主にわたしのつぶやきインスピレーションです。あわよくば詩・エッセイに。気軽に覗いてくださいね。ルールやマナーを守っていただける方なら無言フォロー歓迎です!
彼女だって最高の比喩を欲しがっているに違いない美しく趣のある比喩のことだそれが現代にもっとも不足しているものだと確信している
ときに新しく得た視点でものごとを見ることの方が知らない知識を得ることよりも新しさを感じることがある新しい視点も新しい知識の部分と言えるかもしれないが(その場合は知識を単語とでも書き換えるべきか)特に多く読本したり経験を積んだあとはそう感じることが多くなるたとえ既視感のあるものに対しても知らなかったパースペクティブを与えることの方が刺激的で新鮮さを覚えるということだphototaken by myself at one of the biggest bookstores in New York.
何を求めるかが私を知るということなのか何を求めないかが私を知るということなのか自由であること(自由になること)が私を知るということなのか何かの役割を果たそうとすることが私を知るということなのか社会の押し付ける道徳の外へ飛び出し(価値観を測り直す)ことが私を知るということなのか本当の道徳の意味を知り実践することが私を知るということなのか物事を推し測る基準となるものを掴むことこそ私を知るということなのかその基準とは私の真の道徳ということなのかそれとも運命に抗うことが私を知るということなのか運命を認め運命と一体となることが私を知るということなのか(また趣旨を変えて)私を愛する者を知ることが私を知るということなのか私が愛していることを相手に伝えることが私を知るということなのか私のつくる思考パターンを知ることが私を知るということなのかその思考パターンに対して抗う気持ちや意志があるのならそれもまた私を知るということなのかひとりでいるときの私 ふたりでいるときの私 集団でいるときの私それぞれを尊重しつつも すべての私を相対的に知ることが私を知るということなのか私もあなたも知っている私 私は知っているがあなたは知らない私 あなたは知っているが私は知らない私 私もあなたも知らない私それらのコンピネーションがすべて私であるがため 私は私で埋まらないものなのか若い頃の私 年月を経た私二人の私は同じ私なのかを知ることがまた私を知るということなのかたとえば親子のように無条件の愛を贈れる相手ができたときはじめて私を知ることができるものなのか 私の価値を知るにはやはり愛が必要なのか愛とは感じるものなのか 最終的に 私の中に生まれる救いを覚え私が私だけでできていないことを悟ることが私を知るということなのか……
毎日、目から鱗が落ちる体験をしたい…本を読む理由はそんなところからPhoto by myself at a booksotre in Roppongi, Tokyo,言い換えれば、毎日、意識改革したいのだろう
『能力主義は正義か』(マイケル・サンデル)を購入。読了。★★★★★(星五つ)直近四十年で米国が実際に直面した社会(の変化)の実態を的確に批評。 簡単にポイントを列挙していきます。〇 (2016年、)何故、ドナルド・トランプが大統領に選ばれたのか?(→保守・右派vsリベラル・左派の政策・思想対立ではなく、教育制度による影響を第一要因とする。)〇 一流大学が選別装置化。〇 受験競争の超過激化。〇 教育費の高騰。先進国の出生率の低下を招く。(→幅広い職種に価値を与え、魅力を感じられるようにすれば、大学など行かずとも、世間からの評価や十分な報酬を受け取れたはず。)〇 人種・門地に関わらず、皆にフェアな(大学受験の)チャンスを与えるとオバマは繰り返し演説したが、能力のある者だけが救われればよいのか?〇 社会的流動がある程度、起こる(貴族的世襲制を止める)のはいいがそれだけでいいのか?〇 国内への移民流入・製造業の国外流出のため米国人のブルーカラー層が減少。(1979年~2016年で製造業の労働者1950万人→1200万人)〇 技術者の労働に敬意を払わなくなった。〇 バラク・オバマはその解決策として彼等にホワイトカラーになることを促す。→大多数の負け組(意識)が生成。〇 ブルーカラー労働者たちの侮蔑と屈辱に塗(まみ)れた感情。