先日、イノダコーヒから家に戻ってくる途中、紙屋さんの店頭に「言の葉大賞」と書かれたポスターが貼ってあった。
内容を読んでみると、今年のテーマは「道」と書いてあり、その瞬間、仏道が、茶道、華道、書道などとどう繋がっているのかを多くの人に知ってもらえる良い機会になるかもと思い、昨夜、iPadで作文を書き上げた。
を読み、その時、自分が選択した結果の愚かさに後悔の念を感じていて、「起こっていることが起こっているだけ」と誰かから言われても、苦しいままだと打ち明けてくれた。
先日、イノダコーヒから家に戻ってくる途中、紙屋さんの店頭に「言の葉大賞」と書かれたポスターが貼ってあった。
内容を読んでみると、今年のテーマは「道」と書いてあり、その瞬間、仏道が、茶道、華道、書道などとどう繋がっているのかを多くの人に知ってもらえる良い機会になるかもと思い、昨夜、iPadで作文を書き上げた。
人は、自分以外のことについては、凄まじいほど、いろんなことを知っている。
つまり、「物知り」だ。
でも、「自分」とはどのような存在であるかについては、皆目わかっちゃいない。
それゆえ、人生にうろたえ、迷い続け、スカッと清々しく生きられないでいる。
なぜ、こうなるかというと、多くの人は、なんの疑いもなく、自分のことを肉体だと勘違いしたまま生活しているからだ。
なぜ、このような勘違いが起こるかと言うと、生まれてまもなく、肉体に名前がつけられ、それ以降、あらゆる人々から名前を呼ばれて過ごしてきたからだ。
例えば、私の場合、親からも、親戚からも、友人からも、「大輔」と呼ばれて生きているうちに、「あー私は、この体なんだ」という思い込みが知らず知らずのうちに強化され、疑う余地なく、私は大輔と名付けられたこの体だと勘違いしてしまうわけだ。
そして、この勘違いが起こると、この肉体が「私」であるなら、あっちに見えている体は「他人だ」と言うことになり、あっちに見えている物体は「物だ」ということになる。
この時点で、「自他が別々に存在している」という分裂の思い込みが、まるで真実のように思い込まれてしまう。
さらには、自分のことを肉体だと思い込んでしまっているので、「生老病死」と呼ばれる四苦におびえながら、どうすれば、これらの苦を避けて通れるかを考え続けることになるのだが、どうこうしようともがき続けたところで、四苦を避けることが不可能な人生に失望したりもする。
しかし、これらは、自分とは何かについての勘違いから生じた架空の苦しみに過ぎない。
これらの苦しみが、私たちの勘違いから生じたものであることを、人類史上はじめて見抜かれたのがお釈迦さまであり、どのような修行を行じれば、お釈迦さまと同じように、自他が別々に存在しているというのが思考によるつくりごとに過ぎないことを看破できるようになり、現実に存在しているのは、「不二の法(仏法)」だけであることを自覚できるようになる。
法とは、宇宙の働きそのものであり、この働きに従って、あらゆるものが、生じたと同時に滅するようにできている。
これは宇宙の法則そのものなので、この法則から外れて存在しているものなど、何もない。
つまり、あらゆるものが、この法則に沿って活動しているので(例外が一つもないので)「法(法則)」と読んでいる。
でも、多くの人は、自分を肉体だと勘違いしたままなので(勘違いしていることにさえ気づけないので)、仏道、仏法に反することばかりやり続け、餓鬼道、畜生道、修羅道などに落ち込んだままとなる。
それゆえ、いもしない他人との争いに明け暮れる人生(修羅道)を送り続けることになる。
では、どうすれば、勘違いが解けるようになるのか?
