令和4年(2022年)5月10日

歩いた時間 2時間40分    歩数19,393歩

 

12:00中津川駅出て12:18南木曾駅に着きました。

前回のSL公園まで戻りスタートします。

 

SL公園の中山道に戻ります。

 

JR中央西線のトンネルの上を通ります。

 

右側に見えて来ました。

 

和合のしだれ梅  江戸時代、木曽谷有数の酒造家遠山氏の庭木として愛育されてきた古木です。南木曾町の天然記念物です。時季になればきっと美しく咲くんでしょう。

 

園原先生碑

説明板によれば  「園原旧富(ふるとみ)は、三留野村和合の東山神社の神官の家に元禄16年(1703)に生まれ、長じて京都に遊学し、吉田兼敬(神祇管領長)に師事して神学を学び、「神学則」 を著すまでになった。その後も 「木曽古道記」 などを著して、尾張・美濃・信濃に門人多数を擁する大学者となった。 この碑は、彼の死後5年目の天明元年(1781)に、学徳を慕う門人たちによって建立されたもので、碑文は当時有数の学者である松平君山が書いている。なお、園原家住宅(一部公開)は、江戸時代中期の神官の家の姿を伝える貴重なものである」

「園原先生住宅  園原家は、三留野宿東山神社の神官を務めた家で、江戸時代の大学者園原旧富まで遡る建物である。  

 栗材が多用され、差鴨居も鼻栓で止める古い形式で、17世紀後半から18世紀前期の建物と推察される。神殿も同時期のものと思われる。 

 江戸時代中期の神官屋敷の様子を知ることができる建築物で、現存するものが少ないことからも貴重である。また、推定数百年のイチョウや屋敷内の坪庭にあるドウダンツツジも、季節ごとに鮮やかな姿を見せ、見事である。
 (長野県教育委員会)

 

中山道から見える貯木場

 

  

左の林の中に小さなお社があります。その隣が蛇抜け橋、蛇抜けとは山津波の事。​​​​​​

 

 

ここを直進します。      大沢田川橋を渡り右折しすぐ左の旧道に入ります。

 

 

「中山道」表示板の角を左折し、途中からとんでもなく細い道(民家の庭)を通り舗装道路に出ました。右折します。

 

 

「梨子沢橋」を渡ります。           ここを左折します。

 

 

右側に享和3年(1803)の常夜燈があります。    階段を登ります。

 

  

ここを右に戻り「等覚寺」に向かいます。   等覚寺参道を登ります。

 

 

 

吽形像                  阿形像

 

 

鐘楼、宝篋印塔、円空堂           本堂

 

等覚寺説明板によれば

「円空は、美濃国に生まれた江戸時代初期の僧侶で、一生に12万体の仏像をつくることを祈願したといわれ、彼の足跡は、関東・東北から北海道にまで及んでいる。
 この南木曽では、等覚寺の 「弁天祠棟札」 に 「弁財天十五童子像」 が貞享3年(1686)8月12年日につくられたことが記されているので、この頃、円空は南木曽に滞在して、造像に励んだことが伺える。現在当町には6体の円空仏が発見されているが、等覚寺にあるのは、次の3体である。
・ 韋駄天像(町有形文化財)・ 弁財天十五童子像(同)・ 天神像(同)」

 

 

坂を下って中山道に戻ります。     「柏屋」 明治期の町屋をリノベーション                                                                                                                                                                        

                    した一棟貸しゲストハウスだそうです。

 

 

 

三留野宿本陣跡

 

説明板によれば 「この長野地方法務局南木曽出張所跡地は、三留野宿本陣があったところである。本陣の建物は、明治14年(1881)7月10日の三留野宿の大火災の際焼失してしまった。ちなみにこの時の被害は、家屋74軒、土蔵8軒にい達した。
 しかし、庭木の枝垂梅(町の天然記念物)と明治天皇御膳水が本陣の名残りを留めている。明治天皇は、大火の前年の13年6月27日に一泊されている。御膳水の井戸は昭和54年に復元したものである。

 

  

天然記念物 三留野本陣の枝垂梅

説明板によれば 「三留野宿本陣を勤めた鮎沢氏の屋敷内の庭木として愛育されてきたものである。 樹相は、目通り周囲1m70cm、高さ約8mである。」
 (南木曽町教育委員会)

 

脇本陣跡     説明板によれば

「木曽11宿には、本陣と脇本陣がそれぞれ1軒ずつ置かれていた。本陣は江戸時代の初めに定められたが、脇本陣は交通が頻繁になった中期以降に設置されていった。 脇本陣はその名の通り本陣を補完するためのもので、三留野宿では代々宮川家が務めた。宮川家はまた三留野村の庄屋も務め、本陣の鮎沢家、問屋の勝野家などと共に指導的役割を担った。宮川家のあるこの周辺が、江戸時代の三留野宿の中心部であった。 なお三留野宿は、明治14年(1881)の大火によって全焼し、現在の建物はそれ以降のものである。  (南木曽町教育委員会)」

