主にわたしのつぶやきインスピレーションです。あわよくば詩・エッセイに。気軽に覗いてくださいね。ルールやマナーを守っていただける方なら無言フォロー歓迎です!
作品解説 | Chim↑Pom展:ハッピースプリング | 森美術館 - MORI ART MUSEUM本展は、Chim↑Pomの初期から近年までの代表作と本展のための新作を一挙に紹介する初の本格的回顧展です。www.mori.art.museum
国立新美術館に行き『ダミアン・ハースト桜展』を鑑賞してきました。絵からエナジーを感じます。桜が満開の状態に何を感じるか。たくさん描いたな。オンリーサクラ。これだけの数を描くエネルギーがまず才能。
”自分”を知ることは難しい人は死ぬまで部分的にしか自分を知ることができないその”部分”についてさえ時と状況により変化してゆく知っていることを知っているにすぎない――それが、たとえ自分自身のことであっても人とはそのような存在と言えるイエス様の汝自身を知れ、が身に沁みるのだしかし、知っている程度の内容で存在しているわけではない知っている部分だけが外界と作用し合っているわけでもない知らない部分を含めたまるごとの存在である大きな己が知らぬまに世界と交感している一生、知ることのない自分と世界を通じて共存している、とも言える五感を通してもしかしたら第六感も通してそのまままるごとこの大宇宙と干渉し合っている
全体がつまらないときはおもしろい部分を探し、おもしろい部分を全体として語る部分がつまらないときはおもしろい全体を探し、おもしろい全体を部分として語る。小説をおもしろく語る方法
SNSで実名も容姿も知らない多くの人たちが繋がる世となって久しい。しかし、よく考えてみると我々はいったい誰と繋がっているのだろうーーそして、彼等彼女等と繋がっている自分とは誰なのだろう――。 タブレットや手許のスクリーンの向こうにいる存在である影たち。相手のアカウントにお邪魔し「おもい」や「かんがえ」を拝見し、「いいね」や「リツイート」等する。テキストで会話し、ツイキャスし、とにかくなんらかのつながりをつくっている。 しかし多くのケースできっとお互いに、Who are you―?(あなたは誰?)の部分は否めない。 ひょっとしたら、(自分自身にも)「あなたは誰?」と自身のアカウント名・HN(ハンドルネーム)に感じることがあるかもしれない? 21世紀になって21年以上経年した現在、地球人はネットでお互い本名とは別(人によって複数)の名を持ち交流する。 それは年齢も性別も国籍も超える。 ハンドルネームは、一回きりしか使わないかもしれないし、長く使用したり、途中で改名することもある。ひょっとしたら一生大切にするもうひとつの名(+人格付き)として墓まで持っていくこともある。またネットの中に半永遠に情報として残るとも言える。USBに保存すれば1000年後、誰かがその記録を発見するかもしれない。死ぬまで本名とは別の異名を手離さず別の自分と付き合っていく人もすでに存在しているだろう。 自分の中の複雑性を別個の人格として分人化したり、個人情報の公開に制限をかけることにより逆にある部分の個性に自由を持たせたりする。また自分と自分、もう一人の自分と他者との関係性を整理している。ひと昔前なら複雑な心理は捨て置かれていたが、今や何らかの意味を含ませながら(ある程度)共存可能となった。 (ネットでの関係は解体されることはしょっちゅうだし、再形成されることも頻繁にある)※ ある日、私は街へ出た。いつものように多くの通行人たちとすれ違い、そこにいる名も知らない人たちに別名があることを思う。ひらひらと儚い存在で歩いていく群衆に秘密めいた別の顔があることを思うとぞっとしないでもない。(本人たちも気づいていない。深い人格の世界への窓口かもしれない) それにより表世界とは別の名と性格(当然、振る舞いも)がネットワークをつくるかつてない複雑な関係性の網を抽象化したものが現在の”社会”という概念になる。 「まぁ、これが現在のリアルなんだろうと…」 その繋がりはおそらく大半の人がリアルの中の知り合いにも、恋人にも伴侶にも教えていない。ネットの中にも、あるレベル、ある期間での意思と意思のつながりの保存性がある。 リアル世界のまわりの人たちに知られえない別の世間体が平行して存在しているとも言える。 ※ シェークスピア劇で見られる、変装すると人格まで変わる、というあれを思い出す。(そうでなくては閉鎖的な現実の生活に耐えられないのかもしれないのだが…)人々は、しれっと複数の裏の顔を持ち、今日も私とすれ違っていった。 いや、もしかしたら、ネット上で繋がっている知り合いなのかもしれないが。そうだとしてもそれはまたその人の別の人格なのかもしれない。(おわり)
抽象的で曖昧なものに具体的な納得を断片的で細々したものに抽象的掴みを双方のまめな切り替えにより新鮮な日常をコンパティブルな世界観を日常に
良曲を聴いて素直な心になろう人は素直な心にさせてくれるものを好きになるphoto; unknown, something I forget to take it.
