二元とは、「二元性」のこと。
非二元は、英語でノンデュアリティですが、ノンで打ち消されている「デュアリティ」も日本語に訳せば「二元性」です。
では、なぜ、二元性(デュアリティ)を否定しているのかというと、これこそ、私たちの人生において「苦しみ」をもたらしているものだからです。
苦をもたらす二元性は、私たちが普段使っている言葉の働きによってつくり出されます。
「成功」と「失敗」。
「幸せ」と「不幸」。
「安全」と「危険」。
「豊かさ」と「貧しさ」。
「平和」と「紛争」。
これらが、二元性の例ですが、私たちは、左側を求めて、右側を避けようとします。
では、なぜ、左側を求めて、右側を避けようとするのでしょう?
これについては、あまり考えたことがないかもしれませんが、左側が「快」をもたらすもので、右側が「不快」をもたらすもの、つまり「快」と「不快」の二元性が選択の基準としても働いているからです。
そして、私たちは、生まれてから死ねまでの間、ごく当たり前に、左側の「成功」「幸せ」「安全」「豊かさ」「平和」「快」を追い求めます。
「生」と「死」も二元性なので、「生」を喜び、「死」を嫌います。
では、左側を求め、右側を避けようとすることが、なぜ、私たちに「苦」をもたらすのでしょう?
たとえば、受験の時、私たちは「合格(成功)」を求めて、勉強します。
そして、合格を求めて勉強している時、必ず、こんな不安がよぎります。
「こんなに時間とエネルギーを費やして勉強しているのに、合格できなかったら(失敗に終わったら)どうしよう?」
これが二元性の思考が生みだす恐怖です。
「合格」を求めて歩み出すと、「不合格になるかも」という影(恐怖)につきまとわれ、絶えず不安を感じながら勉強することになるわけです。
そして、私たちは不安を感じると、「いけない、いけない。勉強に集中しよう」と試みますが、また、しばらくすると不安にかられます。
つまり、不安(右側のもの)を避けようとするこの試みは、左側を求め、右側を避けようとする、これまで通りのパターンを相変わらず繰り返しているだけなので(二元性のトリックに引っかかったままなので)、うまくは機能しません。
そして、心のエネルギーは、この不安のために無駄に消費されてしまい、勉強の効率も下がってしまいます。
また、受験が終わってからも、仕事を得る時にも、職を得てからも、あらゆる場面において、左側を求めながら、右側になるかもしれない不安と恐怖を感じながら、心のエネルギーは大量に使い果たされ、いつしか私たちはクタクタになってしまいます。
これが、言葉の働きがつくり出す「迷いの心」のあり方です。
そして、非二元(ノンデュアリティ )とは、このような迷いの心ではない(二元性の思考にとらわれていない)自由で柔軟な心のあり方。
しかし、ここで注意する必要があるのは、「非二元」が左側(あるべき心のあり方)で、「二元」が右側(あるべきでない心のあり方)であるととらえたなら、これもまた言葉がつくり出す二元性の葛藤(迷いの心のあり方)に縛られたままになります。
では、言葉がつくり出したものではない、非二元性のの心のあり方とは、どのようなものなのか?
それは、当然、誰かから言葉によって伝え聞けるものではなく、自己の心の様子を自ら見ることで知り得るもの。
これを仏教では、「如実知見」と呼んでいます。
お知らせ
3月26日(日)オンライン開催の講話会「目覚めを生きる」では、言葉のどのような働きが二元性の葛藤や自己イメージをつくり出し、自由ではつらつとした心のあり方を損なってしまっているのか。
不安→集中→不安→集中の悪循環から抜け出すには、集中しようとするのではなく、不安に対してどう向き合えばよいのかについて詳しくお話しします。
