令和4年(2022年)4月28日

歩いた時間  3時間20分     歩数19002歩

 

2月28日中津川宿高札場跡から三条大橋に向かって歩き始め、4月24日無事到着しました。次の目的地江戸日本橋に向けここから出発します。

中津川宿高札場跡    説明板によれば

『この(制札(高札)を建てた場所を高札場といい、中津川宿での高札場は茶屋坂にありました。 その位置は、この案内板に向って左約40m隔てた道路左側にあり、高札は道に面して掛けられていました。 高札場に掲げられた高札は、年代によって、内容、札数等はそれぞれ異なりますが、ここに掲げられてあるものは、正徳元年(1711)に公布された高札の複製で、その文言は中津川宿本陣の記録に残っているものを今様に読み下し文にしました。 どうか昔を偲ぶよすがとして下さい)』

 

左の階段を上ります。

 

歩道橋を上ります。

中津川宿の中山道が見えます。

 

歩道橋を渡り中津高校側に少し上り、右の坂道を上ります。

 

坂道の途中に右に上る石畳みの細道に入ります。

 

坂を上りここに出ます。

芭蕉の句碑

山路来て なにやらゆかし すみれ草

説明板によると

『貞享2年(1685年)3月27日ころの吟、前書きに「京都より大津に出る道山路をこえて」と「甲子吟行、別名野ざらし紀行」にある句で、碑は大津出身の菅井家先祖が、ここから見た宿場のたたずまいが近似していることから、常にその情景を孫子に語り伝えてきました。

三代菅井嘉兵衛高伯(たかあき)のとき郷愁にふさわしいこの秀句を選び、安永2年(1773年)芭蕉八十回忌に父祖の慰霊を兼ね、中山道に面して建てられましたが、30年前に保護するため道筋からはずし、昭和53年(1978年)3月、昔の面影を残すため、この場所に移しました』


旭が丘公園

公園内を散策してみました。

経王書写塔  

赤い鳥居の隣の休憩所の脇にありました。 説明板によれば

『この台石の下には、法華経の経文を一字づつ約3㎝の丸い小石360個に墨で書いたものが納めてあります。  江戸時代には文盲が多く、この塔を拝むと読経したのと同じ功徳があるとされ、それらの人々をはじめ、中山道を旅した人の安全を祈願して、愛知県稲武町の古橋源六郎義伯(よしあき)に嫁いだ三代菅井嘉兵衛高伯(たかあき)の長女伊志が夫の死別後、盲目になり、髪を剃り落とし仏門に入り、一字一石心を込めて法華経を書上げ、実家所有の中山道沿いの土地に安永8年(1779)に建立したものであります。銘文は手賀野松源寺の8世菴礼和尚が認めたものであります』

 

公園の中にある「石仏 三井寺観音

説明板によれば

『この変哲もない石仏は、むかしから土地の人は俗に歯観音といって虫歯の痛みを治す仏と伝えられ、今でも参拝者がいるようです。それはおそらく容姿から想像した迷信であろうと思われます。この姿は滋賀県大津市の天台宗寺門派総本山円城寺にある観音堂の本尊如意輪観世音菩薩の座像を菅井家の先祖が、ふる里をしのぶよすがとして文化年間(1804~)石に刻ませたもので、背を大津に向け遥拝できるように安置してあります。 ちなみに、三井寺は別名圓城寺附近の地名が 「三井」 と呼ばれていることから、広く通り名になったものと云われております』

 

公園内の石仏群  木々に囲まれ昼間でもうす暗い所でした。

 

公園内に「はだか武兵」と書かれた幟があります。

はだか武兵(ぶひょう)の祠

ちょっと長くなりますが、中津川では知らない人はいないという話を一つ。

江戸時代、中山道をふんどし一つで歩いていた雲助(江戸時代荷物の運搬や駕籠かきを仕事にしていた人)の武兵は、須原の神社で白髭の老人と出会い、実はその老人が疫病神であることを知ります。老人は「兄弟分になれば、お前が病人のそばに行くだけで、わしは逃げて病が治る」と言い、武兵はそれを面白がって契りを交わしました。その後、武兵が病人に近づくだけで病が治るという噂が広まり、「はだか武兵」として評判になります。あるとき、長州藩の姫君が重い熱病にかかり、医者も手をこまねいていたところ、武兵の話を聞いた家臣たちが彼を呼び寄せ、一晩姫と同じ部屋に入れました。翌朝、姫の病は嘘のように治り、家老は褒美を申し出ましたが、武兵は「何もいらぬ」と断りました。姫の一行は無事に旅を再開し、武兵の名はさらに広まりました。今も祠の前にある舟形の石を年の数だけ叩くと病除けになると信じられ、多くの人が参拝に訪れています。
この話は天保3年から4年(1838年)頃にあった話です。

