主にわたしのつぶやきインスピレーションです。あわよくば詩・エッセイに。気軽に覗いてくださいね。ルールやマナーを守っていただける方なら無言フォロー歓迎です!
※ たとえば、数億円の宝くじに当選した人が、使い道が分からず途方に暮れてしまうように、有り余る時間を突如手に入れた人も同様に使い道が分からず途方に暮れてしまうものではないでしょうか。 また、急遽手に入った大金とは思わず無思慮に使ってしまいたくなるものですが、有り余る時間もまた(思わず)無思慮に使いたくなってしまうものでしょう。 これはよくわかる心理で、ある意味での贅沢と言えます。そして、人は贅沢を感じたい生き物です。 豊富にあるものを無思慮・無遠慮に使いまくりたくなる願望は否定しきれません。逆に”考える”というめんどくさい作業を放棄できるという快感があるとも言えます。 とはいえ、そもそも人間の意思が関わっていない時間そのものにたいした意味は(人間にとっては)ないので、これを思慮なく褒めたたえてもしようのないことです。 哲学者ソクラテスが富(お金)の評価について語った名言です。 金持ちがどんなにその富を自慢しているとしても、彼がその富をどう使うかが判るまで、彼をほめてはいけない。 ソクラテス 紀元前5世紀のギリシア世界を想像してしまいます。 きっと胸糞悪いお金持ちがいっぱいいたんだろうなぁ~、裕福な家系に生まれただけの無能な政治家がいて~、趣味の悪いものに金をかけるのはまだしも、人として終わってるなど。お金の使い方がまずいと頭が悪い人に思えます。お金の使い方が醜いと醜い人に思えてきます。 税金の再分配についても言えそう。政府がどのように税金を使うかがわかるまで政府の良し悪しは判断できない… いつの時代にも通じる真理ですね。 そしてこれはフリータイムという富にも言えそうです。 ある人があり余るフリータイムをいくら自慢しても、それをどう使うかが判るまで、その人(のフリータイム)を評価してはいけない。 部分的にアレンジしましたが、多く被るところがありそうです。 (つづく)
『地球がまわる音を聴く』は、58年前のオノ・ヨーコさんの詩集からウェルビーングは、心身ともに健康の意。テーマは、パンデミック以降の時代をいかに生きられるのか。ウェルビーイングをアートの視点からアプローチしていきます。全16名のアーティストが参加。↓必ずついてくる解説(読めません)〇今やアートとテキストは切っても切れない関係にありそうです。”コンセプト”が大いにアートとかかわっていることも影響しているのでしょう。(少し内容を抜粋してみます) ヴォルフガング・ライプ 50年近くにわたって、牛乳、花粉、米、蜜蝋など生命の源を連想させる素材を使った立体作品やインスタレーションを制作。 自然由来の素材を使うことに制作意義を見出しているようです。(こういうことは解説を読まないとわからないです) 《ミルクストーン》 浅く削られた白い大理石板の表面に、毎朝牛乳を流し入れるもので、表面張力の緊張感とともに一日のエネルギーや生命について考える。(解説より) 何万年もの時間を内包した大理石など読むと鑑賞に深みが増す。↓その隣の壁に詩のようなテキスト。花粉を集める2020年――3月、4月、5月に来る日も来る日も、何週間も、タンポポの草原に座りこの上なく集中して激しく時間も、我も、身も心も忘れて信じがたく、思いも寄らない世界の危機と混乱のただ中でひどい病にかかり、死にゆく数多くの人びと新しい疫病?600年前のような疫病がふたたび起こるなんてとても想像できなかっただろう今、この私たちの生活のなかに、そばにそれでもなお、危機は大きければ大きいほど人類に新しい未来をもたらしどこかの場所へ向かいほかの何かを見つける手助けをしてくれた想像しえたものの彼方に私たちは見つける新しいありようと生き方を私たちが望むものと私たちが人生に望むもの大切なこととそうではないこと慎ましさ謙虚さ自分自身とほかの人たちに対する世界に対する自然に対する宇宙に対するまったくちがう関係自分自身と世界への異なる願い新しい未来の新しいヴィジョンメッセージ色が強いようです。テキストを(詩という単体ではなく)インスタレーション全体の一部としてみるほうが空間芸術として嵌る気がします↓ もう一作品 タンポポやヘーゼルナッツなどの花粉を使ったインスタレーション。