非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」 -7ページ目

非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

今週は、フランス在住の日本人女性や広島在住の男性とノンデュアリティ・プライベートでセッションをzoomでやりました。


コロナ禍において、この一年ですごく変わったと感じるのは、東京以外の方とセッションをできる機会が増えてきたこと。

そして、セッションを受けられる方自身、何らかのメソッドを学ばれ、カウンセリングやセラピー、コーチングの仕事をされている方が増えてきたこと。

この2点が、この一年の間に、すっかり変わってしまったなと感じています。

そして、私とのセッションにおいて、多くの方が確かめたいと思っている内容が、「自分がやっていることが、ノンデュアリティのセッションと、どこが同じで、何が違っているのか、その違いを明確にして、自分が今やっているサービスの質を向上させたい」といったものです。

私自身、10年前まで、コーチングや心理カウンセリング、NlLP、デイマティーニ・メソッドなどを学び、これらのことを仕事にしたいと思って多くの知識を学んできましたが、何をどれだけ学ぼうと、本業にはなり得ませんでした。

仕事になり得るどころか、何をどれだけ学んでも、私自身が苦しみの真っ只中にいたままで、解放感を感じたことは一度もありませんでした(一時的に感じる解放感や気休め程度の安堵感はあったものの…)

そういう点から見て、私がノンデュアリティに出会い、はっきり認識できるようになったのは(これまでに学んできたこととの決定的な違い)は、「根本的に何かが狂っていたり、間違っていたりする自分は存在していない」という事実でした。

しかし、これを頭(理性を司る大脳新皮質の領域)で理解できたとしても、何かの出来事に対してリアクションしてしまう「逃げるか、戦うか」の衝動的反応は、理性では食い止められず、同じ反応が繰り返され、悪循環が継続されたままとなります。

おそらく、多くの人が、この事実に気づいてきて、これをどうすれば、乗り越えられるのか?とその答えを模索されているのでしょうが、その答えは、感情を司っている大脳辺縁系の領域で、衝動的反応を引き起こしているホルモン分泌が起きているのだから、そこにダイレクトにアプローチしていかない限り、悪循環を引き起こしている衝動的な行動パターンは止められない、というのが、私がノンデュアリティに出会って知り得た事実です。

なにより私自身、この事実を知り、感情や体感覚に直接触れられるようになったことで、リバレーション(解放)が起き、それまでずっと信じてきた「どこかが狂っている自分がいる」「その自分が完璧になるには、何かがプラスされるか、変わらなくてはいけない」という幻想が完全に溶けてなくなりました。

ということで、こうした自分の経験を伝えるには、また言葉に頼らざるを得ませんが、私がセッションでやっていることは、ただひたすら、思考と感情がつくり出している「偽の自分(エゴ)」の動きをクライアント本人が見抜けるようになるお手伝いをしているだけで、これ以上のことも、これ以下のこともやっていません。

なぜなら、これだけで、それまで問題を抱えていると思い込んでいたクライアント自身が、その問題が全く解決しなくても、自分が真に求めていた安らぎと、生命のフルフィルメントが、今、ここにあることを感じてれるようになるからです。

お知らせ
ノンデュアリティについて、腑に落ちない点がある人は、非二元のプライベート・セッションか、4月開催の非二元入門にご参加ください。
「矢沢大輔」という名のついた顔、体は、他の人と比べ、明らかに異なる特徴を備えている。

例えば、頭髪の色は白くて、髭が生えていて、目の色は茶色くて、身長は177センチで、少しお腹が出ている。

声にも特徴があり、その響き具合も、毎日、英語の発音練習を繰り返していると、近頃、ガラガラ声になってきた


つまり、「矢沢大輔」と名づけられた人物は、このような特徴を持っていて、私以外の誰かが、このような特徴を持つ顔や体型を見た時に、その人の記憶にある「矢沢大輔」の特徴と照らし合わせ、「あっ、この人は矢沢大輔だ」とわかる仕組みになっているわけだ。