自他を別々になる前の実物(仏法)にダイレクトに触れ続けていればいい。
それが仏道の修行。
修行を続ければ、そのうち、法そのものの働きによって、この体も自然に動いていることに気づけるようになる。
宇宙の動きから、分離して動いているものなど、何もないことを自覚できるようになる。
お知らせ
9月から、非二元ファシリテーター養成講座・実習コースの内容が変わります。
ファシリテーターとして活動する前に、自分が体ではないこと、自他の別ができる前の「法としてのあり様」「本来の自己のあり様」をはっきり自覚できるようになるまで、私がお一人お一人に対してセッションを行うことにしました。
しばらく、参加していなくて、もう一度、不二(非二元)のあり様に触れる修行を再開してみようと思われた方も、ぜひご参加ください。
京都に移住してから10日が経ちました。
東京で暮らしていた時との一番の違いは、朝、目が覚めると、マンションのベランダの窓越しに、山(東山)が見えること。
今は梅雨時なので、東山の頂上に雲がかかっている日が多く、その雲のかかり具合というか、山の表情が毎日違っているので、過去(昨日の東山)はもうどこにもない、という事実をありありと実感できます。
東京で暮らしていた頃は、ベランダ越しに向かいのマンションの壁面とわずかに空が見える程度で、景色としてはそれほど変化を感じられず、あらためて自然に触れられる地に越してきて、よかったなと感じています。
振り返ってみると、私は今年の春、桜を見るために京都を訪れたのですが、六角堂の桜を見た後、イノダコーヒーの本店まで歩いている最中、「この辺りに住めば、毎日、コーヒーを飲みながら読書して暮らすのに最高かも…」と思い出しました。
そして、京都の不動産屋さんに「イノダコーヒーの近くで物件を探して欲しい」とリクエストし、この7月に30年以上暮らした東京から京都へと引っ越してきました。
桜の季節に、六角堂からイノダコーヒーまで歩いていなかったら、今ごろ、まだ東京で暮らしていたかもしれない。
そう考えることもできるでしょうが、現実にはそうなっておらず、私はここで暮らしたいと思う街に出会い、実際、今ここにいます。
ですから、ここが私の新しい住処(すみか)となり、マンションの名前は「スミカ〇〇〇〇」と言います。
そして、新しい電話番号の下4桁は1715(イーナイコー)となっています。
お知らせ
京都での非二元(ノンデュアリティ)の対面セッション。
どこのカフェでやろうかと、ここ数日、烏丸御池界隈のカフェを巡っていたのですが、この文章を書いていて、わざわざ探す必要がないことがわかったので、対面セッションのご予約の受付を開始しました。
また、7月18日(日)にはオンラインでの講話会「公然の秘密」を開催します。
6月末をもって30年以上暮らした東京を離れ、京都に引っ越すことになりました。
東京で暮らした30年の間に、2人の息子が生まれ、彼らもあっという間に大人になり、今年から働き出しました。
そして私は、仕事を続ける上で、これから先もずっと東京で暮らす必要があるだろうと思っていたのですが、昨年から今日に至るまで、コロナの影響で会場を思うように借りられなくなり、講座の開催方法をオンラインに切り替えたところ、以前と変わらず講座をやっていけることがわかりました。
それで、この身ひとつあれば、どこでも暮らしていける自由があったことに気がつき、じゃあ、どこで余生を過ごそうかと考えたところ、真っ先に京都の風景が思い浮かびました。
私の両親は共に京都生まれの京都育ちで、私自身3歳まで京都で暮らしていたので、自分が最初に話し言葉を覚えた地に今回55年ぶりに戻り、初心に戻って、自己のあり様を見直していきたいなと感じています。
また京都には、毎日、散歩しても、巡りきれないほど数多くのお寺があります。
自分の足が元気に動くうちに、知らない寺を訪ねては庭を眺めて一休み、そんな散歩を楽しみたいなと思います。
そして京都は、道元禅師が「正法眼蔵」を書き始められた地でもあります。
文庫本の正法眼蔵を持ち歩きながら、お寺だけでなくカフェや甘味処にも立ち寄り、漢文を読めるようになるよう日々の勉強と読書を続けていきます。
東京でお世話になった皆様、長い間、ありがとうございました。
京都にお越しになったら、また、お会いしましょう。
お知らせ
京都に移ってからは、「公然の秘密」という名で、定期的に講話会(オンライン)を開いていこうと考えています。