令和4年10月15日

歩いた時間  10時間50分       歩数  57,298歩

 

昨夜は、全国旅行支援の割引でお安く宿泊出来ました。クーポンも3000円頂きました。宿泊料金が安くなった分をホテルの近くの「日高屋」で食事。生ビールが美味かった。クーポンも埼玉県でしか使えないので近くのドラッグストアでビタミン剤を買いました。

今朝は3時に目が覚めてしまい、昨夜買い置きしていたサンドイッチで朝食です。

今日の道順、史跡などを再度グーグルマップでチェックして、5時にホテルを出発しました。

 

 

ホテルニュー埼玉を出発します。     暗くて道を間違えて神明坂に出ました。

                     ここも中山道だからこのまま進みます。

 

 

焼米坂                    焼米坂の碑

江戸時代、新名物やき米の看板を掲げ、中山道を通る旅人に、籾のまま炒った米をついて殻を取って売る茶店が数件あり、焼米坂名もそこから付けられました。また、江戸時代には旅人にとっては難所であったそうです。

坂を下り、住宅街を通ります。近くに小学校があるのに歩道が極端に狭い。

住宅街を通り田辺医院」の先にある「信号交差点」を右折し「ツルヤ交通」前を通ります。

中山道を歩いて旅する人には、都市部は案内標識が少ないので本当に困ります。

 

英泉の浦和宿の絵

 

 

「六辻」交差点を直進し次の信号を左折します。300m程進むと右側に熊野神社。

 

 

高架道路の下を通ります。    すぐに「一里塚の跡」と「弁財天」があります。

 

 

隣にある石碑に彫られている由来よれば、 10分程進むと左側に宝蔵寺があります

この辺は湿地が多く水難から守るために   日蓮宗のお寺です。

水神である弁財天をお祀りしたそうです。

 

                          

「錦町3丁目」信号交差点を直進します。 「交番」横に蕨宿の道標と木戸跡

 

 

中山道蕨宿景観建造物です。           歴史のある建物 

 

                      

地蔵の小径                壁に「薬」の看板のある建物                  

この「萬寿屋」さんは、昔は「茶店」で

今はせんべい屋さん。     

10代続いている老舗だそうです。                     

 

 歩道貼られたに中山道宿場絵のタイル   蕨宿本陣跡

 

蕨宿本陣跡説明板によれば、「蕨宿は江戸時代に中山道第二の宿駅として栄えたところである。
 慶長11年(1606)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣問屋名主の三役を兼ねたと伝えられる。
 その後、その役は子孫に受け継がれ明治維新まで続いた。
 蕨本陣の建物は、今は同家に残る本陣絵図面などによって知る外はないが、公家大名などが休泊し、文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折には御休息の場となり、ついで明治元年(1868)同3年には明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。
 現在、岡田家には古文書、古記録、歴史的遺品など、わが国近世交通史の研究に重要な資料が多数保存されている。 (蕨市教育委員会)」

向かいには岡田五郎兵衛の本陣があり、この2つが蕨宿の本陣でした。ここには、老中水野忠邦松平加賀守なども宿泊しました。

 

 

蕨市歴史民俗資料館                蕨町道路元標

 

 

 蕨市歴史民俗資料館分館             江戸側の木戸址

 

 

中山道蕨宿道標 ここまでが蕨宿。     日本橋まで18kmの表示

ここから国道17号に合流します。

 

ロイヤルホームセンター(少し手前にロイヤルホストがあるので間違えないように)が見えたらローソンの手前を左折します。100m程進み「FUTON NO SUZUKI(布団屋さん)の角を右折、住宅街の狭い道を進み、さらに100m程先を左折し50m程で広い道に出ます。

 

 

そこを右折し、              菖蒲川を渡ります。

 

渡り終えたら川沿いに右折し50m程進みます。

 

(有)稲葉運送さんの角を左折します     T字路を左折します。

                  (戸田渡船場跡を見て再びここに戻ります)                

 

