一昨日まで、大阪の実家で3日間過ごした。
リビングのテーブルの上に、プレジデントとダイヤモンドが置いてあったので、「これ、誰の雑誌?」と聞くと、「私のや」と81歳の母が答えた。
また、テレビでケンミンショーを観ていたら、鈴鹿央士が出ていて、「あっ、この人、湊斗や。この名前、なんて読むの?」と聞くので、「すずか おうじ」と私が答えると、「そのまま読むばええんや…想の役やってる目黒蓮はジャニーズなんやろ」と母がいうので、これまた驚かされた。
さらには、手話を交えながら、「おおさかし みなとく」とやり出したので、「え〜、なんで手話できるの?」と驚くと、「習ってたからや」というので、私は、この歳になるまで、母のことを知ってるようで、ほとんど知らなかったんだなと気づかされた。
目から母の顔や姿が、耳から母の声が入ってきた瞬間、記憶の中にある「母のイメージ」が瞬時に意識上に呼び出され、ただそのイメージに自動反応的に受け応えしていただけで、目の前にいる母とは、一度も接していなかったのかも…と思えるようになった。
そして、昨日、4日振りに京都のスターバックスに行ってみると、お店のお姉さんが、こんな寄せ書きを手渡してくれた。
別の言い方をするなら、自動的に頭に浮かび上がってくる「お客さんにはこう接するべき」という固定観念からの「自由」がここにはある。
自動的に浮かぶ上がってくる「ああしたい」「こうすべき」という想いは、自分が選択した考えではなく、知らず知らずのうちに形成された記憶の束から反応的に想起される「想い」に過ぎない。
「想い」は、記憶から出てくるものなので、過去のもの、つまり、今ではないもの。
だから、想いに従って行動すれば、その行動もまた記憶に取り込まれていくので、どんどん古い記憶がパターン化され、凝り固まっていく。
でも、多くの人は、自分の「想い」どおりに行動できることを「自由だ」と思い込んでいる。
「想い」や「感情」に素直に従うことが自由であるなら、多くの人は、もうすでに自由なはず。
なのに、なぜ、自由を求める必要があるのか?
それは自由という文字のとおり、「自らに由る」のではなく、古い記憶から出てくる想いや感情に縛られ、どんどん窮屈になっているからではなかろうか。
お知らせ
2年ぶりに、「お金を求めて働き続ける欠乏サイクルからの解放」を開催します。