 

階段の上に天満宮があります。

天満宮は、学問の神菅原道真をお祀りしています。

説明板によれば

『間秀矩が茶屋坂、淀川、新町の天満宮氏子有志に図り、慶応3年(1867)に儒学者菅原為栄に依頼、維新の大綱が定まった翌年に除幕しました。
 江戸時代に起こった各論に対して 「純粋な日本独自の国学論が必要、それは我国の奥深くにあるのではないか・・・」 と更に学究するよう示唆しております。
 作者為栄は、菅原道真の支流であり、公郷で明治政府になり、子爵に列しております。園内にある秀矩(ひでのり)碑建立のときには、五條に姓を改め、
  あさひのおか この石文に曇なき こころのあとを いまもみるかな
と、長歌を手向けております』

 

 

 

 

公園内の歌碑

秀矩歌碑(秀矩は間秀矩のこと) 説明板によれば

くにのため 死におくれとる 老の身は 書(ふみ)の林に すてむと思う   秀矩
 作者の5代間半兵衛秀矩は、酒造業山半(やまはん)十八屋の主、22歳で家を継ぎ、中津川宿の問屋と年寄役とを兼務し、幕末平田門人になり、郷土における尊王思想家の一人として東西に活躍、明治維新政府に召し出され神祇官に就く。明治4年(1871)に病を得て帰宅、養生の効なく同9年1月23日に55歳で死去、同18年生前の功により神祇権少教正の職位が追贈されたことを6代元矩が記念し、13年祭に当たる同22年祥月を繰り下げ、実りの秋9月23日この碑を建てました。
 小説 「夜明け前」 には、秀矩は蜂谷香藏、また姉婿靖庵は宮川寛斉の名で描出されています。

 

 公園内の伏見稲荷神社

 

中山道に戻ります。

この辺りの中山道は、三色の砕石でモザイク模様に舗装されていますので、分かりやすい。

尾州白木改番所跡碑

尾張藩の直轄地であった木曽山から採伐した材木の輸送は、重量材(丸太類)は木曽川を利用して流送し、軽量材木類は牛、馬による駄送の方法がとられていました。
木曽川筋には各所に「川番所」が、中山道には「白木改番所」が設けられ、抜け荷の監視と量目の点検など厳しい取締りが行われていました。
これ等の施設は明治4年(1871年)廃藩置県によって廃止されました。

 

道祖神

村の守り神として、悪霊や疫病の侵入を防ぐ役割を担っていました。

時代とともに、縁結び、旅行安全、子授け、安産、夫婦和合、子孫繁栄、家内安全、商売繁盛など、多様なご利益があるとされるようになりました。

特に、旅の安全を守る守護神としても信仰され、道案内や道標の役割も果たしていました。

秋葉大権現 火災・火除けの神様です。他に、開運・運気上昇、家内安全、厄除けなどのご利益があるとされています。

 

ここにも道祖神  高圧鉄塔左奥の三角形の山の頂上が苗木城址です。

(画像を拡大)

中山道案内板

この先で国道19号線の地下道を通ります。

 

国道19号の下を通ります。

 

ここに出ます。

 

坂道を下った右側に

 第一用水上金小水力発電所があります。 

住宅地を流れる用水を利用した出力0.5KWの小さな発電所です。

中山道はここで左に曲がります。

 

地蔵堂橋を渡ります。

 

「子野の石仏群」

階段を登ると沢山の庚申塔、南無阿弥陀仏、子供を抱いた観音様などの石碑群があます。

説明板によれば 「「昔このあたりに地蔵堂があったといわれていますが所在は明らかではありません。中山道を通る旅人の心を和ませたといわれるしだれ桜の名木が境内にあり、街道まで枝が延びて趣があります。
ここは無縁の石仏を集めた所とも伝えられ、元禄七年(1694)の庚申塚や地蔵、観音像等が数多く祀られています。
また、文政五年(1822)の「南無阿弥陀仏」と独特な文字で書かれた高さ約2.0mの 徳本行者の名号石があり、生き仏と言われた彼が文化年間(十九世紀初め頃)この地に逗留して、「称名念仏 」を布教したことを偲ばせます。 中津川市教育委員会」

