中山道歩き 改定版 中津川宿から馬籠宿まで①」の続きです。
高札場を過ぎ集落を抜け30m程進んだ右側石垣の前に
白木番所跡・下馬庚申堂跡の標柱
この石垣の上の民家の辺りにあったそうです。白木番所は寛文9年(1669)から享保12年(1727)まで置かれていました。
庚申堂(金剛院)も江戸の初め頃から幕末頃までこの辺りにあり、お堂の前は下馬して通らないと落馬するほど神威の強い庚申様で、誰言うとなく下馬庚申と呼ばれていました。今は医王寺に祀られています。
落合川
落合川は木曽川の支流で,ダム湖(落合ダム)に注ぎ込みます。
| 落合ダムは大井ダムに次いで木曽川で2番目に建設されたダムです。 下流左岸にある落合発電所は福沢桃介が手がけた発電所の一つです。 ダムと発電所は土木学会の「日本の近代土木遺産~現存する重要な土木構造物2000選 」に選定されています 。 |
広重の落合宿の絵
中山道の付替と落合大橋 説明板によれば
落合川に架かる下桁橋は、江戸時代には 「大橋」 とか 「落合橋」 と呼ばれ、少し下流にあったと云われています。
この橋が洪水により度々流失していたこと、またこの橋から医王寺までの登り道がつづら折れの難所であったため、道筋を変更することとなり、寛保元年(1741)から神坂湯舟沢経由の新道が中山道となりました。
しかしこの道も悪路で、今までより約1.8㎞も遠回りになったことから、明和8年(1771)、再び十曲峠を通る前の道筋に戻りました。 この時につづら折れの道を廃し、現在の北側に大きく曲がって緩やかに登る道に付替えられました。
(中津川市教育委員会)
![]() |
落合川を渡ります。
橋から下流の眺め 橋から上流の眺め
下桁橋(落合橋)
下桁橋を渡ると十曲峠が始まります。
いよいよ木曽路に向かってます。
山中薬師(浄土宗医王寺)
嘉永6年(1853年)の建立。
薬師如来は行基(ぎょうぎ)の作と伝えられ、虫封じの薬師として、三河の鳳来寺、御嵩の蟹薬師とともに日本三薬師の1つとして広く信仰を集めている。
またこの寺には、十返舎一九の『木曽街道続膝栗毛六編』にも登場する、狐のお告げによる切り傷薬の「狐膏薬」伝説が伝わっています。
その伝説は、医王寺の和尚さんは腰痛がひどく困っていました。
ある時、裏山で足にトゲが刺さり苦しんでいるキツネを見つけトゲを抜いて助けました。
数日後の風の強い晩に、戸を叩く音で目を覚まし戸を開けると、先日のキツネがいました。
和尚さんは「こんな風の強い晩にどうしたんだ」
するときつねは「おかげで傷はすっかり治りました。お礼に、和尚さんは腰痛で困っているから良く効く薬の作り方を教えに来ました」と言って薬の作り方を何回も繰り返し繰り返し教えてくれました。
気が付くと和尚さんは布団の中で眠っていました。
「夢を見ていたのか」
しかし、和尚さんはその薬の作り方をしっかりおぼえていました。
和尚さんは習った通りに膏薬をつくって試してみると腰痛は嘘のように治ってしまいました。
そこで和尚さんはこの膏薬を「御夢想 狐かうやく」として看板をだし売り出しました。
この膏薬が大へんよく効くと大評判になって、村の人はもちろん、旅人から伝え聞いて遠くからわざわざ買いにくる人が絶えませんでした。
医王寺本堂
医王寺の芭蕉の句碑
「梅が香に のっと日の出る 山路かな」
この句は1694年、芭蕉が亡くなる年に詠まれた句です。
落合の石畳入口 ここより840m続きます。
濃飛流紋岩がつかわれています。
