令和4年(2022年)5月6日

歩いた時間  4時間30分    歩数  26,552歩

 

前回終了した馬籠宿「上陣場跡」よりスタートします。   時刻 9:35

前回は雲にかかって見えなかった恵那山が今日は良く見えています。

 

 

馬籠宿には観光客は多いのですが、ここから妻籠宿に歩いて向かう人は殆どいません。

 

 

狭い上り下りの山道を抜け中津川南木曾線(県道7号線)に出ます。 

・・・・元気のいい外人女性が2人で歩いていました。

思い切って片言英語で聞いてみました。スペインから来たそうです。妻籠まで歩くそうです。

 

中津川南木曾線(県道7号線)に合流します。

 

 

橋を渡り右の中山道に進みます。      熊が出そうな道です。

 

 山道を抜けました。「中山道」の道標があります。

 

県道を横断しました。

 

県道を横断した先に水車のある休憩所があります。

「水車塚の碑」 説明板によれば 山家にありて 水にうもれたる 蜂谷の家族四人の記念に
 明治37年(1904)7月、水害のためにここにあった家屋は一瞬にして押し流され、一家四人が惨死した。 難を逃れた家族の一人、蜂谷義一は、たまたま藤村と親交があったことから、後年に供養のため藤村に碑文を依頼して建てたものがこの 「水車塚」 である。

 

 

水車小屋脇にある説明板

 説明板によれば 「峠の集落」
この坂を上り詰めると、峠の集落がある。
 宝暦12年(1762)に集落の殆どを焼失する大火があった後、火災が無いことから、この集落の家屋は江戸中期以降の姿を今に留めている。 

江戸時代、この集落の人々は、民間の荷物を運搬する 「牛方」 を稼業としており、俗に 「岡船」 と呼ばれ、美濃の今渡から遠くは長野の善光寺辺りまで荷物を運んだ。

 安政3年(1858)8月の、この牛方と中津川の問屋の間に起きたストライキは、藤村の 「夜明け前」 にも登場する

他に「名物栗こわめし」や「水車塚」の説明が書かれていました。

 

梨子ノ木坂  熊よけの鐘と熊出没注意の表示板があります。 

 

県道を2度横切った先の休憩小屋に 

休憩小屋にある十返舎一九狂歌碑

「渋川の むけし女は見えねども 栗のこわめし ここの名物」

古くから峠の名物は栗こわめしであった。江戸期の戯作者十返舎一九は文政2年(1819)に木曽路を旅して 「岐蘇街道膝栗毛」 の馬籠宿のくだりで、このような狂歌を詠んでいる。

 

中山道と分かるように特別な舗装がしてあります。

道は上り坂になり馬籠峠集落に入ります。

右側は牛方衆組頭今井仁兵衛住宅跡(中津川市景観重要建造物指定)

平成17年2月13日までは長野県木曽郡山口村馬籠の峠集落でした。

生活文化圏が中津川市に属するため、早くから越県合併紛争が起こっていました。

平成の大合併で再び越県問題が持ちあがり、平成17年2月13日をもって岐阜県中津川市馬籠の峠集落となりました。

 

牛方衆組頭今井仁兵衛住宅跡

 

熊野神社

 

 

熊野神社脇の「明治天皇峠御膳水」碑     明治天皇御小憩記念碑

 

熊野神社拝殿

 

再び県道に合流します。この先は長野県。 

 

 馬籠峠  標高790m。 かつては801mでしたが道路を作る際に峠を削ってこの標高になっています。

 

今も峠の茶屋があります。         茶屋横の藪の中に正岡子規の句碑

                     「白雲や青葉若葉の 三十里」

 

峠の茶屋横の南木曽町妻籠宿保存地区説明板によれば

「妻籠宿は室町時代末期には、すでに宿場として成立していたと考えられ、慶長7年(1602)幕府が中

山道に67宿を定めたとき、妻籠宿はその一つになった。

保存地区は東西約3.8km、南北約5.5km、面積約1、245.4haで、地区内に233棟の伝統的建

造物があり、地域的に宿場、寺下、在郷の3地区に分けられる。

宿場は上・中・下町を中心とし本陣・脇本陣・問屋が置かれた。建物は出梁により二階を張り出した切

妻造、平入が特徴で、江戸時代末期から明治にかけて再建されたものが多く、大規模な建造物も多い。

寺下は光徳寺の門前町の形態をなし、一般に間口が狭く建物は小規模である。

在郷には、旧中山道に面した町家風の建物と付近に点在する農家がある。

妻籠宿では、昭和43年から町並保存事業が行われ、53棟の復元を完了し、今後長期にわたり整備

を行う予定である。宿場保存の中心は、住民の総意で宣言した 「妻籠宿を守る住民憲章」 といえよう。  (文部省・南木曽町)

 

道標 「旧中山道☞」と刻まれています。

 

「馬籠峠標高790m」と書かれた標識の右側の道を下りて行きます。

かなり急な下り坂です。

 

得意の下り坂。

 

苔むした石仏群

 

南無阿弥陀仏名号碑、三界萬霊塔などの石塔群 

 

立場茶屋

 説明板によれば「 立場茶屋は宿と宿の中間にあって、旅人に休息と利便を与えた。一石栃は妻籠宿と馬籠宿の中間に位置し、往時は7軒ほどの家があって栄えていたが、今ではこの牧野家住宅一軒だけになっている。
牧野家住宅は江戸時代後期の建物で、当初は間口が10間半もある大きなものであったが、現在は南側が切り取られて8間に縮小されている」

今は休憩所になっていました。

 

一石栃の白木改番所跡

木曽から移出される木材を取り締まるために設けられたもので、檜の小枝に至るまで、許可を示す刻印を焼いてあるかどうかを調べるほど厳重だったと言われています。

 

