「中山道歩き 軽井沢宿から松井田宿まで①」の続きです。

 

木戸跡を過ぎ、峠の湯入口から30m歩だ先の左側に

道標があります。

 「上州中山道筋坂本宿 丸仁屋跡」 側面に

「西 京へ百二里」 「東 江戸へ 三十四里」と刻まれています。

 

旅籠たかさごや跡

説明板によれば

「 小林一茶の定宿『たかさごや』

信濃国柏原が生んだ俳人小林一茶(1763~1827)は、郷土と江戸を往来するとき中山道を利用すると、「たかさごや」を定宿としていた。寛政・文政年間、坂本宿では俳諧・短歌が隆盛し、旅籠、商人の旦那衆はもとより馬子、飯盛女にいたるまで指を折って俳句に熱中したという。
 それで、ひとたび一茶が『たかさごや』に草鞋を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までかけつけ自作に批評をあおいだり、俳諧談義に華咲かせ、近くから聞こえる音曲の音とともに夜の更けることも忘れたにぎわいを彷彿させる。碓氷峠の刎石山の頂に『覗き』と呼ばれところがあって坂本宿を一望できる。一茶はここで次の句を残している。     坂本や 袂の下は 夕ひばり 」

 

旅籠つたや跡

説明板によれば

「 若山牧水宿泊の『つたや』

碓氷峠にアプト式鉄道が開通してから十五年後の明治四十一年ごろになると、繁栄を極めた坂本宿もすっかり見る影を失い寂れてしまった。
この年の八月六日、牧水は軽井沢に遊んでから碓氷峠を超えて坂本に宿をとろうとした。ただ一軒残っている宿屋『つたや』に無理に頼んで泊めてもらうことにした。寝についても暑さで寝つかれず焼酎を求めに出月下の石ころ道を歩きながらふと耳にした糸繰り唄に一層の寂寥感を覚え口をついて出たのが次の歌である。                                                                        秋風や 碓氷のふもと 荒れ寂し   坂本の宿の 糸繰りの唄 」

 

   坂本宿から見た刎石(はねいし)山

 

英泉の坂本宿の絵

旅籠かぎや跡

説明板によれば

「 坂本宿のおもかげ残す

『かぎや』

 『かぎや』は坂本宿時代のおもかげを残す代表的な旅籠建物である。伝承によれば、およそ三百七十年前、高崎藩納戸約鍵番をしていた当武井家の先祖が坂本に移住し旅籠を営むにあたり役職にちなんで屋号を 『かぎや』とつけたといわれる。まず目につくのは、家紋の雁金(かりがね)の下に『かぎや』と記した屋根看板である。上方や江戸に向かう旅人にわかり易く工夫されている。
屋根は社寺風の切妻、懸魚(けんぎょ又はげぎょ、屋根の破風に取りつけた装飾)があり、出梁の下には透かし彫刻が施されている。
 間口六間で玄関から入ると裏まで通じるように土間がある。奥行きは八畳二間に廊下、中庭をはさんで八畳二間、往還に面しては二階建て階下、階上とも格子戸である。
 宿場は街道文化の溜まり場である。坂本宿も俳句、短歌、狂歌をはじめとして、とりわけ天明・寛政のころは最盛期で馬子、飯盛女にいたるまで指を折って句をひねっていたという。当時の当主鍵屋幸右衛門は紅枝(べにし)と号し俳人としても傑出していた。 」

 

酒屋脇本陣跡(坂本公民館)。脇本陣は4軒あり、八郎兵工、永楽屋、永井家、酒屋でした。

 

    

永井脇本陣 永井家は立派な冠木門に切妻造の家屋です。

 
 

