主にわたしのつぶやきインスピレーションです。あわよくば詩・エッセイに。気軽に覗いてくださいね。ルールやマナーを守っていただける方なら無言フォロー歓迎です!
英国のエリザベス女王が亡くなられた。(2022年9月9日)BBCやThe Economistでの特集を観ていたけれど、尊敬に値する女王陛下だったことがわかる。女王は女王の役割を担い果たす。みたいなことをおっしゃられていて感銘を受けた。こういうところからイギリスの国家観や社会観がわかるのではないだろうか。たまたま英国ロイヤルファミリーに生まれ、女王という役割を担うことになった(という意識)。女王や王は社会の役割の一つにすぎない。皆、社会の中の役割を持ち、国を形成している。それらの一つでも欠ければ日常がままならなくなってしまう。そのため自分は献身的に女王業を全うした。そういうふうに受け取ったのだけれど。コモンウェルス(イギリス連邦;イギリス所縁の国々)だけでなく、世界中から愛された理由はそういうところからじゃないかと思う。どんな職業にも貴賤はない。ただその仕事をやり遂げる、という考えは好き。女王は、「もし女王以外の職に就くとしたら何でしょうか?」と問われ、「トラック運転手ですね」と答えたことがあるそうです。(おわり)
道行く他人(ひと)のTシャツ(特に英語ロゴ)を観察するのは最近好きI wish thatyou were'there.(あなたはここにいてほしくなかったなぁ)というロゴのTシャツ…を着た人が歩いていたけど、こんなのと遭遇してクスっとしてる。 ※I try to begood.(いい子になります)のロゴTシャツ着たちびっこ。発見。 ※THEJUST REMEMBER WHAT YOU HAVE[ABANDONED](これまで捨てたものを思い出してみろ)って背中にロゴのついたTシャツ文法間違ってない(皺で見えなかったか)?って思うけどなかなかオツ---------------------------駅前のドトールで前の席に勉強する女子が着ていた。 ※WE STAND ALLON THE SAME STAGE.(皆、同じ舞台に立っている)のロゴのTシャツを着たひとを見かけ、瞬間的に読む。(地下街通路にて) ※I AM FIERCE.(わたしは獰猛です)というロゴTシャツを着たおばさん。 ※FIRST TWOYOU GIVELAST ONEYOU EARNのロゴTシャツを着た人言葉遊びかFIRST←→TWO。FIRST←→LAST。YOU←→YOU。GIVE←→EARN。混乱するがおもしろい。札幌のドトールで40代くらいの男性の背中に ※VARIETYIS THE VERYSPICE OF LIFE(多様性は人生のスパイス)のロゴ入りTシャツの人地下鉄のプラットフォームで。 ※DO ORDO NOT.THERE ISNO TO TRY.(するかしないか。試すことはない。)病院の診察待ちの際アジア系外国人の男性 ※最後にTシャツではないけれど、MYOTHER BAGISCHANNEL(別のバッグはシャネルだよ)というロゴ入りの買い物バッグを持った人とすれ違った。個人的な趣味です。基本、詩とか言葉好きですからね。ただ一瞬で読まなければならないので、かなりのケース、流れてしまいます。そこが難しい。ショップに行ってまでは読もうと思いませんが・・・おわり
(ツライ労働と怠け休日の関係の比喩①) 待望の休日を無下に扱い、価値のない過ごし方をするなら、キツイ労働と休日の関係は、”砂漠の旅”と”蜃気楼のオアシス”に喩えられるかもしれません。 華やかな現実が目的地になくとも、道のりを歩むモチベーションにはなります。しかし到達しても、何ひとつ価値を見いだせられないなら、それは砂漠の蜃気楼に遭遇した経験と似たものになりそうです… (蜃気楼の中を過ごした自分も蜃気楼のように感じるかもしれません) また漠然とした妄想の中で描いた休日像を一人歩きさせているとも言えます。 あまりよくない休日の在り方についての喩えですが、もうひとつ(比喩②) なぜか、日本人サラリーマン労働者を頭に浮かべたとき、 目の前に垂らされた人参につられ、客車を引く馬車馬 を連想してしまいました。 