よく整備されています。
説明板によれば 「 国史跡 中山道 平成22年2月22日追加指定 落合の石畳 この石畳 は、中山道落合宿 と馬籠宿 の間にある十曲峠を歩きやすくするために、石を敷き並べたものです。 石畳がいつ頃に敷かれたのかは不明ですが『中山道宿村大概帳』には「馬籠境(新茶屋)から中津川まで34町6間(約3.7km)、道幅2間から3間、尾州より普請」とあり、尾張徳川家がこの石畳を含む区間の中山道の維持管理を行っていたことがわかります。 石畳の構造としては石畳の道幅約4mで1平方mあたりに自然のままの濃飛流紋岩が4~6個使われています。石材の形や大きさはまちまちで一定ではないですが、石畳の両側端に石材の直線的な面を外側に並べ、一直線になるように配置されています。 石畳の長さは約840mで、その間3ヶ所(径708m)の、石畳は往時のまま現存しています。その周辺の石畳についても昭和63年度~平成7年度「歴史の道路整備事業」にて修復がされ、中山道の風情を偲ぶことができる場所となっています。 中津川市教育委員会」
なんじゃもんじゃの杜 説明板によれば
「なんじゃもんじゃの杜 本名をひとつばたごといい、古世代の遺存木である。
五月中旬頃の開花で満開時樹上が真っ白になり雪積もったような景観を醸す。この杜は昭和五十一年落合老人クラブが植樹したものである。落合まちづくり推進協議会」
岐阜県の東濃地方と愛知県、長野県の一部、そして長崎県対馬の北端にのみ自生しています。岐阜県東濃地方では、木曽川、土岐川(庄内川)筋に多く自生しています。 なお蛭川を含む東濃地域、周辺の市町村でも多くの自生地が天然記念物として指定され大切にされています。
石畳はここまでです。
石段を上り舗装道路に出ます。
舗装道路を横断するとさらに石畳があります。
新しくできた遊歩道です。
落合石畳遊歩道が120m続きます。
新茶屋に着きました。
馬籠宿に入ります。
右上に休憩所があります。
左に
新茶屋の一里塚跡 江戸まで83里目の一里塚
新茶屋の一里塚は天保~安政時代(1830~1860年)には、立木は右(江戸より京)に松、左は無しでしたが、今回整備にあたり右に松、左に榎を復元しました。
江戸から83番目の一里塚です。
一里塚の隣に「信濃 美濃 国境」の碑があります。
ここは長野県と岐阜県の境、木曽路の入口です。
(平成17年2月13日長野県から岐阜県中津川市へ越県での編入合併しました)
「是より北 木曽路」の碑
ここは長野県と岐阜県の境、木曽路の入口です。
昭和15年(1940年)7月、当時68歳だった藤村が、地元の要請によって揮毫(きごう)したものです。
この碑は藤村記念館の落成10周年を記念して、昭和32年(1957年)11月に藤村記念館建設の実行母体である「ふるさと友の会」によって建立されました。
芭蕉の句碑 「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐(あき)」と刻まれています。
300m程先の坂道途中に休憩所があります。
中津川方面の景色 ぼんやり見えるのは笠置山です。
休憩所にある正岡子規の句碑
「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」
ここは信州サンセットポイント百選の地です。 (2023年8月撮影)
なんじゃもんじゃ(本名をひとつばたごといい、古世代の遺存木)
中山道脇のマーガレット?フランスギク?
