中山道歩き 大津宿から京都三条大橋まで①の続きです。

 

最後の難所「日ノ岡峠」が見えます.

 

  

長屋門の旧家の向かい側の地蔵堂     三条通りに合流し右に進みJR線の下を通ります

 

天智天皇陵宮内庁の禁札

第38代天智天皇の陵です。構造は上円下方墳。上円部の直径は約49m。

下方部は二段構成で、上段が一辺約46m、下段が一辺約70m。

参道入口には、天智天皇が日本で最初に水時計台を造ったという故事にちなんで、石造りの日時計が立っています。

 

参道入口の三条通り沿いにある「日時計」

昭和13年(1938年)に「京都時計商組合」が20周年を記念して建立したものである。

日時計の上側にある「天恩無窮」の篆書体

天が穏やかであれば窮する(困る)ことは無い、世界とその未来が平和であることを願う言葉だそうです

 

日時計のある所から三条通りを横断して反対側に行きたいのですがここも車が多くて横断できません。

仕方なく先の方に見える信号まで行き横断して戻ります。

ここに戻り右折します。住宅街の細い道に入ります。

 

 

 いよいよ中山道&東海道最後の上り坂です。

 

急な上り坂の途中に亀の水不動尊があります。

亀の口から水が出ています。工事中でした。

    

亀の水不動尊の先に大乗寺入口があります。 

法華宗。縁起は古く300年以上前に遡るが、近年は檀信徒が殆どなく、廃寺の危機にあったところ、1993年現住職の着任以来、寺の復興が図られてきた。現在では、毎年秋になると、 1300本以上の酔芙蓉が境内に咲き誇る。境内には日蓮の晩年の歌碑や百人一首「源宗干朝臣」「宗千の祖父第五十八代光孝天皇」の歌碑、京都市詩吟連盟の歌碑他ニ基の歌碑が立つなど、文学の寺としても親しまれている。平成15年の春近藤氏の寄贈になる酔芙蓉観音像が建立され多くの人々の参詣を得ている。

 

 

地藏堂が次々と現れます

 

 

旧東海道碑          日ノ岡の峠道 説明板によれば

「この道は、江戸時代には東海道と呼ばれ、日本を代表する街道の一つであった。江戸幕府を開いた徳川(とくがわ)家康(いえやす)が整備したものである。
東海道では幕末まで車の往来が禁止されていたが、都に近い大津・京都間だけは例外であった。人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道(くるまみち)を分けて、車道には舗石が並べられ車石と呼ばれていた。
当初、この辺りの日ノ岡の峠道は、大津から京都への難所の一つで、牛車の通る車道は深くえぐられて、人馬が通る道との段差が生じ、雨が降るとぬかるんで牛車を立ち往生させていた。
そこで木食(もくじき)正禅(しょうぜん)上人(しょうにん)が享保19年(1734年)頃から道路の改修に取り組み、車道に土砂を入れ人馬が通る道との段差を無くしたり、峠の頂上を掘り下げ、その土砂を坂道に敷いてゆるやかな勾配にするなど工夫し、元文3年(1738年)に改修を完成させた。こうして峠道は大きく改善されたのである。
またその後、木食正禅上人は、峠道近くに「梅(ばい)香(こう)庵(あん)」を建て峠道の維持管理をすると共に、井戸を掘り、水を亀の口より落として量救(りょうぐ)水(すい)と名付け、旅人や牛馬の乾きを潤したり、石の竈(かまど)を設けて湯茶の接待をしたりした。京都市」

こうして峠道は大きく改善されました。
 

 

地藏堂が続きます。 

 

三条通りに合流します。

 

車石  説明板によれば

「平成9年10月の京都市営地下鉄東西線の開業に伴い、廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し、三条通の四車線化及び歩道の整備事業を実施した。
 本事業の完成を記念して、三条通の舗石として敷設されていた車石を利用し、往年の牛車道を模した広場を設置する」

 

粟田口刑場跡

車石の広場の先の左手法面の上に粟田口刑場跡がある。粟田口刑場は江戸時代より前から刑場として機能していたとされ、罪人総数約15000人ほどが処刑されたと云われている。天王山の戦いに敗れて殺された明智光秀の遺体が晒されたところであり、南無妙法蓮華経題目碑と萬霊供養塔が建っている。

 

  三条通りの向こう側に地藏堂  

                  

その先に日向大神宮があります。

 

蹴上浄水場

京都市上下水道局によれば、日本最初の急速ろ過式浄水場として明治45年1912年)4月から給水を開始しました。

そのときの給水能力は1日68,100㎥でしたが,その後,水需要の増加に対応するために,昭和37年(1962年)11月には,創設期の第1系統の改良とともに,新たに第2系統が新設され,給水能力が1日198,000㎥になりました。しかし,創設当初から第1系統の施設は老朽化し,第2系統の施設も原水の水質悪化時や処理水量の急激な変動時に対処できなくなったため,全面的に更新することとなりました。そこで,平成9年1997年9月に第1系統を休止して撤去した後に,新たに着水井,ちんでん池,ろ過池などを建設し,平成15年2003年10月に第2系統を休止し,新しい施設に切り替え,給水能力は計画の半分である1日99,000㎥になりました。その後,平成24年2012年9月に,ちんでん池の増設工事が完了し1日198,000㎥になりました。

 

道路の反対側にトンネルが見えます。「ねじりまんぽ」です。

「まんぽ」とはトンネルの事です。

「ねじれ」は耐久性を高めるためにレンガを斜めに積み上げてあります。

上のインクラインとも斜めに交差しています。こうすることにより上からの大きな圧力に耐えるそうです。明治時代の土木遺産です。

 