 

観音菩薩像と弘法大師像          南無阿弥陀仏名号碑など多数の石仏

 

徳本行者の名号石  独特な文字で「南無阿弥陀仏」と刻まれています。 

地蔵堂の大枝垂れ桜を後にして中山道を進みます。

 

子野橋を渡ります。

 

道路を横断した右側に

槙坂の登り口にある休憩所があります。       

 

 

休憩所の向かい側にある古民家佐伯家  

  

物凄く急な上り坂の始まりです。坂の途中で振り返ると中津川市街が見えます。

槙坂  距離は短いので助かりました。凄く急な坂道でした。

 

槙坂の頂上に神社があります。

覚明神社

尾張出身の覚明行者は、木曽御嶽山の登拝を一般の人々に開放することを目指し、軽精進による登拝を提唱しました。天明五年(1785)、賛同者と共に登拝を強行し投獄されるも、翌年には黒沢口登山道の改修にも着手。志半ばで病に倒れ、二の池を見下ろす高台で69歳の生涯を終えました。彼の遺体は九合目半の覚明堂前に埋葬され、霊神場として祀られています。没後、その功績が認められ、寛政四年(1792)には軽精進が正式に許可され、後に普寛行者によって王滝口登山道が開かれました。

天明5年(1785)5月5日に木曽御嶽山を開くため中山道を通り、ここ槙坂の茶屋で泊まったおり、主人佐次兵衛一家が皆でもてなし、その感謝のしるしに、湯呑、数珠及びちんちん石(鉦鼓)を記念に贈ったと云われています。その開山を記念して茶屋の位置に覚明霊神を祭ったのがこの神社の始まりです。

 

この先は下り坂

下り坂の途中の右側に

馬頭観音があります。

 

子野一里塚跡

江戸まで84里目の一里塚です。

この先三五沢橋を渡ると急勾配の坂道になります。

 

 

三五沢橋を渡ります。          急勾配の坂です。与坂と云います。

元気のいい3人の外国人が私を追い抜いて行きました。

日本語で「元気だねー」と言うと意味が分かったのか(?)笑っていました。    

弘法大師三十六番札所 祠の中に不動明王像と弘法大師像が祀られています。

ここまでの上り坂は十三峠にもないかなりな急勾配でした。

距離が短くて助かりました。

 

与坂立場跡

中津川宿から落合宿に行く途中にあった立場。、名物茶屋越前屋は「三文餅」を商っていました。三文餅」?地元の私も知りません

 

与坂立場跡で先ほどの3人の外人さんが休憩していました。

「こんにちは、Which country are you from」と 聞いてみました。

「 ・・・ U.S・・・・?・・ very ・?・ hill・・・・・?」

アメリカのどこかの州から来たそうで、この坂はきつかったと言ってる様でした。

私が石に腰掛けて休憩していると「ガンバッテクダサイ」と言って坂を下って行きました。

日本語話せたの?

 

上り坂が厳しかっただけに下り坂は転げる様に下りました。

与坂から落合宿方面の景色。湖のように見えるのは木曽川です。林で見えませんが左に落合ダムがあります。湖のように見えていたのはダムによって出来た調整池です。

 

カラー舗装の道をどんどん下ります。

 

バス停「与坂」を左折し国道19号線下の地下道を通り直ぐ右折します。

                                       

水戸浪士熊谷三郎の墓 案内板    案内板に従い墓に向かいます。

 

 

水戸浪士熊谷三郎の墓                    説明板によれば  幕末に水戸藩内一派「天狗党」が、攘夷貫徹を訴えるために、京都をめざし落合宿 を通過したおり党紀に違反した熊谷三郎 が惨殺された。
 それを哀れんだ地元の人々により西山墓地に葬り墓碑を建て供養した。

中山道に戻ります。

 

散歩中の方が教えてくれた近道を通ります。

   

横手橋渡ります。            民家の庭先の案内板に従い杉松稲荷へ。

 

鳥居の右前に正一位杉松稲荷大明神碑があります。

 

中山道に戻ります。

中山道落合宿の風景(2022年12月撮影)

 

  

左折して坂を上ります。 坂の上におがらん神社があります。

          

おがらん神社(落合五郎兼行之城跡) 

