SNSで実名も容姿も知らない多くの人たちが繋がる世となって久しい。
しかし、よく考えてみると我々はいったい誰と繋がっているのだろうーー
そして、彼等彼女等と繋がっている自分とは誰なのだろう――。
タブレットや手許のスクリーンの向こうにいる存在である影たち。相手のアカウントにお邪魔し「おもい」や「かんがえ」を拝見し、「いいね」や「リツイート」等する。テキストで会話し、ツイキャスし、とにかくなんらかのつながりをつくっている。
しかし多くのケースできっとお互いに、Who are you―?(あなたは誰?)の部分は否めない。
ひょっとしたら、(自分自身にも)「あなたは誰?」と自身のアカウント名・HN(ハンドルネーム)に感じることがあるかもしれない?
21世紀になって21年以上経年した現在、地球人はネットでお互い本名とは別(人によって複数)の名を持ち交流する。
それは年齢も性別も国籍も超える。
ハンドルネームは、一回きりしか使わないかもしれないし、長く使用したり、途中で改名することもある。ひょっとしたら一生大切にするもうひとつの名(+人格付き)として墓まで持っていくこともある。またネットの中に半永遠に情報として残るとも言える。USBに保存すれば1000年後、誰かがその記録を発見するかもしれない。死ぬまで本名とは別の異名を手離さず別の自分と付き合っていく人もすでに存在しているだろう。
自分の中の複雑性を別個の人格として分人化したり、個人情報の公開に制限をかけることにより逆にある部分の個性に自由を持たせたりする。また自分と自分、もう一人の自分と他者との関係性を整理している。ひと昔前なら複雑な心理は捨て置かれていたが、今や何らかの意味を含ませながら(ある程度)共存可能となった。
(ネットでの関係は解体されることはしょっちゅうだし、再形成されることも頻繁にある)
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ある日、私は街へ出た。いつものように多くの通行人たちとすれ違い、そこにいる名も知らない人たちに別名があることを思う。ひらひらと儚い存在で歩いていく群衆に秘密めいた別の顔があることを思うとぞっとしないでもない。(本人たちも気づいていない。深い人格の世界への窓口かもしれない)
それにより表世界とは別の名と性格(当然、振る舞いも)がネットワークをつくるかつてない複雑な関係性の網を抽象化したものが現在の”社会”という概念になる。
「まぁ、これが現在のリアルなんだろうと…」
その繋がりはおそらく大半の人がリアルの中の知り合いにも、恋人にも伴侶にも教えていない。ネットの中にも、あるレベル、ある期間での意思と意思のつながりの保存性がある。
リアル世界のまわりの人たちに知られえない別の世間体が平行して存在しているとも言える。
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シェークスピア劇で見られる、変装すると人格まで変わる、というあれを思い出す。(そうでなくては閉鎖的な現実の生活に耐えられないのかもしれないのだが…)人々は、しれっと複数の裏の顔を持ち、今日も私とすれ違っていった。
いや、もしかしたら、ネット上で繋がっている知り合いなのかもしれないが。そうだとしてもそれはまたその人の別の人格なのかもしれない。
(おわり)