花粉は一年のうち数カ月、小さなガラス瓶半分から一本程度しか集まらない。マイクロメートル単位の細胞には、それぞれの繁殖のための遺伝子情報が凝縮されており、その希少さゆえに凝縮された生命の重さを感じます。(解説) 部屋に入ると素材のリアルな存在感を感じとれた…かな?↓ エアン・アルトフェスト作パンデミック中に(13ヶ月間かけて)制作とのこと細密に描かれた部分に目を奪われてしまいます。それは画家の拘りや労力を自然と感じ取るからだろうか。過剰な情報量を提示されてもすぐに全てを認識できません。脳内で補足される部分ができるため認識論的な意味合いで抽象的なのかもしれません。ギド・ファン・デア・ウェルベ作・ 動画作品『世界と一緒に回らなかった日』・ 北極点で地球の自転と逆に24時間回転(太陽と影が移動していきます)・ 地球の自転に影響されない・ 身体能力が高いことを活かしたパファーマンス・ 作曲は本人らしい・ 詩や音楽に興味があるという・ 映像に直感を与えるためかこの方の作品ちょっとおバカっぽいところが好きです。↓ 堀尾貞治 作・定年退職するまで三菱重工神戸造船所に勤務(普通の会社通い)・芸術家と交流したり、個展を開いたりしていた・日用品を素材にしたものが多い・習慣の持つ迫力・一定のスタイル持たない/多様さ/ 多作・可能性をもっとも感じさせる芸術家と形容できそう (連想したこと) ブラックジャックのようなプロでも治せないものを治すアマチュアになりたい。 byリリー・フランキー 余談ですけどこういうのに感銘を受けことはあります。 ブラックジャックの場合、完全に裏社会の(プロより凄腕の)アマチュアですが。↓ 金沢寿美 在日朝鮮人三世としての家庭環境やアイデンティティへの問いを起点にしつつ、個人と集団的課題との振れ幅を作品化(~後略) 『新聞紙のドローイング』↑近づくと新聞の記事や写真といった時事問題がうっすらと見える。 気になった部分だけを残して新聞紙を(10Bの)鉛筆で塗り潰していく。それらの新聞紙を何枚も繋ぎ合わせカーテン状にしたのが上記の作品。 制作時間は、世の中が寝静まった夜10時から午前3時頃までとのこと。一見開きを塗りつぶすのには3日かかるそう。(解説) 結果、新聞紙が暗く重たい印象になっていますが…… 肉眼では見えない 星まで見えてくるような 感覚に襲われました(解説) とのこと。 一瞬、夜空が見える気がした、と。(宇宙だったかな…?)(オーディオ解説)(記憶違いだったらスミマセン) 個人の閉じられた空間から世界や社会を俯瞰し、そこから言葉を選び取ることによって、社会を個人化する行為とのことです。(解説)↓ ツァイ・チャウエイ (世界各地の密教に影響) 壁に掛けられた色違いの抽象画は、『5人の空のダンサー』 使用された顔料は、中央アジアからシルクロードを経てアジア全域へ広がったもの。これは密教伝来の要所であった莫高窟の壁画にも使われていたもので、5つの色は、チベット仏教において行者を悟りに導く女神である5人の知恵のダーキニーを表している。(解説) 台に敷かれた金属製の作品は、『子宮とダイヤモンド』 密教に見られる両界曼荼羅の形式を踏襲したもの。それは宇宙の全体を表すと。(解説) 鑑賞者も宇宙の一部であることを実感できるだろうか? 日本や欧米出身以外のアーティストの感性はあまり馴染みがないためか、そのローカル性のためなのか神秘性を感じることが多いような?↓ モンティエン・ブンマー 『自然の呼吸:アロカヤサラ』タイのアーティスト。タイの伝統医療の薬草を塗布、内部に置き、臭覚にも働きかける。呼吸を通した”存在”へのアプローチ。肺みたいなものがぶら下がっていて少しキモイ。この中に入り呼吸、重力を意識しながらと言うが…結局、入らなかった。 なぜか東南アジア出身のアーティストっぽい作風だなと感じることができました。 西欧に留学し、最先端の現代アートを学んだ芸術家らしいですが、ルーツとなる文化、伝統、宗教が血肉のように作品に影響されるのでしょう。 (余談) 日本人がピカソのような絵を描いても西欧人には日本人が描いたとなんとなくわかってしまうものらしい… オノ・ヨーコ作上の日本語訳風のための絵任意の種を入れた袋に穴をあけ、風の吹くところにおく。1961年夏上の日本語訳部屋の中を見る絵キャンパスの真ん中に目に見えない位の小さな穴をあけそこから部屋の中を見る。1961年秋何年か前にも書きましたが壁に書かれた詩との遭遇は好きです。わりとざっくりとした内容になってしましたが…(おわり)