〇 それらの負の感情は、無自覚であっても主に民主党政権(クリントン、オバマ)(+グローバル化推進派のブッシュJr時代の共和党)に放置されてきた。〇 グローバル化による恩恵をまったく受け取れなかった層の怨恨。〇 職業に貴賤はない、という労働に対する価値観の崩壊。〇 新しいエリート層による世襲制とも呼べる現象。〇 かつてないほど驕り高ぶったエリート層の誕生。 アメリカの上位100校ほどの難関大学に通う学生の70%超が、所得規模で上位四分の一に入る家庭。下位四分の一に入る家庭の出身者はわずか3%にすぎない。p.241 アイビーリーグの学生の過半数は、最も裕福な上位1%の家庭の出身。 富豪が、大学に多額の寄付金を払っていることで大学が成り立っている事実。その子息たちを優遇。 日本の東京大学においても年収950万以上の家庭の子息が全体の6割を占める(「東京大学学生生活実態調査」より) というデータが揃っていることからも、そもそも本物の能力主義ではない。 ☆エリート達の成功は、当人の能力と努力の成果だけでなく、親の資金援助による高額で優秀な家庭教師、塾の提供、コネ、生まれた環境などに負っている部分がある。これらの要因が大きなアドバンテージとして働いているのは否めない(事実と言える)。ところが、ハーバート大学の学生に成功の理由を尋ねてみると、皆がこぞって自らの高い能力と多大な努力をした結果と答え、そもそも先進国に生まれた運や裕福な家庭環境を理由にする者はほとんどいなかった。(とハーバード大学教授であるサンデルは書いています。) 人々の心理の変化〇ブルーカラーを見下す傾向。低学歴者を自業自得と判断。〇オバマの8年間における政策で断罪されるべきこと。(過去30年間と見てもいい) →ありえないほどの格差の広がりがこの数十年で生まれた。 アメリカの1%の大富豪がアメリカ全体の50%の資産を所有している。 お金持ちはより大金持ちに。貧乏人はより貧乏人に。仕事の尊厳も低下。 ☆製造業者・工場従業員・中古車販売業者・配管工・ウエイター・ホテルのメイド・清掃員など…どのような職業を生業とする者であっても、自らの仕事に見合った正当な評価を受けられない社会を進歩的、模範的な社会とは呼べない。またそれらの職業を通じて社会貢献している実感、ポジティブなフィードバックを受けられない社会はどこかで健全さを欠いている、と言える。 いわゆる日本でよく言われる「生きにくい社会」を生んだひとつの要因がここに見てとれるのでは。 そういう歪な社会を無自覚的にであってもつくってしまったこと。 →グローバル化により取り残された人々へのケアがあまりに足りなかった。彼等彼女らの心情を汲むことができなかった。 外国から突如やってきた大量の移民たちに、アメリカ社会を構成してきた貢献心からの自負の念と報酬を奪われていく喪失感を止めることができなかった。 また長年、自分たちの支払ってきた税金が、自分たちや自分たちのコミュニティに正当に還元されないと感じるようになった。 そうした(ブルーカラー層の)大衆心理が、爆発寸前のところまで来ていた。 ☆そこに多くのアメリカ国民が(2016年)ドナルド・トランプを大統領に選んだ真の理由がある、とサンデルは書いています。(2016年に大統領選。2017年1月より大統領就任。) では、 Q&A; かつてないほど屈辱にまみれた人々を生み出すことになった米国社会を修正するには? 労働の意味を考え直す。 労働には、ホネットの言う「承認と評価をめぐる争い」の心理が隠れている。 「労働とは?」を、賃金の価値以外の価値からも考え直す必要。 公共善とは。 正当な意味での富の分配を考え直す必要。 グローバル化の負の面をどう解決するか。 分け前を不釣り合いなまで分捕っている者たちがいる。 ところがこれにとどまらず、さらに恐ろしい最悪の社会実現がある、とサンデルは書いています。それは能力主義(メリトクラシー)が完全なレベルで社会に浸透する社会だと書いています。能力主義が完璧に社会実現化したとき、かつてない非人間的なステイタス社会に生かされることを意味します。(言い訳がまったく通用しない社会というのも恐ろしい。成功も落第も全て自分の能力と努力のみの結果とされる逃げ道のない社会。) 