水神社の説明板によれば、

「 創立など詳しいことはわかりませんが、正面の「水神宮」の碑には寛政八年

(1769)の銘があります。
  古くは荒川の端にあったもので、新堤防ができてから移され、川岸に住む人々の氏神様のようになっています。
  境内の正面には、「水神宮」や「船玉大明神」(船の守り神)と刻まれた大きな石碑が鎮座しています。また、「山王大神」や、茨城県の大杉神社から勧請した「大杉大神」(航海安全の神)などの石碑も合祀されています。
  この神社の祭礼は7月14日15日ですが、最近ではその日に近い日曜日に行われています。昔は、その年にはじめて採れたキュウリをこの水神社に供え、この後に荒川に流してからでないと泳ぐことができないとされていました。

   平成8年 戸田市教育委頁会」

 

 

「戸田橋(東)」を右折し歩道を登ります。  中山道戸田渡船場跡と説明板

戸田の渡し説明板によれば、

「この荒川には江戸防衛の意から橋は架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。これが中山道 戸田の渡しです。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次の蕨宿の間にあり、交通の要衝でもありました。
  この渡しは、資料によると天正年中(1575~91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保13年(1842)では家数46軒、人口226人でした。その中には、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8人、小揚人足31人がいました。船の数は、寛保2年(1742)に3艘だったが100年後の天保13年には13艘に増えています。
 やがて、明治8年1875)5月には木橋の戸田橋がついに完成、「戸田の渡し」が廃止となりました」
 <戸田市教育委員会の案内より抜粋>

 

英泉の蕨宿戸田川渡の絵

 

この先は行き止まりの為先程のT字路を通過して

 

荒川の土手への階段を登ります。     荒川に架かる「戸田橋」にでました。

                   

 

埼玉県から東京都板橋区に入ります。   橋を渡った先に歩道が無いため交番横の        

                    階段を下り、17号線の側道を進み、           

                    「舟渡」交差点に合流します。

 

 

日本橋まで16kmです。         新河岸川の「志村橋」を渡りました。

 

「志村坂下」交差点の先で国道17号から左に曲がり中山道に入ります。

 

「志村3丁目」交差点で再び国道17号に合流します。

「志村3丁目」交差点   日本橋まで14km

 

 

歩道橋左下にお地蔵様があります。    あちらの中山道に渡りたいけど遠くの横

                    断歩道まで行って横断し戻ります。

 

都営三田線のガード下を通ります。    「すだじい」の木(板橋区の保存樹木)

ガードを抜けたすぐ左が清水坂公園。昔は清水が流れ出ていたそうです。

 

清水坂の碑と説明板

説明板によれば、「 日本橋を旅立ち 旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂,地蔵坂,清水坂と,時代とともにその呼び名を変えました。この坂は急で,途中大きく曲がっていて,街道で唯一富士を右手に一望できる名所であった と言われています。坂の下には 板橋・蕨両宿をつなぐ合(あい)の宿があり,そこには 志村名主屋敷や 立場茶屋などがあって,休憩や 戸田の渡しが増水で利用できない時に控えの場所として 利用されていました。このあたりは 昭和30年代頃までは 旧街道の面影をのこしていましたが,地下鉄三田線の開通など,都会化の波によって その姿を変えました。 平成十二年三月  板橋区教育委員会」

 

清水坂を上った所にある道標と庚申塔

中山道から霊山である富士山や神奈川の大山に向かう道が分岐する場所でした。向かって左側の道標は寛政4年(1792年)に、右側の庚申塔は万延元年(1860)に建てられたもので、江戸時代の交通や信仰を物語る上で貴重な文化財です。

 

この先「志村坂上」で17号線に合流しました。

 

次の「志村一里塚」交差点に巨大な一里塚がありました。

志村一里塚(北塚)

志村一里塚(南塚)

感激!!

開発の進んだ東京にこんな立派な一里塚が残っていました。

志村一里塚 説明板によれば、

「江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(1604)2月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、5間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)の塚が江戸日本橋を基点として一里(4km弱)ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。
 志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第3番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830)の 「新編武蔵風土記稿」 では 「中山道往還の左右にあり」 と紹介されています。
 幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年(1876)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和8年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出を防ぐ工事が施されて保全され、現在に至っています。
 今日、現存する一里塚は全国的にも非常に稀なもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の貴重な遺跡として、大正11年(1922)に国の史跡に指定され、昭和59年に板橋区の史跡に登録されました。  

(板橋区教育委員会)」

 

