非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」 -12ページ目

非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

今日は、非二元性の「存在」を表した言葉、「サット-チット-アーナンダ(存在-意識-至福)」について書きます。

「サット」とは、英語で言うところの「プレゼンス」で、今ここにある存在そのものです。

今、見えている景色は、時によって変わりますが、景色が変わっても変わることなく在るもの。
それが「サット」です。

景色がどれだけ変わっても、変わることなくあるサットは、いつでも、どこにいても在るもの。
つまり、永遠なるものです。

そして、この存在(サット)に気づいているなら(チットが起きているなら)、至福(アーナンダ)をダイレクトに感じられるようになります。

存在は、状況や環境(見えているもの)にかかわらず、常にここに在りますから、その感覚=至福も常に感じられるものです。

この現実の在り様を表した言葉が、「サット-チット-アーナンダ」です。

サット(存在)の働きがチット(意識)であり、サットの性質がアーナンダ(至福)であって、サット、チット、アーナンダの3つが別々に存在しているわけではありません。

サットは消えることなく、あり続けている存在であり、その性質がアーナンダ(至福)であるにもかかわらず、なぜ、私たちは至福を常に感じられないのか?
「日日是好日」とは思えないのか?

その理由は、存在を認識することなく、思考がつくり出した理想の未来(夢)を追い求めてばかりいるからです。

理想を追い求め、求めていたものを手に入れた瞬間に感じられる喜び・興奮(一時的なもの)を至福と勘違いし、一時的な喜び・興奮が消えると、また新たな刺激・興奮を求めて動き回り、また、その興奮が消えると、次なる興奮を求めて動き回る。

この、ここにないものを求めて動き回る、終わりなき心(マインド)の動きこそが、今、ここに在るライフの至福を雲らせている原因であり、このマインドの活動(中毒)がゆるみだすまで、ここに常に在る至福は、マインドの活動によって隠され続けます。

お知らせ
状況や環境にかかわらず、今、ここに在るサット-チット-アーナンダの至福、無条件の自由(リバレーション)を直接体験してみたい方は、ノンデュアリティ (非二元)プライベート・セッションをお受けください。
年末年始は、大阪・梅田のラウンジでセッションを行います。


昨日は、渋谷で、「スマホで英語を話せる脳をつくれる科学的学習法」を開催した。

 
前半は、スマホのアプリをどのように使って発音練習を繰り返すと、会話に必要な基礎的なフレーズや単語を効率よく覚えられるようになるか。
後半は、オンライン英会話をはじめても、短期間で挫折してしまう人と、いつまでも学習が続き、どんどん会話力が上がっていく人のレッスンの受け方の違いについてお話しした。
 
そして、昼休みに、参加者の方々と一緒にランチを食べた際、私が毎日、やり続けている「開脚ストレッチ」の話をした。
 
私は体が硬くて、脚を開くと骨盤が後ろに倒れてしまうため、誰かに骨盤あたりを後ろから押してもらわないと、ストレッチの運動ができなかったのだが、ある日、通販の番組を見ていて、開脚しながら、体を前後に揺らずことができる補助器具があることを知り、それを買ってみると、テレビを見ながら、開脚ストレッチができるようになり、「とてもいい買い物をしたな」と満足していることを話した。
 
そして、講座が終わってからも、参加者の方々と飲みに出かけ、最終的に恵比寿のバーで飲んでいるときにこんなことが起きた。
 
昨日はバーのオーナーがお休みの日だったのだが、夜8時を過ぎた頃、自分の店で飲むために、オーナーが犬を連れて店に入ってきた。
 
犬にはリードがつけられておらず、私の席から2メートルほど離れた場所に立っていた犬と私の目があった。
しばらく見つめあっていると、犬は通路に腹ばいになりくつろぎだした。
 
そして、犬の後足は、驚いたことに開脚状態で、前足は前に伸びていて、まさに私が毎日やっている開脚のポーズと同じだった。
 
講座に参加された方と共に、「開脚する犬」を目撃したことを驚きあい、昨夜は、9時から「グランメゾン東京」の放送があったので、深酒することなく早めに帰宅した。
そして、番組を見ながらストレッチした。
 