余談 日本社会でよく求められてきた、シニオリティ(年功序列)に対するメリトクラシー(能力主義)の有効性ですが、実はその能力主義が極端に普及した社会とは、(ほとんどの人々にとって、)他のどんな社会制度に属することよりも居心地が悪く、ツライものになる、ということが書かれています。 (気がひかれ思わずメモした部分) 最近の歴史的経験から次のことがわかる。洞察力や道徳的人格を含む政治的判断と、標準テストで高得点をとり、名門大学に合格する能力とは、ほとんど関係がないのだ。p.146~147 優れた統治のために必要なのは、実践知と市民的美徳、つまり共通善について熟考しろ、それを効率よく推進する能力である。p.146 ・空虚な政治的プロジェクトにすぎない。 ・コネある人々の子弟に下駄を履かせている。p.172 最善の生き方に関する論争的な概念に依存しているからだ。p.197 能力の専制p.186 平等主義リベラリズムは結局のところ、エリートの自己満足をとがめていないことを示唆しているのかもしれない。p.211 高等教育がいかに選別装置と化したかということだ。p.226 社会的流動性や機会の平等という言葉によって覆い隠されてしまうものだ。p.234 世襲特権を持つこうした貴族階級に取って代わった能力主義エリートが、先代と同じように特権を手に入れ、居座っているのが現状だ。p.241 必要な能力を欠く者にとっての痛み。p.251 ガードナーは、「業績を人間の価値と混同すべきでない」と果敢に主張し~p.252 ~大学に進学しなくてはならないと信じるアメリカ人が少なからずいれば、まさに意見の一致によって、この一般論が正しいことになってしまう。p.252 勝者総取り ~連帯と相互義務の感覚を芽生えにくくもする。p.265 能力を資格の一基準として扱うだけで、最大化すべき理想としてはいけない。p.267 選別装置の出力を落とすべきだ。p.271 学歴格差は激化の一途をたどっている。p.285 自分の国で異邦人になってしまったようなものだ。p.291 社会が労働に名誉と報いをどう与えるかは、共通善をどう定義するかという問題の核心だ。労働の意味を考え抜こうとするなら、道徳と経済に関わる問いに向き合わなければならない。p.292 彼らが、直面し、恐れたのは、時代から取り残されることだ。p.294 正義にかなう社会は繁栄の最大化を目指すだけでなく、所得と富の公平な分配を追求するという信念だ。p.294 賃金は、経済哲学者フランク・ナイトが指摘したように、需要と供給の偶発性に左右されるからだ。p.298 消費者であり、生産者であるというわれわれのアイデンティティを仲裁するのが、政治の役割だ。p.296 アクセル・ホネット; 所得と富の分配をめぐるこんにちの争いは、承認と評価をめぐる争いと考えると、最も理解しやすいという。p.300 2008年には企業利益の30%以上を占めるようになった。p.308 (売り買い目的だけの社会貢献しない投資。株の売り買いのみによる差益。GDPのかさ上げ) 所得に占める割合から言えば納める税が最も少なく、経済のパイから不釣り合いに大きな分け前を分捕り、しばしば成長を妨げるビジネスモデルを推進している。p.314 悪行税。 帰属意識が必要なのだ。自らが恩恵を受けている共同体の一員として自分自身を見ることが必要なのだ。われわれは、他者に依存し、その依存を認めるかぎりにおいてのみ、われわれの集団の幸福に対する他者の貢献に感謝する理由がある。そのために必要なのが、確固とした共同体意識だ。p.315 (余談) 渋沢栄一の『論語と算盤』が理解され、自然に取り入れられた日本(今に至るまである水準レベルで浸透していると信じていますが…)の状況は、まだましだと言えます。(日本にはまだその残滓がのこっていると思います。)しかし、それも今後の移民政策や一流大学奨励傾向を見る限り、決して対岸の火事とは言えません。 大学進学費がかかりすぎることで出生率が低くなってしまったことも事実でしょう。そして大学に入るための熾烈な受験競争は存在・継続中です。(テレビ番組も東大生のクイズ王をタレント化する傾向ですが…) 一流大学出身のホワイトカラーだけでなく、あらゆる職業が個性を尊重され正当に社会から評価を受ける日本であり続けてほしい(もちろん、日本にだって職業蔑視はありますが、あくまで他地域と比べるとはるかにまし程度の話です)。 どちらにしても、新しい視点を与えてくれ、現実を知ることができた本でした。 ★★★★★(おわり)
