちゃんと自分で気づいています。そうでなければ、キャーっと叫んだり、逃げ惑ったりはしませんから」というでしょう。


でも、この発言は、気づきではなく、記憶からの応答によるものです。


「記憶からの応答」と「気づき」の違い。


この違いをはっきり自覚できるまで、即座の気づきがないまま、つまり、自分の反応に不注意なまま、「私」と、私ではない「虫」「花」との分裂、その二元性は維持されたままとなります。


お知らせ

8月オンライン開催の講話会の受付を開始しました。


先月オンラインで開催した講話会では、「今日、ここに参加されている皆さんは、話し手である私(矢沢大輔)を実際には見ていないこと」について指摘しました。


また、日々、接している家族(夫や妻、息子や娘)との関係においても、同様に

「ちゃんと様子を見ている」

「ちゃんと話を聞いている」

と思い込んでいるけれど、実際には見ていないこと、聞いていないことを指摘し、私の話を鵜呑みにせず、自分自身でよく確かめてくださいとお伝えしました。


では、私たちは実際、今、目の前にいる人(生命)と触れ合うことなく、何と関わり続けているのか、というと、思考がつくり出した相手のイメージ(観念)と関わっているだけで、たとえ家族と何十年、一緒に暮らしていようと、お互いにまったく触れ合わないまま(見ないまま、聞かないまま)過ごしてきたその事実に直面できるよう、話を進めました。


では、なぜ、私たちは生命そのものとの触れ合いを避け、「この人はこういう性格だから」「この人は以前、私にこういうことを言って私を喜ばせた(もしくは傷つけた」)というようなイメージ(観念)とばかり関わってきたのか?


その理由は、生命と直接触れるより、固定観念と関わる方が、断然、楽チンだから。


こうして、精神は怠惰なものになり、その繰り返しに慣れきった脳は、どんどん衰え、老化していきます。


5月28日の「目覚めを生きる」では、このようなところから話を始め、皆さんと気づきを深めあい、新たな洞察が得られる集いにしたいと考えています。


このような話にご興味があるようでしたら、初めての方も、ぜひ今回から講話会にご参加ください。


夜、見た夢の意味を分析したがる私は、見えていた夢と別ものだろうか?


考えや感情をポジティブなものに変えようとしている私は、考えや感情と別ものだろうか?


散歩中に目に留まった花そのものよりも、花の名前を知りたがる私は、本当に花を見ているだろうか?



私(観察者)と花(観察されるもの)は、本当に別ものだろうか?


実際に目の前にいる人そのものよりも、その人の長所や短所を評価したがる私は、本当に生命あるものと出会っているだろうか?

私(評価者)と私でない誰か(評価される者)は、本当に別ものだろうか?


別ものであるなら、両者は、葛藤し続けます。


葛藤があるなら、そこには、愛も、慈悲も、安らぎも、幸福もありません。


分離がなければ、両者間の葛藤(抗争)に費やされていたエネルギーの浪費がなくなり、「愛」「慈悲」と呼ばれるエネルギーの放射だけとなります。


また、非二元(ノンデュアリティ)と言いながら、「私は存在する」vs「私は存在しない」といった二元性(対極がある考え)のどちらかにとらわれてしまうと、その真逆の意見、結論を信じ込んでいる人との対立が起こり、その論争、葛藤のためにエネルギーが浪費されることになります。


対立しあう両者を生み出し、お互いを孤立化させながら、まったく無益な闘争のために大量のエネルギーを浪費し、頭脳の働きを擦り切れさせているのは、私以外の誰かではなく、二元性の思考にとらわれてしまっている私(思考者)です。


「思考者」と「思考」

「観察者」と「観察されるもの」

「経験者」と「経験」

「私」と「私でないもの」


この両者が別々で、その対立葛藤(争い)のためにエネルギーが使われているなら、そこには愛も、慈悲の心も、知恵もありません。


お知らせ

5月28日(日)開催の講話会「目覚めを生きる」のお申込み受付を開始しました。

自分の思考をネガティブなものからポジティブなものに変えれば、人生が好転し始める。む


こういう考えのことを、「ポジティブ思考」「「ポジティブシンキング」といって、長くもてはやされた時代がありました。

もしかすると、今もこのような考え(思考)を信じて、日夜、自分の思考の内容(ポジティブなものか、ネガティブなものか)をチェックし、ネガティブなものだと判定されたなら、直ちにポジティブな考えに置き換えようと苦心され、心だけでなく体までヘトヘトに疲れ切った人がいるかもしれません。