英国のエリザベス女王が亡くなられた。(2022年9月9日)BBCやThe Economistでの特集を観ていたけれど、尊敬に値する女王陛下だったことがわかる。女王は女王の役割を担い果たす。みたいなことをおっしゃられていて感銘を受けた。こういうところからイギリスの国家観や社会観がわかるのではないだろうか。たまたま英国ロイヤルファミリーに生まれ、女王という役割を担うことになった(という意識)。女王や王は社会の役割の一つにすぎない。皆、社会の中の役割を持ち、国を形成している。それらの一つでも欠ければ日常がままならなくなってしまう。そのため自分は献身的に女王業を全うした。そういうふうに受け取ったのだけれど。コモンウェルス(イギリス連邦;イギリス所縁の国々)だけでなく、世界中から愛された理由はそういうところからじゃないかと思う。どんな職業にも貴賤はない。ただその仕事をやり遂げる、という考えは好き。女王は、「もし女王以外の職に就くとしたら何でしょうか?」と問われ、「トラック運転手ですね」と答えたことがあるそうです。(おわり)
道行く他人(ひと)のTシャツ(特に英語ロゴ)を観察するのは最近好きI wish thatyou were'there.(あなたはここにいてほしくなかったなぁ)というロゴのTシャツ…を着た人が歩いていたけど、こんなのと遭遇してクスっとしてる。 ※I try to begood.(いい子になります)のロゴTシャツ着たちびっこ。発見。 ※THEJUST REMEMBER WHAT YOU HAVE[ABANDONED](これまで捨てたものを思い出してみろ)って背中にロゴのついたTシャツ文法間違ってない(皺で見えなかったか)?って思うけどなかなかオツ---------------------------駅前のドトールで前の席に勉強する女子が着ていた。 ※WE STAND ALLON THE SAME STAGE.(皆、同じ舞台に立っている)のロゴのTシャツを着たひとを見かけ、瞬間的に読む。(地下街通路にて) ※I AM FIERCE.(わたしは獰猛です)というロゴTシャツを着たおばさん。 ※FIRST TWOYOU GIVELAST ONEYOU EARNのロゴTシャツを着た人言葉遊びかFIRST←→TWO。FIRST←→LAST。YOU←→YOU。GIVE←→EARN。混乱するがおもしろい。札幌のドトールで40代くらいの男性の背中に ※VARIETYIS THE VERYSPICE OF LIFE(多様性は人生のスパイス)のロゴ入りTシャツの人地下鉄のプラットフォームで。 ※DO ORDO NOT.THERE ISNO TO TRY.(するかしないか。試すことはない。)病院の診察待ちの際アジア系外国人の男性 ※最後にTシャツではないけれど、MYOTHER BAGISCHANNEL(別のバッグはシャネルだよ)というロゴ入りの買い物バッグを持った人とすれ違った。個人的な趣味です。基本、詩とか言葉好きですからね。ただ一瞬で読まなければならないので、かなりのケース、流れてしまいます。そこが難しい。ショップに行ってまでは読もうと思いませんが・・・おわり
(ツライ労働と怠け休日の関係の比喩①) 待望の休日を無下に扱い、価値のない過ごし方をするなら、キツイ労働と休日の関係は、”砂漠の旅”と”蜃気楼のオアシス”に喩えられるかもしれません。 華やかな現実が目的地になくとも、道のりを歩むモチベーションにはなります。しかし到達しても、何ひとつ価値を見いだせられないなら、それは砂漠の蜃気楼に遭遇した経験と似たものになりそうです… (蜃気楼の中を過ごした自分も蜃気楼のように感じるかもしれません) また漠然とした妄想の中で描いた休日像を一人歩きさせているとも言えます。 あまりよくない休日の在り方についての喩えですが、もうひとつ(比喩②) なぜか、日本人サラリーマン労働者を頭に浮かべたとき、 目の前に垂らされた人参につられ、客車を引く馬車馬 を連想してしまいました。 少々、辛辣な響きに聞こえるかもしれません。 