心とはこの世に浮かんだ舟のようなものではないだろうかphoto by myself in Takawatu, Kagawa
「お前が愛を語るなんて百年早いわ!」は、実際、言われたらショックだろう。 ※ろくでもないやつは愛を語りたがる 説 ※愛を語ることはそこそこリクスあることなので、それ自体ドキドキしてくるアクション…愛を語る時、日常外のニュアンスが発生している気がする。日常的なものなのにいざ言葉に出すと浮いた気がするのは愛の不思議 ※日本は、照れ屋集団が形成する国。そんな国の連中が愛を語ることなんてまさに一大事。そんな連中が愛を語るなんて、ここぞでの一大イベントである。日本人の意識を超えるとき。 ※”愛”は、日常的だが”愛を語る”は日常的ではない。(日本社会)愛(情)は日常的であっても、愛を語るになると日常的ではない、のが日本。日常で、愛を語ることは少々、”非日常+α 的”(とも言える)多少、”いつも”から脱線すること、という結論。愛とは、非日常で日常的なことである。愛を囁かれたいとは、(甘い)非日常(の蜜)を囁かれたいことに等しい。愛の蜜を舐めたいからに他ならない別の見方をすれば、言葉で軽々しく扱わない。 ※愛はしらふではないところがあるが、超しらふで話してほしい。 ※愛なきものにも愛あれ こそ愛 ※自分を愛せないから他人を愛せない。他人を愛せないから自分も愛せない。愛の不循環。渡された愛のバトンは誰かに渡すべし。愛から愛へのバトン循環 ※最近、植物や動物の方が愛せるのかも…モノとかも…愛する/されるにもリハビリがほしい。 ※もうかわいいだけじゃものたりない。溢れるものがないと愛おしくならない。溢れる愛が欲しい。愛のメリハリ。 ※ひとの心は、雑に扱われるとすぐにダメになっていく。ネグレクトされると鉢植えの花はすぐに枯れてしまう。愛の反対は、”面倒臭い”かもなと思っている。無関心は、何から起こるのか、に対しての答えの一つ。 ※なぜ、どうしてがわからないことが愛おしい。なぜかわいさや美しさを感じるかには、解明できない不思議さが含まれている。(なぜかを、)どこまでいっても解明できないからこそ、かわいく、美しい。また、かわしさや美しさは変わらずかわいく、美しい… ※どれだけ自分以外の人のために時間を割くことができるか。愛への第一歩。まずはそんなに悪くない人へ。 ※愛には皆とシェアしたいものとひとり占めしたいものがある。独占欲についての問題。議論。愛の二面性。 ※愛を語るにはエピソードが最適。 ※人にはものごとを抽象化する能力がある。またそれを容易に信仰している。たとえば「愛」など… ※いろんなものに愛想尽きたらまた海外へ行こう。(終わり)
夏の日差しが白い建物や緑に当たる反射光(の風景の写真)今年はもう過ぎてしまったんだなとphoto taken by myself in Kawasaki, 2015
入り口。木で隠れてしまいましたがチケット販売所があります。入り口入ったすぐのところ。右側は下の写真みたいになっています。森散策(ちょっとしたトレッキング)とアート両方の感覚を楽しめます。ぽかぽかして暑いくらいでしたが、気持ちいい。自然と人工物であるアート。未来的な感覚?ふだん味わえない感覚を刺激されます。このへんは森林浴。アーティストのセンスが。プリミティブ?なんか宇宙からのメッセージでも受け取ろうしているみたい…詩的な感じ。本当は、題名と一緒に鑑賞する方がよいと思います。アート(作品)についている名前って大切です。このころには少しバテテきた…おわり。なんかよかったです。