そもそも、なぜ、このような考えを信じ込む人が多いかというと、「思考」とその思考をつくり出している「思考者(主体)」が別々に存在している、という二元性(デュアリティ)の思考を疑うことなく信じ込んでいるからです。

思考(考え)をつくり出しているのは、思考する主体である私、つまり、私とは思考者である。

だから、ネガティブな考えが思い浮かぶことなく、すべてポジティブな考えに変換できた日には、人生は問題なくうまくいくはず。

要は、思考を生み出している思考者は、思考のみならず、人生をも自由自在にコントロールできる主体である、と思い込まれているわけです。

そして、ここには、思考こそが、人生の良し悪し(ポジティブか、ネガティブか)を決するという思考崇拝主義が、大前提として組み込まれています。

しかし、注意深く、思考の動きに気づいていると、たとえば、「私の人生は、なぜいつまでも満たされないのだろう」という内容の思考Aが思い浮かび、その直後に「思考Aはネガティブだ」という内容の思考Bが思い浮かび、その直後に「思考Aではなく、もっとポジティブな思考が浮かぶようになれば、私の人生はきっとうまく回り出すはず」という内容の思考Cが出てきて、さらに思考D、E、F…という具合に、果てしなく思考のおしゃべり(思考の一人芝居)が繰り返されていること。

そして、この思考のプロセスに気づいていると、思考と思考者は、別々のものではなく、ポジティブな考えであれ、ネガティブな考えであれ、なんらかの考えが浮かんできても、思考者は存在しないこと。
「思考する主体(思考者)がいるから、思考がつくり出される」というこの説明さえも思考Xであり、思考はあっても、思考者がいるわけではないことを理解できるようになります。

そして、思考によって人生の問題を解決しようと試みても、けっして問題解決には至れないこともわかるようになります。

しかし、この文章の書き手である私は、ここで思考を否定しているわけではありません。


思考のもとになっている言葉やイメージがなければ、私はこうして言葉による記述(説明)を用いて「思考者がいるから、思考があるのではない」ことを読者の皆さんにお伝えできなくなるからです。

つまり、思考には思考にしかできない役目がある、ということです。

話をもとに戻すと、「思考者」と「思考」は別々のものだと主張しているのは思考であって、思考が「思考者」と「思考」とを二元対立させ、思考者と思考の終わりなき葛藤(一人相撲)を繰り返し、心は自らのエネルギーを消耗し、疲れ果ててしまう。

この事実が深く理解されると、思考をコントロールしようとする愚かさはなくなり、思考によっては辿り着けない智慧が現れます。

お知らせ
5月開催の講話会「目覚めを生きる」のお申込み受付を開始しました。
非二元は「二元に非ず」という意味ですが、ここで否定されている「二元」とは、そもそも何なのでしょうか?

二元とは、「二元性」のこと。

非二元は、英語でノンデュアリティですが、ノンで打ち消されている「デュアリティ」も日本語に訳せば「二元性」です。

では、なぜ、二元性(デュアリティ)を否定しているのかというと、これこそ、私たちの人生において「苦しみ」をもたらしているものだからです。

苦をもたらす二元性は、私たちが普段使っている言葉の働きによってつくり出されます。

「成功」と「失敗」。
「幸せ」と「不幸」。
「安全」と「危険」。
「豊かさ」と「貧しさ」。
「平和」と「紛争」。

これらが、二元性の例ですが、私たちは、左側を求めて、右側を避けようとします。

では、なぜ、左側を求めて、右側を避けようとするのでしょう?

これについては、あまり考えたことがないかもしれませんが、左側が「快」をもたらすもので、右側が「不快」をもたらすもの、つまり「快」と「不快」の二元性が選択の基準としても働いているからです。

そして、私たちは、生まれてから死ねまでの間、ごく当たり前に、左側の「成功」「幸せ」「安全」「豊かさ」「平和」「快」を追い求めます。

「生」と「死」も二元性なので、「生」を喜び、「死」を嫌います。

では、左側を求め、右側を避けようとすることが、なぜ、私たちに「苦」をもたらすのでしょう?