しかし、外国人から見た日本の労働環境などこんなものではないだろうか。 旅行では日本に行きたいけれど、仕事ではまっぴら御免という声が聞こえてきそうです。 (欧米人からしたら、この人たちは何のために働いているのだろう…と思っている) Q. では、ニンジンをぶら下げていたのは誰だったのか? A. まぁ、「社会」でしょうか。 もしくはなんらかの「社会システム」。(それは宗教上、取り決められた制度だったり、法律で制定化されたルールだったりする)(宗教と言ったのは、日曜日休みがキリスト教の習慣から来ているから。お正月やお盆も日本の宗教的な伝統に由来しますね。) 本来、自由であるはずの個人の時間が、社会制度から付与された社会的な時間にすり替わっている、としたら…「んっ?」という反応にもなってしまいます。 少なくとも、「何が前提でなんのために」の問いかけくらいは常に抱いていた方がよさそうです。 (余談) 社会(国と言い換えてもいい)全体が向上(&改善)されなくては、個人の幸福は達成されにくい。だから、まず国や社会が第一という考え方は好きですが、最終的に個人の生活が最低限保証され、且つ、その最低ラインが(ある程度高い)水準を維持できないなら、社会は役割を果たしていないとも言えます。 社会のために個人がないがしろにされる、という落とし穴が(システム全体のそこらに)掘られていて、そこに労働者のほとんどが嵌っているとしたら、それは問題です。 ほとんどの労働者が国や社会におおむね満足しているのなら、理想的な社会と言えますが、実際、そのような国がこの地上にあるのか?なるべく理想に近づいていこうとする意欲・調整力は必要だと思います。 強い経済力、軍事力がなければ、いつか他国に滅ぼされてしまうことは歴史の必至です。この世から紛争はなくならない(現実主義的観測です)。経済力を高く維持しなければならないし、そのためには基本、働かなければならない。悩ましい。 せめてニンジンをリアルな実感にしたい。 加えて(比喩③) 休日を戦時下の米の配給にしてしまっては、「生き延びる」為だけに精一杯な生活になってしまう。 極端な話ですが、休日の供給のあり方が、国家総動員法下での米の配給のようになってしまうと、時間本来の持つ可能性をフルに活かすことができなくなります。 疲れをとる以外の価値が増えることがない状態はイタイ… ただ生きていける(健康で死なない)ということだけでは、夢のない退屈な人生を送ることになりそうです。 「人はパンのみにて生きるにあらず」(ゲーテ) いろいろな意味で”余裕”が生まれないと休日本来のよさを引き出すことは難しいようです。 結局、”時間貧乏”が、”自由貧乏”になってしまいそう… 最後の(比喩④) 心理的にでも(休日が)共産主義の分配制度的な意味合いになったら… 共産主義とは、皆の平等を理想とします。 そして、人は、平等に与えられるものに有難みを感じなくなります。 他者との差異であるご褒美がなければモチベーションも上がりません。 特に取り分が少ないとさらに堕落し、不平を言い出します。 皆が清貧に生きるということはなかなかむつかしい。 価値ある休日というものは、ただ待っていればやってくるというものでもありません。 時間に価値を与えるのは人ですからね。 (つづく)
休日を終日(ひねもす)台無しにしてしまうのは、ある意味、自然なことかもしれません。 なぜかというと、哺乳動物の性質がそうだからです。 身(+幼い我が子の身)に危険が及ばない、食料に不自由しない、快適なコンディションが損なわれないといった条件を満たしていれば、動物は遠慮なく怠けています。 動物の端くれである人間が、それを引き継いでいないわけがありません。 考えてみれば、いつ餌にされるかわからない弱肉強食の自然界において、サボっていられる環境は、それだけで稀な恩恵、貴重な体験と言えそうです。 あえて言えば、それを怠け本能とでも言いましょうか。 怠け本能 よく人には三大本能があると言います。食欲、性欲、睡眠欲がそうです。しかし、それ以外にも、怠ける本能というものがあるんじゃないかと個人的に思っています。 (他(の本能)には母性本能、生存本能、戦闘本能、逃避本能…などを思い浮かべる…) 1. (なので、)計画を立て、目標を達成しようとする精神(スピリット)は鼻から無い。 