佐藤本陣跡   説明板によれば

「坂本に2つある本陣のうち当本陣は、「佐藤本陣」、また 「上の本陣」 と呼ばれていた。3代将軍家光は、寛永19年(1642)譜代大名にも参勤交代を義務付けた。そのため、文政年間では31大名が坂本宿を往来した。
 寛政2年(1790)8月8日、坂本宿で加賀百万石といわれた松平加賀守が江戸へ、信州松代真田右京太夫は帰国のため信州で擦れ違い、それぞれ宿泊している。
 東に碓氷関所、西に碓氷峠がひかえているため、坂本宿泊りが必然となり、本陣が2軒必要だった。
 安政6年(1859)2月、安中藩主板倉主計頭が大坂御加番(大阪城警備)を命ぜられ登城するとき、佐藤源左衛門と組頭の善左衛門は、安中藩の役人宅にお祝いに参上している。
 そして、御本陣番(御休所)は佐藤甚左衛門宅(佐藤本陣)で、諸荷物の伝馬継ぎ立ては問屋番の金井三郎左衛門宅(金井本陣)である。宿割りは脇本陣はじめとして16宿。板倉候はじめ藩士200余名は、7月17日朝五ツ半(午前9時)坂本に到着した。
 大名はじめ宮様、日光例幣使、茶壷道中で坂本宿は大変な賑わいであったが、その反面難渋も少なくなかった」

坂本小学校跡  説明板によれば

 「明治8年(18754月10日、佐藤本陣(上の本陣・佐藤慎一郎氏宅)を仮校舎にあて、坂本小学校が開校されました。
 その後佐藤家は移住、現在の家屋はその跡地に明治34年(1901)3月、小竹屋の分家、通称 「小竹屋」 として建てられたものです。


 

坂本宿金井本陣跡

ほとんどの大名や例幣使が坂本泊まりであったことから、多くの大名がこの金井本陣に宿泊した。

皇女和宮も宿泊された。

 

 

 『中村碓嶺(たいれい)』

  生誕の地 

『碓嶺』は1790年(安永9年)代々旅籠屋を営んでいる『中村屋』に生まれた。
姓は仁井田であるが、中村碓嶺と呼んでいる。坂本は碓氷嶺が迫る景勝の地であるので俳号もこれに因んでいるものと思われる。


坂本宿は、街道文芸として俳諧・短歌が発達したので地元に多くの廃人が傑出した。
『碓嶺』は幼少よりこれらの影響を受け、40数km離れた本庄に住む長庵に師事し遠路通ったという。そのため、めきめき頭角を表し当時、村上鬼城を横綱とすれば、髙崎で西馬、坂本で碓嶺が両大関といわれるほどになった。
弘化三年(1846没、67歳。辞世は、明る夜を かくす雲なし 時鳥(ホトトギス) 

 

  

「米屋」 米屋は屋号で、お米屋さんではなく民家です。

 

こんどうや跡 

 説明板によれば

「 多才だった『武井九夏』 『九夏』は、文化12年(1815)ここ、『こんどうや』に生まれる。
幼いときから学問に励みその多才ぶりは以下の自伝でもうかがい知ることができる。  われ7歳にして学問に入り、9歳にして歌俳諧に心ざし、12歳より書画に心を書しかくの如く老年に至るまで風雅をすてずと 雖も(いえども)何一つとる所なし。
ある時、竹を画きて其讚に呉竹の千尋のかげは写しても世にとどむべき一ふしもなし竹を好むによりて、またその名を竹翁の号し一筋に直なるかげを写しおく。

 竹のおばなをあわれにも見る。 真弓迺舎翁   九夏  明治37年89歳で没す。なお、同人は郷土の俳人中村碓嶺の弟子である」

 

下木戸跡  説明板によれば

「慶長七年(一六〇二)、江戸を中心とした街道整備が行なわれたとき五街道の一つとして江戸・京都を結ぶ中山道 百三十二里(約540km)が定められ、この間に六十九次の宿場ができた。

その一つに坂本宿 が設けられ宿内の長さ三百九十二間(約七一三m)京都寄りと江戸寄りの両はずれに上木戸・下木戸が作られた。本木戸は下木戸と称せられ当時の設置場所に一部復元したものである。木戸は、軍事・防犯などの目的のため開閉は、明け六ツ(現在の午前六時)から暮れ六ツ(現在の午後六時)までであった。実際には木戸番が顔が識別できるころで判断したようである。