少々、辛辣な響きに聞こえるかもしれません。 しかし、外国人から見た日本の労働環境などこんなものではないだろうか。 旅行では日本に行きたいけれど、仕事ではまっぴら御免という声が聞こえてきそうです。 (欧米人からしたら、この人たちは何のために働いているのだろう…と思っている) Q. では、ニンジンをぶら下げていたのは誰だったのか? A. まぁ、「社会」でしょうか。 もしくはなんらかの「社会システム」。(それは宗教上、取り決められた制度だったり、法律で制定化されたルールだったりする)(宗教と言ったのは、日曜日休みがキリスト教の習慣から来ているから。お正月やお盆も日本の宗教的な伝統に由来しますね。) 本来、自由であるはずの個人の時間が、社会制度から付与された社会的な時間にすり替わっている、としたら…「んっ?」という反応にもなってしまいます。 少なくとも、「何が前提でなんのために」の問いかけくらいは常に抱いていた方がよさそうです。 (余談) 社会(国と言い換えてもいい)全体が向上(&改善)されなくては、個人の幸福は達成されにくい。だから、まず国や社会が第一という考え方は好きですが、最終的に個人の生活が最低限保証され、且つ、その最低ラインが(ある程度高い)水準を維持できないなら、社会は役割を果たしていないとも言えます。 社会のために個人がないがしろにされる、という落とし穴が(システム全体のそこらに)掘られていて、そこに労働者のほとんどが嵌っているとしたら、それは問題です。 ほとんどの労働者が国や社会におおむね満足しているのなら、理想的な社会と言えますが、実際、そのような国がこの地上にあるのか?なるべく理想に近づいていこうとする意欲・調整力は必要だと思います。 強い経済力、軍事力がなければ、いつか他国に滅ぼされてしまうことは歴史の必至です。この世から紛争はなくならない(現実主義的観測です)。経済力を高く維持しなければならないし、そのためには基本、働かなければならない。悩ましい。 せめてニンジンをリアルな実感にしたい。 加えて(比喩③) 休日を戦時下の米の配給にしてしまっては、「生き延びる」為だけに精一杯な生活になってしまう。 極端な話ですが、休日の供給のあり方が、国家総動員法下での米の配給のようになってしまうと、時間本来の持つ可能性をフルに活かすことができなくなります。 疲れをとる以外の価値が増えることがない状態はイタイ… ただ生きていける(健康で死なない)ということだけでは、夢のない退屈な人生を送ることになりそうです。 「人はパンのみにて生きるにあらず」(ゲーテ) いろいろな意味で”余裕”が生まれないと休日本来のよさを引き出すことは難しいようです。 結局、”時間貧乏”が、”自由貧乏”になってしまいそう… 最後の(比喩④) 心理的にでも(休日が)共産主義の分配制度的な意味合いになったら… 共産主義とは、皆の平等を理想とします。 そして、人は、平等に与えられるものに有難みを感じなくなります。 他者との差異であるご褒美がなければモチベーションも上がりません。 特に取り分が少ないとさらに堕落し、不平を言い出します。 皆が清貧に生きるということはなかなかむつかしい。 価値ある休日というものは、ただ待っていればやってくるというものでもありません。 時間に価値を与えるのは人ですからね。 (つづく)
休日を終日(ひねもす)台無しにしてしまうのは、ある意味、自然なことかもしれません。 なぜかというと、哺乳動物の性質がそうだからです。 身(+幼い我が子の身)に危険が及ばない、食料に不自由しない、快適なコンディションが損なわれないといった条件を満たしていれば、動物は遠慮なく怠けています。 動物の端くれである人間が、それを引き継いでいないわけがありません。 考えてみれば、いつ餌にされるかわからない弱肉強食の自然界において、サボっていられる環境は、それだけで稀な恩恵、貴重な体験と言えそうです。 あえて言えば、それを怠け本能とでも言いましょうか。 怠け本能 よく人には三大本能があると言います。食欲、性欲、睡眠欲がそうです。しかし、それ以外にも、怠ける本能というものがあるんじゃないかと個人的に思っています。 (他(の本能)には母性本能、生存本能、戦闘本能、逃避本能…などを思い浮かべる…) 1. (なので、)計画を立て、目標を達成しようとする精神(スピリット)は鼻から無い。 2. また当然の事ながら、社会への義務感もない。 (ほぼすべての行動は、生存か繁殖に関わっている。) 夏、一番涼しく快適な場所を探し当てると、あとは気の済むまで寝そべっている飼い猫の様子を観てとっても、特に罪悪感や後悔は見受けられません。(まぁ、飽きたらどこかの日陰で遊ぶかもしれませんが…) 動物には、好奇心や気まぐれはあるようですが、人のように”今日のわたし”より”明日のわたし”を目指す、というような向上心はありません。(ただ、勘が鋭く、生まれながらの運動能力や方向感覚を発揮し元気よく生きています…) これを①本能モード、動物モード、怠けモードなどと呼びましょう。 そして、 この本質が、休日にダラケてしまうもっとも大きな一因になっている気がします。(根源と言ってもいいかもしれません) これに対し、 一方、人間の方はどうでしょうか。↓に上げたようなモードがあります。 ・目標を掲げ努力する/ 向上心を持ち邁進する。 ・人間だけが社会的義務や責任を果たそうとする。 ・修行僧のごとく自己(他者)献身する。 ・知的好奇心を発揮し、次々と知識を増やしていこうとする。 ・健康で文化的な生活を望み少しでも生活レベルの質を上げようとする。 ↑ 人間の精神には自己(や社会)を高めようとする性質がある。 こちらは、 ②社会モードとか 知性・精神性モード とでも呼びましょうか。 (結論) 人間はこの(①②)二つのモード(の範疇)を行ったり来たりする存在だと言えます。(この二つの性質を持って、自分を人間だと確かめている節がある) ”人間”と”動物”との揺り戻しを日常で繰り返している。 そして休日とは、”動物”へ還る格好のチャンスなのです。 あくまで持説ですが、 怠け心は本能的なところからくる/ある意味での生理現象である、とすることで、休日の過ごし方についての心の持ち方も少し変わるのではないかと思っています。 (動物的観点からすれば、余裕のある時に体力を温存しておく、ということになるのでしょう) (補足) たしかに、リラックスして過ごす時間帯は必要です。人はありのままの自然状態に戻る必要があります。 しかし、さすがに、「何もしない休日」を毎週毎週、糧に仕事している状態というのは、どこかで人間存在の半分をオフにしているような不健全な状態ととれなくもありません。 自分という全存在を確かめたいから、「何かをしようとしたり」「何もしようとしなかったり」している。だからどちらにもベクトルは向くと言えないでしょうか。 (今回は、怠ける一因についてでした) (いつかつづき書きます)
休日とは待ち遠しいものです。 「休みなんていらない!」、「毎日働く方がいい!」という人は少数派でしょう。 やがてくる休日を心の拠り所にして働いている人のほうが圧倒的に多数派と言えそうです。 休日を夢想することさえも労働者のモチベーションに含まれるのかもしれません。 しかし、これにより仕事の重苦に耐えているのなら、”絶対必要な”おもい”とも言えます。 どちらにしても、… どこまでいっても休日とは社会にとって必須となる存在のようです。 ところが… です。 そんなふうにして、 ようやくやってきた休日をあっさりと薄く過ごしてしまうことがあります。 拍子抜けするくらいあっけなく終えてしまう… (ぼおっとしているうちに…)まさに蜃気楼のように消えてしまう。(その場合、自分のことも幻のように感じてしまうだろうか?) 「前日まで(希望や)可能性に溢れていたのに、…」 「もっといろいろやれたはずなのに…」 貴重な休日を何でもない消耗品として消費してしまったわけです。 (個人的な提案ですが、…) 休日になったとき、心の中で万歳してみるのはどうでしょう。 実際、「休日、バンザーイ!」と。 そうすることで、”今、休日”という幸せをちゃんと意識できるようになるからです。 しかし、これはなぜなのでしょう。 休日への期待が大きすぎた? (自分でつくった)素晴らしい休日というイメージに勝手に踊らされていただけ? 