2. また当然の事ながら、社会への義務感もない。 (ほぼすべての行動は、生存か繁殖に関わっている。) 夏、一番涼しく快適な場所を探し当てると、あとは気の済むまで寝そべっている飼い猫の様子を観てとっても、特に罪悪感や後悔は見受けられません。(まぁ、飽きたらどこかの日陰で遊ぶかもしれませんが…) 動物には、好奇心や気まぐれはあるようですが、人のように”今日のわたし”より”明日のわたし”を目指す、というような向上心はありません。(ただ、勘が鋭く、生まれながらの運動能力や方向感覚を発揮し元気よく生きています…) これを①本能モード、動物モード、怠けモードなどと呼びましょう。 そして、 この本質が、休日にダラケてしまうもっとも大きな一因になっている気がします。(根源と言ってもいいかもしれません) これに対し、 一方、人間の方はどうでしょうか。↓に上げたようなモードがあります。 ・目標を掲げ努力する/ 向上心を持ち邁進する。 ・人間だけが社会的義務や責任を果たそうとする。 ・修行僧のごとく自己(他者)献身する。 ・知的好奇心を発揮し、次々と知識を増やしていこうとする。 ・健康で文化的な生活を望み少しでも生活レベルの質を上げようとする。 ↑ 人間の精神には自己(や社会)を高めようとする性質がある。 こちらは、 ②社会モードとか 知性・精神性モード とでも呼びましょうか。 (結論) 人間はこの(①②)二つのモード(の範疇)を行ったり来たりする存在だと言えます。(この二つの性質を持って、自分を人間だと確かめている節がある) ”人間”と”動物”との揺り戻しを日常で繰り返している。 そして休日とは、”動物”へ還る格好のチャンスなのです。 あくまで持説ですが、 怠け心は本能的なところからくる/ある意味での生理現象である、とすることで、休日の過ごし方についての心の持ち方も少し変わるのではないかと思っています。 (動物的観点からすれば、余裕のある時に体力を温存しておく、ということになるのでしょう) (補足) たしかに、リラックスして過ごす時間帯は必要です。人はありのままの自然状態に戻る必要があります。 しかし、さすがに、「何もしない休日」を毎週毎週、糧に仕事している状態というのは、どこかで人間存在の半分をオフにしているような不健全な状態ととれなくもありません。 自分という全存在を確かめたいから、「何かをしようとしたり」「何もしようとしなかったり」している。だからどちらにもベクトルは向くと言えないでしょうか。 (今回は、怠ける一因についてでした) (いつかつづき書きます)
休日とは待ち遠しいものです。 「休みなんていらない!」、「毎日働く方がいい!」という人は少数派でしょう。 やがてくる休日を心の拠り所にして働いている人のほうが圧倒的に多数派と言えそうです。 休日を夢想することさえも労働者のモチベーションに含まれるのかもしれません。 しかし、これにより仕事の重苦に耐えているのなら、”絶対必要な”おもい”とも言えます。 どちらにしても、… どこまでいっても休日とは社会にとって必須となる存在のようです。 ところが… です。 そんなふうにして、 ようやくやってきた休日をあっさりと薄く過ごしてしまうことがあります。 拍子抜けするくらいあっけなく終えてしまう… (ぼおっとしているうちに…)まさに蜃気楼のように消えてしまう。(その場合、自分のことも幻のように感じてしまうだろうか?) 「前日まで(希望や)可能性に溢れていたのに、…」 「もっといろいろやれたはずなのに…」 貴重な休日を何でもない消耗品として消費してしまったわけです。 (個人的な提案ですが、…) 休日になったとき、心の中で万歳してみるのはどうでしょう。 実際、「休日、バンザーイ!」と。 そうすることで、”今、休日”という幸せをちゃんと意識できるようになるからです。 しかし、これはなぜなのでしょう。 休日への期待が大きすぎた? (自分でつくった)素晴らしい休日というイメージに勝手に踊らされていただけ? 休日への欲求が目標なく暴れていた? そんなときよく、休日って何だろう?と思います。 もっと有意義に過ごす余裕や計画はなかったか――? 休日という栄養を摂取して還元利用できなかったのか? 目的を達成するための集中力やモチベーションが散漫になった理由は何だったのか? そもそも体力が足りないのか? もやもやした気持ちがのこってしまいます。 