「風がのれんを揺らす」は仏法にあらず | 非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

近所の蕎麦屋で、蕎麦を食べながら、ふと外を眺めると、縦長ののれんが揺れ動いていて、こんな話を思い出した。



旗がパタパタと動いている様子を見て、一人のお坊さんが「あれは旗が動いているんだ」と主張し、もう一人のお坊さんが「いや、あれは風が動かしているんだ」と反論しているところに、たまたま慧能禅師が居合せ、「旗が動いているのでもなければ、風が動かしているのでもない」と答えたという話。

では、慧能禅師が何が動いていると答えたかは、公案の答えになってしまうので、ここでは回答を差し控えるが、その答えを聞いたお坊さんたちは、あっと驚き、「もしやあなたが五祖弘忍禅師の所で印可(悟りの証明)を得て、その後、行方がわからなくなった六祖慧能禅師では?」と直感させるほど、慧能禅師の答えは鋭かったのだ。

普通に考えれば、店先ののれんが揺れ動いていたら、「風が吹いているから、のれんが揺れている」と思うか、「風によってのれんが揺れた後、風がやんでもしばらくの間、のれんは揺れ続けている」と思うことだろう。

でも、このどちらの「思い」も、頭で考えた答えであり、これでは、禅の公案は通らない。

「風」と「のれん」。
「動くのれん」と「それを眺めている私」。

頭はこんなふうに、物事を二つに分けて考えることしかできない。

しかし、慧能禅師は、「仏法は是れ不ニの法なり」と説いている。

動いているのは、のれんでもなければ、風でもない。

のれんが揺れている眼の様子は、不二(非二元)そのもの。

「のれんが揺れているのか」それとも「風が動かしているのか」と言った疑い、迷いが生じるのは頭の中だけ。

そして、蕎麦を食べる時も、食リポするかの様に頭を使って味を評価しようとしたなら、蕎麦の香りも味もぼやけて、楽しめなくなる。

追記
非二元(ノンデュアリティ)=「私はいない」と思い込んでいる人がいますが、「私はいない」という思いも、頭の中の考えであり、それでは「私はいる」と思っている人に対して、「いや、私はいない」と言って正反対の意見を戦わせることになるだけで、これでは「風動幡動」でもめていたお坊さんたちと同じように、不二(非二元)を悟れません。
不二(非二元)とは何かを知りたい方は、一度、ノンデュアリティ・プライベートセッションを受けてみてください。
現在、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、プライベートセッションは、zoomか電話のみで行っています。