 

  

三留野宿の街並み                  牧沢橋を渡り、JR中央西線の鉄橋下を通ります。

 

 

山と木曽川に挟まれた道が続きます。   国道19号線に合流します。

 

  

与川渡橋を渡り道路を横断します。(ガードレールを乗り越えての横断で危険です)    

JR 線の鉄橋の下を通り坂を上ります。「蛇抜け地蔵」に向かいます。

 

 

蛇抜け地蔵と同じ所にある 2基の馬頭観音     南無阿弥陀仏名号碑(左)、

                         地蔵尊供養紀念碑(右)

「蛇抜け地蔵」

 南木曽町教育委員会によれば

 この石地蔵は、天保15年(1844)5月27日の夜に発生した蛇抜け災害によって犠牲になった人々を弔うために尾張藩によって弘化2年(1845)に建立されたものである。 当時、与川山では御用材の伐採が行われており、多くの杣(そま)や日用が材木運材に従事していた。蛇抜けによって全壊した飯場には5組120名の杣や日用が寝泊まりしていたが、内99名が死亡、7名が重軽症で、無事だったのはわずか6名という稀に見る大惨事であった。


中山道の戻ります。

  

 山からの小さな沢に架かる清水橋      羅天橋 

江戸時代、この辺りは「桟」(かけはし)が何か所も架けられ危険な思いをして渡る難所でした。

浅田次郎作「一路」にも登場する難所です。島崎藤村の「夜明け前」の書き出しは「木曽路はすべて山の中である。 あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。 一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」です。

まさに三留野宿からこの先の野尻宿辺りに当てはまる書き出しだです。

                                                    

国道19号線左側法面の高い所に椎河脇神社・金刀比羅神社碑がありました。

 

国道19号線をしばらく歩き「柿其入口」信号を左折します。

  

 明治天皇御小休所記念碑         明治天皇中川原御膳水碑

説明板によれば

「明治天皇は全国各地を御巡幸されたが、木曽へは明治13年(1880)においでになった。  

山梨県から木曽路に入り、6月26日には福島泊、翌27日は寝覚で御小休み、須原定勝寺で御昼食、中川原で御小休み、その日の行在所は三留野本陣であった。ここ中川原には夕方に着き、羅天の難所を前にして、桜井太助宅において暫しの休憩を取られたという。  

 御巡幸を記念して、大正2年(1913)には 「御小休所」 の碑が、昭和9年(1934)には 「御膳水」 の碑がそれぞれ建立された。しかし、その後、昭和40年(1965)と平成5年(1993)の2度にわたる国道19号改良工事によって、碑の移転が余儀なくされた。2度目の移転になる今回、この場所に公園を整備して復元したものである。 (南木曽町)

 

500m程進むと左に柿其橋が見えます。

 

          柿其橋を渡るとすぐ右に八剱神社があります。

 

 

巨大な杉が見えます。 南木曽町教育委員会によれば

昭和30年頃までは四本杉と呼ばれ、四本の木が合体したものと思われる。現在二本残っていて珍重な木である。 樹相は、高さ約38m、目通り周囲11m8cm、

樹齢530年位である。
 

中山道に戻ります。

 

JR中央線に沿って中山道が続きます。    階段を上るとJR十二兼駅です。

 

 

駅ホームを通り国道に出ます。   「十二兼南」信号まで戻り国道を横断します。

 

横断した所に十二兼の「一里塚の跡」碑があります。

 

中山道に戻ります。

この先に踏切があります。遮断機が下りていました。

左下を見ると吊り橋が見えます。

二又橋

木曽森林鉄道と十二兼駅との連絡用の橋。

1921年(大正10年)竣工、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で破損した事により架け替えられました。
この橋は、対岸で桑や野菜などを栽培するために、地元の人が使っていますが今では利用者が減ってしまったそうです。
木曽森林鉄道のすれ違いの為に複線になった所が二又橋の「二又」の由来だそうです。

 

踏切を渡り国道19号に合流し「十二兼北」信号まで戻りこの坂を上ります。

 

 

石段の上に鳥居が見えますが通行止めです。回り込んで裏から入ります。

 

八釼神社、熊野神社の石碑

 

 

木曽熊野神社拝殿            木曽熊野神社本殿

 

神社を出て中山道を進みます

 

民家が途切れた先の石段を上った所にある石仏群                                 地元では「八人石の二十三夜様」と呼ばれているそうです。

ガードレールに沿って坂道を下り

合流し国道を横断します。

カーブで見通しが悪く横断歩道もないので、カーブミラーをよく見て駆け足で渡る超危険な横断になります。

 