道下に「蹴上発電所」があります。

琵琶湖疏水を利用した日本初の一般供給用水力発電所「(第1期)蹴上発電所」は、明治24(1891)年に運転を開始しました。第1疏水の建設において、当時最先端の水力発電の導入に舵を切ったことが、事業が成功する大きな要因となりました。 蹴上発電所において発電した電気が京都の街灯や工業用電力、日本で初めて営業を開始した電気鉄道(京都電気鉄道株式会社)に使われるなど、京都ひいては日本の産業の近代化に貢献しました。 現在、明治45(1912)年2月に完成した第2期蹴上発電所の建物が保存されており、関西電力株式会社によって、定期的に見学会が行われています。現行の第3期蹴上発電所は、現在も水力発電を行っています。 蹴上発電所は、平成28(2016)年度に、世界的な電気・電子技術の専門家組織であるIEEEより、「IEEEマイルストーン」に認定されました。(日本遺産HPより)

 

インクラインを見学します。

疏水上流の蹴上船溜と下流の南禅寺船溜を結んだ全長約582mの傾斜鉄道で、建設当時世界最長でした。約36mの高低差を克服するために舟を台車に乗せ、ケーブルカーと同じ原理で運びました。インクラインによって、舟は貨物の積み下ろしをせずに、高低差を乗り切ることができました。現在は、レールが形態保存されています。インクラインの中は自由に歩くことができ、観光名所としても親しまれています。春には、インクライン両側の桜が咲き誇り、華麗な様相を見ることができます。(日本遺産HPより)

 

東海道に戻り三条通りを下ります。

ウェスティン都ホテルの隣に左側に佛光寺本廟が見えます。

佛光寺は、越後に流罪となった親鸞聖人が赦免後の翌年建暦2年(1212)に京都に帰られ、草庵を結んだのが草創と伝えられている。

 

粟田神社

スサノオノミコト・オオナムチノミコトを主祭神として祀り、厄除け・病除けの神と崇敬される。京都の東の出入口である粟田口に鎮座する為、古来東山道・東海道を行き来する人々は旅の安全を願い、また道中の無事を感謝して当社にお参りされ、いつしか旅立ち守護・旅行安全の神として知られるようになる。
祭には神輿に先行して剣鉾が巡行する。剣鉾は祇園祭の山鉾の原形と云われており、 室町時代には祇園会が行われない際は粟田祭をもって御霊会としたと伝えられる。
一説には奈良朝より活躍した粟田氏の氏神として創建された社とも云う。

 

「三条神宮通」を過ぎ左側歩道の四角い郵便ポストのあるマンションの前に

坂本龍馬・お龍結婚式場跡があります。

説明板によれば

当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。 元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は 「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。 龍馬とお龍の出会いや「内祝言」 の具体については、明治32年(1899)ごろに聞き取られた彼女の回想に詳しい。お龍は1906年まで生きていました。
 一般には、慶應2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎一郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだように言われますが、この話は根拠が薄く、他の史料との検討から、お龍の話こそ信用すべきだと思われます。
 この地が選ばれたのは、お龍の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。
 当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)の起きたあとで、京都は物情騒然でした。しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍を寺田屋などに託します。二人は長く別居夫婦だったのです。 当地を京都における龍馬とお龍の重要史跡として、ここに建碑します」

 

すぐ先の白川橋の袂に

三条白川橋道標があります。

延宝6年(1678年)設置された京都における現存最古の道標です。

「是よりひだり ちおんいん ぎおん きよ水みち」と刻まれています。

道標の左の柱に明智光秀塚2分と案内があります。

ここを左折して「明智光秀塚」に向かいます。

和菓子屋さんの角を左に曲がります。

明智光秀首塚

説明板によれば

「天正10年(1582)、本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、 近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われて自刃、最後を遂げたといわれる。 家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている」

 

東海道に戻ります。

白川を渡ります。

 

高山彦九郎
高山彦九郎は、江戸時代後期の尊皇思想家です。各地を遊歴して勤皇論を説き、吉田松陰など幕末の志士に影響を与えました。彼は三条に足を運ぶ度に御所の方角に向かって膝をついて拝礼をしていたため、その姿が銅像になったのでした。

 

三条大橋  説明板によれば

「この橋の架けられた年代については明らかでなく、室町時代前期には、すでにごく簡素な構造をもつ橋として鴨川に架けられていたものと推定されるが、本格的な橋となったのは天正18年(1590)で、豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造を行ってからです。
また、擬宝珠(ぎぼし)は天正と昭和のものが混用されているが、その銘によると、「洛陽三条の橋は後代に至るも往還の人を化度(けど)とせしむるもの也、磐(ばん)石の礎は地に入ること五尋(ひろ)、切石柱は六十三本也(以下略……)」とあり、いかに大工事であったかをうかがわせます。
かつてはここが東海道五十三次の西の起点にあたり、重要な交通上の要衝であった。以後たびたび流失したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復された。元禄以来、たびたびの改造を経てきたが、昭和25年の改造によって今の姿に改められた。現在の橋の長さは74メートル、幅15.5メートル。なお、橋の西詰め北側には、高札場とされたところで、現在も天正年間の大改造の際に使用された石の柱が残されています」

写真は池田屋騒動の刀傷が残る擬宝珠です。

 

橋を渡ると右側に高札場跡と旧三条大橋石柱があります。

天正18年豊臣秀吉により大改造され石柱はその時の物です。            

 

「東海道中膝栗毛」にちなんで、弥次さん喜多さんの銅像があります。

 

大津宿から京都三条大橋までは2度歩きました。

1度目は雨降りでした。ブログの画像は1度目と2度目が混在しています。

 

これで中津川宿から京都三条大橋までの中山道歩きは終わりますが、次は中津川宿から日本橋までが始まります。