(ノート形式)

 

 〇 小説を読むことは良質の比喩に多く触れられる機会である。

   ・ 小説以外の書籍ではこうした機会は減る。

   ・ 比喩とは。

   ・ そもそも人類は未開文明時代、比喩に囲まれた日常をおくっていた。

      →アニミズム。神の誕生。芸術の誕生。

    現実と比喩が混沌とした世界観。

    精神と比喩が一体化していた時代と言えないか。→信仰へ。

 

  ・ 比喩に満ちた生活を思う。

  ・ 私事だけれど、比喩をたのしく生涯に導入したい、と思った。

 

 小説中、やたら、~のように、という表現が出てきていた。

 

 

 ひょっとして、村上春樹が一貫して小説でやりたかったことは、こうした未開文明的な言語表現と現代的な言語表現の入り混じる言語世界を(物語として)表現することだったのかもしれない。

 

 

  ・ プリミティブな絵画の要素を小説に導入する気味?

 

 

 

 

 〇 登場人物、峠の向こうに住む免色さん。

  ・ 13歳の秋川まりえが実の娘かもしれないことを主人公に明かす。

  ・ 彼女に異常に執着している。

  ・ しかし、娘であるかどうかを確かめようとしない。

  ・ そうかもしれないし、そうではないかもしれない、という存在にとどめている

  ・ その意味。

  ・ 新しい関係ともとれる。小説とは新しい関係を描くことでもある(、と思う)。

  ・ 遠目で観察するなど距離を置いてきたが(絵描きの)主人公を通して近づこうとする…

 

  持説

小説とは、新しい(まだ名のない)関係への可能性に希望を込めたもの。

 

 

 

 

 

 

 

 〇 『グレート・ギャツビー』(スコット・フィッツジェラルド)や『ロリータ』(ナボコフ)のオマージュ。

 

   ・ 反対側の峠にある家。夜になると灯が見える。

      (『グレート・ギャツビー』の表現を連想)

   ・ 少女に接近するために、美しい叔母に近づき、結婚すら計画している疑い。

      (『ロリータ』を連想)

 

   ・ 手を伸ばしても届かない葛藤、こそ純文学の源である。

 

   ・ 闇に落ちた精神は完全に負けはしない。(ヘミングウェイなど実存文学の影響)

 

   ・ 神は死んだ(byニーチェ)後の生き方。所詮、それしか頼るものがない。

 

 

   (余談)

 村上文学の場合、それに加え、何が起こっても(たとえ世界の終わりがこようとも)今まで通りのやれることをやっていくしかないという姿勢がみられる。

 

 

 

 〇 例のごとく小洒落れた表現や横文字がたくさんでてくる。

     くよくよ(なよなよ)した憐憫や絶望を回避する効果があるかもしれない。

 

   ・ 村上春樹の小説はシティ派の実存文学であり、

       魔術的リアリズム(マジックリアリズム)文学でもあるか。

       ただ舞台は日本だが、外国から輸入された思想感は否めない。

 

 

 〇 イデアメタファーをキャラクター化(擬人化?)

    発想が(直で)ユニーク

 

 

 〇 4巻まであるが、ストーリーが急速に収束。

   ・ 風呂敷を広げ過ぎて収拾がつかなくなったのだろうか。

   ・ いつものことだが、多くの伏線はきちんと回収されない。

      (ここにあえて深みを覚えるかは人によるでしょう。)

 

 

 〇 南京大虐殺に関する話が出てくるが賛否ありそう。

 

   ・ 南京大虐殺自体が正確な情報の足りない(謎の多い)事件なので、

      もっと検証が必要だと思う。(教科書では、~事件と表記)

   ・ 何が無知なことなのか決着をつけてほしい。

   ・ その上で反省し謝らなければならないところはそうしなければならないし、

     やってもいないところを中国共産党が捏造(+米国黙認)しているのなら、その部分は

      不当であり、事実を白日に晒すことが優先されることになる。

   ・ そこがあやふやでは、混乱をきたすだけ。それをはっきりさせないと政治利用される。

   ・ ナチスと同じ、という考えは日本を見誤る。

 

   ・ この点、どうなのだろう。作者はどのくらい深く調べたのだろうか。

 

 

 〇 マジック・レアリズム

 

   ・ 超不自然・不思議な事件が普通に起こる。

   ・ ありえない現象が日常に溶け込む。

   ・ 日常にひとつだけありえない存在が実在していて共存している。

   ・ 具体的には、絵に描いてある騎士団長がイデアの形象として現れるなど。

 

 

   (村上春樹作品の特徴)

 

 

 

 

 

 

 (目に留まった言葉)

 

 フランツ・カフカは坂道を愛していた。(『騎士団長殺し』第2部(上)

 

 

 

 ・ 坂道を歩くたびに何か感じ入るようになるなら、価値ある一文か。

   (何か感じるものがあるか、少し試してみるだけでも…)

 

   詩的喚起を坂道から感じ取るようになるかもしれない。

 

 

 「たとえ一本の箒だって、私はそれを音楽で克明に描くことができる」と豪語したのはリヒヤルト・シュトラウスだった。p.149 (『騎士団長殺し』第2部 還ろうメタファー編(上))

 

 

 

  箒の動きさえ、音楽にできると…

  天才が言いそうなセリフだが…

  すげ。

 

  (願望)

 

  それができるなら料理や受験勉強の様子なども音楽にできるのだろう。

  草むしりや居眠りなどの日常にある雑事や平凡な生活態度の

  多くを音楽で克明に描いてほしかったな。

 

  

 

 

 クロード・ドビュッシーは「私は日々ただ無(リアン)を制作し続けていた」とどこかに書いていたが、…p.92(『騎士団長殺し』第一部顕れるイデア編(上))

 

 

  ・ 無(リアン)というものが、日本人の持つ無の概念と同質かは不明。とはいえ無の魅力へ向かうベクトルは外国にもありそう。

 

 

 自分が自由な人間であることを証明するために、何か、馬鹿げたことをやってみるべきなのかもしれない。p.261(『騎士団長殺し』第2部 還ろうメタファー編(上))

 

 

 目から鱗。

 

 

 余談

 

 馬鹿げたことが素晴らしいことになる場合、人はそれをどう評価するのだろう。

 それは相変わらず馬鹿げたことなのか。

 いや、そういう評価にはならないはず。大抵が素晴らしいこととして評価されるに違いないのではないか。

 なぜなら、それが自由な人間であることを証明し、担保することに成功しているように見えるから。少なくともそうと信じたいのだから。

 人(特に若者)は自分の本質は自由であると信じているから。

 

 この世にあるエンターテイメントなどはこうした心理から生まれている?

 

 

 

 

  (おわり)