たとえば、受験の時、私たちは「合格(成功)」を求めて、勉強します。

そして、合格を求めて勉強している時、必ず、こんな不安がよぎります。

「こんなに時間とエネルギーを費やして勉強しているのに、合格できなかったら(失敗に終わったら)どうしよう?」

これが二元性の思考が生みだす恐怖です。

「合格」を求めて歩み出すと、「不合格になるかも」という影(恐怖)につきまとわれ、絶えず不安を感じながら勉強することになるわけです。

そして、私たちは不安を感じると、「いけない、いけない。勉強に集中しよう」と試みますが、また、しばらくすると不安にかられます。

つまり、不安(右側のもの)を避けようとするこの試みは、左側を求め、右側を避けようとする、これまで通りのパターンを相変わらず繰り返しているだけなので(二元性のトリックに引っかかったままなので)、うまくは機能しません。

そして、心のエネルギーは、この不安のために無駄に消費されてしまい、勉強の効率も下がってしまいます。

また、受験が終わってからも、仕事を得る時にも、職を得てからも、あらゆる場面において、左側を求めながら、右側になるかもしれない不安と恐怖を感じながら、心のエネルギーは大量に使い果たされ、いつしか私たちはクタクタになってしまいます。

これが、言葉の働きがつくり出す「迷いの心」のあり方です。

そして、非二元(ノンデュアリティ )とは、このような迷いの心ではない(二元性の思考にとらわれていない)自由で柔軟な心のあり方。


しかし、ここで注意する必要があるのは、「非二元」が左側(あるべき心のあり方)で、「二元」が右側(あるべきでない心のあり方)であるととらえたなら、これもまた言葉がつくり出す二元性の葛藤(迷いの心のあり方)に縛られたままになります。

では、言葉がつくり出したものではない、非二元性のの心のあり方とは、どのようなものなのか?

それは、当然、誰かから言葉によって伝え聞けるものではなく、自己の心の様子を自ら見ることで知り得るもの。

これを仏教では、「如実知見」と呼んでいます。

お知らせ
3月26日(日)オンライン開催の講話会「目覚めを生きる」では、言葉のどのような働きが二元性の葛藤や自己イメージをつくり出し、自由ではつらつとした心のあり方を損なってしまっているのか。
不安→集中→不安→集中の悪循環から抜け出すには、集中しようとするのではなく、不安に対してどう向き合えばよいのかについて詳しくお話しします。


