「中山道歩き 改定版 野尻宿から上松宿まで①」の続きです。

 

国道横の「歩道案内」に従い進みます(ここからの国道は歩道が無いので危険です)​​​​​​

案内に従い側道に入りました。

歩道のない危険な国道を避けて側道を歩きます。沢の上に架かる橋を渡ります。

 

10分程歩いて国道の歩道に出ました。

 

猿沢歩道橋を渡ります。      右側に林道松渕沢線開設記念碑 ここを通過。

 

 

150m程進むと右側にトンネルがあります。ここを通り神明神社に出ます。

 

大な杉です。 神明神社拝殿 

 

 

神明神社拝殿              神社横に五輪塔があります。

 

中山道に戻ります。

枝垂れ桜があります。

 

枝垂れ桜から50m程の所で左に進みます。 

                 (横断歩道のある所です)

 

木曽福島スキー場31kmの看板。国道に合流します。

 

上松町に入ります。

 

標高588mの標識が見えます。

赤い屋根の廃屋と国道の間の細道を下ります。

(ここを左に舗装道路を歩いても同じところに出ました。)

 

 

草道を進みます。

 

ここに出ます。近くの家の犬が盛んに吠えています。

 

木曽川対岸の桃山発電所

1923年(大正12年)に運転を開始しました。

桃山発電所は導水路により落差を得て発電する水路式発電所です。

最大使用水量37.57立方メートル毎秒・有効落差79.55メートルにより最大2万5,600キロワットを発電します。

水槽から水車発電機へと水を落とす水圧鉄管は、長さ203メートルのものが2本あります

水車発電機は2組あり、水車は立軸単輪単流渦巻フランシス水車を採用、発電機は容量1万4,300キロボルトアンペア・周波数60ヘルツのものを備えています。

発電所建屋は鉄筋コンクリート構造2階建です。

 

 「池の尻」信号交差点で国道19号線に合流します。

 

左側の歩道を100m程進むと

倉本一里塚跡    国道非常駐車場にあります。江戸まで74里目の一里塚です。

説明板によれば

「上松で北から4番目の一里塚です。一つの町村で4つも一里塚のある所はありません。現在地より南へ20mほどの地点、左右に一里塚がありました。

今でもこの民家は、屋号を 「一里塚」 と呼んでいます。

この一里塚の位置は、京へ63里、江戸より74里です。

残念ながら現存しません」

※岐阜県瑞浪市の中山道には権現山一里塚、八瀬沢一里塚、奥之田一里塚、鴨之巣一里塚がありほぼ原形のまま保存されています。 

 

池の尻信号交差点を過ぎ次の万場信号交差点のさきで大沢橋を渡り右折します。

鉄橋下を通り倉本駅に出る所ですが、途中で通行止めになっている為、国道を歩く事にしました。

 

ここからは2025.4.11に再度訪れた時の記録です。

JR中津川駅からJR須原駅まで電車で移動しました。

 

大沢橋を渡り右折し鉄橋の下を通り坂を上ります。

カーブミラーの所に中山道の案内標識があります。左の草道が中山道です。

 

 

カーブミラーの所で左側石垣沿いに上ります。

 

すぐにここに出ました

 

すぐ先の右の山側に常夜灯、石碑、石塔、庚申塔があります。

手前左から常夜灯、南無地蔵尊、百万遍供養塔、徳本の南無阿弥陀仏名号碑 上側には馬頭観音、西国三十三所観世音、庚申塔(塔の上部に笠がのっている)、観音像、石仏などがあります。

庚申塔の説明板(常夜燈の左後)によれば

「暦の上で60日に一度めぐってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして、長寿を願う信仰を庚申待といいます。

 人間の身中には、誰でも三尸九虫(さんしくうちゅう)が宿っていて、この虫は庚申の夜に人が寝た時、天へ上って天帝に、人間の罪過を告げて、人の生命を縮めるといいます。この虫の報告が500条になると、その人は死ぬそうです。
 そこで、庚申の日に、三尸の虫が寝ている時、天へ上らぬように、夜起きているわけです。
 普通、庚申塔と刻まれた塔が多いが、倉本のこの塔は 「除三尸之罪」 と彫られていて、年号も享保12年(1727)で、上松では一番古いものです。
 右手にある徳本行者の特徴ある文字で書かれた 「南無阿弥陀仏」 の名号塔も木曽では大変珍しいも

のです。
 (上松町教育委員会)

 

すぐ先の山側に左から馬頭観音、地蔵尊、供養塔、馬頭観音が祀られています。

 

集落を抜けてきました。

右の階段を上るとJR倉本駅のホームです。トンネルを抜け右折し国道19号を進みます。倉本駅からJR線で帰ります。

途中でふきのとうを見つけました。10個ほど採りました。

ふきのとう味噌、ふきのとうの天ぷら、思い描きながら歩きました。

歩いたのは約5km1時間30分程でした。

ここまでが2025.4.11の記録です。

 