・心が拗ねているときは音楽を聴いているのがよい。一番の薬だ。・最後の晩餐と、最後の音楽はまったく同じ意味だと思う。・よその街のつけ麺屋に小田和正が流れている 歌って聴く場所で印象が違うな。 印象というか感動や感傷の仕方が違う。体調やコンディションでも聴き取りは変わる。 身体的、経験的、記憶的、環境的に聴いている。 一人で食べていたけれどこういうのも音楽鑑賞法のひとつでしょう。食事と音楽のつながりを感じる…なかなか飽きない理由? (詩風) ・ 音楽に戻る時間 ある? こどもの頃は皆音楽的だった。 ほんの短い時期でも ・ こどもの頃の声は 世界が震える振動だったのだ ・ 生まれてはじめて出した声は生の音楽のはじまり・ミュージシャンを推すって自分のセンスを紹介するようなもの。・60年代~70年代の洋楽がBGMで流れるカフェ・レストラン。 久しぶりに聴いてなんだか昔得た感慨を思い出している。 昔のロックの人って、すごく純粋な音で演奏するけど、私生活は ボロボロでひどい。彼らの音楽は、まるで泥沼に咲く美しい 一輪の蓮の花みたいだ。・ダラダラしながら音楽を聴く。音楽だけが規律正しくちゃんとしている感じ。 そういうことはある?・昔、好きだったけど、今は思い入れのなくなった(冷めた)音楽。 なぜ、当時はこんなものに嵌っていたのだろうと訝しがっても 当時その音楽の価値を信じきっていたという紛れもない自分史。・喫茶店で流れてくるクラシック音楽(当然、歌詞はない) 心は人形みたいに操られている気分。・耳心地のよい知らない音楽をかけてくれるカフェにて休憩する。・お洒落で空いているお店の何が悪いと? 離れ小島くらいに客が点在 フランス語の音楽なんかが流れていて 客としては最高ではないかい・いい音楽を探すという人生の一面。・神は死んでも、音楽は生きている。 ・ 酒に酔う 異性に酔う 旅に酔う 昔に酔う 情緒に酔う 音楽に酔う 文学に酔う 詩に酔う 絵に酔う・音楽ってお国柄まで反映している 良質な新曲のなくなった国はなんだか嫌。 元気なさそうだし。・音楽は時代の音となる 音楽を聴くことは音楽の時代性を聴くことでもある・もっと音楽を餌にして生きていく ・ クリムトすごかった 黄金様式、神の如し! 結婚はしなかったけれどモデルたちとの間に14人ほど子供がいた ウィーン分離派 当時のウィーンの雰囲気が伝わってくる 詩人シラーや音楽家ベートベンなど当時の芸術運動の息吹みたいなものが感じられる 稲垣吾郎さんの音声案内 展全体の構成もよかったです (クリムト展にて)・昔の偉大なロックバンドは、10年くらいが賞味期限と言うか。大体、仲間割れするか、 才能を惜しみなく使い果たして解散していった気もする。エネルギーを音楽や周りに ぶつける量が違っていたのかはわからない。今はわりと長めで、音楽(バンド)も 平均寿命のびてるんじゃないだろうか? それは(最高の)音楽を生み出すことにとっていいことなのか。・音楽を聴いているとき思考は宇宙のお祭りに出かけているみたいな。そんな妄想。・音楽の唯一の欠点は、終わってしまうことだ。・ショーペンハウエルは、生とは苦悩であり、音楽だけがこれを忘れさせる、なんて言う。(おわり)
あけましておめでとうございます。2022年(令和4年)が始まりました。今年もよろしくお願いいたします。変わらずののんびりペースになりそうですが、まだまだ続けていく所存です…というかやる気は満々です。(遅筆のため投稿の間隔も開いてしまいます。) さて、毎年恒例の新年の抱負になります。最近、まわりにこんな人が増えたこともあり、その影響かもしれませんが、今年は、色々、笑い飛ばしていきたいにしようかと思います。 中には、自分で話したことを自分で笑い飛ばし完結してしまう人もいて、是非とも見習いたい。ある意味、幸せの秘訣かもしれません。少なくとも自分で(自分に)反応するので、反応(リアクション)してくれる人はいます。そのため、ためらわず話せる機会が増えるプラス効果を期待します… 意図的に顔を笑いの形にするだけで、脳が勝手に幸福だと勘違いしドーパミン(快楽物質)を放出すると言いますし。まさに、笑う門には福、来る。 笑う頻度、笑い方など…人の個性につながるものと思います。 愉しく感じたことは、素直に笑う。微笑みやうっとり笑いも含め、表現として反応してみる。 詰まらない、楽しくないと感じていたら、まずは自分の感受性をチェックしよう。 対象や相手に問題があるわけでなく、こちらの心身が上手く調整されていないだけなのかもしれないですからね。(では、また)