そもそも、そのように休日を意味なく過ごしてしまうのは、 ① 自分なりの休日論がないからか? ② 「ズバリ、休日とは?」の問いに答える、ベスト・アンサーを用意できないからか? などと(先の妄想の続きみたいなことを)考えてしまいます。 それならば、 感銘を受けるアンサー 休日の定義を了解できるもの 休日の理解が深まるもの 休日によって自分の多幸感が最大値を示すもの ②のアンサーはこのようなものであってほしい。 (アンサー自体が作品になっているものなら完璧です) 案外、休日について自分なりの考えを展開してこなかった。 休日という概念の定義をなおざりにしていたことが怠慢の理由かもしれません。 (つづく)
つづきあそこを目指し歩く右によれた軌道修正まっすぐ歩くけっこう高い(52m)不燃ごみと建設残土を積み上げてつくられたここで振り返るさっきのガラスのピラミッドあそこから歩いてきたもう少し登ったところでもう一度振り返る斜面に境目ができている途中から斜面に急な角度がつくぜぇぜぇ言いながら登頂三角点(二等基準点)見下ろした周りの景色苦労して登った御褒美高いだけあって風が強いすばらしい帰りの下り道で、これから登る人たちとすれ違いましたが、皆息を切らしていました(因みに階段もあります)体を使ったアートでした(おわり)
つづきです。3Fから見える外の風景エレベーターで屋上へ屋上。ピラミッドのてっぺん。屋上から見たまわりの風景さて、ここでいったん入り口まで戻ります。(写真右下に見えるピラミッドの裾野のところが入口。逆側の左のスロープになっている方へ行ってみます)こんな空間へ(右側は駐車場)そこから右Uターンこんな拓けたところへ出るランドスケープ感芝生に寝転がったら蟻に肘を嚙まれましたピラミッドの反対側にあるのがモエレ山かなりの高さです次はあのモエレ山へ(つづく)
前回からのつづきモエレ沼公園の入り口を入ったあたりゲートをくぐります川と橋が現れる橋の左橋の右橋を渡り右へそこを進むガラスのピラミッドへ入ってみますここには写っていませんが、玄関付近、子どもたちの団体がいました。全体的に子ども連れの家族が多かった入り口から内部を覗くピラミッド内(1F)モデルさんの撮影?さすがモデルさんは美のオーラが違う見上げるピラミッドの中感エレベーターで2Fへ窪みがあってあそこにも行ってみればよかった。カミソリの刃が錆びない、植物が若返るという不思議なピラミッドパワー宇宙におけるエネルギーの流れや溜り場について考えずにはいられない。ただ正確には、四角錐ではなく、三角面と立法体が組み合わされたつくり。2F・3Fには、ノグチ・イサムのアート作品、資料が展示された展示室があります。(撮影禁止)3Fへ(つづく)
毎夏恒例の北海道に行ってきました。(大体拠点は札幌です) 今回は「モエレ沼公園」へ。世界的芸術家ノグチ・イサムさんが設計されたランドスケープ・アートがあります。 とりあえず、地下鉄東豊線「環状通東」駅へ。ここから中央バスで「モエレ沼公園東口」のバス停まで行きます。 しかし、待ち時間が少しあったので、カフェなど時間つぶしできる場所はないかと周辺を散策しました。 北海道らしい素朴な裏通り。こんなところにかわいらしいカフェが。入ると、ひとつ下の階へ降りる形で席へ。地元のお客らしきご婦人方がいた。なかなかお洒落なかなか雰囲気いいアンティークっぽい。やさしくてあったかい音。なかなか凝ってる無水カレーおいしそう。(時間がなく注文はしなかったが…)つくりも内装もアート的に凝っています。(周りの方の迷惑になるので写真を多く撮れなかったのが残念)こういうお店って案外、繁華街より外れたところにあったりしますよね。たまたまというのがよかったし。バスを待っている間に、お気に入りのカフェが見つかるなんてラッキーでした。さて、この後、すぐに路線バスに乗り込み現地へ。今回は結局、カフェに終始してしまいましたね。(つづく)
もう本を読んだというたくわえ まだ本を読んでいないというたくわえこの二行に支えられた一生
「~さんには、自分で気づいていない魅力があるよ」って言われたらうれしいんじゃないかな本人が気づいていないことがかえって救いになる自分のことをミステリアスな存在に思ったり気づいてくれた相手にも感謝と親近感を覚える?その内容を訊いてみたときどう思うんだろう