休日への欲求が目標なく暴れていた? そんなときよく、休日って何だろう?と思います。 もっと有意義に過ごす余裕や計画はなかったか――? 休日という栄養を摂取して還元利用できなかったのか? 目的を達成するための集中力やモチベーションが散漫になった理由は何だったのか? そもそも体力が足りないのか? もやもやした気持ちがのこってしまいます。 そもそも、そのように休日を意味なく過ごしてしまうのは、 ① 自分なりの休日論がないからか? ② 「ズバリ、休日とは?」の問いに答える、ベスト・アンサーを用意できないからか? などと(先の妄想の続きみたいなことを)考えてしまいます。 それならば、 感銘を受けるアンサー 休日の定義を了解できるもの 休日の理解が深まるもの 休日によって自分の多幸感が最大値を示すもの ②のアンサーはこのようなものであってほしい。 (アンサー自体が作品になっているものなら完璧です) 案外、休日について自分なりの考えを展開してこなかった。 休日という概念の定義をなおざりにしていたことが怠慢の理由かもしれません。 (つづく)
つづきあそこを目指し歩く右によれた軌道修正まっすぐ歩くけっこう高い(52m)不燃ごみと建設残土を積み上げてつくられたここで振り返るさっきのガラスのピラミッドあそこから歩いてきたもう少し登ったところでもう一度振り返る斜面に境目ができている途中から斜面に急な角度がつくぜぇぜぇ言いながら登頂三角点(二等基準点)見下ろした周りの景色苦労して登った御褒美高いだけあって風が強いすばらしい帰りの下り道で、これから登る人たちとすれ違いましたが、皆息を切らしていました(因みに階段もあります)体を使ったアートでした(おわり)
つづきです。3Fから見える外の風景エレベーターで屋上へ屋上。ピラミッドのてっぺん。屋上から見たまわりの風景さて、ここでいったん入り口まで戻ります。(写真右下に見えるピラミッドの裾野のところが入口。逆側の左のスロープになっている方へ行ってみます)こんな空間へ(右側は駐車場)そこから右Uターンこんな拓けたところへ出るランドスケープ感芝生に寝転がったら蟻に肘を嚙まれましたピラミッドの反対側にあるのがモエレ山かなりの高さです次はあのモエレ山へ(つづく)
前回からのつづきモエレ沼公園の入り口を入ったあたりゲートをくぐります川と橋が現れる橋の左橋の右橋を渡り右へそこを進むガラスのピラミッドへ入ってみますここには写っていませんが、玄関付近、子どもたちの団体がいました。全体的に子ども連れの家族が多かった入り口から内部を覗くピラミッド内(1F)モデルさんの撮影?さすがモデルさんは美のオーラが違う見上げるピラミッドの中感エレベーターで2Fへ窪みがあってあそこにも行ってみればよかった。カミソリの刃が錆びない、植物が若返るという不思議なピラミッドパワー宇宙におけるエネルギーの流れや溜り場について考えずにはいられない。ただ正確には、四角錐ではなく、三角面と立法体が組み合わされたつくり。2F・3Fには、ノグチ・イサムのアート作品、資料が展示された展示室があります。(撮影禁止)3Fへ(つづく)
毎夏恒例の北海道に行ってきました。(大体拠点は札幌です) 今回は「モエレ沼公園」へ。世界的芸術家ノグチ・イサムさんが設計されたランドスケープ・アートがあります。 とりあえず、地下鉄東豊線「環状通東」駅へ。ここから中央バスで「モエレ沼公園東口」のバス停まで行きます。 しかし、待ち時間が少しあったので、カフェなど時間つぶしできる場所はないかと周辺を散策しました。 北海道らしい素朴な裏通り。こんなところにかわいらしいカフェが。入ると、ひとつ下の階へ降りる形で席へ。地元のお客らしきご婦人方がいた。なかなかお洒落なかなか雰囲気いいアンティークっぽい。やさしくてあったかい音。なかなか凝ってる無水カレーおいしそう。(時間がなく注文はしなかったが…)つくりも内装もアート的に凝っています。(周りの方の迷惑になるので写真を多く撮れなかったのが残念)こういうお店って案外、繁華街より外れたところにあったりしますよね。たまたまというのがよかったし。バスを待っている間に、お気に入りのカフェが見つかるなんてラッキーでした。さて、この後、すぐに路線バスに乗り込み現地へ。今回は結局、カフェに終始してしまいましたね。(つづく)