現在日本に住む外国人の数は、約288万人。割合としては人口の2%超になります。(2020年統計) ただコロナ禍の現状では、(コロナ)以前と較べ数字が減少していることが予想されます。特に留学生や短期の労働ビザ(技能実習生含む)で来日する外国人の数は顕著に減少しているものと想像できます。 288万人 この数字をどう見るべきか。 コロナ前・後、どちらにしても外国人側の観測としてよく言われるのは、(日本在住の外国人の割合は)たった2~3%に過ぎないというものです。日本社会は世界の移民先進国に較べ、移民の受け入れが遅れており、多様性のない(詰まらない?)社会だとしばしば批判されているようです。 ローマ法王フランシスコが来日した際、日本は(人道主義の立場から)もっと移民・難民を受け入れるべきだ、と発言していました。 (当然、反発として聖職者のトップが他国・他宗教の政治に口出しすることに異議を唱える人も出てきます。) 日本に住む外国人についての日本への批判;例①他地域の宗教、文化に寛容ではない。②就職や日常生活において日本人と同様の機会を設けられていない。③言語のバリアーがあることから、日本語習得者以外の人に対して排他的な扱いがある。④外国人嫌悪(ゼノフォビア)や人種差別は外国の事情でなく日本にもある。(表沙汰にされることがほとんどないだけである。それがまた問題である。)⑤いまだ海外の事情に疎く、狭く限定された文化・生活空間に縛られている。 よく指摘されるのはこういった事項ではないでしょうか。 では、この島国に何万年と根を下ろし、伝統を築き上げてきた日本人側の見立てでは、どうなるでしょう。 この2%超という数字(人数に換算すると約288万人)は、果たして多いのか少ないのか。これはいまだ判断が難しい数字に思われます。 288万人という規模は、西日本最大の都市大阪市(275万人)と同等の人口です。大雑把に、大阪市の人口がそのまま、日本に住む外国人の数だとするとけっこうな数のようにも思えます。 大阪市に籍を置く、生まれたばかりの赤ちゃんから亡くなる寸前の老人まで、全てひっくるめた人と同数と思うとなおさらです。それだけの人数の外国人が日本中に散らばり、住んでいることになります。 日本がガラパゴス的な社会通念に縛られているからこそ日本独自の文化をベースにした社会を築けたという見立てもあります。地理的・言語的な制限が「日本」という固有性を生んだ条件です。その条件の下、歴史を通してグローバル化と鎖国化を交互に繰り返してきた歴史経緯があるからこそ現在の「日本」という特徴があるのだという意見です。 そのこともまるごと含めた「日本」という伝統をどうするか。それによって育まれた精神性をどうするか。どんなところを維持するべきか改善するべきか。 そのことを決めるには、まず「日本」のことをよく分析・理解しなければならないと思います。浅はかな知識と態度で、日本人特有の精神性に基づいた風土・文化を再生不能にしてしまったら、日本人ではなくなる気がします。それに世界のどこにでもある国となんら変わりないものになってしまうでしょう。 ひとつの伝統とアイデンティティの問題でしょう。 また、外国がそうだったから日本もそうに違いないという安易な認識方法も(よく見られますが)自国への誤認に繋がります。 (世界の文明を八つに分類した書『文明の衝突』(政治学者サミュエル・ハンチントン)にも、日本は他のどの地域の特徴にも当て嵌まらない「日本」という地域で分類されています。 日本人ほど日本という概念を知らない民族もいないのかもしれません。 また、日本人労働力の不足を補う意味合いで外国人労働者を受け入れざるを得ないという声も聞きます。 日本人労働者が足りないというこの主張も、構造的な問題かもしれません。賃金を適正に上げれば、無職の日本人はたくさんおり、その方たちが働きはじめれば、雇用率が上がる、という意見もあります。 企業側としては、安い賃金で従順に働く外国人労働者の方が使い勝ってがよいため、日本人を雇うよりメリットがあると考えています。そのため日本人の賃金は上がりません。外国とのサプライチェーンとの絡み、グローバル化のあおりを受けた結果です。 また、低賃金の労働者を使うことで経営が成り立ってしまえば、新しいAI化、ロボット化社会の実現を遅らせてしまいます。(19世紀20世紀の中国・インドなどで実際に起きた) 人口における2~3パーセントの割合は、国が崩れるほどの危機感を感じるのかというとまだそこまでではないようにも見えます。 しかし、ここ20年間の日本における社会の変化の推移を振り返るだけでも、視界に入る外国人の割合、接する回数が急速に増えたことは肌レベルで感じられるはずです。 2%ちょっと(居住者)と観光客(年間3千万人以上)でこんなに風景が変わる。