相手のことを思いやってばかりいる人は、自分への気配り、気遣いがおろそかになる。

なぜなら、相手の様子ばかりが気になり、自分が感じている苦悩には意識が向かず、相手を気遣うことはできても、自分のことを気遣えなくなるから。

自分が感じている感情や心の痛みはそっちのけで、相手がラクになることばかり考え、なんとかしてあげたくなる。

でも、人や社会の役に立とうと考えてばかりいる自分は、苦みで増して、身も心もヘトヘトになってしまう。

相手だけがラクになり(本当のところはそうなっているかわからないけど)、自分だけは間違いなくキャパシティオーバーで、もう自分のことを気遣う余力は残されていない。

これが自己犠牲。

そして、苦しんでいる人は、この事実になかなか気づけない。

なぜ、気づけないかというと、感じている苦しみを自覚できず、というよりも、何かに没頭することで気を紛らせてばかりいるから。

そして、この世界には、自分の苦しみをありのままに感じないように(ごまかせるように)、一時的に気を紛らわせてくれる様々なものであふれている。

アルコール、夜遊び、スマホのゲーム、ギャンブル、ドラッグ…

あげればキリがないほどあるが、どれにはまり込んで気を紛らわせたとしても、気晴らしはあくまで一時的なものであって、根本的な苦の解決には至れない。

それどころか、繰り返し、特定の何かに依存するようになると、中毒化してしまうので、それが手放せなくなってしまう。

苦しみは、精神的なものだけれど、それを紛らわせてくれる何かにハマりこむと、今度は身体の調子まで壊してしまうことになる。

もう20年以上前の話だが、私の場合、それはアルコールだった。

そして、中毒から抜けるには、最初に自分が感じている精神的な苦痛を、ありのままに受容する必要がある。

苦の感覚を感覚的に感じ取れる感受性と、その感覚をありのままに受容できる受容性。

毎日、坐禅や瞑想を行う一番の効用は何かと聞かれたなら、「今、心や身体に生じている感覚をありのままに感じ取れる感受性が鋭くなるから」と私なら応える。

そして感受性が鋭くなると、苦の感覚を素早く感じ取れるようになり、どのようなことが苦の感覚をもたらす原因になっているのかに気づける洞察力も鋭くなっていく。

ただし、ここまでいくには、適切な指導者のもとで、指導を受けながら進めていく必要がある。

この世界にはあやしげな指導者もいるし、自己流でやるのも危険極まりない。

そして、苦の感覚を感じ取り、それをありのままに受容すると、苦の感覚が自然にやわらぐことを自覚できるようになる。

そうなれば、もう苦しみはないので、何かに頼って苦しみを紛らわせる必要もなくなるので、やめようと頑張らなくても、自然に中毒も消えます。

このような経験を通じて、苦しみを自ら解毒しきれる自己受容の力も培われていき、心が成熟していきます。

そして、自己受容の有益性を自覚できたなら、自分の苦しみに対してだけでなく、やがて誰かの苦を取り除くサポートのためにも使えるようになるでしょう。

でも、いきなり欲張り過ぎてはいけません。

最初の一歩は、苦悩を解決できるメソッドを学んでから、自ら実践し、受容力を培えることを経験的に知ること。

そのためには、自分の心の状態に合わせて適切なアドバイスを与えてくれる良き指導者に出会うこと。

つまり、何もかも自分一人でやろうとしないこと。

苦しみが今あるということは、もう既に何らかの観念にとらわれ、思考と感情の泥沼にハマってしまっているのだから。

そして最後に。

自分を思いやり、自分を尊重できるようになった分しか(自尊心が育まれた分しか)、本当の意味で、相手を思いやり、尊重できるようにはなれません。

思いやる心に、自他の分離はなく、どちらかが犠牲になることなどあり得ないのだから。

お知らせ
2月5日(日)オンライン開催の「お金のために働く欠乏マインドからの解放」では、自己犠牲によって相手(お客さん)に満足(喜び)を与えようとしても、それは心の世界の法則(仏法)に反した行いなので、双方にとってけっしてうまく機能しない働き方であることをお話しします。
今日、コンビニに行ったら、ダウンジャケットを着た小学生の女の子が棚の上のほうに陳列されたホットカルピスを取ろうと背伸びして手を伸ばしていたのですが、もう少しのところで手が届きませんでした。

そこで、私がカルピスを手に取り、「取りたかったのはこれ?」と聞きながら彼女の目の前に差し出すと、すかさず「ありがとう」という言葉が返ってきました。

ホットカルピスに手を伸ばした彼女の手の動きも、代わりにそれを取って彼女に手渡した動きも、それを受け取った動きも、それと同時に発せられた「ありがとう」の一言も、ひとつの動きであるようにつながっているように感じられ、その瞬間、心が温かくなりました。

彼女は、白い毛糸の手袋をしていたのですが、両手でカルピスのペットボトルを包み込み、その温かい感触を感じながら、今度は、スイーツを選んでいました。

きっとお年玉をもらったから、好きな飲み物とスイーツを買って、いつもより少し贅沢な時間をこれから過ごそうとしているんだろうな。

そんな思いも浮かんできて、彼女が温かそうに飲み物を両手で包む様子を見て、
私は2日前に御所内を散歩した後、中立売(なかだちうり)休憩所前のベンチで、自動販売機で買った温かい缶コーヒーを手で包み込みながら、20分ほど椅子座禅したことを思い出しました。
顔に当たるひんやりとした風の感触を感じながら、手には缶コーヒーの温かさを、そして時折り聞こえてくる、スズメやカラスの鳴き声、私の目の前を通り過ぎていく人の足音(砂利を踏み締める音)などを生じるがままに感じながら、とても安らぎに満ちた時間を過ごしました。

そして帰りに、休憩所の向かい側にある情報館の中にはじめて入ってみると、京都御苑内に生息している植物やキノコ類、鳥やトンボやカエルの写真がたくさん大画面に映し出されていて、試しに可愛らしい鳥の写真をタッチしてみると、「ヤマガラ」という鳥の名やその鳴き声を再生できる画面がホップアップしてきて、京都御苑の中にこんな施設があったのかと今さらながら驚かされ、この一年は、天気がよければ、毎日、御苑内を散歩し、座禅して、四季折々の植物や鳥や昆虫の様子に直接触れながら、帰りに情報館に立ち寄り、その日、触れたものの名前も少しずつ覚えていく一年にしようと思いました。