つづきです。(おまけ)本を読む理由について。その他諸々の理由も書き出してみます。・人には知識欲がありますから、自然な動機です。・頭の中に映像を思い浮かべることができる小説を好む。・書いている人の本音や発見に触れることができる。・周囲の空気に配慮されているものとは別次元のものとして価値が見出される。(=だからこそ本にする価値があるとも)・長年、時間をかけて考えてきたことの集大成です。・(名著は)歴史上の偉人たちが積み上げてきた発見を礎にして書かれたものなので、これまでの人類の知見の集大成と言えます。・自分だけでは絶対到達できなかった考えや真実を容易に(?)教えてくれる。・想像の世界への現実逃避。・他者の伝記を通して、当時の様子や人間観を知る。本にはいろいろな目的の本があるし、どのような価値を認めるかは人・状況でそれぞれ十人十色でしょう。(上記はよく言われることかと思います。なのでお蔵入りしようと思っていましたが、まぁ、もったいないし、おまけとして投稿してみました。) (余談)また、情報によってのみ成立する雑誌もあります。 温泉に行きたい人なら、温泉についての客観的な情報が掲載されている雑誌を求めます。この場合、作家的才能や哲学的慧眼は必要ありません。(ワンポイントアドバイスやナビゲーター的説明(の挿入)はありがたい。) お湯の成分、アクセス、景観のよさ、宿泊料、食事付きか、食事の質、他の付随サービス、…など細かい情報を味付けせずに提示してもらう方が有益なときもあります。 レポートライターは、行くべき理由を明確にしたり、魅力を伝える文章が求められます。 ということで。(おわり)
つづきです。本を読む理由④ 〇思い込みから醒めたシュールな現実感が心地よい 夢から覚めるために本を読む。 「プロパガンダ教育の洗脳から解けるという快感がありますよ。」 という話を聞いたことがあります。(※これは、少年期、反日教育を受けた韓国の方の話でした。) ほとんどの人に馴染みのないケースかと思います。(まぁ、極端すぎます。汗) ですが、あえて広義に考えてみるとどうでしょう。たとえばこれを、いくつかの”思い込み”から脱っした…くらいの意味に捉えてみたら…その場合、本を読む理由につながっていきそうです。 我々は皆、生まれてから死ぬまで何らかの教育を受けています。 それは、ある程度の「刷り込み」、「思い込み」、を形成していきます。 深度の違いこそあれ、ある程度の「洗脳」と言えないでしょうか。 (まぁ、そういう極論化した「洗脳」という意味です。) 思想の形成は環境による影響がかなり大きい… 自分の性格や思考パターンも家庭や教育、母語の在り方で大いに影響を受けます。 宗教、伝統など社会的な営みも然り。 自力で結論に達したと思っていることも、実はまわりから促された結果だとしたら… これも極端ですが、… 今、思い込んでいることは全て社会や誰かが刷り込んだ夢みたいなもの…なのかもしれません。(思い込んでいるだけなので、幻、夢みたいなものです。)実は夢の中に生きている? 究極的には~的なことです。 ◇ そして、”その夢を深い深層から覚ましてくれるもっとも有意義な媒体が本”なのかもしれません。(本; 書き手がもっとも他者に引きずられず、もっとも深堀りして書き上げることができる媒体) 人生長くなるほど思い込みが多く強くなります。 長年連れ添った(相棒である)思い込みが解体されることはある意味ショックなことです。 ですので戸惑いを感じたり、事実を受け入れられずにいることだってあります。 しかし、そこに新鮮な驚きや覚醒的快感を経験できたなら、それが人生の味わいになることがあります。 結局、生きているとなんらかの洗脳と解除の繰り返しの道のりになっていくのですから… ただし、時に、その体験がシュールな味わいになっているかもしれませんが… 本の読了とは(たとえるなら)、朝の目覚めである。 (もしくは、本の読了とは、シュールな朝の目覚めである。) 本を読む醍醐味がここらへんに隠されているような気がします。 もちろん、(本に限らず)生きていると、様々な(新しい)経験をすることによって、それらの思い込みから脱することがあります。または新しいものへアップデートされることがあります。これまでの枠組みとその外の存在との関係を理解し整理する経験です…そんな時、目が覚めたような覚醒快感を覚えることがあります。人はこの時、新しい視点と展望を見いだすと言っていい。 ですので、ここではその最たる道具が本というくらいの意味です。(ですが本にはそれを意識的に選択するという行為で仕掛けることができますね。