一里塚の隣にある齋藤商店 

齋藤商店は明治22年(1889)に当地で原木商として創業しました。郊外の独立住宅の趣を呈する近代和風建築で、近接する志村一里塚と一体化したランドマークとして親しまれています。建物は、昭和8年(1933)の中山道(現国道17号線)拡張工事にともなって新築されたものです。区の有形文化財に指定されています。

 

 

宝勝山蓮光寺  南蔵院          南蔵院本堂

真言宗 智山派のお寺 

南蔵院由緒によれば、「ご本尊は十一面観音菩薩です。
 開山は、寺歴では宥巌とされていますが、「新編武蔵風土記稿」 では、開山を宥照、開基を蓮沼村の名主新井家の先祖、新井三郎盛久としています。
 当初、南蔵院は荒川低地にあった 「道生沼(どうしょうぬま)」 の畔(坂下2丁目24番地付近)に建っていましたが、度重なる洪水によって現在地に移転したといわれています。この移転伝承は、隣接する氷川神社や、蓮華寺(蓮根1丁目 10番)と同様のものであることから、当該地域における歴史的環境の変化と、村の対応などを考えていく上で注目されます。
 なお、移転の時期は、長らく享保期(1716-36)とされてきましたが、それ以前の正保期(1644-48)に作成された 「武蔵国図」 を始めとする絵図類には、すでに蓮沼村や南蔵院などが現在の位置に描かれていることから、その時期は大きく遡るものと考えられます。
 また、享保7年11月25日に行われた8代将軍徳川吉宗による戸田・志村原の鷹狩りに際しては、当院が御膳所となっています。
 境内にある庚申地蔵は、承応3年(1654)に庚申講中が造立したものです。また、安永6年(1777)と文化元年(1804)に建立された南蔵院石造出羽三山供養塔の台座には、蓮沼村・前野村・小豆沢村の講員70名のお氏名と房号が刻まれており、当該期の出羽三山講の様子を知る貴重な資料となっています。これらは、区の有形民俗文化財に登録されています。 (板橋区教育委員会) 

 

500m程先で

 

国道17号線から清水町交番の左側を進みます。  環七通りの下を通ります

 

 縁切榎

説明板によれば、「江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側に旗本近藤登之助の抱屋敷がありました。その垣根の際には榎と槻(つき)の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなることを恐れ、その下を通らなかったといいます。
 板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久元年(1861)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎を避けるための迂回路がつくられています。そのルートは、中山道が現在の環状7号線と交差する辺りから練馬通(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る約  1kmの道程でした。
 なお、この時に榎を菰(こも)で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを筵(むしろ)で覆うことと命じた触書の内容が伝わったものと考えられます。
 男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う際に、この榎の樹皮を削ぎ取り煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。 (板橋区教育委員会)」

皇女和宮降嫁の際には、榎を避けるための迂回路が作られた上、榎を薦(こも)で覆ったといわれている。

 

 

中山道板橋宿上宿の道標 交番の手前にあります。    交番隣のモミュメント

説明板によれば

「江戸時代の五街道の一つである中山道は、江戸と京を結ぶ大動脈として、人々の往来や物資の流通、文化の交流などを支えてきました。
 板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、その長さは15町49間(約 1.7km)でした。天保14年(1843)には人口2,448人、家数573軒を数え、旅籠屋、料理屋や駕籠屋など様々な店舗が軒先を並べていました。
 板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれており、石神井川に架かる板橋から現在の環状7号線あたりまでが上宿でした。
 平成14年(2002)は、中山道に伝馬制度が成立したとされる慶長7年(1602)から400年目にあたり、それを記念して各宿に石碑を建立しました。

 (板橋区教育委員会)」

 

 

板橋説明板によれば、

「この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来すると言われています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名となりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。
 板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2.2km)の長さがあり、この橋から京寄りを上宿と称し、江戸寄りを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌 「江戸名所図会」 の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことが窺えます。
 江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間の2度修復が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋が架け替えられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架け替えられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架け替えられたものです。 (板橋区教育委員会)」

 

橋の下は石神井川

 

 

橋を渡ると「中宿」です        「ライフ仲町店」の交差点を右折します。

              右側に板橋宿中宿飯田脇本陣跡の案内板があります。

 