追伸
冬は寒さによって手がかじかみますが、心がいらだっている時、手と顔の筋肉が緊張してこわばります。
そして、その状態が長く続くと、顔の表情までこわばり、岩のようになっていきます。
心のあり方によって、顔の表情が硬くもなれば、にこやかにもなる。
つまり、心のあり方(原因)→顔の表情(結果)となって現れる。
原因と結果の順番は、決して逆順にはなりませんから、もし今、顔や手に緊張を感じているなら、数十分、何も行わずに、静かに座ってくつろぎ、安らかな時間をお過ごしください。


一昨日まで、大阪の実家で3日間過ごした。


リビングのテーブルの上に、プレジデントとダイヤモンドが置いてあったので、「これ、誰の雑誌?」と聞くと、「私のや」と81歳の母が答えた。

私が知っている母は、経済やビジネスに関する本を読まない人だったのだが、「私のや」の一言を聞いた瞬間、私の記憶の中にあった「母のイメージ」は、あっけなく崩壊した。

また、テレビでケンミンショーを観ていたら、鈴鹿央士が出ていて、「あっ、この人、湊斗や。この名前、なんて読むの?」と聞くので、「すずか おうじ」と私が答えると、「そのまま読むばええんや…想の役やってる目黒蓮はジャニーズなんやろ」と母がいうので、これまた驚かされた。

さらには、手話を交えながら、「おおさかし みなとく」とやり出したので、「え〜、なんで手話できるの?」と驚くと、「習ってたからや」というので、私は、この歳になるまで、母のことを知ってるようで、ほとんど知らなかったんだなと気づかされた。

目から母の顔や姿が、耳から母の声が入ってきた瞬間、記憶の中にある「母のイメージ」が瞬時に意識上に呼び出され、ただそのイメージに自動反応的に受け応えしていただけで、目の前にいる母とは、一度も接していなかったのかも…と思えるようになった。

そして、昨日、4日振りに京都のスターバックスに行ってみると、お店のお姉さんが、こんな寄せ書きを手渡してくれた。


そして、ソファ席でコーヒーを飲んでいると、ストアマネージャーさんが私のところにやってきて、「この店の良いところを教えてください」と訊ねられたので、「それはもう、働く人の喜びと、お客さんとの喜びとが、自他の垣根なく、共に感じ合える接客をされているところでしょ」と答えた。

別の言い方をするなら、自動的に頭に浮かび上がってくる「お客さんにはこう接するべき」という固定観念からの「自由」がここにはある。

自動的に浮かぶ上がってくる「ああしたい」「こうすべき」という想いは、自分が選択した考えではなく、知らず知らずのうちに形成された記憶の束から反応的に想起される「想い」に過ぎない。

「想い」は、記憶から出てくるものなので、過去のもの、つまり、今ではないもの。

だから、想いに従って行動すれば、その行動もまた記憶に取り込まれていくので、どんどん古い記憶がパターン化され、凝り固まっていく。

でも、多くの人は、自分の「想い」どおりに行動できることを「自由だ」と思い込んでいる。

「想い」や「感情」に素直に従うことが自由であるなら、多くの人は、もうすでに自由なはず。

なのに、なぜ、自由を求める必要があるのか?

それは自由という文字のとおり、「自らに由る」のではなく、古い記憶から出てくる想いや感情に縛られ、どんどん窮屈になっているからではなかろうか。

お知らせ
2年ぶりに、「お金を求めて働き続ける欠乏サイクルからの解放」を開催します。

先日、近所のお茶屋さんで、茶そばを食べた時、お店のお姉さんと、silent(フジテレビのドラマ)の話しになった。


この世界にスマホが出現して、音声認識アプリが開発されたことで、音を聴ける人と聴けない人とが、スマホを介してこんなふうにコミュニケーションをとれる時代に変貌していた現実に触れ、感動したことをお姉さんに告げると、登場人物の「佐倉想(さくら そう)と青羽紬(あおば つむぎ)の名前には、「想い」を言葉にして「つむぎだす」という意味が込められているそうですよ、と教えてくれた。