つまり、「矢沢大輔」と呼ばれている顔や体は、他の名前で呼ばれている何十億人の人たちの顔や体と比べ、まったく違う特徴を持っている。

だから、多くの人は、自分の顔と体には、他の誰とも違う特徴があるからこそ、自分と他の人とを区別し、これが「自分」で、あの人は「他人(自分ではない人)だ」と理解できる、と思っている。

つまり、自分には、誰とも異なる「私ならではの特徴があるからこそ、自分と他人とを混同せず
自己を認識できる」と思い込んでいる。

でも、実際のところ、私自身が自分を認識する際には、そのような特徴の違いを比較しなくても、私は私であり、他人ではあり得ないことが明らかにわかっている。

この比較を用いず、自己の存在を自ら自覚できている存在こそ「私」であり、この「私」は、肉体的特徴によって認識可能な「矢沢大輔」とは明らかに違っている。

この私は、何らかの特徴(違い)を頼りにして見分けなくても、私であり、他人と取り違えることなど絶対にあり得ない存在。

それゆえ、新海誠監督の映画「君の名は。」に出てくる話のように、仮に肉体が誰かのものと入れ替わったとしても(または全身を整形手術してまったく別人の顔と肉体に改良したとしても)、私は相変わらず私のままであり、「あれ、肉体だけ入れ替わっちゃったぞ」と認識できるのだ。

つまり、「私」とは、顔や体型の違いを比較することによって、自分と他人を区分けし、その結果として自己を認識しているのではなく、比較することなく自らの存在を認識できる唯一の存在なのだ。

そして、このことをはっきり認識できるようになると、他人と比較して「自分はここがダメだ」「自分には才能がない」「自分の稼ぎは少ない」といった言葉に出てくる「自分」というものが、頭の中でつくり出した偽の自分だとわかり、あるがままの生命の働きあるのみ、となる。

梅は梅。空は空。人は人。
あるがままで、命全開


お知らせ
「2021年版・非二元入門」では、個人としての自分ではなく、本当の自己に覚めながら生きると、現実がなぜ変わり出すのかについて語ります。


去年の年末から今日まで、毎日、本を読み続けていた。

中国では、唐や宋の時代、禅師と僧の間で、どんな会話のやり取りがなされ、見性(悟り)が起きていたのか?

その一方、日本では、江戸時代にどんな禅師が現れ、僧に対してだけでなく、庶民に対しても、禅の真髄を語り、悩める多くの人たちに大安心をもたらしていたのか?

このような内容の本にしばらく触れていたので、なんとなく漢文や古文にも慣れてきたのだが、そうなると不思議なもので、これまで読み続けてきた英文の本から自然に遠ざかるようになり、英文で書かれたノンデュアリティ(ノンデュアリティ 」の本への興味もすっかり薄れてしまっていた。

ところが、5日ほど前から、YouTubeで英会話の発音に関する動画を観るようになったのをきっかけに、「やっぱり英語を学ぶのは楽しいな」と思い始め、その流れで英語で書かれたノンデュアリティの本を再び読み返すようになったのだが、驚いたことに、これまで何十回も読み返して、内容的にもかなり深く理解できている思い込んでいた本の内容が、まったく違う内容として読解できるようになっていることに気がついた。

そして、3日前、これまでの人生を振り返っても3本の指に入るほど、心が動揺し、その場でじっとしていられないほどの金銭的なトラブルが起きた。
そこで、ひとまず近所のドトールに行き、アイスコーヒーを飲みながら、周りの光景を眺めてしばらくつろいでいると、突然、心の中のザワめきが緩みだし、全身が安堵感に満たされる体験をした。

