相手のことを思いやってばかりいる人は、自分への気配り、気遣いがおろそかになる。
なぜなら、相手の様子ばかりが気になり、自分が感じている苦悩には意識が向かず、相手を気遣うことはできても、自分のことを気遣えなくなるから。
自分が感じている感情や心の痛みはそっちのけで、相手がラクになることばかり考え、なんとかしてあげたくなる。
でも、人や社会の役に立とうと考えてばかりいる自分は、苦みで増して、身も心もヘトヘトになってしまう。
相手だけがラクになり(本当のところはそうなっているかわからないけど)、自分だけは間違いなくキャパシティオーバーで、もう自分のことを気遣う余力は残されていない。
これが自己犠牲。
そして、苦しんでいる人は、この事実になかなか気づけない。
なぜ、気づけないかというと、感じている苦しみを自覚できず、というよりも、何かに没頭することで気を紛らせてばかりいるから。
そして、この世界には、自分の苦しみをありのままに感じないように(ごまかせるように)、一時的に気を紛らわせてくれる様々なものであふれている。
アルコール、夜遊び、スマホのゲーム、ギャンブル、ドラッグ…
あげればキリがないほどあるが、どれにはまり込んで気を紛らわせたとしても、気晴らしはあくまで一時的なものであって、根本的な苦の解決には至れない。
それどころか、繰り返し、特定の何かに依存するようになると、中毒化してしまうので、それが手放せなくなってしまう。
苦しみは、精神的なものだけれど、それを紛らわせてくれる何かにハマりこむと、今度は身体の調子まで壊してしまうことになる。
もう20年以上前の話だが、私の場合、それはアルコールだった。
そして、中毒から抜けるには、最初に自分が感じている精神的な苦痛を、ありのままに受容する必要がある。
苦の感覚を感覚的に感じ取れる感受性と、その感覚をありのままに受容できる受容性。
毎日、坐禅や瞑想を行う一番の効用は何かと聞かれたなら、「今、心や身体に生じている感覚をありのままに感じ取れる感受性が鋭くなるから」と私なら応える。
そして感受性が鋭くなると、苦の感覚を素早く感じ取れるようになり、どのようなことが苦の感覚をもたらす原因になっているのかに気づける洞察力も鋭くなっていく。
ただし、ここまでいくには、適切な指導者のもとで、指導を受けながら進めていく必要がある。
この世界にはあやしげな指導者もいるし、自己流でやるのも危険極まりない。
そして、苦の感覚を感じ取り、それをありのままに受容すると、苦の感覚が自然にやわらぐことを自覚できるようになる。
そうなれば、もう苦しみはないので、何かに頼って苦しみを紛らわせる必要もなくなるので、やめようと頑張らなくても、自然に中毒も消えます。
このような経験を通じて、苦しみを自ら解毒しきれる自己受容の力も培われていき、心が成熟していきます。
そして、自己受容の有益性を自覚できたなら、自分の苦しみに対してだけでなく、やがて誰かの苦を取り除くサポートのためにも使えるようになるでしょう。
でも、いきなり欲張り過ぎてはいけません。
最初の一歩は、苦悩を解決できるメソッドを学んでから、自ら実践し、受容力を培えることを経験的に知ること。
そのためには、自分の心の状態に合わせて適切なアドバイスを与えてくれる良き指導者に出会うこと。
つまり、何もかも自分一人でやろうとしないこと。
苦しみが今あるということは、もう既に何らかの観念にとらわれ、思考と感情の泥沼にハマってしまっているのだから。
そして最後に。
自分を思いやり、自分を尊重できるようになった分しか(自尊心が育まれた分しか)、本当の意味で、相手を思いやり、尊重できるようにはなれません。
思いやる心に、自他の分離はなく、どちらかが犠牲になることなどあり得ないのだから。
お知らせ
2月5日(日)オンライン開催の「お金のために働く欠乏マインドからの解放」では、自己犠牲によって相手(お客さん)に満足(喜び)を与えようとしても、それは心の世界の法則(仏法)に反した行いなので、双方にとってけっしてうまく機能しない働き方であることをお話しします。