ライフ仲町店の隣に

板橋宿本陣跡(飯田新左衛門家)があります。

説明板によれば、「本陣は、一般に街道を通行する大名等の休泊施設ですが、江戸より二里半(約10km)の近距離にある板橋宿では、宿泊に用いられることは少なく、主に休憩所として利用されました。また、その際には、藩主と江戸の家臣との謁見、送迎の場としても機能していました。
 板橋宿本陣は、古くは飯田新左衛門家ら数家で務めていたようです。宝永元年(1704)、当家は飯田本家より別家していますが、その際、世襲名 「新左衛門」 と本陣・問屋役を引き継いでいます。また併せて、屋敷地359坪、田畑1.5町余(約16,000㎡)の広大な土地を譲り受け、当地に本陣を構えました。なお、当家3代目新左衛門珎儀(ちんぎ)の遺言状から、別家後の江戸時代中期頃に当家が宿内唯一の 「御本陣家」 に指定されたことが窺えます。
 本陣は 「中山道宿村大概帳」 によると建坪97坪、門構え玄関付の建物でした。また、本陣指図からは、間口・桁行ともに12間半(約22.5m)、貴人が座所とする上段の間や御次の間のほか、御膳所や18畳の玄関などを備えていたことが分かります。他宿に比べ小振りな本陣は、宿泊に供することが少ない板橋宿の性格を示しています。
 本陣の建物は明治23年(1890)に火災に遭い焼失しましたが、昭和39年(1964)、明治期に建てられた母屋の解体時、床板として転用されていた関札が見つかっています。この関札や本陣図などの古文書は、区有形文化財に登録され、板橋宿本陣の姿を今に伝えています。 (板橋区教育委員会)」

ここは「大久保大和」の名で新政府軍に出頭した近藤勇が、元新選組隊士(御陵衛士)の加納鷲雄・清原清に正体を見破られた場所です。

 

遍照寺

真言宗智山派のお寺です。山号は大日山

説明板によれば、「江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院であったが明治4年廃寺となった。その後明治14年旭不動堂と称して成田山新栄講の道場となり、昭和22年真言宗寺院として復活、現在は成田山新勝寺末寺となっている。   境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立場などが繋がれていた。境内に祀られる寛政10年(1798)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりを留めるのみである。
 また、堂内には上宿に居住した町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊郭千代本楼遊女道中の扁額が納められている。   (板橋区教育委員会)」

 

「板五米店」

土蔵造の建物(大正3年築)。
近世町家の雰囲気に、レンガ壁で洋風の意匠を加味した建築が、近代の息吹を感じさせます。
近年は米穀小売業としての営業は行われておらず、不定期な貸店舗として利用されていましたが、文化財としての価値も高いことから、宿場町の雰囲気を後世に伝わるスポットです

現在は「おむすびカフェ」として営業しています

 

「板橋3丁目縁宿広場」の向かい側、「えんじゅく整骨院」の角を左折し50m程の所に

「板橋宿平尾脇本陣豊田家」跡

 

中山道に戻ります。

観明寺                                

境内の稲荷神社は、加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷のうちの一社で、明治になって遷されたものです。
また、参道入口左(寺標の後ろ)にある庚申塔は、寛文元年(1661)に造られたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古のもので、区の指定有形文化財になっています。

 

国道17号と首都高の下を通ります。

平尾交番の方に進みます。

 

平尾追分

中山道最初の宿場・板橋宿は「仲宿」「上宿「平尾宿」に分かれており、平尾宿には中山道とその脇街道である川越街道との分岐点があった。現在、国道17号と首都高が通る平尾交差点の北側(板橋宿側)付近にあたる。写真では右に続く道が中山道の続きで、高架に沿って左手に向かうのが川越街道です。

 

 

埼京線の踏切を通過します。

踏切を渡り1つ目の信号を右折し30m程進んだ所に「近藤勇」の墓があるので寄り道しました。

「近藤勇」の墓

慶応4年(1868)、流山で捕らえられた新選組局長の近藤勇は、当時板橋宿に置かれていた新政府軍の本陣に送られ、その後処刑されました。その近く、現在の板橋駅東口前にこのお墓は立てられています。近藤勇の墓は、新選組隊士・永倉新八が発起人となり作られました。函館で戦死した副長・土方歳三をはじめ百十名にのぼる新選組隊士と共に供養されています。