文久元年の絵図によると、八間一尺巾(約一四、八m)の道路に川巾四尺(約一、三m)の用水路が中央にあり、その両側に本陣、脇本陣に旅籠、商家百六十軒がそれぞれ屋号看板をかかげ、その賑わいぶりは次の馬子唄からもうかがい知れる。

  雨が降りゃこそ松井田泊まり ふらにゃ越します坂本へ 」

 

高速道路下を通ります。

 

水神宮  説明板によれば、

「当祠は水神を祀ってある。もとは現在地よりやや東の当時の原村(現在の松井田町大字原)のはずれにあったという。
 坂本宿が整備される以前に原村は、40戸あまりの集落があって、中山道間延絵図によると、道路の端に流れてきた堀を屈曲させて村のはずれから道路中央に流れている様子がみえる。これを原村の住民は生活用水として利用していた。この用水路の起点に、清浄と安全と豊富を願って水神を祀ったものと思われる。

  水神は、川・井戸・泉のほとりに設け、飲み水や稲作の水を司る民間信仰から生まれた神である。現在、水は容易に安全に得られることから、ともすれば粗略に扱い勝ちである。水神を詣でることで水への再確認を深めたいものである。

  清き水 掬(きく)して喉を 潤へり 峠越えゆく 気のみなぎけり (古歌)

 

白髭神社入口

 説明板によれば

「12代景行天皇の命により日本武尊は東国を平定し、帰途、武蔵・上野を経てこの碓氷嶺東麓川久保坂に差し掛かった。
 その時、山の神は白鹿に化け尊の進路を妨げた。尊は蛭(ひる)を投げて征せんとすると、濃霧たちまち起こり進路きわまった。すると、剣を持った白髭の老人が現れ、白鹿を撃退したので尊は濃霧から脱することができた。
 尊は、白髭の老人の霊験をみたのは天孫降臨を先導した猿田彦命の加護と思い、石祠を建てて祀った。
 時に景行天皇40年(240)白髭の老人にちなみ白髭神社の創立となった。 なお、尊が濃霧を避難した岩を不動尊の岩と呼び、そこから落下する滝を苧麻(ちょま)の滝という。この滝を白髭神社の前宮として飛滝大神を祀る。白髭神社の祭神は、猿田彦命・日本武尊・飛滝大神である。 本神社は、約50m奥にある。

 

 

石鳥居の隣に二十三夜塔と男女双体道祖神       白髭神社拝殿

 

  

境内の庚申塔                  境内から見える妙義山

 

中山道に戻ります。150mほど先で国道18号線から左の細道に入ります。

 

  薬師の湧水                               

川久保薬師堂

 説明板によれば、

 元和9年(1623)碓氷関所が開設されて通行の取り締まりに厳しさが増し、加えて碓氷峠が間近にひかえているために旅人は難渋を極めた
 そこで、無事通過の願いと感謝を込めてこの坂に薬師如来を祀る薬師堂が建立された
 また、近くに清澄な湧水があるところから心太(ところ
てん)を商う店があり、旅人たちはここで憩ながら旅装を整えたり街道の事情を知る場であった。このところから心太阪と云われ親しまれた。
 薬師如来は、治癒に霊験あらたかということで近隣からの参拝客も多くあり、例祭が桜の咲く4月18日なので市も立つほどの賑わいぶりであった。

現在では、その影もひそめ地元で講を開き本堂を守っている。

 

 

 

川久保薬師坂と刻まれた石碑

川久保橋説明板

説明板によれば、「 碓氷関所時代、現在地霧積橋よりやや上流に川久保橋が架けられていた。
 この橋は、正しくは碓氷御関所橋と呼んで中山道を結んでいたが、橋桁の低い土橋であったため、増水期になると度々流失した。
 関所設立当初は軍事目的を優先したからである。橋が流失すると川止めとなり、旅人や書状などの連絡は中断された。
 このため、関所には、大綱一筋、麻綱一筋が常備されていて、宿継ぎ御用綱として使われ、書状箱を対岸に渡すことに使われた。
 細い麻綱を投げ渡して大綱を張り、大綱に竹輪を通して麻綱を繰り、丁度ケーブルカーのようにして書状箱を渡したという。川止めとなっても増水の危険を冒して渡河する人もいた。中でも参勤交代の大名行列は日限も予定されているので、渡河を強行したという。
 大名の渡河に際しては、番頭も川原に罷り出て見届けた。