そして、金銭的トラブルがまったく解決していないにもかかわらず、その夜も、いつも通りにぐっすり眠ることができ、翌日、目が覚めた時、「10年前の自分なら、こんな事が起きたら、夜通し、心が落ち着かず、問題が解決される日が来るまで、ずっとうろたえ続けていただろうなぁ。でも、非二元のプレゼンスに落ち着く方法を知ったことで、こんなにも感覚が変わってしまうんだなぁ」と、あらためて実感することができた。

振り返ってみると、英文の本から一旦遠ざかったことで、心の中が一度空っぽになり、そこに漢文と古文による仏教の不ニに関する教えが大量に入りやすくなり、その上でもう一度、英文によるノンデュアリティに関する本に戻ったことで、これまでとはまた違う感覚で内容を味わえるようになり、それによって、今回のようにどんな出来事が起きても、ほぼ自動的に「無条件の自由」を感じられる変化が起きやすくなったのではないかと感じている。

そして、読み込む言語が自然に変わっていき、それによって生じ始めた感覚の変化も、また、今回経験した出来事も、すべてが生命の完璧な流れ(パーフェクト・フロー)であり、何一つ間違いなど起きていないことを深く確信できるようにもなった。

お知らせ
4月開催の2021年版「非二元入門」の受付を開始しました。
また、非二元ファシリテーター養成講座・導入コースのお申し込み受付は2月12日(金)までです。

近頃、ニュースを見ていても、周りの人から聞いた話からしても、これまで頼りにしてきた収入が減り、これからどう暮らしていけばよいのか、悩まれている方が増えてきました。

安定していた毎月の給料が減り始めた。
仕事そのものがなくなってしまった。

「さあ、どうしたものか」と心が落ち着かず、なんとか当面暮らせるだけのお金を工面しようと努力するわけですが、これは言ってみるなら、新型コロナの影響によって、働ける環境(外的状況)がこれまでと全く変わったにも関わらず、お金に依存する状態(内的状態)だけは、変わることなく続いていて、そのズレにより、今の苦悩が発生しているとも言えるわけです。

コロナが収束して、元通りの世界が再び戻ってくるなら、お金に依存した状態が続けたままでも、その日が来るのをひたすら待っていれば、安心して暮らせる日が再びやってくるでしょう。

しかし、それがいつの日になるのか?
はたまた、元の状態に戻る日が本当にやってくるのか?といえば、未来のことですから、誰にも予測できません。

しかし、未来のことはわからないと言っても、歴史を振り返れば、疫病がいつかおさまり、「あの頃は大変だったね」とお互いに振り返れる日が来るのは、確かなことです。

その日が来るまでの間、今、気持ちが落ち着かず不安を感じているなら、本当に見なくてはならないのは、感情的・心理的にお金に依存したままの状態が続いている限り、今後も収入の増減によって、感情が振り回されてしまう人生が続いてしまうということです。

ここで私が言っているのは、お金に対する感情的・心理的依存のことで、それが消えれば、今後、収入の増減にとらわれることも心配することもなく、生活していけるようになります。

今週末24日(日)のオンライン講座では、再び緊急事態宣言が発令されたことを鑑み、このような内容の話をしてみたいと思っています。
年末年始は、いつもなら大阪の実家で過ごしているのだが、今年はコロナの影響で帰省できず、東京の自宅で過ごした。

東京で過ごした大半の時間は読書にあて、非二元(ノンデュアリティ )に関する仏教とヴェーダーンタ哲学の本を10冊以上、読破できた。

私はここ数年、日本語ではなく、英語で書かれた本しか読まなくなったのだが、仏教の中でも特に禅の精神について深く知るには、漢文を読みこなせる必要があるように思え、今回の年末年始は、漢文の引用が多い、日本の古典をたくさん読むことにした。

そして、本を読んでいる間に、京都の相国寺(臨済宗)のために「動稙綵絵」と「釈迦三尊像」の絵を描いた伊藤若冲のドラマも放送され、禅の精神が日本の美術や茶道の中に根付いていて、禅とは何かを言葉で表現することはできないが、日本人の暮らしぶりや所作の中に、禅が生きていることをあらためて知ることができた。