 

中山道に戻ります。

 

                         延命地蔵
延命地蔵尊は約190年前(文政年間)の建之です。約100年前当所に移築されました。当時は中山道を通行する旅人が必ずここで一休みしまし。永い旅路につかれ当地で死亡した人馬の霊を供養すべく建之されました。地元の人達が毎年8月24日を命日とし全人類の平和と幸福を願い供養して居るそうです。

 

 

都電荒川線の踏切を渡ります。          巣鴨地蔵通商店街

 

英泉の板橋宿の絵

 

 

巣鴨の庚申塚

この庚申塚は、明暦3年(1657)の江戸の大火後に造られました

 

 

巣鴨地蔵通り商店街  高岩寺 本尊の延命地蔵尊は、とげぬき地蔵として有名です
正徳3年(1713)、小石川の田付又四郎妻が産後の容態が悪く、いろいろな手当も効果がなかった。そこで、日頃信仰している地蔵尊を熱心に祈願したところ、ある日、黒衣の僧侶が枕元に立ち、「私の像を川に流しなさい」と告げ、「印像を与える」といった。目覚めると、枕元に地蔵尊を刻んだ小さな木片があり、これで一万体の御影を作り川に流したところ、妻の病気は回復し健康になったという。
この話を聞いた西順という僧が、その御影を是非頂戴したいというので、田付氏は、これを2枚与えた。
ある時、西順と親交のある毛利家の女中が誤って針を呑み込んでしまったため、この地蔵尊の御影を飲ませたところ、御影を貫いた針が吐き出されたという。この御影の霊験がとげぬき地蔵尊の由来といわれている。

 

 

17号線と合流します。           巣鴨橋を渡ります。

 

                        

徳川慶喜巣鴨屋敷跡地

1867年(慶応3年)、明治天皇に政権返上を奏上した徳川慶喜は、翌年、寛永寺で謹慎した後、水戸そして駿府で謹慎生活を送ります。1869年(明治2年)、謹慎は解かれたが、駿府(静岡)での生活を続け、1897年(明治30年)巣鴨の地に屋敷を構えた。屋敷内には、幼少期を過ごした水戸に因んだ梅林があったそうです。巣鴨で4年間を過ごした後、巣鴨邸のすぐ脇をJR山手線が通ることが決まり小日向第六天町に転居しました。

 

 
「千石1丁目」交差点を通過します。     17号線を進みます。

 

大圓寺

国指定史跡である、幕末の砲術家高島秋帆(たかしましゅうはん)の墓や、明治時代の小説家斉藤緑雨(さいとうりょくう)墓がある
また、ほうろく地蔵の寺としても知られている。

ほうろく地蔵は、お七火事を起こした罪で火炙りの刑にされたお七の罪業を救うために、熱された焙烙(ほうろく)を自ら被り苦しみを受けた地蔵だといわれている。

 

大圓寺の先の「白山一丁目」交差点を右折し、急な浄真寺坂を下った先に「八百屋お七」の墓のある「円乗寺」があるのですが、帰りにこの急な坂を上ることを考えて断念しました。かなり疲れていますショボーン

 

 

このT字路の左角あたりに一里塚があったそうです。今は説明板があります。

追分一里塚跡 説明板によれば

「一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として、街道筋に1里(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中頃まで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒屋で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁昌した。 (郷土愛をはぐくむ文化財-文京区教育委員会)」

 

このT字路を右折します。

 

 

東京大学の煉瓦塀沿いに進みます。    東大赤門  

東京大学は元「加賀前田藩上屋敷」のあった跡で広大な敷地です。

「赤門」は文政10年(1827)に第11代将軍徳川家斉の娘溶姫(ようひめ)が、前田家に嫁いだときに建立された朱塗の御守殿門であり、重要文化財に指定されています。

 

 