お知らせ
東京・渋谷で開く非二元トーク「渋谷禅」のお申し込み受付を開始しました。
内容は、1月13日に京都で話したのと同じ話を、渋谷でも話します。

非二元ファシリテーター養成コースの実習編の最中、元コピーライターで、インテグラル理論やティール組織、マインドフルネスなどを勉強されてきた経営者の方から、こんな疑問が発せられた。

 
「どうして、ティク・ナット・ハン(ベトナム出身の禅僧)は、この今にくつろぐ瞑想のことを、マインドフルネスと言ったんだろう?
マインドを満たすことを目指させかねない表現になっちゃてますよね」
 
私も元コピーライターで、同じようなことを感じていたので、「だから、私はウェイクフルネスと言うようにしています」とお伝えした。
 
そして、ブルース・リーも、確か同じようなことを言っていたなと思い出し、ネットで調べてみると、こう言っていたことがわかった。
 
Empty your mind,be formless,shapeless—like water.
 
まさに、マインドフルネスとは、まったく逆の表現。
そして、この形のない存在に気づいた時、まるで水のように姿、形を変え続けるライフのあり様をフルに感じきれるようになる。
 
お知らせ
12月20日から1月12日までの間、大阪に帰省しますので、非二元の対面セッションは、大阪の梅田で行います。
東京で対面セッションを受けたい方は、今のところ12月19日くらいまでは、東京にいる予定ですので、お早めにご予約ください。
また、1月13日には、京都の町家カフェの2階で、「喫茶禅」を開きます。

 

関連記事:男女が惹かれあい、やがて衝突する訳

 
 
 
 

見える次元には、極性が存在する。

 
北極があれば、その反対には必ず南極がある。
電池(バッテリー)にプラス極があれば、その反対側に必ずマイナス極がある。
 
これらの両極は、必ずセットで存在している。
 
両極は1枚のコインの裏表のようなもので、一極(片側)だけで存在することはありえない。
 
これと同じで、見える次元において、男女は正反対の極性を持ちながら、セットで存在している。
 
それゆえ、男と女はお互いに惹かれあう。
 
磁石のプラス極とマイナス極が引っ付きあうように、男は女に惹かれ、女は男に惹かれる。
 
この惹かれあう力のことを、「魅力」という。
 
そして、二つの極が繋がれ一体化すると、電池の電気が放電してなくなるように、男女間においても、お互いに惹かれあっていた魅力が薄れていく。
 
すると、魅力によって、それまで覆い隠されていたお互いのエゴが姿を現す。
 
エゴは自らの望みを相手に押しつけようとするので、男と女は衝突しあうようになる。
 
お互いのエゴがぶつかり合うと喧嘩になり、それがエスカレートすると別れが起こる。
 
このようなプロセスを経て、「私たちは一人一人、別々に存在している」という分離感が強化され、その孤独な自分(エゴ)をなんとか守ろうとして、エゴはますます相手との間にバリアをつくりだす。
 
しかし、このエゴの動きは、自分を両極の片割れ(片側)だと信じた、不完全さを感じさせる思い込みからくるものなので、この誤った信念が溶ければ、相手に自分の望みを押しつけようとするエゴの動きは消え、無条件の愛だけになる。
 
お知らせ
男女の関係に限らず、人間関係になんらかの問題を感じている方は、来年1月13日(祝)に京都で開く喫茶禅にお越しください。
また、東京でも、2月9日(日)に同じことを話そうと思い、今、準備を進めている最中です。
 