 

 

霧積川の霧積橋を渡ります。               碓氷馬車鉄道顕彰碑前を通り、

                                                       旧碓氷アプト式鉄道のガード下を通ります

ガード下を通り直ぐに右側の細道に入ります。

鎮魂碑と招魂碑

碓氷峠は幾多の交通機関の変遷をたどり、信越本線の廃線など各種交通機関の建設に当たって殉職された者や災害、交通事故のため亡くなった者の慰霊のために鎮魂碑を建立したものである。隣には、碓氷アプト式鉄道の建設のため亡くなられた鹿島組の招魂碑が建っている。

説明文の最後の一行が心に残りました。

「遊子願わくば一遍の回向を賜らんことを 合掌」

 

中山道に戻るとすぐ左に碓氷関所跡の石段があります。

碓氷関所跡   

碓氷峠にあった関所を、元和年間にこの地に移しました。
入り鉄砲に出女の取締りを主とした要所で、門柱や門扉は当時もので、総ケヤキ材の堅固な造りです。

 

立派な門も今はお猿さんが住みついています。

 

碓氷関所の門 

説明板によれば、

「醍醐天皇の昌泰2年(899)に群盗を取締るために、関所が碓氷坂に設けられた。
 この地に関所が移ったのは、元和年間(1615-23)といわれ、幕藩体制を中心とした、徳川幕府の確立・安定という政治的意味をもつものとなり、いわゆる 「入鉄砲に出女」 の取締りをねらいとしたものになった。明治2年(1869)廃関されるまで中山道の要所となった。
 門柱および門扉は当寺使用されていたもので、総ケヤキ材の要所に金具を用いた堅固なものである。ほかに屋根材6点と台石も当時のもので、昭和34年1月、東京大学教授工学博士藤島玄治郎氏の設計により復元された。

この位置は番所跡にあたり、復元された門は東門である。(松井田町教育委員会)」

 

碓氷関所の沿革の説明板によれば

説明板によれば、「東海道箱根関所と並び称される中山道碓氷関所が、現在地に設置されたのは元和9年(1623)でした。横川は碓氷峠山麓の3つの川が合流し、険しい山が迫って峡間となり、関東の境を守る関所要害としては最適の場所でした。
 寛永10年(1635)に参勤交代が行われるようになると、徳川幕府は関所で 「入り鉄砲に出女」 を厳しく取り締まりました。関所手形を提出させ、鉄砲などの武器が江戸に持ち込まれることや、人質として江戸に住まわせていた大名の妻子が国元へ逃げ帰るのを防いだのです。
 しかし18世紀後半以降になると、街道交通の増大に対応を迫られ、関所の改めも緩やかになります。享和3年(1803)以後は 「女改め」 が簡略化され、ついに徳川幕府が倒れると、新政府は明治2年  (1869)2月に関所を廃止しました。
 碓氷関所の構えは、中山道を西門(幕府管理)東門(安中藩管理)で区切り、間の52間2尺(約95m)を関所内として木柵などで囲い、碓氷峠の登り口に堂峯番所を置いて二重に監視しました」

 

東門の位置の標柱     元々、関所の東側の門がここにありました。

 

  

東門の位置から200m程先に諏訪神社の社標があります。  諏訪神社鳥居 

 

諏訪神社の先に群馬県指定史跡横川の茶屋本陣碑があります。

横川茶屋本陣跡の説明板によれば、「この茶屋本陣は、代々横川村名主を勤め幕末の頃は坂本駅の助郷惣代をも兼ねた武井家の西の一部である。棟は居宅と同一であるが、居宅分は二階があり、本陣の方は二階を作らず天井を高くしてある。