信じられたものがのこるphoto wastaken by myself at the Temple of Heaven, palacein Beijing in 20139月のこの日は、雲一つない蒼空が北京上空に広がっており、天への信仰を感じさせた故宮(紫禁城)にて。------------------------------反面、文化大革命により仏教・儒教寺院を徹底的に破壊したことも事実ですが、中国共産党信仰の他に天帝信仰を遺したと言えそう。
煉獄杏十郎が「心を燃やせ。限界を超えろ」と言っていたけれど、換言すれば、限界を超えるためには、心を燃やす必要がある、ということになる。 ※ 行為が伴ってはじめて勇気となる。 勇気とは最高の理性の証明である。 決して感情だけに走ったものではない。 ※礼儀正しい老人は好き。 (どんな老人になりたいかって考えたら礼儀正しい老人かなと) ※ 最後に勇気を出したのっていつだっけ。 ほんの少しの勇気によって世界は大きく変わるというのに。 ※量子論研究してる人っていつも宇宙を感じているかと思うと羨ましい。 ※ 長いトンネルを抜けるとそこは自由の国だった を期待してしまうのは人の基本心理(人の性) ※自分の名前がなくなったつもりで生きてみたら変わるものが何かあるだろうか? 自分にもうひとつの名前をつけるとしたらどんな名前をつける? ※やってるフリというエア作業。上手いに越したことはない。 ※設計された美がないと あるものを収めた言葉が役に立ってこない ※住む町で一番お気に入りの場所が近所にあるという幸せ に気づく。 ※今、書けることは、今まで取得してきたことの最大公約数的な共鳴。 ※ 「そんなに〇〇でなくても幸せになれるはず」 現状はこれを証明できるかのゲーム。 〇〇には、お金持ち、頭脳明晰・優秀、美貌、上流…などが代入できる。 ※強さと優しさは相性がよい。 強さを活かす優しさ、優しさを活かす強さ 足りないものを相互補完する関係。 さらに別の要素が一つ加わるとその人物像に立体感が出てくる。 「面白さ」や「お洒落さ」など。 強さと優しさを兼ね備えた人間性は他者から信頼を得る基礎要素になるだろうか? (”頼りがい”を連想) ※ エロの喜びとは私(など)にエロが許される喜びである。 性的快楽も自由形式を獲得する一つの意味合いがあるかもしれない。 広義に自由の問題とも。 ※お金の呪縛から逃れたいためにお金に拘る(欲しがる)矛盾。 ※ 地べたのところから笑う準備が出来ているような女子がいる。 (いつでも笑いだしそうな…) ※(知らないうちに)記憶にマーキングされている(あの人の)笑い(方)。 ※ 人生を楽しくさせるものは ありがちな質問と意外な答え (おわり)
芝生に仰向けになると青空がひろがっていたことに気づくというの好き
週に一度、美味しいもの発見できたら生活にいいリズム出てきそうphoto taken by myself
わたしにとって旅とは、全国のどこかを散歩する、世界のどこかを散歩するということ (だ)国境を越えて(また)色んなところを散歩したいphoto by myself in Noritake-no-mori, Nagoya
秘めたおもいを掬い取るのが小説のやさしさ。タブーな関係から生まれた愛を描いた短編小説集でした。(11編) カバー裏(背)表紙の説明文 どうして恋に落ちたとき、ひとはそれを恋だとわかるのだろう。(中略)言葉でいくら定義しても、この地球上にどれひとつとして同じ関係性はない。けれど、ひとは生まれながらにして、恋を恋だと知っている― 世間から認められず秘めたままの想い… この地上にどれくらい存在しているのだろう… (個性ある11パターンのうちの7) ・ 片思いの同性愛(もはや一般的と言える関係か) ・ 姉弟愛(老人夫婦と思っていた姉弟愛) ・ 自己防衛のため殺人を犯したまま秘密を守る二人の愛。 ・ 復讐と三角関係(高校時代の先輩夫婦と後輩) ・ ペット視点からの飼い主への想い ・ 遠い記憶に思いだす誘拐犯との愛 ・ 夫になりそうな(婚姻届けに印を押したが役所に届けていない)同居人の職業を知らないままの関係 など。 (感想1) 正直な”気持ち”を優先させてみると周りの決め事に対し反目が生まれます。 