つづきです。
本を読む理由④
〇思い込みから醒めたシュールな現実感が心地よい
夢から覚めるために本を読む。
「プロパガンダ教育の洗脳から解けるという快感がありますよ。」
という話を聞いたことがあります。(※これは、少年期、反日教育を受けた韓国の方の話でした。)
ほとんどの人に馴染みのないケースかと思います。(まぁ、極端すぎます。汗)
ですが、あえて広義に考えてみるとどうでしょう。
たとえばこれを、いくつかの”思い込み”から脱っした…くらいの意味に捉えてみたら…
その場合、本を読む理由につながっていきそうです。
我々は皆、生まれてから死ぬまで何らかの教育を受けています。
それは、ある程度の「刷り込み」、「思い込み」、を形成していきます。
深度の違いこそあれ、ある程度の「洗脳」と言えないでしょうか。
(まぁ、そういう極論化した「洗脳」という意味です。)
思想の形成は環境による影響がかなり大きい…
自分の性格や思考パターンも家庭や教育、母語の在り方で大いに影響を受けます。
宗教、伝統など社会的な営みも然り。
自力で結論に達したと思っていることも、実はまわりから促された結果だとしたら…
これも極端ですが、…
今、思い込んでいることは全て社会や誰かが刷り込んだ夢みたいなもの…なのかもしれません。
(思い込んでいるだけなので、幻、夢みたいなものです。)
実は夢の中に生きている?
究極的には~的なことです。
◇ そして、”その夢を深い深層から覚ましてくれるもっとも有意義な媒体が本”なのかもしれません。(本; 書き手がもっとも他者に引きずられず、もっとも深堀りして書き上げることができる媒体)
人生長くなるほど思い込みが多く強くなります。
長年連れ添った(相棒である)思い込みが解体されることはある意味ショックなことです。
ですので戸惑いを感じたり、事実を受け入れられずにいることだってあります。
しかし、そこに新鮮な驚きや覚醒的快感を経験できたなら、それが人生の味わいになることがあります。
結局、生きているとなんらかの洗脳と解除の繰り返しの道のりになっていくのですから…
ただし、時に、その体験がシュールな味わいになっているかもしれませんが…
本の読了とは(たとえるなら)、朝の目覚めである。
(もしくは、本の読了とは、シュールな朝の目覚めである。)
本を読む醍醐味がここらへんに隠されているような気がします。
もちろん、(本に限らず)生きていると、様々な(新しい)経験をすることによって、それらの思い込みから脱することがあります。または新しいものへアップデートされることがあります。これまでの枠組みとその外の存在との関係を理解し整理する経験です…そんな時、目が覚めたような覚醒快感を覚えることがあります。人はこの時、新しい視点と展望を見いだすと言っていい。
ですので、ここではその最たる道具が本というくらいの意味です。(ですが本にはそれを意識的に選択するという行為で仕掛けることができますね。あとは偶然のサイコロを振ることができる。)
(余談)
そのため本は知的快感を与えてくれるものがよいと思います。
学習が本能になるほどの本と出会うことを夢見るくらいで丁度いいのではと。
そんなまだ見ぬ書籍がこの世界のどこかにたくさんあるはずです。
そんな知的好奇心が後天的本能(造語です)と言えるほどのものになる本を尊敬します。
生きているうちに出会わなくてはなりません。
そして人類の残した莫大な叡智を思うとき、きっと出会えるものだと確信できているものです。(読む人の読解力を必要とする書籍もありますが…)
そう思えば、誰もが未来の本にワクワクできるのではないでしょうか。
ということで…
人は、すがすがしい覚醒を(たとえ一時的でも)求めているから本を読む。
で、〆ます。
(少しだけつづく)