ドラッグの常習者(ジャンキー)は、一時的な快楽を求めて、ドラッグを買い続ける。

 
ドラッグからもたらされる快楽(興奮)は一時的なものなので、快楽が消え去ると、ジャンキーは物足りなさ(欠乏)を感じ、再びドラッグに手を伸ばすことになる。
 
この繰り返しが、中毒(依存症)のメカニズムだ。
 
そして、ジャンキーの何人かは、次のドラッグを買うための資金を手っ取り早く稼ぐために、自らドラッグの売人になったりする。
 
スピリチュアル・ジャンキーと呼ばれる人たちもこれと同じで、特定のスピリチュアルな教え(ストーリー)にハマり込み、そのストーリーに没入することを繰り返す。
 
お気に入りのストーリーに浸っているうちは、気分が良くなるのだが、どんな気分も一時的なものなので、気分が悪くなると、再び、気分を良くしてくれるストーリーを求めて、いつもの教祖のもとに赴くようになる。
また、その教えの効力を感じられなくなれば、また別の教え(ストーリー)を求めて方々を渡り歩くことになる。

ハマっているものがドラッグであれ、アルコールであれ、ギャンブルであれ、スピリチュアルであれ、ジャンキーが求めているのは、いずれも一時的な快楽で、その快楽は特定の対象物(ドラッグ、アルコール、一獲千金、スピリチュアル)を得たときにしかもたらされない。

それゆえ中毒となるのだが、この常習性は、個人のコントロールを超えて起こる。

だから、個人の意思で、依存症から抜け出そうとしても、なかなか抜け出せない。
(ドラッグの所持で何度も逮捕される芸能人を見て、「なんて意思の弱い人間なんだ」と非難したところで、本人の意思ではどうにもコントロールできない)

しかし、私たちが本当に求めているのは、特定の何かからもたらされる一時的な快楽ではなく、「何かを得なければ満たされない」という制限的な思い込みからの「解放」であることに気づけたなら、特定の何かに執着するマインドの動きは自然にゆるみだし、中毒からの解放は起こり得る。
 
お知らせ
来年1月、京都のカフェで「人間関係」の対立を生み出す投影のメカニズムについて話しますが、2月か3月には東京でも同じ内容を話そうと思っています。
日程が決まり次第、また、このブログで報告します。
 
関連記事:喫茶禅
 


来年1月から、京都の町屋カフェ「FUDAN」さんの2階の和室で、「喫茶禅」を始めます。

 
喫茶しながら「禅」の話を聞ける会なので、「喫茶禅」と名付けました。
 
先月、同じカフェで開いた非二元入門でもお話ししたのですが、「禅」と「非二元」は、同じ存在を指し示しています。
 
「禅」は文字通り、「単」を指し「示し」ている言葉です。
「非二元」も文字通り、「二つ」がないこと、つまり「単一性」を指し示した言葉です。
 
「何が単一なのか」というと、ライフ(生命)が単一だということです。
 
一つのライフがあるだけ。
 
この単純さを指し示しているのが、「禅」であり、「非二元」です。
 
この単純さを認識しているなら、一つのライフ以外に存在しているものは何もなく、ライフはスムーズに展開します。
「日日是好日」となります。
 
しかし、一つのライフの展開に対して、「こんな展開は気に食わない」とライフに抵抗する私(エゴ)が出てきたなら、「ライフ」と「ライフに抵抗する私」の二つが別々に存在することになるので、人生がギクシャクしはじめます。
 
ライフとの一体感(一致感)があれば、ライフだけになるので、人生はスムーズに流れますし、ライフとの不一致が起こっているなら、人生は苦難の連続となる。
 
この単純さを示しているのが、「禅」であり、「非二元」です。
 
禅は、禅寺で行われるもの。
 
そんな思い込みがあるなら、ライフのシンプルさ(単純さ)は、禅寺の中だけに閉じ込められて(限定されて)しまいます。
 
日常のすべてが「禅」「ワンライフ」。
それに気づける集いとなることを願い、来年1月から、京都でも、度々、禅について語ってみようと思っています。
 
日時、詳細は下記よりご確認ください。
今日の夕方、大阪の実家から歩いて10分ほどの場所にある焼鳥店に出かけた。

秋らしくなったそよ風の心地よさ、夕焼けの美しさに見惚れながら、iPhoneでSam Smith & Normaniの「Dancing with a Stranger(見知らぬ人とのダンス)」を聴きながら焼鳥店まで歩いた。