また、本を通じてわかったことなのだが、キリスト教圏の人たちが、エゴ(自我)を殺すことに、なぜ、あれほど囚われ、それに比べて、仏教では、無我(そもそもエゴなど存在せず、殺す必要もないこと)を知ることが重要視されているが、この両者の違いが十字架と仏像の表情の違いとして顕著に現れていることを知れたのも大きかった。

そして、この違いを知れたことで、イギリスでノンデュアリティについて語っているT.Pが、なぜ、弟子に対して「早く死ねたらいいね」などと語り、仏教の中道を知るアメリカのS.Kが、「T.Pには近づくな」と警告を発している理由もはっきり分かり、とても意義深く有意義な年末年始を過ごせた。

ここまで読んでくださった皆さん、本年も、どうぞ、宜しくお願いいたします。

お知らせ
今月24日(日)、オンラインで「仕事とお金」について、ノンデュアリティの観点から話します。

昨日、オンラインで「ウェイクフルネス」を開催した。


今回のテーマは、「幸福・自由・愛」だったのだが、冒頭、老子の言葉「知るものは語らず、語るものは知らず」を引用し、「幸福とは何か?」「自由とは何か?」「愛とは何か?」「非二元(ノンデュアリティ)とは何か?」をブログやYouTubeなどを通じ、言葉を使って語っている人たちは、「幸福・自由・愛=非二元」を知らない人であることを指摘してから講座を始めた。

「語るものは知らず」と言いながら、それでもなぜ私が、幸福・自由・愛をテーマに、今回、2時間半に渡って語ろうとしているのか?

これについては、多くの人が「これが幸福だ」と信じ込み、追い求めているものは、「幸福」とは何の関係もないものである事実。
同じく、「これが自由だ」「これが愛だ」と信じ込み、追い求めているものは、自由でもなければ、愛でもないこと。
これらの誤解(イリュージョン)については、言葉を使って指摘することが可能であることを伝えてから(日本の禅師が使っているのと同じ方法を用い)、真実(幸福・自由・愛)に触れる妨げとなっている「誤解」の事例を一つ一つあげながら、誤解を解いていった。

そして、人間の苦しみが、二元性(二局)の片側に囚われる執着から起こること(仏陀が悟ったこと)を、左右に揺れ動く振り子を喩えにして語り、具体的にどうすれば「苦しみ」を苦しみのまま持続させず、「悟り・目覚め」のきっかけとして活用でき得るかを伝え、講座を終えた。

お知らせ
来年2月から始まる非二元ファシリテーター養成講座の導入コースですが、早々にご入金いただいた方がいらっしゃるので、今回、新たに特典をプラスすることにしました。
詳しくは下記のページをご覧ください。
人は、仕事のキャリアに行き詰まったり、職場の人間関係、家族との関係に衝突が起きたりすると、精神的にひどく思い悩む。

この苦しみが長引くと、その重々しさに耐えきれず、生きるのがイヤになったりもする。

この苦しみは、いったい何を知らせているサインなのか?

その意味を知っている人は、かなり少ない。

精神的苦痛は、何によって引き起こされているのか?