あとは偶然のサイコロを振ることができる。) (余談) そのため本は知的快感を与えてくれるものがよいと思います。 学習が本能になるほどの本と出会うことを夢見るくらいで丁度いいのではと。 そんなまだ見ぬ書籍がこの世界のどこかにたくさんあるはずです。 そんな知的好奇心が後天的本能(造語です)と言えるほどのものになる本を尊敬します。 生きているうちに出会わなくてはなりません。 そして人類の残した莫大な叡智を思うとき、きっと出会えるものだと確信できているものです。(読む人の読解力を必要とする書籍もありますが…) そう思えば、誰もが未来の本にワクワクできるのではないでしょうか。 ということで…人は、すがすがしい覚醒を(たとえ一時的でも)求めているから本を読む。で、〆ます。(少しだけつづく)
つづきです。本を読む理由③ 〇他人の視点を世界認識の補助線にするツール。 また、さらなる世界認識のためのトレーニングツールとも。 これは、小説も含めます。 大衆に小説が浸透していない時代には他人の角度のついた視点を知る機会はほぼ皆無でした。 (一般的に書籍が庶民へ浸透するにしても物語本から入るほうが入りやすかったのだと思います。) ◇ 数百年前を想像してみれば~の話 ・コミュニティ内の人の話だけでは、世俗的な世界観に限られてしまう。 ・良しも悪しも、庶民は生活圏の話にしか興味がないものだし、めったにその他の話をしない。 ・教会や寺社の聖職者の話だけでも信仰上の世界観に限られてしまう。 ・聖職者は、神ありき仏ありきで世界認識を構成する。 ・これでは素朴ながらも人生でふと思う、自然、且つ深い疑問に対して納得できる回答を与えてはくれなかった。 ・また、独善のまどろみにハマってしまうので様々な迷信が生まれるのでしょう。 現在と比べると、多様な考え方を生む視点が(相当量)不足している状態です。 そうなると、結果、周囲の言うことに従順な人間となるか、逆に自分勝手な解釈をする自己中心人間になってしまうか、のどちらかなのでしょう。 そもそも識字率が高くならなければ、市井に小説を含めた書籍など広まるはずがありません。 しかし、近代化以降、一般人が多様な本を読むようになり、他人の立場に立って、ものを考える、というトレーニングができるようになりました。少なくともその機会は増えたはずです。 そして、世界で、社会で今何が起こっているのかを最新の小説を通して感じることができたでしょう。 最新の考えを含んだ本を知ることで、社会とのコミットメントを深め、知る由もなかった他者の様々な人間関係や様々な悩みを知り、世界認識を広げていったと言えます。 欧州では大衆が小説を読むようになり、犯罪件数が減ったという統計(データ)があるそうです。(つづく)
<考察ノート式>◇本を読む理由は人によって様々だと思います…◇その中のひとつ二つ、…三つ四つを書いてみようと思います。① 深い理解(ディープ・アンダースタンディング)② 知識の資本化③ 他人のパースペクティブの加算④ 洗脳と解除の繰り返しとりあえず、このへんを思いつきました。ひとつずつ詳しく見ていきます。本を読む理由① 世の中への理解が深まると人生が楽しくなってきます。(イメージA) 中学数学レベルの喩えで恐縮ですが… ものごとへの理解のイメージを、平面的なものから”高さ”を乗じた立体イメージに変えられる内容(やきっかけ)が書かれた本は、思考次元を変えてくれる本だと言えます。(”高さ”は、”深さ”と言い換えた方がいいかもしれません。) 理解に厚みができるため、それはそのまま(頭の中にできた)世界観の厚みとなります。ぼんやりよくわからなかったことをある統一された構造として説明できるようになります。 ひとつの思考モデルのイメージとして扱うことができるので、これらの思考モデルが増えてくると、今後のさらなる世界認識に応用することができる気がします。 世界の構造の解明は何歳になっても愉しいものです。一生ものです。 本を読む理由② 知識は資本と言っても過言ではないでしょう。そして(フルフィルメントに)生きることを成り立たせる重要なキーは資本と投機になります。 知識が蓄積されると、脳内のネットワーク綱(=クオリア)が形成され、まだ見ぬいつかの閃きの素養になります。 