通行止めにならなければ倉本駅前の国道19号線にここで合流します。

 

10分程で棧沢橋(さんさわはし)に着きます。橋を渡り左に入ります。

 

                    

左側に吊り橋が見えます。諸原橋

 

 

「立町」信号交差点に出ます。 

   

歩道橋会談尾の側に明治天皇御小休之跡碑

 

明治天皇御小休之跡碑

明治13年明治天皇が中山道を通られた折、ここで御小休されたのを記念して建てられました。

 

歩道橋を渡り中山道を進みます。

国道に合流すると右側に「神明神社」があります。

 

 

鳥居の奥はJR中央西線が通っていて社殿まで行けません。  

左の坂を上ります。

 

トンネルを抜け右へ。         

階段を上ります。    

 

 

 線路沿いの草道を進みます。         

階段を上り拝殿へ。

 

 

本殿                    手水所

 

トンネルの所まで戻り今度は左の坂を上ります。

 

線路脇の草道を上ります。        

「木曽古道」の表示板

 

 

民家の横を通ります。           

舗装道路に出ました。

 

 

国道に合流し右へ。             

荻原橋を渡ります。

 

 

「荻原」信号を右に入ります。      文化4年(1807)の二十三夜塔

                  文化10年(1813)南無阿弥陀仏名号碑

 

 

民家庭先の風越山の湧水「和水(なごみ)」     同じ庭先の地蔵尊

 

荻原一里塚跡

説明板によれば 「この一里塚は、上松宿内の一里塚からちょうど一里(約4㎞)南へきた荻原集落の入口にありました。集落の北の入口であるこの一里塚には、左右両方とも榎が植えられていました。南の入口には、高札場があったといわれています。
 この一里塚の位置は、京へ64里、江戸より73里です。 残念ながら現存しません。」

この先で国道に合流します。

 

10分程歩いた先に

小野の滝

広重・英泉の合作による中山道六十九次の浮世絵に描かれている「上松」は、この小野の滝の絵です。

現在は鉄橋が真上に架けられ、当時の面影は無いが、滝自体は今も変わらず流れ落ちています。

 

歌川広重の絵

 

金色の太刀を持った不動明王       文政4年(1821)常夜灯と不動明王        

                    他が刻まれた石碑

説明板によれば  小野の滝

広重・英泉の合作である中山道六十九次の浮世絵に描かれている上松は、この小野の滝の絵です。

明治42年(1909)鉄道の鉄橋が真上に架けられ、残念ながら往年の面影はなくなりました。

かつてここを旅した細川幽斎は 「老の木曽越」 のなかで、「木曽路の小野の滝は、布引や箕面の滝も、をさをさおとらじ、これほどの物をこの国の歌枕には、いかにもらしける」 と、手放しで誉めています。

また、浅井冽は、この地を訪れて「ふきおろす 松の嵐も 音たえて あたりすずしき 小野のたきつせ」と、歌を詠んでいます。

今も上松の旧跡に変わりありません。

 

 

「小野の滝」交差点信号を右折します。  JR中央線の鉄橋下を通り坂を登ります。

 

 

滑川橋を渡ります。            右の石畳の坂を上ります。

 

 

石畳は終わり舗装道路に出ます。      左に曲がり後は道なりに進みます。

 

桂の木  

説明板によれば

「この桂の木は、現存する上松町の桂の木の中で、一番太く幹の周囲は4.1mもあります。

 中山道を旅する人々に春の美しい芽吹き、秋の鮮やかな黄葉は、絶景寝覚の床とともに目を慰めてくれました。ずっと昔、この上で発生した山崩れの際に流れてきた桂の苗木が大きくなったのだという伝説も残っています。」

 

桂の木の横にある。左から南無勢至大菩薩、青面金剛王、南無阿弥陀仏名号碑 

 

 

桂の木の後ろにある津嶋神社(合祀牛頭天王)と大宮神社(仮参拝所)

 

昔の旅人は越前屋の「寿命そば」を食べるのを楽しみにしていたそうです。 

「寿命そば」がそれ程までに有名だったと島崎藤村は「夜明け前」に書いています。 

十返舎一九の「木曽街道中膝栗毛」にも登場する老舗。

 

たせ屋 

 江戸時代の立場茶屋で茶屋本陣も兼ねた旧家。上松町文化財に指定されています。


越前屋とたせ屋の間の道を下れば寝覚の床ですが帰りの上り坂が急勾配で大変なので寝覚の床はパスしました。

 

寝覚の床 上松町周辺は、花崗岩地帯。その地形を木曽川の流れが削り、姿を現したのが寝覚の床です。花崗岩特有の割れ方が、大きな箱を並べたような不思議な造形をもたらしました。

