例えば、頭髪の色は白くて、髭が生えていて、目の色は茶色くて、身長は177センチで、少しお腹が出ている。
声にも特徴があり、その響き具合も、毎日、英語の発音練習を繰り返していると、近頃、ガラガラ声になってきた
つまり、「矢沢大輔」と名づけられた人物は、このような特徴を持っていて、私以外の誰かが、このような特徴を持つ顔や体型を見た時に、その人の記憶にある「矢沢大輔」の特徴と照らし合わせ、「あっ、この人は矢沢大輔だ」とわかる仕組みになっているわけだ。
つまり、「矢沢大輔」と呼ばれている顔や体は、他の名前で呼ばれている何十億人の人たちの顔や体と比べ、まったく違う特徴を持っている。
だから、多くの人は、自分の顔と体には、他の誰とも違う特徴があるからこそ、自分と他の人とを区別し、これが「自分」で、あの人は「他人(自分ではない人)だ」と理解できる、と思っている。
つまり、自分には、誰とも異なる「私ならではの特徴があるからこそ、自分と他人とを混同せず
自己を認識できる」と思い込んでいる。
でも、実際のところ、私自身が自分を認識する際には、そのような特徴の違いを比較しなくても、私は私であり、他人ではあり得ないことが明らかにわかっている。
この比較を用いず、自己の存在を自ら自覚できている存在こそ「私」であり、この「私」は、肉体的特徴によって認識可能な「矢沢大輔」とは明らかに違っている。
この私は、何らかの特徴(違い)を頼りにして見分けなくても、私であり、他人と取り違えることなど絶対にあり得ない存在。
それゆえ、新海誠監督の映画「君の名は。」に出てくる話のように、仮に肉体が誰かのものと入れ替わったとしても(または全身を整形手術してまったく別人の顔と肉体に改良したとしても)、私は相変わらず私のままであり、「あれ、肉体だけ入れ替わっちゃったぞ」と認識できるのだ。
つまり、「私」とは、顔や体型の違いを比較することによって、自分と他人を区分けし、その結果として自己を認識しているのではなく、比較することなく自らの存在を認識できる唯一の存在なのだ。
そして、このことをはっきり認識できるようになると、他人と比較して「自分はここがダメだ」「自分には才能がない」「自分の稼ぎは少ない」といった言葉に出てくる「自分」というものが、頭の中でつくり出した偽の自分だとわかり、あるがままの生命の働きあるのみ、となる。
梅は梅。空は空。人は人。
あるがままで、命全開
お知らせ
「2021年版・非二元入門」では、個人としての自分ではなく、本当の自己に覚めながら生きると、現実がなぜ変わり出すのかについて語ります。