旅宿本三屋(もとみや)
島崎正樹翁碑
島崎藤村の父の碑があります。
諏訪神社
馬籠城址
この地は「丸山」「城山」とも呼ばれ、室町時代から馬籠城(砦)がありました。戦国期には武田信玄の領地となり、武田氏滅亡後は織田信長、次いで豊臣秀吉の家臣・木曽義昌が治めました。
天正12年(1584年)、秀吉と家康が対峙する中、義昌は木曽路防衛のため妻籠城に兵を送り、馬籠城は島崎重通(島崎藤村の祖)が守備。家康軍が馬籠北に陣を敷くと、重通は夜間に妻籠城へ撤退し、馬籠集落は戦火を免れました。この陣地跡は現在「陣場」と呼ばれています。
関ヶ原の戦い後、木曽は家康の直轄領となり、元和元年(1615年)には尾州徳川義直の領地となり、馬籠城は静かに姿を消しました。
馬籠宿に着きました。
中津川宿からここまでほとんど人に出会わなかったのですが、ここは観光客でいっぱいです。
坂を上った突き当りが枡形になっています。
枡形
枡形の左に阿弥陀堂があります。
馬籠の宿場の説明板
中山道69宿のうち、木曽谷には11宿があり、馬籠宿は43番目で江戸から約83里6町の距離に位置します。急斜面に沿った「坂のある宿場」として知られ、石積みの屋敷が特徴です。
宿場中央には本陣・脇本陣・問屋があり、旅籠18軒、飯屋、馬宿も並び、旅人で賑わいました。明治期に国道と鉄道が整備され、宿場としての役割を終え、明治・大正期の火災で江戸時代の建物の多くが失われました。
枡形 馬籠宿の街道の南端は直角に二度折り曲げてあり、この部分の山手側は切り土になっている。これは城郭建築の枡形を模したもので、ここを 「枡形」 といった。 本来宿場が軍事的な目的をもって造られたことを示している。 明治38年(1905)の道路改修により当時の原形を消失したが、その後、昭和60年代になって復元された。
枡形のある車屋坂を上ります。
左が旧道 右が新道
左に行けば大きな水車の横の階段を上ります。
右に行けば石屋坂の常夜灯の横を通ります.
石屋坂の常夜灯
大きな水車 発電機を回しています。
右側に清水屋資料館 藤村の手紙など多数保管されています。
槌馬屋資料館 土産物店と変わらない構えで、店の奥が資料室です。
馬籠郵便局
馬籠郵便局のオリジナルグッズがたくさんあります。
ATMもあります。
平日は9時〜17時30分、土曜日は9時〜12時30分、日曜日はお休みです。
本陣跡
代々、島崎家が務めた。島崎藤村の生家であり、藤村記念館として公開されています。
明治天皇停蹕之蹟(めいじてんのうていしつのあと)
1880年(明治13年)6月28日、明治天皇は馬籠宿本陣島崎秀雄宅で休憩されました。
本陣の向かい側に観光案内所があります。
大黒屋 今は茶房となっています。
大黒屋は造り酒屋を営んでいた家柄で、馬籠宿の問屋や年寄役なども勤めていました。藤村の初恋の人とされるおゆうさんの実家が大黒屋でもあった為、「夜明け前」では伏見屋として登場しています。
脇本陣跡
現在は資料館になっており、脇本陣の最高位の部屋である『上段の間』を当時の場所に復元してある。
山口誓子の句碑があります。「街道の 坂に熟れ柿 灯を点す」
馬籠の街並
高札場が見えて来ました。
高札場跡
明治時代以降廃止になりましたが、近年当時の高札場に忠実に復元され内容も江戸時代中期の正徳元年(1711)の毒薬やキリシタンの禁止、明和7年(1770)の徒党を組むことの禁止などが再現されています。
上陣場跡
天正12年(1584)、徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いの時、徳川方の菅沼・保科・諏訪氏の軍が陣をとった場所で、恵那山が一望できます。
恵那山が見えます。 木曽山脈(中央アルプス)の最南端に位置する標高2,191 mです。馬籠で生まれ育った島崎藤村が幼少時代に眺めていた山です。
一句浮かびました。「恵那山の 頬に涼しき 青い風」
石碑には
「島崎藤村 心を起さうと思えば先ず身を起せ ニーチェの言葉より」
と刻まれています。
本日はここ迄とします。 13:20
上ってきた坂を下り馬籠バス停から中津川駅前まで帰ります。
次回は「中山道歩き 改定版 馬籠宿から妻籠宿まで①」です。


























