居宅と本陣との境は三尺の畳敷の廊下で区切られ襖が奥まで通じている。
 本陣は型通り控の間が2間あり、その奥に8畳の上段の間がある。
 裏庭は 「皐月」 を配した石組みの平庭で池があり風情があるが、外敵に備えるものであろうか、大きい木は植えていない。碓氷関所に一番近い茶屋本陣として興味深いものがある。

 (松井田町教育委員会)」

 

矢野沢橋を渡ると石垣の上に大きな碑が建っている。

  
御嶽山座王大権現              手前の草むらには、庚申塔、二十三夜塔などがあります。

 

案内に従って川沿いに坂を上ると水天宮があります。

 

中山道に戻ります。

右側に横川駅があります。

JR横川駅 信越本線の群馬県側における終着駅です。

駅前に有名な峠の釜めし屋さんがありました。

 

  

踏切を渡り国道18号に合流します。      国道18号と 信越本線に沿って歩きます。   

踏切から400m程進むと大きな欅があります。

そこを右に入ります。

 

風化した石仏(左)、灯籠 、         百合若大臣の足痕

弘法大師像を祀った石祠があります。

                   百合若大臣の足痕説明板によれば、

「この石は、百合若大臣が足で踏みつぶしたので、石の上がへこんだと言われています。
 その昔、百合若大臣という大男の若者がいて、力も相当あったらしく大きな弓と長い矢で、川向うの山に向け 「よしあの山の首あたりを射貫いてみよう」 と思いつき、満身の力をこめて射はなった。その時、後足を踏ん張っていたのがこの石と言われています。
 これを見ていた家来の一人も負けじとお思い、腰にぶら下げていた弁当のむすびを力一杯放り投げ、山には二つの穴があきました。
 それで今でも穴が、ここから見ると夜空の星のように見えるので、この山を 「星穴岳」 と呼ぶようになったと言われています。
 百合若大臣がこの時使った弓と矢が妙義神社に奉納されています」

 

ここ先で「小山沢」信号交差点で国道18号線に合流し歩道を歩きます。

 

 

右側に入ります。入りとすぐ左に庚申塔、馬頭観音、南無阿弥陀仏名号碑、道祖神

 

 

ここで左折します。    18号線「御所平」押し釦信号を横断し踏切を渡り右折

 

  

左に石祠、庚申塔と二十三夜塔があります。 碓氷神社の扁額が掛かる両部鳥居

 

 参道石段の上に碓氷神社拝殿

碓氷神社由緒によれば、「創立年代不詳なれど碓氷峠熊野神社の御分霊を戴き碓氷郷の鎮守産土神として従来より篤く崇敬せらる。
 慶安年間(1648-52)に社殿を改築し碓氷峠山麓の里宮として碓氷神社と呼ぶ。
 明治42年3月氏子の総意により許可を得て下木に祭祀せる菅原神社、小竹に祭祀せる波古曽神社、平に祭祀せる諏訪神社、横川に祭祀せる八幡宮、その他五料の郷にある諸社等々を合併合祀し今日に至る。
 大正3年村社に指定せらるもその後神社制度の改革等により現在宗教法人碓氷神社となる。
伝説 一、建久年間(1190-99)源頼朝公、信州浅間の牧狩りの際当神社に祈願せられ、境内に御所を置かれしにより以来此の地を御所平と呼ぶようになった。
   一、正応年間(1288-93)鎌倉北条氏此の地信州より関東の入口なるを以って碓氷郷総鎮守として崇敬せらる光明天皇(1337)は碓氷一宮と定められ崇敬祈願さる」

 

中山道に戻ります。

先を進むと左の土手上に

  

馬頭観音があります。その先にまた馬頭観音があります。また馬頭観音があります。

 

馬頭観音と地蔵菩薩  左下に茶釜石 

茶釜石 説明板によれば、「 この奇石は、もと旧中山道丸山坂の上にあったものです。たまたま、ここを通った蜀山人(太田南畝)は、この石を叩いて珍しい音色に、早速、次の狂歌を作ったといいます。
 「五料(五両)では あんまり高い(位置が高い) 茶釜石 音打(値打ち)をきいて 通る旅人」
 この石は、叩くと空の茶釜のような音がするのでその名がある。
 人々は、この石を叩いてその不思議な音色を懐かしんでいます。
 五料の七不思議の一つに数えられています」 