もう本を読んだというたくわえ まだ本を読んでいないというたくわえこの二行に支えられた一生
「~さんには、自分で気づいていない魅力があるよ」って言われたらうれしいんじゃないかな本人が気づいていないことがかえって救いになる自分のことをミステリアスな存在に思ったり気づいてくれた相手にも感謝と親近感を覚える?その内容を訊いてみたときどう思うんだろう
信じられたものがのこるphoto wastaken by myself at the Temple of Heaven, palacein Beijing in 20139月のこの日は、雲一つない蒼空が北京上空に広がっており、天への信仰を感じさせた故宮(紫禁城)にて。------------------------------反面、文化大革命により仏教・儒教寺院を徹底的に破壊したことも事実ですが、中国共産党信仰の他に天帝信仰を遺したと言えそう。
煉獄杏十郎が「心を燃やせ。限界を超えろ」と言っていたけれど、換言すれば、限界を超えるためには、心を燃やす必要がある、ということになる。 ※ 行為が伴ってはじめて勇気となる。 勇気とは最高の理性の証明である。 決して感情だけに走ったものではない。 ※礼儀正しい老人は好き。 (どんな老人になりたいかって考えたら礼儀正しい老人かなと) ※ 最後に勇気を出したのっていつだっけ。 ほんの少しの勇気によって世界は大きく変わるというのに。 ※量子論研究してる人っていつも宇宙を感じているかと思うと羨ましい。 ※ 長いトンネルを抜けるとそこは自由の国だった を期待してしまうのは人の基本心理(人の性) ※自分の名前がなくなったつもりで生きてみたら変わるものが何かあるだろうか? 自分にもうひとつの名前をつけるとしたらどんな名前をつける? ※やってるフリというエア作業。上手いに越したことはない。 ※設計された美がないと あるものを収めた言葉が役に立ってこない ※住む町で一番お気に入りの場所が近所にあるという幸せ に気づく。 ※今、書けることは、今まで取得してきたことの最大公約数的な共鳴。 ※ 「そんなに〇〇でなくても幸せになれるはず」 現状はこれを証明できるかのゲーム。 〇〇には、お金持ち、頭脳明晰・優秀、美貌、上流…などが代入できる。 ※強さと優しさは相性がよい。 強さを活かす優しさ、優しさを活かす強さ 足りないものを相互補完する関係。 さらに別の要素が一つ加わるとその人物像に立体感が出てくる。 「面白さ」や「お洒落さ」など。 強さと優しさを兼ね備えた人間性は他者から信頼を得る基礎要素になるだろうか? (”頼りがい”を連想) ※ エロの喜びとは私(など)にエロが許される喜びである。 性的快楽も自由形式を獲得する一つの意味合いがあるかもしれない。 広義に自由の問題とも。 ※お金の呪縛から逃れたいためにお金に拘る(欲しがる)矛盾。 ※ 地べたのところから笑う準備が出来ているような女子がいる。 (いつでも笑いだしそうな…) ※(知らないうちに)記憶にマーキングされている(あの人の)笑い(方)。 ※ 人生を楽しくさせるものは ありがちな質問と意外な答え (おわり)
芝生に仰向けになると青空がひろがっていたことに気づくというの好き
週に一度、美味しいもの発見できたら生活にいいリズム出てきそうphoto taken by myself
わたしにとって旅とは、全国のどこかを散歩する、世界のどこかを散歩するということ (だ)国境を越えて(また)色んなところを散歩したいphoto by myself in Noritake-no-mori, Nagoya