苦しさは、あなたが真実に触れあっていない時のサインとして生じている。

真実に向けて、あなたの目を見開かせるため、自分の思い違いがどこにあるかがわかるようにするために与えられた苦労。
それが「苦しみ」の正体だ。

肉体的苦痛を感じた時、人は体のどこかに病状や傷害があることに気づける。

これと同じように、精神的苦痛もまた、自分の信念のどこかに、真実に反する誤解があることを知らせてくれている。

しかし、多くの人は、精神的苦痛が何のサインであるかを知らず、間違いを間違いのままにしてしまっている。

それゆえ、精神的苦痛は、肉体的苦痛に比べ、長引くケースが多くなる。

しかし、何のサインなのかに気づけたなら、精神的苦痛は、たちまち脱落してしまう。

お知らせ
来年開催の「非二元ファシリテーター養成講座・導入コース」と「お金を求めて働き続ける欠乏サイクルからの解放」のお申し込み受付を開始しました。





世田谷区の上町に「トロッコ」という小さなカフェがある。

上町は、私の母が高校時代に暮らしていた町で、数ヶ月前、この店を偶然見つけ、お店のお姉さんが新潟の柏崎出身で、私の母の母(祖母)の出身地と偶然同じであることがわかり、驚いた。


そして、今日、この店でパウンドケーキを食べていると、ひとりの女子高生がやってきて、焼き菓子をいくつも注文し、テイクアウトしようとしていた。

「何人で食べるの?」と私が訊ねると、「ひとりで」と答え、明日、バレーボールの新人戦があり、すごく緊張しているので、明日の朝、ここの焼き菓子を食べて頑張ろうと思い、買いに来たことを教えてくれた。

そこで、彼女のために、たとえ緊張していても試合本番で実力を発揮しきるために、何をすればよいかをオリゲン・ヘイゲルの「弓と禅」の的(まと)の話を例にあげて教えてあげた。

そして、帰り際、「3人で一緒に写真を撮ってもいいですか?」と彼女からリクエストされ、彼女とお店のお姉さんと私の3人で写真におさまった。

そして、その直後、写真を撮った彼女のスマホを見て、お店のお姉さんが「スマホのシール、かわいいね」と言った。

彼女のスマホを見てみると、「萩の月」と書かれたシールが貼ってあった。

「それって、お菓子の萩の月」と私が訊ねると、「はい」と彼女は答え、私は驚いた。

今から25年ほど前、假屋崎省吾さんの生花と共に萩の月を撮影した写真を使い、家庭画報に「萩の月」の広告が掲載されていた。

その広告のコピーライターは、私だったのだ。

お知らせ
スポーツであれ、仕事であれ、本番が近づくと緊張してしまって、力を存分に発揮しきれなくなる人は、一度、非二元のプライベート・セッションを受けてみてください。
東京に加え、認定ファシリテーターによる横浜でのセッションも始まりました。

先日、近所のショッピングモールがリニューアルオープンした。

改装された成城石井のデザート売場に行くと、80代くらいのおばあさんが、2人の若い店員さんに何かを訴えかけていた。

デザートを選びながら、おばあさんが話している内容に耳を傾けていると、成城石井の向かいに新規出店した魚屋さんの魚の値段が、夜の8時を過ぎても値引きされていないことに立腹していることがわかった。

魚屋さんの値段を決めるのは、あくまで魚屋さんであり、他店の店員さんにこんなことを訴えかけて、このおばあさんはどうするつもりなんだろうと思いながら様子を見ていると、なんとおばあさんは、2人の店員さんに「あなたたちの方からあっちの店の人にちゃんと伝えておいてね」と言い残し、成城石井で何も買うことなく立ち去っていった。

こんな理不尽なことを言われても、成城石井の2人の店員さんは嫌な顔ひとつ見せずに、おばあさんの訴えに耳を傾け、彼女が立ち去った後、「私たちに言われてもね」と半ばあきれながら、デザートに値引きのシールを貼る仕事に戻っていった。

今日、どうしてこの話を紹介したかと言うと、「目覚めることなく、催眠にかかったままの状態」とはどういうもので、催眠にハマっている本人は自分が催眠にハマっていることに気づけない例として、とてもわかりやすい事例になると思えたからだ。

催眠状態にかかっている人は、このおばあさんのように、自分が信じている内容(午後8時を過ぎたら魚の値段は値下げになるはず)について全く疑う余地なく「正しい」と信じこんでいる。