店につき、耳からイヤホンを外しても、Dancing with a strangerがまだ聴こえる。

一瞬、どういうことかわからなかったのだが、しばらくして、店でも同じ曲が流れていたことがわかり、思わず店の女性に、「今、聴いていた曲が、店でも同時期に流れていて、びっくりした」と伝え、自分のiPhoneの曲名の画面を見せて驚きあった(これぞまさに、見知らぬ人とのダンス!)。

そして、博多名物の「とり皮」と「しぎ焼き」、名古屋名物の「手羽先」の旨さを、関西の日本酒「紀土」(和歌山)と「春鹿」(奈良)と共に堪能した。



東京にも、博多のとり皮を楽しめる店、名古屋の手羽先を楽しめる店が増えたが、この両方を同時に楽しめる店は、おそらく大阪のこの店でしかないように思う。

そして、お勘定を済ませてから、「次は、両親と一緒にきます」と伝えて、実家が釣船店であることを伝えると、「あー、ヤザワさんですか!」「私、タチウオを釣りに行ったことあります」と、店の女性(入店時に聴いていた曲のことで私が声をかけた女性)が声を上げ、うちのお客さんであったことが判明した。

また、4日前には、こんなシンクロも起きたので、Facebookに上げた記事をそのまま、載せておきます。

大阪を代表するボタニカリー(本町)に、初めてやってきた。
朝11時過ぎに整理券をもらい、入店できるまでの1時間20分、近くのドトールで時間を潰すことにした。
ドトールに入ると、隣の席の男性もボタニカリーの整理券を持っていたので話しかけてみた(彼も私と同じ12時30分入店の整理券を持っていた)。
「ドトールでたまたま隣り合わせた二人が、同じ店の同じ時間の整理券を持っているなんて、珍しいですよね」という会話から始まり、続いてどこから来たのかを聞いてみると、これまた同じ大阪の港区に住んでいることがわかった。
さらに「うちの実家は朝潮橋駅の先の釣船屋なんですよ」というと、彼は高校生の頃に、うちの実家で釣り餌を買ったことがあると言い出し、こんな偶然があるのかと驚きあった。
彼と偶然出会ったおかげで、1時間20分の待ち時間はあっという間に過ぎた。
そして、ボタニカリーのうまさは、見た目のカラフルさ同様、この世のものとは思えないほど、不思議な味がした。


お知らせ
11月4日(祝)の夜、大阪から東京に戻りますので、5日以降、東京での非二元の対面セッション可能です。
また、来年1月13日(祝)、京都の町屋カフェ「FUDAN」の2階で、喫茶禅(珈琲を飲みながらの非二元トーク)を行うことになりました。
テーマは、「自分の外側に問題が存在するように見える投影(幻想)からの解放」です。

今、大阪の実家に滞在している。

毎晩、寝ていると、隣の部屋から父のイビキの音が聞こえてくる。

「隣の部屋から音が聞こえてくる」という表現は、二元性の思考がつくり出した概念であって、実際は隣の部屋(あちら)から私が寝ている部屋(こちら)に向かって音が飛んできているわけではない。

「イビキの音を発している父と、イビキの音を聞いている私が、それぞれ別々に存在している」という認識もまた、考えがつくり出した概念であり、リアルなのは、ゴーゴーとこだまする音だけだ。

「イビキがうるさくて眠れない」と騒ぎだす想い(おそらくイビキの音より騒々しい考え)も、イビキの音に反応してひとりでに現れ、その考えもしばらくするとおさまり、リアルなイビキの音だけになる。

すると、この音を出しているのは「父」ではなく、生命(ライフ)であることがはっきりわかるようになる。

一つの生命(ライフ)が、この瞬間、イビキの音になって現れている。

イビキの音を出している父も、イビキの音を聞いている私も、もうここにはおらず、非二元になる。

するとまもなく、イビキの爆音もひとりでにおさまりだし、「静寂」だけが消えずに残るようになる。

この静けさ、穏やかさを実感しながら、毎晩、深い眠りに落ちていく心地よさも、生命(ライフ)そのものの心地よさであり、この心地よさはどんな音にも邪魔されることはない。