落合五郎兼行は平安末期、木曽義仲の家臣として美濃口の守りを任され、落合に館を構えたと伝えられる。『平家物語』にも登場し、出自は中原兼遠の子または一族とされるが、生没年は不詳。兼遠の子には樋口兼光・今井兼平・巴御前・兼行がいたとされ、義仲の有力武将として記録されている。館跡とされる「オガラン」周辺には「小姓洞」などの地名が残るが、居住の確証はなく、発掘調査でも痕跡は確認されていない。現在は愛宕神社や石灯籠、顕彰碑があり、毎年8月に例祭が行われている。 

 

  

落合五郎兼行神社              落合五郎兼行之城跡碑

 

山之神神社、天神社、愛宕神社

 

 

「おがらん橋」を渡り左折し 曲がりくねった急な坂を下ります。

(2022年12月撮影)

落合宿に入ります。

落合宿に入ります。

振り返ると遠くに与坂が見えます。

ここは枡形になっています。 

左の道標には「右至中仙道中津町一里」と彫られています。

右の常夜灯は文化12年(1815)建立の秋葉様の常夜灯です。

 

善昌寺の門冠の松  樹齢450年と言われています。

善昌寺(曹洞宗)の山門を覆っていたことから「門冠の松」と呼ばれています。

後方に恵那山が見えます。

落合宿助け合いの大釜

落合宿助け合いの大釜

 中山道 落合宿 落合宿助け合い大釜(由来)

 文久元年(1861)、皇女和宮の通行時には約2万6千人が落合宿を通過し、住民は竃を絶やさず温かく迎えたと伝えられています。展示されている大釜は寒天づくりに使われたもので、容量は1000L以上。現在は「落合宿助け合い大釜」としてイベントで活用され、「千人キノコ汁」などのふれあい活動を通じて、旅人への礼節の伝統を今に伝えています。隣接する井戸とともに、防災にも役立つ設備です。
平成17年3月  落合まちづくり推進協議会

 

落合宿本陣跡

落合宿本陣井口家は、代々本陣を勤めると共に、問屋・庄屋をも兼務し、宿の業務を運営を行う指導的な家柄で、苗字帯刀を許される礼遇を受けました。

明治天皇御巡幸、また和宮御降嫁に際し、御小休所となっています。

岐阜県17宿の中で、唯一当時の姿を留めている大変貴重な建物です。

この建物は文化15年(1818)に建てられました。

明治14年に今までの板葺き平屋の建物を、土蔵造二階建てに立て直していますが、玄関から上段の間までの内部、加賀藩の前田家から火事見舞に拝領したという正門は昔のままです。

 

落合宿脇本陣跡    本陣の向かいにあります。

脇本陣を勤めた塚田家は、尾張徳川家給人の山村氏(木曽方)の庄屋と問屋を兼ねていました。

 

落合宿説明板の概要

落合宿は中山道44番目の宿場町で、江戸から約323km、京から約205kmの位置にある。町は横町・上町・中町・下町に分かれ、約390mの長さに75軒が並んでいた。井口家が本陣、塚田家が脇本陣と庄屋を務め、宿場の両端には桝形、中央には用水と常夜燈が設置されていた。1804年と1815年に大火に遭い、再建された本陣や古民家に江戸の面影が残る。2010年には石畳道や常夜燈などが国指定史跡「中山道」に追加された。

 

 

本陣横の秋葉様の常夜灯

 

落合宿を、中山道がにぎわった当時の雰囲気に近づけようと、地元の落合まちづくり推進協議会が、明治時代に神社や寺の敷地に移された三基の常夜灯を、百四十年ぶりに街道沿いへと移設し直しました。

 

 

土蔵のある屋敷                                                         土蔵の前の秋葉様常夜灯

 

枡形にある秋葉山常夜灯

説明板によれば

落合宿には、昔、防犯を兼ね各戸順廻りの燈明番により火の災難から救われようと祈願しながら、ほのかな明かりがともされていた4基の常夜燈がありました。
 現在は、4基とも移設され、この寛政4年(17922)に建立された上町の立派な常夜燈はすぐ前の道の中央にあったと言われています。他所に移されていた常夜灯も140年ぶりに街道に戻されました。文化年間(18世紀はじめ)に2回も大火に見舞われたことは、落合宿に多くの常夜燈があったことが要因と考えられます。 (中津川市・中津川市観光協会)

 

この先で県道を横断します。

落合宿の高札場跡の石碑

県道を横断した所にあります。赤い橋は中央自動車道です。

 

高札場

令和4年(2022)、落合宿保存整備委員会が、正徳元年(1711)に建てられた高札場の跡地に、高札場を復元しました。

 

「中山道歩き 改定版 中津川宿から馬籠宿②」に続く