湯島聖堂                              

もと上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣・林羅山の邸内にあった孔子廟(先聖殿)を元禄3年(1690)、五代将軍綱吉がここに移し、先聖殿を大成殿と改称して孔子廟の規模を拡大・整頓し、官学の府としたのが始まり。この時からこの大成殿と附属の建造物を総称して「聖堂」と呼ぶようになった。こののち、寛政9年(1797)十一代家斉のとき規模を拡大し「昌平坂学問所」を開設、官学のとしての威容も整いました。現在のものは、大正12年(1923)9月1日関東大震災により、罹災、入徳門・水屋を残し全て焼失、昭和10年(1935)に再建したものです。

「湯島聖堂前」交差点左に湯島聖堂が見えたのですが疲れが酷くて交差点を渡り階段を上る元気がありません。通過します。

 

 

 神田明神  江戸の総鎮守。

神田明神の歴史は古く、天平2年(730)創建。

江戸三代祭りといわれる神田祭でも有名です。                                     平将門を祭神の一つとしていることから、神田明神を崇敬する者は、将門討伐に深い関係のある成田山新勝寺へは参拝してはならない                                     と言われています。

 

「神田明神下」交差点を右折しました。       

 

昌平橋を渡り「神田郵便局前」交差点を左折します。

片側3車線あるので1車線の道路の様には渡れません。左折する時注意し、一旦直進して左折します。

 

「須田町」交差点を横断し神田駅東口を通過します。

 

                   日本橋三越本店のライオン像

前身は「三井越後屋」という呉服商で有名でした。当時の店は江戸でも一、二を争う人気店でもしられ、ここで着物を買う事は江戸庶民の憧れでした。

 

 

「日本橋」の文字が段々と大きく見えて来ました。

 

 

東京市道路元標(照明灯)                      日本国道路元標

国の重要文化財です。           本物は道路中央にあります)

   

 

写真を撮っていた人にお願いして撮影して頂きました。  日本橋を渡り、振り返り撮影しました。

 

   

 南側(東京駅側)の獅子像                      北側(三越側)の獅子像                   

手にしているのは東京都の紋章。明治22年(1889)に、東京市の紋章として制定されたものです。

柱の植物は上の方が松、下の方が榎です。その理由は、江戸時代の五街道には、松並木と一里塚が設けられ、一里塚には榎が植えられていたからです。

向かい側の歩道に阿形の獅子が有ったのですが気付かず撮影できませんでした。

 

現在の橋は明治44(1911)年に完成したもので、平成11(1999)年に国の重要文化財に指定されています。

 

橋の中央部にある麒麟像

キリンビールの麒麟には羽が無いのに日本橋の麒麟には、羽があります。羽のない麒麟になぜ羽を付けたのか?

日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから、羽を付けたといわれています。

その羽も日本橋の北側にはかつて魚河岸があり、それで魚のヒレの形になったといわれています。

センターラインの黒く見える物が日本国道路元標です。

 

日本橋の下を流れる日本橋川は隅田川に注いでいます。                   

 

英泉の日本橋の絵

 

日本橋由来記の碑

日本の道路元標は大正9年施行の旧道路法施行令によって、東京市を始め全国の市町村の知事の定めるところに 各1個が設置された。この制令により東京市は日本橋中央に設置することが定められました。 東京市道路元標は日本全国の市町村に設置された道路元標との距離の基点として、いわば日本国道路元標の役割を果たしました。
現在の日本橋は明治47年に完成したルネッサンス風の近代的な橋として照明灯や道路元標と共に重要文化財に指定されています。
橋の中央にあるプレート状の道路元標は、1967年に都電が撤去され都電の照明灯で架線の支柱だった道路元標は不要になって 撤去され1972年になってプレート状の現在のものが設置された。そしてその名も「日本国道路元標」となりました。日本橋の橋銘は十五代将軍徳川慶喜の筆になるものです。また「日本国道路元標」は佐藤栄作総理の筆になるものです。
日本橋の三越寄りのたもとには、橋の中央にある道路元標と同じものを施設してあり、各地への里程標がある。 また1972年に撤去された「東京市道路元標」の照明灯が移設されて、ここに置かれている。

 

2022年2月28日京都三条大橋に向け一歩を踏み出して今日、日本橋に到着出来ました。

地図上の距離は530kmですが、道に迷いあちこち歩き回り、実際は530km以上の距離になったと思います。歩数も1,107,890歩になりました。

 

 

次は東海道を日本橋から三条大橋まで歩きたいと思います。