小さい頃、親からこう言われて育った人は多い。
ここで見逃しがちなのは、この言葉には「自分と他人」とが別々に切り離されている意味合いが含まれていること。
だから、この言葉を信じて育った人は、一般的には「自分でなんでもできる人」「自立した人」と捉えられているが、現実には、家庭においても、職場やコミュニティにおいても、周りへの気配りができない人になったりする。
なぜ、そうなるのか?
たとえば、喉が渇いて、何かを飲みたいなと思ったとしよう。
「そういえば、冷蔵庫の中にお茶があるな」と思って、お茶を取りに行く。
その時、この人は、自分のお茶だけを取りに行き、周りに人がいたとしても、「お茶飲む?」とは聞いたりしない。
なぜなら、「自分の事は自分でやる」のがこの人の信念になっているからだ。
他の人が今、何かを飲みたいかどうかなんて、その人が決めること。
そして、もし、何かを飲みたいのなら、自分で取りに行くのが当たり前。
そう考えているので、人から「この人、気が効く人だね」と思われるような事はほぼ起こらない。
その一方、自他を隔てて物事を見ない仏教を学んだ人でれば、人から「気が効くね」と褒められたいがためにお茶を運んでくるわけでもなく、ただお茶を飲みたいからお茶を取りに行き、その場に居合わせた人たちにもお茶を配れる。
でも、今の日本には、自他を隔てない「不二の法(仏法)」を伝えてくれる人は少なくなり、「自分の事は自分でやりなさい」という西洋からきた個人主義の考えを広める人が多くなってしまった。
自立という名の「孤立」が進み、人間関係がギスギスした世の中になるのも、これでは仕方あるまい。
「見返り(報酬)なしで、なんで私があなたのためにお茶入れなきゃいけないの?」
そう考える大人や子供が増えるのも、これまた仕方あるまい。
お知らせ
7月より京都に移転するため、東京での対面によるプライベートセッションは、6月26日(土)までとさせていただきます。