夜、見た夢の意味を分析したがる私は、見えていた夢と別ものだろうか?
考えや感情をポジティブなものに変えようとしている私は、考えや感情と別ものだろうか?
散歩中に目に留まった花そのものよりも、花の名前を知りたがる私は、本当に花を見ているだろうか?
私(観察者)と花(観察されるもの)は、本当に別ものだろうか?
実際に目の前にいる人そのものよりも、その人の長所や短所を評価したがる私は、本当に生命あるものと出会っているだろうか?
私(評価者)と私でない誰か(評価される者)は、本当に別ものだろうか?
別ものであるなら、両者は、葛藤し続けます。
葛藤があるなら、そこには、愛も、慈悲も、安らぎも、幸福もありません。
分離がなければ、両者間の葛藤(抗争)に費やされていたエネルギーの浪費がなくなり、「愛」「慈悲」と呼ばれるエネルギーの放射だけとなります。
また、非二元(ノンデュアリティ)と言いながら、「私は存在する」vs「私は存在しない」といった二元性(対極がある考え)のどちらかにとらわれてしまうと、その真逆の意見、結論を信じ込んでいる人との対立が起こり、その論争、葛藤のためにエネルギーが浪費されることになります。
対立しあう両者を生み出し、お互いを孤立化させながら、まったく無益な闘争のために大量のエネルギーを浪費し、頭脳の働きを擦り切れさせているのは、私以外の誰かではなく、二元性の思考にとらわれてしまっている私(思考者)です。
「思考者」と「思考」
「観察者」と「観察されるもの」
「経験者」と「経験」
「私」と「私でないもの」
この両者が別々で、その対立葛藤(争い)のためにエネルギーが使われているなら、そこには愛も、慈悲の心も、知恵もありません。
お知らせ
5月28日(日)開催の講話会「目覚めを生きる」のお申込み受付を開始しました。
