2度と読まない本を大量に処分して | 非二元|縁起的現象としての「私」

非二元|縁起的現象としての「私」

宇宙的自己に目覚める記事を配信。
「迷悟」「苦楽」「生死」の相対を超えた「身体・宇宙」一如の絶対的あり様とは?
迷い、悩み、苦しみのない、日々、生き活きとした生活の実践。

本棚の中で長年眠ったまま、再読されることがなかった大量の本を昨日、段ボールにつめこみ、BOOKOFFに引き取ってもらった。

段ボールに本を詰め込みながら思ったのは、「よくこんな本を買い、しかも、大量の時間まで費やし読み終えたものだ」という思いだった。

それぞれの本のタイトルを見ているだけで、40代の頃の自分がいかに先行きの不安をを感じながら生きていたのか、さらに、これらの本がいかに当時の私の不安につけ込み、正しい方向に私を導くどころか、ただ本を売らんがために書き上げられたものであったかが、今の時点から見ると、よくわかるようになった。

もちろん、悪いのは、本の方ではない。

これらの本を求める私の心そのものが、絶えず不安にさいなまれつづけていて、少しでもその不安から解放されたいという衝動から、これらの本に私自身の心が飛びついていたのだ。

しかし、私は幸運なことに、50歳を過ぎてから、良書(良き教え)に出会えるようになった。

良き教えに出会うと、これまでに読んできた本が読む価値がないほど本質から外れた駄本であるとわかるようになるし、それと同時に良書(良き教え)以外の本は読めなくなる。
つまり、良書は何度も繰り返し読むことになるだろうし、ずっと手元に置いたままの本となる。

「願わくば、もう少し早くこれらの本に出会えていればなー」とも思えるのだが、おそらく30代、40代の頃の私の目には、これらの本のタイトルがたとえ視界に入ってきても、私の人生とは何の関係もないものだと思えただろうから、「願わくば…」という可能性はまったくあり得ず、「出会うべき時に出会うべきものと出会える」が真実なんだと今は思う。

30代、40代の頃の私は、洋書を読めず、日本の禅の本がどれほど世界中で読まれているのかも知らなかったし、たとえ、日本語で書かれた道元の本を書店で見かけたとしても、「それが自分の日々の生活となんの関係があるのか?」「そんな教えにうつつを抜かしている暇があるなら、仕事の効率を上げる努力をした方がよっぽど身のためだ」と思えるほど、三毒(貪・瞋・痴)の中でもがき苦しんでいたから。

お知らせ
3月22日から桜を見物するため、3日間、京都に滞在し、3月25日から4月中旬まで、大阪の実家に滞在します。
大阪滞在中、非二元の対面セッションは、梅田のカフェで行います。