秘めたおもいを掬い取るのが小説のやさしさ。タブーな関係から生まれた愛を描いた短編小説集でした。(11編) カバー裏(背)表紙の説明文 どうして恋に落ちたとき、ひとはそれを恋だとわかるのだろう。(中略)言葉でいくら定義しても、この地球上にどれひとつとして同じ関係性はない。けれど、ひとは生まれながらにして、恋を恋だと知っている― 世間から認められず秘めたままの想い… この地上にどれくらい存在しているのだろう… (個性ある11パターンのうちの7) ・ 片思いの同性愛(もはや一般的と言える関係か) ・ 姉弟愛(老人夫婦と思っていた姉弟愛) ・ 自己防衛のため殺人を犯したまま秘密を守る二人の愛。 ・ 復讐と三角関係(高校時代の先輩夫婦と後輩) ・ ペット視点からの飼い主への想い ・ 遠い記憶に思いだす誘拐犯との愛 ・ 夫になりそうな(婚姻届けに印を押したが役所に届けていない)同居人の職業を知らないままの関係 など。 (感想1) 正直な”気持ち”を優先させてみると周りの決め事に対し反目が生まれます。 人はいつからか決められた世界の決め事との狭間に摩擦を抱えながら生きているもの。 そういう経験が読者にある限り、この物語に出てくる人たちの気持ちにだって寄り添うことができるのでは…(レベルの違いはあるにせよ) ”関係そのもの”が従来の社会では受け入れられにくいと、摩擦のニュアンスも複雑になることでしょう。 そういうもののために文学が最後の受け皿になります。 (どちらにしても、人生の局面での認識の仕方と行動がその人の人生を形成してゆく…) (読み心地) ・挑戦的なテーマを扱っているとは思えないほどカジュアルな読み応えになっています。 ・ユーモアさやシリアスさがところどころに差し込まれており、メリハリがつけられています。 (感想2)(毎回、似たようなことを書いているかもしませんが…)小説には「こんな関係だってありかも…」と思わせるよさがあります。またその関係の紹介。時には使命と言っていいのかも。 (感想3) 不思議なやさしさというものが作品にあるものはいいような気がします。 「こういう優しさもあるんだな」という学び。 (本の題名について) ところで、ポラリスとは北極星のこと―― 天体のあらゆる星々はポラリスを中心に回転しています。 まさに夜空の中心です。 もしかしたら、誰かが北極星になってしまうことが恋… もしかしたら、誰かが夜空の中心になってしまうことが恋… 人生で、夜空の中心になる人を見つけてしまう、なんて運命を感じさせます。 運命とは安定することなのでしょう。 (まぁ、歯が浮いてしまうような表現と取る方も多い?かと予測されますが…) この表現が比喩として成立可能か直接、北極星に問いかけてみる? ただ、今回の短編のように北極星となったひとたちとの関係が一般社会に認められるものでなかったら… そこにポラリスという孤独なイメージが重なる気がします。 恋をすることにより孤独を感じるようになるとはパラドックスですが、それも恋愛の味わいでしょう。 小説の形をとってはいますが、 様々な関係を扱った恋愛詩と言ってもいいかもしれません。 (おわり)
・恋する人は幸せかと桜を見ながら、ふと考える。 (恋と桜。応じる心のありようは似ているだろうか)・恋の必要条件に胸の痛みはありそう。・勘違いの傑作である。・恋ほど想いを肯定化したものはない。・人は一生のうち平均何回ほど恋をするのだろう?・二人だけの世界観がものごとの優先順位を勝ち取ったもの。・性欲は性欲でも 想い人への性欲は運命感を持った性欲である。・恋愛とは、ただ性欲の詩的表現をうけたもの(by芥川龍之介)・幻想美を現実に。現実を幻想美に。・可能性に賭ける心理。 0.0…1%でも可能性が生まれたときはじめて恋になる説・ 付き合い、個人の世界観が倍になった分、 別かれるときは世界観は一人分に戻る感覚を味わう。・恋をすると自分の醜さを知る。 己の中の独占欲と嫉妬心を知る。 自分が思っていたより狭量な人だったことを知る。 それゆえ美化された恋心にすがる。・独占欲の変形。・(個人的な意見になりますが)現代の恋は比喩が常に不足中。 恋の心理(を個人の妄想)として未開社会のような比喩に囲まれた世界観で描いている。・恋とは人間の原風景である。・一人だけに向けられる美化された性欲である。・一人でも生きていけることが恋を成就させる、というパラドックス。 自立してはじめて、大人の恋ができる。・恋をすることによってようやく人生の表舞台に立てる、ということがある。 (恋をすると人生の舞台に立った気がする。)・相手との時間の共有である。 一緒に並んで歩いているだけで濃密な時間をシェアできるのは恋愛のみである。