人はいつからか決められた世界の決め事との狭間に摩擦を抱えながら生きているもの。 そういう経験が読者にある限り、この物語に出てくる人たちの気持ちにだって寄り添うことができるのでは…(レベルの違いはあるにせよ) ”関係そのもの”が従来の社会では受け入れられにくいと、摩擦のニュアンスも複雑になることでしょう。 そういうもののために文学が最後の受け皿になります。 (どちらにしても、人生の局面での認識の仕方と行動がその人の人生を形成してゆく…) (読み心地) ・挑戦的なテーマを扱っているとは思えないほどカジュアルな読み応えになっています。 ・ユーモアさやシリアスさがところどころに差し込まれており、メリハリがつけられています。 (感想2)(毎回、似たようなことを書いているかもしませんが…)小説には「こんな関係だってありかも…」と思わせるよさがあります。またその関係の紹介。時には使命と言っていいのかも。 (感想3) 不思議なやさしさというものが作品にあるものはいいような気がします。 「こういう優しさもあるんだな」という学び。 (本の題名について) ところで、ポラリスとは北極星のこと―― 天体のあらゆる星々はポラリスを中心に回転しています。 まさに夜空の中心です。 もしかしたら、誰かが北極星になってしまうことが恋… もしかしたら、誰かが夜空の中心になってしまうことが恋… 人生で、夜空の中心になる人を見つけてしまう、なんて運命を感じさせます。 運命とは安定することなのでしょう。 (まぁ、歯が浮いてしまうような表現と取る方も多い?かと予測されますが…) この表現が比喩として成立可能か直接、北極星に問いかけてみる? ただ、今回の短編のように北極星となったひとたちとの関係が一般社会に認められるものでなかったら… そこにポラリスという孤独なイメージが重なる気がします。 恋をすることにより孤独を感じるようになるとはパラドックスですが、それも恋愛の味わいでしょう。 小説の形をとってはいますが、 様々な関係を扱った恋愛詩と言ってもいいかもしれません。 (おわり)
・恋する人は幸せかと桜を見ながら、ふと考える。 (恋と桜。応じる心のありようは似ているだろうか)・恋の必要条件に胸の痛みはありそう。・勘違いの傑作である。・恋ほど想いを肯定化したものはない。・人は一生のうち平均何回ほど恋をするのだろう?・二人だけの世界観がものごとの優先順位を勝ち取ったもの。・性欲は性欲でも 想い人への性欲は運命感を持った性欲である。・恋愛とは、ただ性欲の詩的表現をうけたもの(by芥川龍之介)・幻想美を現実に。現実を幻想美に。・可能性に賭ける心理。 0.0…1%でも可能性が生まれたときはじめて恋になる説・ 付き合い、個人の世界観が倍になった分、 別かれるときは世界観は一人分に戻る感覚を味わう。・恋をすると自分の醜さを知る。 己の中の独占欲と嫉妬心を知る。 自分が思っていたより狭量な人だったことを知る。 それゆえ美化された恋心にすがる。・独占欲の変形。・(個人的な意見になりますが)現代の恋は比喩が常に不足中。 恋の心理(を個人の妄想)として未開社会のような比喩に囲まれた世界観で描いている。・恋とは人間の原風景である。・一人だけに向けられる美化された性欲である。・一人でも生きていけることが恋を成就させる、というパラドックス。 自立してはじめて、大人の恋ができる。・恋をすることによってようやく人生の表舞台に立てる、ということがある。 (恋をすると人生の舞台に立った気がする。)・相手との時間の共有である。 一緒に並んで歩いているだけで濃密な時間をシェアできるのは恋愛のみである。・ 映画などを観ていると、あらゆる社会的束縛や非人間性が浸透した社会から逃れるための原動力になりうる。・江戸時代などの封建社会では「駆け落ち」するしかなかったわけで、恋が命がけの時代があった。 ひょっとしたら、近未来型(の徹底したAI)管理社会を変えるのは恋の力かもしれない。・坂口安吾の『桜の森の満開の下』 恋の表現として適切か。心理的な状態が似ているか。 実際、桜の森の満開の下を歩いて確かめてみる。 (結果、「性欲」の部分を薄めた恋の感覚が似ているかもしれない…)・恋の比喩として成立するものをもってこい。恋を語るために恋の比喩を集めよう、の所存。 (おわり)