お知らせ
10月22日から11月4日の間は、大阪に滞在していますので、非二元の対面セッションは梅田で行います。

昨日は、京都の町屋カフェFUDANの2階の和室で、非二元入門を開催した。



京都にお住まいの方だけでなく、はるばる広島、岡山、兵庫、愛知からもお越しいただいた方もいて、おかげさまで満席の状態で、講座を開催できました。

冒頭、「悟り」「非二元」「禅」という言葉はそれぞれ違っていても、これらの言葉が指し示している「存在」は同じで、それは言葉や概念ではないので、直接感じる必要があることをお伝えして話を進めていった。

そして、「悟り」「非二元」「禅」とは何かと頭を使って考えたら、その答えがわかるのは、「今ではなく未来」ということになり、永遠に悟れなくなる悪循環のトラップに陥ってしまうことをお伝えした。

そして、講座が終わってからは四条烏丸のホテルに移動し、ラグビーのワールドカップをテレビで見てから、四条烏丸の割烹の銘店に繰り出した。

特に感動したのは、低温調理された「鶏の肝煮」のうまさだった。





非二元の「心地よさ」をどれだけ言葉を費やして表現しても、それは言葉による解説であって、心地よさそのものではないように、この店の料理一品一品の「おいしさ」もまた、言葉で表せるものではなく、実際に食べた者にしかわからない。

割烹の板前がカウンター越しにうまい料理を目の前の客の前に差し出すように、私も昨日、禅、非二元の旨味、心地よさを目の前のお客さんに差し出してみた。
「話し手」と「聞き手」の分離が消えた時に現れるワンライフの心地よさを、直接味わってもらいたくて。

お知らせ
10月22日から11月4日の間は、大阪に滞在していますので、非二元の対面セッションは梅田で行います。


次男は、今月、二十歳になり、今、オーストラリアで暮らしている。
9月末に一時帰国し、今日、再びオーストラリアへ旅だった。

オーストラリアに行ってから、息子は、禅や仏教に興味を持ったらしく、禅に興味があるオーストラリア人からも、禅について時々、質問されるらしい。
(日本人なら、禅のことをよく知っていると、外国人は思い込んでいるらしい)

禅や瞑想(おそらくマインドフルネス)に関する本を、息子は何冊か読んだらしいのだが、今いち、よくわからないらしく、帰国した際に、禅の本を貸して欲しいと頼まれた。

息子は、私が禅にも通じる非二元のセッションをやっていることさえ知らず、私が「非二元」という言葉を発すると、「それは何?」と言ったので、「禅のことだよ」と答えた。

それから、どの本を息子に手渡すかを決めるために何冊かの本を読み返し、「これなら脇道に迷うことなく、真実にまっすぐに入っていける」と思えた本を一冊選び、書店で同じ本を新たに買って息子にプレゼントした。

禅や非二元に関する本を、あらためていろいろ読み返したことで、あきらかにスピリチュアル・エゴが書いたとわかる眉唾ものの本もあれば、自然にエゴが崩壊しだす名著もあり、「これさえ読んでおけば、あやしげな新興宗教にハマることも、人生で思い悩むこともなくなるだろう」と思えたアメリカ人が記した本を贈った。

思い返すと、昨年、息子と一緒に京都の寺を巡った時、案内役の若い僧侶をみて、息子は「カッコいい」と言っていた。

さらに、息子の彼女の実家は、京都のお寺の庭師だということで、庭がきれいな寺を見て回ったりもした。

そして、息子の彼女のお父さんは、誰もが知っている世界的スポーツシューズブランドの日本法人の社長で、偶然にも、私はコピーライター時代、そのブランドの雑誌広告のコピーを書いていた。

こうやって人生を振り返ってみると、全てが人知を超えた「縁起」によって成り立っていることがよくわかる。

これを英語で言うなら、Life is mysteriousとしか言いようがない気がする。

お知らせ
10月21日から11月4日の間は、大阪に滞在していますので、非二元の対面セッションは梅田で行います。