そのあと、登場人物の湊斗(みなと)も加えてみると、「想い」を「皆と」「つむぎだす」になり、「お〜完全にドラマの内容と一致するではないか」と感心していた。

そして、ネットの方でも名前の由来について検索してみると、佐倉想を演じる目黒蓮さんの誕生日が2月16日で、その誕生花は「さくら草」、花言葉は「初恋」。

「なるほど、ここから佐倉想という役名が決められ、初恋をテーマにしたドラマの内容とも一致していたのか」と感心しつつ、さらにドラマの中で、紬が自分の誕生日を4月28日とつげた直後から、ネット上で、4月28日の誕生花もまた「さくら草」で、これはもう偶然ではないと盛り上がっていることを知った。

でも、私が一番驚いたのは、この情報を知る前の段階。
紬が覚えたばかりの手話を使って、想に向かって「私の誕生日は4月28日です」と告げた瞬間だった。

「僕の誕生日やん」
「このドラマのロケ地、東京で暮らしていた頃、よく散歩していた場所やん」

そういえば、紬を演じている川口春奈さんは九州の五島列島出身で、海釣りが趣味だと言っていたことを思い出し、私の父も海釣りが趣味で、五島列島で食べた魚が一番うまかったと言っていたことも思い出した。

このような誕生日つながりで、私はsilentにどハマりし、さらにネットを調べるうち、私は59歳になってはじめて、自分の誕生花が「さくら草」であることを知った。

そして、このようなシンクロが起きるのは、私たち人間が認識できるこの世界が「言語空間」だからだ。

私は20代から40代まで、言葉を扱うコピーライターの仕事をしていて、映画やドラマの宣伝文をよく書かせてもらっていた。

そして、先日、同世代のHさん(元コピーライター)と京都で飲んだ時、高校生の時に観た松田優作さんの映画に出ていた女優さんが、私のブログに「いいね」をくださって、びっくりしたことを話した。

その後、2件目の店に行ったら、その店の真向かいの家の表札に、Hさんと同じ姓が記されているのを発見し、二人でびっくりした。
そして、2件目の店で飲みだしてから1時間ほど経つと、私たちの方に向かってひとりの男性が近寄ってきた。

「先程はどうも」

私たちにそう声をかけてくれた男性は、1件目に行ったお店の板前さんで、飲み屋さんが何百軒もある先斗町で、こんな偶然が起こり得るのかと、またもやびっくりさせられた。

そして、今、思えば、ここまで強力なシンクロが起きたのは、言葉を扱ってきたコピーライターが2人揃ったからだと、私は思いはじめている。

なぜなら、言語の構造を把握すれば、それはただちに世界の構造を把握することに直結することを、ドラマのsilentが始まる頃、私は哲学書を読んで知りだしたからだ。

そして、今週のsilentの放送終了から約7時間後、ワールドカップのスペイン戦で、同じ青いユニホームをきた幼なじみの三笘薫選手からボールを受けた田中碧(あお)選手がゴールを決め、日本は決勝トーナメントへの進出を決めました。
勝利への「想い」を(サポーターを含めた)「皆と」「つむぐ」の言葉どおり。

青羽紬の青は、サムライブルーの青であり、田中あお選手の名前でもあり、そして、この勝利もまた、VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)というテクノロジーの判定なくしては成立し得ない、まさに時代の変化を表す勝利だった。


そして今日、再び、お茶屋さんで茶粥を食べながら、お姉さんとsilentや言語空間の話をしていたら、店主の息子さん(幼稚園児)が2階の客席に上がってきたので、名前を聞いてみた。

「あお」

この答えを聞いて、「この言語空間、できすぎやろ!」と思うくらい驚いた。

世界(言語空間)は、「青羽紬(青は、むつぎ)」の登場以来、「あお」に染まりつつある。

でも、ほうじ茶で炊いた茶粥だけは、茶色のままでおいしかった。

追伸
このブログを書いた後に、Netflixを観たら今日のテレビドラマ第1位に「First Love 初恋」という宇多田ヒカルの曲をテーマにしたドラマが表示された。
そして、ドラマを観てみると、佐藤健さんが手話を使って会話するシーンが出てきて、silentから始まった諸々のつながりはどこまで続くのかと、またもや驚かされた。

お知らせ
2年ぶりに、お金を求めて働き続ける欠乏サイクルからの解放を開催します。