これも事実です。 〇日本の都道府県で外国人が住んでいない都道府県はない。 〇都市部に人口が集まる傾向。(仕事へのアクセスのよさや生活上の利便性からでしょう。) 必然的に、都市に住む人は外国人の姿を見かける頻度が高くなっているはずです。 では、… もしこの2%超えが4%になったら…ひいては6%、そして8%になったときの生活実感はどのようなものになるでしょう。 8%だと単純計算で日本に住む外国人は960万人=~1000万人レベルになります。 日本に住む12人に1人が外国人になる社会です。(特別永住者、半永住労働者、既婚者から留学生・研修生まで様々でしょうけど。) 日本人の人口はどんどん減っていくので、10人に一人が外国人居住者になるのもそう遠いことではないでしょう。(これは居住者だけの数字です。外国人観光客は別になります。) このくらいになると、… 少し、気になる数字…ではあります。 あくまで個人的な意見ですが、さすがにこれくらいになるとかなりの日本人が、気にする数字になってくるのではないでしょうか… そして、 少なくとも、もう後戻りできない数字と言うものがある気がします。 どのくらいが、このもう後戻りできない数字になるのか? 4%?6%?8%?10%?…もっと? 15%?20%?30%…? 8%10%になると、さすがに日本文化だけの国とは言えなくなっているでしょう。 他国の状況を見ても、移民した後も母国や先祖の伝統・宗教を継承しているコミュニティーが多く見られます。 この流れならば、最終的に日本文化が日本国において各種ある文化のうちのひとつとして扱われる時が来るのかもしれません。 様々なプラス面、マイナス面があるでしょうが、あるレベルで分断が起こることは他国・他地域の前例を見ても間違いないでしょう。 仮想として、そのような社会を迎えたときの日本の状況を今はっきりとイメージしておいた方がよい時期ではないでしょうか――― そのためには未来社会のモデル予測が必要です。総人口における何パーセントくらいならこれくらいの影響があり、どのような状態になるのか、総合的なシュミレーションをする必要があります。 またその予測ヴィジョンを政府やマスコミは発表しなければなりません。 その数字を観たうえで、透明性のある議論が起こり、この国の舵取りを決めるのならよいでしょう。あとになってそんなの聞いてない!という状況にだけはさせてはいけません。(おわり)
(ノート形式) 〇 小説を読むことは良質の比喩に多く触れられる機会である。 ・ 小説以外の書籍ではこうした機会は減る。 ・ 比喩とは。 ・ そもそも人類は未開文明時代、比喩に囲まれた日常をおくっていた。 →アニミズム。神の誕生。芸術の誕生。 現実と比喩が混沌とした世界観。 精神と比喩が一体化していた時代と言えないか。→信仰へ。 ・ 比喩に満ちた生活を思う。 ・ 私事だけれど、比喩をたのしく生涯に導入したい、と思った。 小説中、やたら、~のように、という表現が出てきていた。 ひょっとして、村上春樹が一貫して小説でやりたかったことは、こうした未開文明的な言語表現と現代的な言語表現の入り混じる言語世界を(物語として)表現することだったのかもしれない。 ・ プリミティブな絵画の要素を小説に導入する気味? 〇 登場人物、峠の向こうに住む免色さん。 ・ 13歳の秋川まりえが実の娘かもしれないことを主人公に明かす。 ・ 彼女に異常に執着している。 ・ しかし、娘であるかどうかを確かめようとしない。 ・ そうかもしれないし、そうではないかもしれない、という存在にとどめている。 ・ その意味。 ・ 新しい関係ともとれる。小説とは新しい関係を描くことでもある(、と思う)。 ・ 遠目で観察するなど距離を置いてきたが(絵描きの)主人公を通して近づこうとする… 持説 小説とは、新しい(まだ名のない)関係への可能性に希望を込めたもの。 〇 『グレート・ギャツビー』(スコット・フィッツジェラルド)や『ロリータ』(ナボコフ)のオマージュ。 ・ 反対側の峠にある家。夜になると灯が見える。 (『グレート・ギャツビー』の表現を連想) ・ 少女に接近するために、美しい叔母に近づき、結婚すら計画している疑い。 (『ロリータ』を連想) ・ 手を伸ばしても届かない葛藤、こそ純文学の源である。 ・ 闇に落ちた精神は完全に負けはしない。(ヘミングウェイなど実存文学の影響) ・ 神は死んだ(byニーチェ)後の生き方。所詮、それしか頼るものがない。 (余談) 村上文学の場合、それに加え、何が起こっても(たとえ世界の終わりがこようとも)今まで通りのやれることをやっていくしかないという姿勢がみられる。 〇 例のごとく小洒落れた表現や横文字がたくさんでてくる。 