 橋を渡りすぐ左の中山道に入ります。

 

           道標  「右 三留野宿」 「左 野尻宿」

 

 

第14仲仙道踏切            読書ダム

関西電力株式会社の水力発電専用ダムで、読書発電所(最大出力11万9,000キロワット)の取水ダムです。

 

 

第13仲仙道踏切 今日、3ヶ所目です。 「旧第3仲仙道踏切」となっています❓

 

「旧第3仲仙道踏切」は渡らずに右側へ直進し「阿寺渓谷入口」信号を左に見ながらここも直進します。

10分程で右側に「下在郷一里塚跡碑」があります。

下在郷一里塚跡

 

一里塚の左の階段を登った所に「公民館」がありその裏(すぐ横は国道19号)に沢山の石碑があります。

 

公民館に隣接した観音堂にお地蔵様が祀られています❓

 

中山道に戻ります。ここを右に進みガソリンスタンドの横から国道を横断します。

デイリーヤマザキの横の道を登り「須佐男神社」に向かいます。

 

山の上にあります。 坂道がキツイ!!

途中で引き返そうかと思いながら登りました。

須佐男神社    説明板によれば

「創祀年代は不明確ながらも、当社は御祭神須佐男命を祀り、古くは別名を牛頭天王と称し、平安時代中期頃から疫病除け、豊作、招福の神として信仰されてきました。正徳5年(1715)6月18日長雨によって現国有林天王洞が崩壊して社殿、神輿諸共に流失し、翌享保元年2月現在の新床の地に遷座されました。
 御遷座200年250年の記念石碑と狛犬一対が境内に建立され、境内の社叢は風致保安林で、村の文化財(天然記念物)に指定されています。「衿」 を正すこの神域の美観は、氏子崇敬者の貴重な伝統文化遺産です。 例大祭=7月14・15日、神輿が町内巡行」

 

 

鳥居を過ぎさらに山の中に入ります。    須佐男神社拝殿 奥の階段上に本殿

手水舎と御遷座300年、250年、200年の記念碑

記念碑の両サイドに狛犬。

林の中に沢山の石塔がありましたが道路新設工事のため離れた所から眺めるだけでした。

 

中山道に戻ります

二反田橋を渡ります。

 

 

野尻宿の街並み

曲がりくねった道が続いています。

 

 

「はずれ」と呼ばれる屋号の家。ここが野尻宿の入口です。

説明板によれば  「西のはずれ
 ここが西のはずれで、この家の屋号もはずれという。
 野尻宿は木曽十一宿 のなかでも旅館、茶屋など三十余軒をもって繁栄した場所である。
野尻宿の特徴は外敵を防ぐための桝形 が随所に設けられ「七曲り 」と言われる」

 

少し先の右側に

 

常夜灯と八坂神社、八幡神社が祀られた祠  ここだけ見通しがいい。

 

渥美清の「男はつらいよ」に出ていた庭田屋さんの横の坂道を上ると

 

 

大きなお地蔵様と沢山の石塔。      中山道に戻り、駐在所横の御大典記念碑

                    小さなお社。                            

 

野尻宿脇本陣跡

本陣は問屋を兼ねて森家が務め、脇本陣の木戸家も問屋を兼ねていました。

しかし両建物とも明治27年(1894年)の火災により焼失し、遺構は残っていません。

 

 野尻宿本陣跡  説明板によれば

野尻宿は中山道69次の内、江戸方から40 番目の宿で須原宿から1里30町(7.3km)、三留野宿へは2里 18町(9.9km)。野尻本陣は慶長6年(西暦 1602年)に指定され、木曽氏家臣の森家(徳左衛門または喜左衛門)が家督を継いでいた。この本陣は門構えの附いた建坪192坪(632㎡)の大きさで木曽下四ヶ宿(野尻、三留野、妻籠、馬籠)の中では最も大きいが、享和2年(1802年)に投宿した大田南畝は質素な造りであったと「全成紀行」に記している。
宿の出入り口にある2軒の「はずれ」(屋号)と「はずれ」の間の6町660m)には108軒の家に986 人が住み(天保14年1843年)、道筋は敵の襲来を防ぐために七つの曲がり角があって馬の走り抜けが出来ないようになっていた。これは野尻宿の特徴であり「野尻の七曲り」と云われ、今も残っている。
「明治27年(18944年)の大火で一帯が焼失してしまい往時の景観は留めていないが、当時の図会にある本陣を中心にした家々の中には、今もその末裔が同じ場所で七曲りに沿って住んでいる
 

 

本日はここまでにします。途中にあったJR野尻駅に戻ります。   時刻15:05

 

ここを右に曲がるとJR野尻駅です。

 

次回は「中山道歩き 野尻宿から上松宿まで①」です。