だから、自分の信じ込んでいる内容と、現実との間に不一致が起こると、自分の考えに問題があるとはまったく思わず、現実(魚屋の値段)の方が間違っていると思い、現実を変えようと動き出すことになる。

自分の思い通りに、現実の方が変われば、自分の気分が落ち着き、平和が訪れると思い込んでいるからだ。

でも、実際には、見ず知らずの魚屋さんがその日、いくらで魚を売ろうと、おばあさんの幸福、平和とは、一切何の関係もない。

でも、気の毒なことだが、おばあさんは、このことに気づけない。

だから、たまたま近所にできた魚屋さんの値段を見ただけで、心が落ち着かなくなり、現実が自分の思い通りに変わるまで、おばあさんは途方もないエネルギーと時間を費やし続けることになる。

「おばあさ〜ん、目を覚まして!」
「こんなことにエネルギーと時間を費やし続ける徒労さ、バカバカしさに早く気づいて!」

こんなつぶやきの声が自分の内側に浮かんできたのだが、この考えに気づいた瞬間、「自分の考えではなく、変わるべきはおばあさんの方だと言っているこの考えもまた、催眠を誘発する言葉だと気がつき、私は20%オフになったばかりのフルーツあんみつを手に取り、レジに向かった。

お知らせ
12月オンライン開催のウェイクフルネスのテーマは、「幸福・自由・愛」です。
インドのヴェーダーンタ学派(非二元・ノンデュアリティを説いた主流学派)では、存在しているのは、サット・チット・アーナンダだと説いている。

「サット」とは、日本語で言うと「存在」で、目の前にあるものは常に変わり続けるけれど、いつでもここに「私がいる=存在している」感覚が確かにあることを語っている。

「チット」とは、「意識」のことで、見えているもの、聞こえている音だけでなく、考えていることや感情などにも気づいている「意識・気づき」のことを指している。

「アーナンダ」とは「至福」のこと。

そして、重要なのは、サット・チット・アーナンダの3つは、それぞれ別々に存在しているのではなく、同じ一つの「存在」の異なる側面であることが語られている。

つまり、「自分の存在」を認識できているなら、同時に「至福」を感じていることになる。

でも、多くの人は、自分の存在を認識できているにもかかわらず、至福を感じるどころか、常にイライラしていたり、自分の人生について思い悩んでいたりする。

サット・チット・アーナンダは一つのものであるはずなのに、なぜ、サットとチットを認識できていても、アーナンダ(至福)を感じられないのか?

その理由は単純で、自分ではないものを自分だと錯覚し続けているからだ。

これは一種の催眠であり、至福を感じられない多くの人は、自分が催眠術にかかり、「自分ではないものを自分だ」と思い込んでいることに、気がついていない。

「あなたは、鶏だ」という催眠術にかかった人が、催眠にかかっている間は、鶏だと思い込み、自分が人間であることにまったく気づけないように。

また、既に催眠状態にある人は、「私はいない」というサット(存在)を否定するような言葉を、疑うことなく鵜呑みにしてしまい、催眠術師の言いなりになっていることにも気づけない。

では、どうすれば、至福を感じられるようになるのか?

催眠から目覚めれば、その場で、ありもしない幻想は消え、現実に戻れる。

催眠にかかっている間、私には何かが足りなくて(たとえば、お金、学歴、職歴、賞罰、賞賛、自信、パートナー、フォロワーなど)、それが手に入れば私は幸せになれると信じ、必死に努力してきたけれど、その催眠から目覚めれば、これまでに努力してきたことが、どれほど無益なものであったかがわかるようになる。

催眠にかかっている間は、何かがプラスされれば、自分は幸せになれると思い込んでしまっているけれど、真実はその逆で、自分ではないものを自分だと勘違いしてしまっているその誤信、錯覚が脱落すると、サット・チット・アーナンダだけが存在していることが認識できるようになる。

お知らせ
今年最後のオンライン講座、ウェイクフルネスのお申し込み受付を開始しました。