・ 映画などを観ていると、あらゆる社会的束縛や非人間性が浸透した社会から逃れるための原動力になりうる。・江戸時代などの封建社会では「駆け落ち」するしかなかったわけで、恋が命がけの時代があった。 ひょっとしたら、近未来型(の徹底したAI)管理社会を変えるのは恋の力かもしれない。・坂口安吾の『桜の森の満開の下』 恋の表現として適切か。心理的な状態が似ているか。 実際、桜の森の満開の下を歩いて確かめてみる。 (結果、「性欲」の部分を薄めた恋の感覚が似ているかもしれない…)・恋の比喩として成立するものをもってこい。恋を語るために恋の比喩を集めよう、の所存。 (おわり)
桜を見に来た。ギリギリ間に合った?風が吹くと桜の花びらが舞い散り、それはそれでよかったなぁ。何故か鯉のぼり?菜の花も咲いている。愛知県岩倉市五条川の様子春爛漫 世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 在原業平世の中に桜がなかったら、そわそわせわしくせずにのどかで心穏やかにいられたろうなぁ。なんてどれだけ桜を気にしながら生活していたんだろう…桜が散ると、川面や土手や道に桜の花びらが広がりまわりのものも桜色に染まるところがいいです。年々、趣のあるものが好きになってきています。物事の価値を測る物差しが増えたとポジティブに捉えておきます(おわり)
・ 生まれ変わって人生をやり直しても、こんな感じで生きているんだろうなぁ、という自信はある。・ 環境が変わればそこから立ち上がってくる自分も変わるはず。 環境を変えてみることで確かめられることがあるはず。・ 思う、だけでなく、思い当たる ものを増やしていこう。・ 妄想あっての物種。 「辛いとき妄想があるから救われた。」 「妄想があるから生きながらえてこれた。」と思う。・ 妄想が人間らしさをつくる。 『サピエンス全史』は読んでいないけど、ネアンデルタール人は妄想できなかったから滅んだ、と。 一方、(我々の祖先)ホモ・サピエンスは妄想が得意で、様々な抽象概念を生み出していった。社会・愛といった…大量の数の人が共有できる概念を持ち、同じ目的行動をすることが可能となった。また”神”のような形而上学的な存在を集団心理学にした。・ 心の中で何かと何かが打ち消しあってわかりにくくなったものがあるような…ないような…・ 知らないうちに名言言っている人いるなと。・ 夕刻に一日を振り返る大切さを思う。・ ふと、創造神があらわれて、「オウ、イエイ、全てジョークだったのさ!」と言ってくれないかな、と思うことがある。・ 場所を変えないと発動しない思考というものがあるみたい… その場所でしか積み上げられていかない思考形成というか。・ 考えが少しでも進むとテンションは上がる。 考えの進展と気持ちは連動しているんだよね。・ 生きれば生きるほどアホになっていく側面はある気がする。・ 何もしたくないモードがかれこれ2~3時間続いている。 しかし、今日一日振り返ったりしていると、案外、価値ある、有意義な時間かもしれないなと。・ 人生は先天的なものに対する後天的なものの対処。・ 夢見ることがストレス解消になる とか思っちゃう。・ 強めの風が吹いて木々が揺れていると 眺めているだけで 運命の存在を感じてしまう。・ 自由な発想ができる整備された環境こそ尊い。・ 野球のピッチャーとバッターに相性があるように どんなふうに投げてもヒットされてしまう、という人がいる。・ 人には〇〇モードというのがあって、仕事モード、遊びモードなどいろいろだ。モードによってまるで別人格。 置かれた環境の違いが大きいほどそう。・ しかし、もっとかっこよく生きられないかな、と何度も思う。・ デザインを楽しむ心は人を幸福にさせるとデザインを見ながら思う。 この楽しむ心を邪魔するものからどう守るか。・ ほんとうに変わっている人って自分が変わっているってわかっていない とよく言うけれど、 そんな人がわりとふつうに職場で仕事をこなしているのも不思議…・ 「世界を本来の姿に戻すべき」 長期連勤時の頭の中の声。・ ポンコツはポンコツながらも前向きに生きている。 負け犬の遠吠えではない。・ 何もしないことで滋養になる時間かぁ。