「夜泣き地蔵の話」

夜泣き地蔵は昔、馬片が荷のバランスが悪く難儀しながらこの地まで来ると、偶然にも地蔵の首が落ちていた為、重りとして利用しました。その後、馬方は容易に荷を運ぶ事が出来、目的地である深谷で荷物を下ろすと地蔵の首も必要がなくなり棄てしましました。すると地蔵の首は口を開き「五料に帰りたいよ~」と毎晩泣き叫ぶようになり、哀れと思った深谷の住民が元々安置されていた五料に運び胴体に乗せたそうです。その後、地蔵は泣く事は無くなり道中の人々の安全を見守っていると伝えられています。                              

 お地蔵さん足下にの首があります.

 

広重の松井田宿の絵

 

すぐ先に馬頭観音や庚申塔があります。        その先に道祖神です

  

 

 

 

「榎」踏切を渡り左折します。  踏切から300m程先に松井田宿五料の茶屋本陣

                                                        案内板があります。 左折します。           

 

  

「安中藩 板倉伊豫守領分 五料村 高札場跡」  五料の茶屋本陣・お東 

の前を 通り踏切を渡ります。

 

  

               五料の茶屋本陣お西碑

    

五料の茶屋本陣お西碑  説明板によれば

「五料の茶屋本陣・お西は、江戸時代の名主屋敷であるとともに茶屋本陣でもありました。茶屋本陣は、中山道を参勤交代などで行き来する大名や公家などの休憩所として置かれたものです。
 この 「お西」 中島家は、16世紀末から代々名主役を勤め、特に、天保7年(1836)から明治5年(1872)までは 「お東」 と一年交代で名主を勤めていました。
 この建物は、「お東」 と同年(文化3年)に建てられたもので、間口13間、奥行7間の切妻造りで、両家の母屋の規模、平面ともほとんど同じです。
 白壁造りのよく映えた屋敷構えに当時を偲ぶことができ、中山道の街道交通などを知る貴重な史跡です。 (松井田町教育委員会)」

お西は昭和33年8月1日、お東は昭和59年12月25日に群馬県史跡に指定されました。

 

明治11年9月6日に明治天皇が北陸東海道御巡幸の折 「御小休所」として使われた。

お西は昭和48(1973)年中島公男氏から町に寄贈されました。

 

中山道に戻ると左側の床屋さんの庭に

 

二十三夜塔と庚申塔があります。

 

この先高速道路の下を通り国道18号線の歩道を進みガードレールの切れ目から横断します。(横断歩道ではありません)

ガードレールの切れ目からこちら側に駆け足で横断。

 

横断して直ぐにY字路を左に入ります。 

 

新堀一里塚跡   

 説明板によれば、「この場所は、松井田町大字新堀字漆原一里山といいます。

 明治20年代までこの中山道を挟んで南側と北側に一里塚がありました。
この立札の南方およそ10mに南側の一里塚がその跡をとどめています。

 (松井田町教育委員会)

 

この先で県道に合流します。

 

曹洞宗の大泉山補陀寺

開祖は無極慧轍(むごく  えてつ)曹洞宗の創始者である道元禅師(1200-1253)の教義を受け継いでいる寺です。松井田城主大道寺政繁の墓があります。

 

この先で松井田宿に入ります、時間が足りないので松井田宿の紹介は次回にします。

松井田宿を通り「かんべや」の角を右折して松井田駅に向かいました。

 

JR松井田駅

中山道を離れJR松井田駅へ。

8時間30分歩いた後のこの見上げる階段びっくり

 

15:18松井田駅→高崎→長野→19:08中津川で帰ります。

次回は、梅雨明けの暑い日を避けて歩こうと思います。

 

次は「中山道歩き 松井田宿から高崎宿まで」です。