単純なわたしなどは、新しく覚えた言葉を実際の会話で使用できただけで、新しい自分に生まれ変わった気がしています。(大げさかもしれませんが、言語と精神と身体が強く結びついていることは確かです。) また語彙力は年齢を経ても伸ばすことができる能力だそうです。(――と、とある脳科学者が言っておりました。)(認知症にかかったら話は違ってくるかもしれませんが、)一生投資できる分野なら価値ある投資先と言えるのではないでしょうか。 そうなると脳内のネットワーク網もどんどん発達していくはずです。 (余談) 単純な記憶作業は、よく能力開発の悪手として批判されますが、意外に脳内にネットワークをつくるそうです。 ですが、できればやはり、アウトプット(発表)を意識しながらインプット(記録)していく方がよいかと思います。 これは知識の資本化と言えます。神の見えざる手(自然な需要と供給)(アダム・スミス型)。またはある程度、計画性をもった(広い)知識の投資(ケインズ型)。経済学をモデルにした知識との接し方は、比喩としておもしろいかもしれませんね。 (つづく)
なんかアブストラクト・アートみたいな空模様。もうすぐ日が暮れる。
時間が止まったかのような場所や瞬間はどこかに存在していて超現実的な世界の側面に触れてしまうことがある……その場合 この地上の隙間のどこかに存在する時間の視点を省いた世界が見えてくる――これは現実の中の現実 無意識や夢の世界だと思うphoto taken by myself in Nagoya
※ 先日、NHKで、荻野目洋子さんがG(虫)のことを先輩と呼ぶ、と言っていた。虫全般好きらしい。人類が存在するはるか昔からいる先輩だから敬意を払う…結局、害虫なので殺すらしいけど、「先輩が出た!」っていうのはおもしろいかもしれない。 ※ 生物が繁茂する季節であり、故に夥しい死が発生する。夏は、もっとも生と死のコントラストが強い季節だと思う。(道路に虫が死んでいたりするとふと思う)お盆だとか、墓参りだとか、とかく死と結びついた行事があるのも頷ける。 ※ 英語に、”(Open up) a can of worm"という表現があるけれど、これは、一つの問題に取り掛かると、別の問題がずるずる芋ずる式に出てきてしまうという意味。ものを考えるときも、似たことが言える。→事をややこしくする。状況を複雑にする。釣り餌用の虫の入ったカンから。 ※ 夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。『枕草子』 秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、からすの寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。『枕草子』 ※ 心(情)はいつ生まれるのだろうか?①虫に情はない。②魚に情けはない。③両生類(カエルなど)に情けはない。④爬虫類(トケゲなど)に情けはない。⑤哺乳類には心情がありそうだ。 あくまで推論だけど、心を形成する大きな一要因は知的活動ではないだろうか?心(高度な精神活動)を生むにもある程度の知能が必要なのでは… (余談) 虫や魚、爬虫類は、餌を与えるからよってくるのだし、命の危険がないとわかったからのんびりしているだけで、哺乳類のような高度な温情は持ち併せていないと思うのですよ。 でも、日本人的な世の中のものの何にでも心がある、という感じ方(アニミズム)も(日本人なので)よくわかるのですが…。 ※(実際あってふと思ったこと) 見たこともない虫が飛んでくるとビックリする。(分析)すると、・ 次の動きに予測がつかないものは怖い。・ それがなんの情報もない(グロテスクな)ものだと余計に怖い…・ 得たいの知れないものが自由すぎることについて考えてしまう。虫に限らず人は(集団は)こういうものをすごく恐れる。・ 感知能力だけを頼りに近づいてくる気味の悪さ (余談)哺乳動物の場合、相手方のパーソナルスペースを感じとっている。(お互いに争いが起こらないための必要善としての縄張り意識ともいうか。)相手のプライベイトにも気を遣うところがある。ところが虫には全くそれがない。いくら寄ってくるなウォーニング(警告)を発しても、まったく意に介さない。空気を読まない。自由にこちらの私的領域に侵入横断してくる。こちらが気づいていようがいまいが死を恐れていない様子も謎。(こちらが一寸の虫にも五分の魂と情けをかけているというのに…) ※虫の意識が他のもの(本能や欲求や感覚)に操られているような…、そんなところもまた怖い。 ※最後に荻野目洋子さんの虫の歌のリンクを。(276) 荻野目洋子 虫のつぶやき - YouTube(おわり)