くよくよ(なよなよ)した憐憫や絶望を回避する効果があるかもしれない。 ・ 村上春樹の小説はシティ派の実存文学であり、 魔術的リアリズム(マジックリアリズム)文学でもあるか。 ただ舞台は日本だが、外国から輸入された思想感は否めない。 〇 イデアやメタファーをキャラクター化(擬人化?) 発想が(直で)ユニーク 〇 4巻まであるが、ストーリーが急速に収束。 ・ 風呂敷を広げ過ぎて収拾がつかなくなったのだろうか。 ・ いつものことだが、多くの伏線はきちんと回収されない。 (ここにあえて深みを覚えるかは人によるでしょう。) 〇 南京大虐殺に関する話が出てくるが賛否ありそう。 ・ 南京大虐殺自体が正確な情報の足りない(謎の多い)事件なので、 もっと検証が必要だと思う。(教科書では、~事件と表記) ・ 何が無知なことなのか決着をつけてほしい。 ・ その上で反省し謝らなければならないところはそうしなければならないし、 やってもいないところを中国共産党が捏造(+米国黙認)しているのなら、その部分は 不当であり、事実を白日に晒すことが優先されることになる。 ・ そこがあやふやでは、混乱をきたすだけ。それをはっきりさせないと政治利用される。 ・ ナチスと同じ、という考えは日本を見誤る。 ・ この点、どうなのだろう。作者はどのくらい深く調べたのだろうか。 〇 マジック・レアリズム ・ 超不自然・不思議な事件が普通に起こる。 ・ ありえない現象が日常に溶け込む。 ・ 日常にひとつだけありえない存在が実在していて共存している。 ・ 具体的には、絵に描いてある騎士団長がイデアの形象として現れるなど。 (村上春樹作品の特徴) (目に留まった言葉) フランツ・カフカは坂道を愛していた。(『騎士団長殺し』第2部(上) ・ 坂道を歩くたびに何か感じ入るようになるなら、価値ある一文か。 (何か感じるものがあるか、少し試してみるだけでも…) 詩的喚起を坂道から感じ取るようになるかもしれない。 「たとえ一本の箒だって、私はそれを音楽で克明に描くことができる」と豪語したのはリヒヤルト・シュトラウスだった。p.149 (『騎士団長殺し』第2部 還ろうメタファー編(上)) 箒の動きさえ、音楽にできると… 天才が言いそうなセリフだが… すげ。 (願望) それができるなら料理や受験勉強の様子なども音楽にできるのだろう。 草むしりや居眠りなどの日常にある雑事や平凡な生活態度の 多くを音楽で克明に描いてほしかったな。 クロード・ドビュッシーは「私は日々ただ無(リアン)を制作し続けていた」とどこかに書いていたが、…p.92(『騎士団長殺し』第一部顕れるイデア編(上)) ・ 無(リアン)というものが、日本人の持つ無の概念と同質かは不明。とはいえ無の魅力へ向かうベクトルは外国にもありそう。 自分が自由な人間であることを証明するために、何か、馬鹿げたことをやってみるべきなのかもしれない。p.261(『騎士団長殺し』第2部 還ろうメタファー編(上)) 目から鱗。 余談 馬鹿げたことが素晴らしいことになる場合、人はそれをどう評価するのだろう。 それは相変わらず馬鹿げたことなのか。 いや、そういう評価にはならないはず。大抵が素晴らしいこととして評価されるに違いないのではないか。 なぜなら、それが自由な人間であることを証明し、担保することに成功しているように見えるから。少なくともそうと信じたいのだから。 人(特に若者)は自分の本質は自由であると信じているから。 この世にあるエンターテイメントなどはこうした心理から生まれている? (おわり)
振り返れば、愛、足らず気づけなかったことの多さ 気づかぬまま誰かを傷つけたことの多さを思う
半分は知らずに過ぎたためにできた道――そんなものを人生と呼ぼうかPhoto taken (by myself) atthe Versaille Palace, suburb of Paris.
彼女だって最高の比喩を欲しがっているに違いない美しく趣のある比喩のことだそれが現代にもっとも不足しているものだと確信している
ときに新しく得た視点でものごとを見ることの方が知らない知識を得ることよりも新しさを感じることがある新しい視点も新しい知識の部分と言えるかもしれないが(その場合は知識を単語とでも書き換えるべきか)特に多く読本したり経験を積んだあとはそう感じることが多くなるたとえ既視感のあるものに対しても知らなかったパースペクティブを与えることの方が刺激的で新鮮さを覚えるということだphototaken by myself at one of the biggest bookstores in New York.