寝覚の床には浦島伝説もあります。

 

中山道を進みます。

 右側に小社があり大宮神社の御神札がお祀りされています。

 

 

小社の前の西国三十三所供養塔など。後ろにある馬頭観音、南無阿弥陀仏名号碑など

 

 

 少し先に常夜灯がありました。      交差点手前の「中沢橋」を渡ります。  

 

 

その交差点を直進します。        上松小学校の校庭手前の庚申塔

 

諏訪神社    石段を上り小学校校庭を横切り拝殿に向かいます。

 由緒 「この神社は、上松の鎮守の神様として古くからこの地にあり、祭神は建御名方命(たてみなかたのみこと)・事代主命(ことしろぬしののみこと)の2神で、祭日は9月6日・7日ですが、昔は7月26日27日であったといいます。
 この付近は縄文時代の早期、約8000年前の遺跡で古くからこの地が最良であったといいます。このお宮は、諏訪から直接来たのではなく京都から勧請したお宮のため、御柱を建てないともいわれています。
 この神社の神主は、弘治2年(1556)頃より代々徳原氏が行い、現在に至っています。境内に五社神社・津島神社が祀られています」

鳥居は両部鳥居です。

 

 

小学校の校庭を横切り参道の石段を上ります。    石段の先にさらに参道石段。

 

 

諏訪神社拝殿                諏訪神社拝殿内部 奥に本殿。

 

 

諏訪神社本殿覆屋             五社神社拝殿

五社神社拝殿の説明板によれば

「五社神社 五社様と親しみをもって呼ばれる五社神社は、江戸時代に現在の上松小学校前の中山道に沿って建てられていた 「上松材木役所」 の中庭に祀られていました。
 五社の内訳は次の通りです。
 ●御嶽大権現・・・・・地元木曽地方の守護神
 ●熱田大神宮・・・・・当時木曽を治めていた尾張藩主の居住地名古屋で由緒ある格式高い神社
 ●天照皇大神宮・・・伊勢神宮御神木を木曽より献上した
 ●三嶋大明神・・・・・東海道三島宿を本社とする山の神様
 ●水天宮・・・・・・・・・九州久留米を本社とする水の神様
 この五社は、天明年間(1781-88)に時の材木奉行・日々野源八が、木曽山川の安全と、働く杣(そま)や日雇(ひよ)に怪我や事故のないことを願って建立したといいます。明治4年(1871)材木役所は廃止となり、五社神社は町の鎮守諏訪神社境内へ移転されました。祭日は8月でしたが、現在は5月に行われています。」

 

 

拝殿右側の社務所               秋葉神社と津嶋神社

 

 

            邪気を祓(はら)う狛犬一対

 

両部鳥居を通り中山道に戻ります。

石段の隣に

上松材木役所御陣屋跡碑と説明板              

説明板によれば

「寛文3年(1663)から4年にかけて尾張藩は木曽総山の検見を実施し、その大半が伐られ、尽山も多いことに驚き、山村代官から山に関する一切の業務を取り上げ、上松の原畑の地に直轄の材木役所を作ったといいます。
 この役所は、南北65間、東西55間で3500坪という広さです。また、周囲を高土手や丸太で囲い、大砲まで備えた堅固な陣屋でした。中には、奉行屋敷・東長屋・中長屋・奥長屋があって、奉行・吟味役・調役・目代・元締・同心が常時詰めていました。
 また、陣屋内には、水天宮・三島大明神・伊勢神宮・熱田神宮・御岳大権現の5社を祀ってありました。」

尽山(つきやま)とは全山が伐採され荒廃した山の事。

 

 

小学校入口の階段の右側にある島崎藤村の文学碑。       

山はしつかにして 性をやしなひ 水は動いて 情をなくさむ 酒落堂之記より 藤村」と刻まれているそうです。私には全く読めませんでした。

松尾芭蕉の「洒落堂之記」の言葉です。 静の山に向かえば心そのものがゆったりとやしなわれ、動の水を眺めれば心の憂いがいやされるという意味だそうです。

 

 

小学校横の交差点角にあります。

斎藤茂吉の歌碑 

「駒ケ嶽見て そめけゐを背後にし 小さき汽車は 峡に入りゆく」

 

 小学校を過ぎ交差点を横断し坂を下ります。

 右側に心明霊神などの石塔群があります。

 

坂を下り「下町」信号交差点に出ます。右折します。

「広小路」信号交差点を左折します。

 

 

上松町はいたる所に「御嶽海」ポスターが貼ってありました。

御嶽海は上松町出身です。

 

JR上松駅に着きました。   時刻13:20

本日はここまでです。

14:08上松発の電車で帰ります。

 

次回は「中山道歩き 改定版 上松宿から藪原宿まで①」です。