不安定な心に直線を引いてくれるような場所はあるでしょうか。photo by myself in Nagoya
若い頃、恥ずかしかったことが年を取ると恥ずかしくなくなる。 若い頃、恥ずかしくなかったことが年を取ると恥ずかしくなる。 長く生きているとこういう変化を感じるようになります。(もちろん、死ぬまで変わらない「恥」もあるでしょうけれど。)こうした恥の意識の変容は、どうして起こるのでしょう。あくまで推測になります。・ 鈍感になる/繊細になる・ 世間体を気にしなくなる/するようになる・ 社会的な意識が芽生える・ 集団でいなくとも一人で自立して行動できるようになる。・ 自分の意見をはっきり言えるようになる・ ルックスより中身を見るようになる・ ルックスより社会的地位や年収を見るようになる・ 色気がなくなる(食い気が勝る?)・ 年齢に合わなくなる・ 面子にこだわるようになる・ 体裁を繕う・ 何かから吹っ切れる・ 何かに囚われる・ 道徳心が芽生える・ 諦念など…あと経験や状況の変化によって(恥の意識は)変わります。どちらにしても”恥の影響”は大きい…何を恥とするかによって行動規範の取り決めも変わってくるでしょう。少し分析すると①「恥をかきたくない」②「恥ずべき事はしない」恥には①と②の二種類があるようです。英語で言うと①は、embarass、②がshameだと思います。① 個人的・趣味的② 社会的・道徳的な違いだと思います。あと、何を恥とするか。どうして恥を感じるのか。その恥は適正か。その恥をどうしたいか。どう対処する。…を検証しなおしてもよいでしょう。(恥の整理整頓?)(同じ人でも年齢や環境などにより感じる恥の種類や量が変わり、振る舞いが変わることは少なくありません。)③ つまらないことを気にしない。でないと、本当にこうありたいという自分になれないでしょうし、後悔することにもなりかねません。些細な事を恥ずかしがって、せっかくのチャンスを逃してしまってはもったいないですよね。損したくはありません。 (余談) 人の”振る舞い”を決めるそもそもの要因は、案外、限定的で、”恥”もその中の一つと言えます。 (キリスト教圏では、もう一つ「原罪」の意識が社会形成に大きな影響を与えた…と思います) ですので、今の自分が持つ”恥”というものをもう少し意識し分析してみることで、今の自分の現在地を知ることができそうです。 (余談) かつて日本社会は、恥の文化として海外に紹介されたことがありました。 江戸時代などでは、個人よりむしろ「家」を重視した価値観が社会全体に浸透していました。(文化人類学上、人類に共通した共同体の形成が見られます。また未開社会の部族(間婚姻)、中国の宗族(そうぞく)制度など世界にはいまだに継続されている社会構造があります。) 日本に話を戻すと、「お家」、「〇〇家」を守ることが第一とされ、家の名誉が損われることを怖れました。武家ならば、家の名誉のために切腹する気構えだったし、散り際は武士らしい死であることが重視されました。 ご先祖様まで含んだ家族主義か、見栄の張り合いと言うのか…家の灯を絶やさないようにしています。時代劇でもよく、末代までの恥などと言うのを聞きました。 ただ勘違いされては困りますが、別に昔の日本人の価値観がいいとか悪いとかいう話をしたいわけではありません。ここでの要点は、日本人は、昔から社会的にも個人的にも恥に対してものすごく敏感な国民だったということを書きたかっただけです。 今はさすがにそういう封建的な価値観は希釈されましたが、それでも新しい種類の恥が何らかの形で人の心を支配しているのも確かです。 思った以上に個人と集団の心理の核になっているだけに、恥を触媒にして自己を反省してみるのも一興ではないかと思います。 (おわり)