何を求めるかが私を知るということなのか何を求めないかが私を知るということなのか自由であること(自由になること)が私を知るということなのか何かの役割を果たそうとすることが私を知るということなのか社会の押し付ける道徳の外へ飛び出し(価値観を測り直す)ことが私を知るということなのか本当の道徳の意味を知り実践することが私を知るということなのか物事を推し測る基準となるものを掴むことこそ私を知るということなのかその基準とは私の真の道徳ということなのかそれとも運命に抗うことが私を知るということなのか運命を認め運命と一体となることが私を知るということなのか(また趣旨を変えて)私を愛する者を知ることが私を知るということなのか私が愛していることを相手に伝えることが私を知るということなのか私のつくる思考パターンを知ることが私を知るということなのかその思考パターンに対して抗う気持ちや意志があるのならそれもまた私を知るということなのかひとりでいるときの私 ふたりでいるときの私 集団でいるときの私それぞれを尊重しつつも すべての私を相対的に知ることが私を知るということなのか私もあなたも知っている私 私は知っているがあなたは知らない私 あなたは知っているが私は知らない私 私もあなたも知らない私それらのコンピネーションがすべて私であるがため 私は私で埋まらないものなのか若い頃の私 年月を経た私二人の私は同じ私なのかを知ることがまた私を知るということなのかたとえば親子のように無条件の愛を贈れる相手ができたときはじめて私を知ることができるものなのか 私の価値を知るにはやはり愛が必要なのか愛とは感じるものなのか 最終的に 私の中に生まれる救いを覚え私が私だけでできていないことを悟ることが私を知るということなのか……
毎日、目から鱗が落ちる体験をしたい…本を読む理由はそんなところからPhoto by myself at a booksotre in Roppongi, Tokyo,言い換えれば、毎日、意識改革したいのだろう
『能力主義は正義か』(マイケル・サンデル)を購入。読了。★★★★★(星五つ)直近四十年で米国が実際に直面した社会(の変化)の実態を的確に批評。 簡単にポイントを列挙していきます。〇 (2016年、)何故、ドナルド・トランプが大統領に選ばれたのか?(→保守・右派vsリベラル・左派の政策・思想対立ではなく、教育制度による影響を第一要因とする。)〇 一流大学が選別装置化。〇 受験競争の超過激化。〇 教育費の高騰。先進国の出生率の低下を招く。(→幅広い職種に価値を与え、魅力を感じられるようにすれば、大学など行かずとも、世間からの評価や十分な報酬を受け取れたはず。)〇 人種・門地に関わらず、皆にフェアな(大学受験の)チャンスを与えるとオバマは繰り返し演説したが、能力のある者だけが救われればよいのか?〇 社会的流動がある程度、起こる(貴族的世襲制を止める)のはいいがそれだけでいいのか?〇 国内への移民流入・製造業の国外流出のため米国人のブルーカラー層が減少。(1979年~2016年で製造業の労働者1950万人→1200万人)〇 技術者の労働に敬意を払わなくなった。〇 バラク・オバマはその解決策として彼等にホワイトカラーになることを促す。→大多数の負け組(意識)が生成。〇 ブルーカラー労働者たちの侮蔑と屈辱に塗(まみ)れた感情。〇 それらの負の感情は、無自覚であっても主に民主党政権(クリントン、オバマ)(+グローバル化推進派のブッシュJr時代の共和党)に放置されてきた。〇 グローバル化による恩恵をまったく受け取れなかった層の怨恨。〇 職業に貴賤はない、という労働に対する価値観の崩壊。〇 新しいエリート層による世襲制とも呼べる現象。〇 かつてないほど驕り高ぶったエリート層の誕生。 アメリカの上位100校ほどの難関大学に通う学生の70%超が、所得規模で上位四分の一に入る家庭。下位四分の一に入る家庭の出身者はわずか3%にすぎない。p.241 アイビーリーグの学生の過半数は、最も裕福な上位1%の家庭の出身。 富豪が、大学に多額の寄付金を払っていることで大学が成り立っている事実。その子息たちを優遇。 日本の東京大学においても年収950万以上の家庭の子息が全体の6割を占める(「東京大学学生生活実態調査」より) というデータが揃っていることからも、そもそも本物の能力主義ではない。 ☆エリート達の成功は、当人の能力と努力の成果だけでなく、親の資金援助による高額で優秀な家庭教師、塾の提供、コネ、生まれた環境などに負っている部分がある。これらの要因が大きなアドバンテージとして働いているのは否めない(事実と言える)。ところが、ハーバート大学の学生に成功の理由を尋ねてみると、皆がこぞって自らの高い能力と多大な努力をした結果と答え、そもそも先進国に生まれた運や裕福な家庭環境を理由にする者はほとんどいなかった。(とハーバード大学教授であるサンデルは書いています。) 人々の心理の変化〇ブルーカラーを見下す傾向。低学歴者を自業自得と判断。〇オバマの8年間における政策で断罪されるべきこと。(過去30年間と見てもいい) →ありえないほどの格差の広がりがこの数十年で生まれた。 アメリカの1%の大富豪がアメリカ全体の50%の資産を所有している。 お金持ちはより大金持ちに。貧乏人はより貧乏人に。仕事の尊厳も低下。 ☆製造業者・工場従業員・中古車販売業者・配管工・ウエイター・ホテルのメイド・清掃員など…どのような職業を生業とする者であっても、自らの仕事に見合った正当な評価を受けられない社会を進歩的、模範的な社会とは呼べない。またそれらの職業を通じて社会貢献している実感、ポジティブなフィードバックを受けられない社会はどこかで健全さを欠いている、と言える。 いわゆる日本でよく言われる「生きにくい社会」を生んだひとつの要因がここに見てとれるのでは。 そういう歪な社会を無自覚的にであってもつくってしまったこと。 →グローバル化により取り残された人々へのケアがあまりに足りなかった。彼等彼女らの心情を汲むことができなかった。 外国から突如やってきた大量の移民たちに、アメリカ社会を構成してきた貢献心からの自負の念と報酬を奪われていく喪失感を止めることができなかった。 また長年、自分たちの支払ってきた税金が、自分たちや自分たちのコミュニティに正当に還元されないと感じるようになった。 そうした(ブルーカラー層の)大衆心理が、爆発寸前のところまで来ていた。 ☆そこに多くのアメリカ国民が(2016年)ドナルド・トランプを大統領に選んだ真の理由がある、とサンデルは書いています。(2016年に大統領選。2017年1月より大統領就任。) では、 Q&A; かつてないほど屈辱にまみれた人々を生み出すことになった米国社会を修正するには? 労働の意味を考え直す。 労働には、ホネットの言う「承認と評価をめぐる争い」の心理が隠れている。 「労働とは?」を、賃金の価値以外の価値からも考え直す必要。 公共善とは。 正当な意味での富の分配を考え直す必要。 グローバル化の負の面をどう解決するか。 分け前を不釣り合いなまで分捕っている者たちがいる。 ところがこれにとどまらず、さらに恐ろしい最悪の社会実現がある、とサンデルは書いています。それは能力主義(メリトクラシー)が完全なレベルで社会に浸透する社会だと書いています。能力主義が完璧に社会実現化したとき、かつてない非人間的なステイタス社会に生かされることを意味します。(言い訳がまったく通用しない社会というのも恐ろしい。成功も落第も全て自分の能力と努力のみの結果とされる逃げ道のない社会。) 余談 日本社会でよく求められてきた、シニオリティ(年功序列)に対するメリトクラシー(能力主義)の有効性ですが、実はその能力主義が極端に普及した社会とは、(ほとんどの人々にとって、)他のどんな社会制度に属することよりも居心地が悪く、ツライものになる、ということが書かれています。 (気がひかれ思わずメモした部分) 最近の歴史的経験から次のことがわかる。洞察力や道徳的人格を含む政治的判断と、標準テストで高得点をとり、名門大学に合格する能力とは、ほとんど関係がないのだ。p.146~147 優れた統治のために必要なのは、実践知と市民的美徳、つまり共通善について熟考しろ、それを効率よく推進する能力である。p.146 ・空虚な政治的プロジェクトにすぎない。 ・コネある人々の子弟に下駄を履かせている。p.172 最善の生き方に関する論争的な概念に依存しているからだ。p.197 能力の専制p.186 平等主義リベラリズムは結局のところ、エリートの自己満足をとがめていないことを示唆しているのかもしれない。p.211 高等教育がいかに選別装置と化したかということだ。p.226 社会的流動性や機会の平等という言葉によって覆い隠されてしまうものだ。p.234 世襲特権を持つこうした貴族階級に取って代わった能力主義エリートが、先代と同じように特権を手に入れ、居座っているのが現状だ。p.241 必要な能力を欠く者にとっての痛み。p.251 ガードナーは、「業績を人間の価値と混同すべきでない」と果敢に主張し~p.252 ~大学に進学しなくてはならないと信じるアメリカ人が少なからずいれば、まさに意見の一致によって、この一般論が正しいことになってしまう。p.252 勝者総取り ~連帯と相互義務の感覚を芽生えにくくもする。p.265 能力を資格の一基準として扱うだけで、最大化すべき理想としてはいけない。p.267 選別装置の出力を落とすべきだ。p.271 学歴格差は激化の一途をたどっている。p.285 自分の国で異邦人になってしまったようなものだ。p.291 社会が労働に名誉と報いをどう与えるかは、共通善をどう定義するかという問題の核心だ。労働の意味を考え抜こうとするなら、道徳と経済に関わる問いに向き合わなければならない。p.292 彼らが、直面し、恐れたのは、時代から取り残されることだ。p.294 正義にかなう社会は繁栄の最大化を目指すだけでなく、所得と富の公平な分配を追求するという信念だ。p.294 賃金は、経済哲学者フランク・ナイトが指摘したように、需要と供給の偶発性に左右されるからだ。p.298 消費者であり、生産者であるというわれわれのアイデンティティを仲裁するのが、政治の役割だ。p.296 アクセル・ホネット; 所得と富の分配をめぐるこんにちの争いは、承認と評価をめぐる争いと考えると、最も理解しやすいという。p.300 2008年には企業利益の30%以上を占めるようになった。p.308 (売り買い目的だけの社会貢献しない投資。株の売り買いのみによる差益。GDPのかさ上げ) 所得に占める割合から言えば納める税が最も少なく、経済のパイから不釣り合いに大きな分け前を分捕り、しばしば成長を妨げるビジネスモデルを推進している。p.314 悪行税。 帰属意識が必要なのだ。自らが恩恵を受けている共同体の一員として自分自身を見ることが必要なのだ。われわれは、他者に依存し、その依存を認めるかぎりにおいてのみ、われわれの集団の幸福に対する他者の貢献に感謝する理由がある。そのために必要なのが、確固とした共同体意識だ。p.315 (余談) 渋沢栄一の『論語と算盤』が理解され、自然に取り入れられた日本(今に至るまである水準レベルで浸透していると信じていますが…)の状況は、まだましだと言えます。(日本にはまだその残滓がのこっていると思います。)しかし、それも今後の移民政策や一流大学奨励傾向を見る限り、決して対岸の火事とは言えません。 大学進学費がかかりすぎることで出生率が低くなってしまったことも事実でしょう。そして大学に入るための熾烈な受験競争は存在・継続中です。(テレビ番組も東大生のクイズ王をタレント化する傾向ですが…) 一流大学出身のホワイトカラーだけでなく、あらゆる職業が個性を尊重され正当に社会から評価を受ける日本であり続けてほしい(もちろん、日本にだって職業蔑視はありますが、あくまで他地域と比べるとはるかにまし程度の話です)。 どちらにしても、新しい視点を与えてくれ、現実を知ることができた本でした。 ★★★★★(おわり)
心とはこの世に浮かんだ舟のようなものではないだろうかphoto by myself in Takawatu, Kagawa
「お前が愛を語るなんて百年早いわ!」は、実際、言われたらショックだろう。 ※ろくでもないやつは愛を語りたがる 説 ※愛を語ることはそこそこリクスあることなので、それ自体ドキドキしてくるアクション…愛を語る時、日常外のニュアンスが発生している気がする。日常的なものなのにいざ言葉に出すと浮いた気がするのは愛の不思議 ※日本は、照れ屋集団が形成する国。そんな国の連中が愛を語ることなんてまさに一大事。そんな連中が愛を語るなんて、ここぞでの一大イベントである。日本人の意識を超えるとき。 ※”愛”は、日常的だが”愛を語る”は日常的ではない。(日本社会)愛(情)は日常的であっても、愛を語るになると日常的ではない、のが日本。日常で、愛を語ることは少々、”非日常+α 的”(とも言える)多少、”いつも”から脱線すること、という結論。愛とは、非日常で日常的なことである。愛を囁かれたいとは、(甘い)非日常(の蜜)を囁かれたいことに等しい。愛の蜜を舐めたいからに他ならない別の見方をすれば、言葉で軽々しく扱わない。 ※愛はしらふではないところがあるが、超しらふで話してほしい。 ※愛なきものにも愛あれ こそ愛 ※自分を愛せないから他人を愛せない。他人を愛せないから自分も愛せない。愛の不循環。渡された愛のバトンは誰かに渡すべし。愛から愛へのバトン循環 ※最近、植物や動物の方が愛せるのかも…モノとかも…愛する/されるにもリハビリがほしい。 ※もうかわいいだけじゃものたりない。溢れるものがないと愛おしくならない。溢れる愛が欲しい。愛のメリハリ。 ※ひとの心は、雑に扱われるとすぐにダメになっていく。ネグレクトされると鉢植えの花はすぐに枯れてしまう。愛の反対は、”面倒臭い”かもなと思っている。無関心は、何から起こるのか、に対しての答えの一つ。 ※なぜ、どうしてがわからないことが愛おしい。なぜかわいさや美しさを感じるかには、解明できない不思議さが含まれている。(なぜかを、)どこまでいっても解明できないからこそ、かわいく、美しい。また、かわしさや美しさは変わらずかわいく、美しい… ※どれだけ自分以外の人のために時間を割くことができるか。愛への第一歩。まずはそんなに悪くない人へ。 ※愛には皆とシェアしたいものとひとり占めしたいものがある。独占欲についての問題。議論。愛の二面性。 ※愛を語るにはエピソードが最適。 ※人にはものごとを抽象化する能力がある。またそれを容易に信仰している。たとえば「愛」など… ※いろんなものに愛想尽きたらまた海外へ行こう。(終わり)