 

枕木を利用した階段            木橋

 

さわら大樹

樹齢約300年と推定される。このさわらの下枝が立ち上がって特異な枝ぶりとなっているが、このような形の枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)という。昔から山の神が腰掛けて休む場所と信じられており、傷つけたり切ったりすると祟られると言われていました。

 

馬籠峠出口

 

県道を横断し再び旧中山道に進みます。

 

橋を渡ります。  県道に合流します。

 

橋の手すりに迂回路の案内がありました。

 

 

ここが通行止めでした。県道を歩き男滝、女滝に向かいます。

 

男滝女滝入口 

 

手すりにつかまりながら恐る恐る下りました。

 

右側に女滝が見えます。

 

 橋を渡ります。

 

男滝女滝の説明板によれば

「この滝は、木曽に街道が開かれて以来、旅人に名所として親しまれ、憩の場であった。滝及び滝壺は、洪水や蛇抜けなどで高さや深さが減じているが、なお往時の姿をとどめている。
 この滝には、滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が伝わっている。また吉川英治著 「宮本武蔵」 の舞台にも取り上げられている。
 滝に向って左が男滝、右が女滝である。滝周辺は険阻なため、道はしばしば付け替えられ、幕末頃までの中山道は滝の下を通っていたものと思われる。現在滝上を通っている道が歴史の道である」

 

滝の飛沫がすごいので早々に退散します。

 

途中でカモシカを見ました。カメラを向けるとさっと走り去りました。

ここを右折します。

 

  

倉科祖霊社  説明板によれば

「ここには、松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝軌の霊が祀られている。
 伝説では、七郎左衛門は京都へ宝競べに行く途中、この地で盗賊のために殺されたとされているが、史実は次のようである。
 七郎左衛門は、主人貞慶の命を受けて大坂の豊臣秀吉のもとに使いに行き、その帰りに馬籠峠でこの地の土豪たちの襲撃にあい、奮戦したがついに下り谷で、従者30余名とともに討死してしまった。時に天正14年(1586)3月4日のことであった。
 当時、木曽氏と小笠原氏は、何度も兵戈を交えており、そうした因縁からこの争いも起きたと思われる」

 

 

木橋を渡ります。          木々の間から集落(旧明神村)が見えます。

 

  

 

 

牛頭観音 

石の多い急な坂道を重い荷物を運ぶため、黒牛が使用されたそうです。

 

 

 

 

 

下り谷の一里塚   江戸から79里目の一里塚跡です。  

 

  

石畳の坂を下り県道に出ました。        道標に「とうがめ沢 下り谷を経て馬籠峠へ」

 

  

大妻籠の「民宿 こおしんづか」    道標「中山道庚申碑」妻籠2.2kmここを左折

「中山道庚申碑」説明板によれば

「庚申碑について Koshin stone monument

庚申の日は六十日毎に巡り、年に六日あります。この日の夜に人々が集まり、徹夜で念仏を唱えたり世間話をして、朝に解散する風習がありました。これは人の体内に「三尸の虫」(さんしのむし)という霊虫が住み、人々が寝静まると体内から出て天界に昇り、天帝にその人の悪行を告げ口し、怒った天帝がその人を早死にさせると言い伝えられており信仰されていました。ですから、庚申の日は夜通し起きて、虫が体内から出ないようにします。これを「庚申待」といいます。おそらく最初は「庚申待の夜は厳かに過ごす」ものだったと思われますが、娯楽の乏しかった平安時代から「二ヶ月に一度の楽しい夜通しの宴」となり全国に広がりました。中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石碑です。
It is a stone monument based on the Koshin belief originating from Taoism introduced from Chaina.
平成27年度地域発元気づくり支援金事業 」

 

小さな橋を2つ渡った左側に県宝藤原家住宅説明板があります。

説明板によれば

「県宝藤原家住宅 Nagano prf. Tresure The House of Fujiwaraa

この坂(左右どちらの道でも行ける)を登った上平に、県宝藤原家住宅がある。この住宅は改造が大であったが、当初部分は県内民家で最も古いクラスで、建築年次は、間取り・構造・仕上がりから、十七世紀半ばまでさかのぼると考えられる。昭和五十三年七月二十七日に県宝に指定された。昭和六十年度と六十一年度の二ヵ年をかけて解体復元工事が実施され、往時の姿がよみがえった。希望者は内部を見学することが出来る」

  

中山道を離れ見学に向います。

息を切らしながら坂を上り・・・・見えて来ました。県宝藤原家住宅

 

中山道に戻ります。

「諸人御宿大妻籠つたむらや」「まるや」「近江屋」

ここは小さな集落ですが、木曾路に特有の江戸時代以来の造りの古民家が残されています。

 

 

水車小屋の前を通り             橋を渡り左折します

 

 

大妻籠の表示板 ここを左折し坂を下ります。   藤がきれいなレストラン

 

旧旅籠金剛屋の南無弘法大師之記念碑

説明板によれば

当家の初代磯村定心居士(天保6年~明治35年)は、二階に弘法大師を祭祀し熱心に信仰を深めました。定心居士が没した翌年に信者が中心となり浄財を集めて、この碑が建立されました。
 定心の孫 「さだ」 園空智大姉(明治25年~昭和25年)が後継者として信仰していましたが、没後は後継者が無く現在に至っています。
 往時は3月21日が年に一度の祭礼で、弘法大師と記した五色の幟旗を掲げ、町内はもとより遠くは名古屋方面からも信者が集まりました。 その日は子供も多数集まり菓子を貰ったり、餅を拾って楽しんだと言われています。
 現在も身内や近所の人たちが集まって祭礼が執り行われています。厄払い、お産、縁結びなどの願いが叶えられると言われています。

 

 

神明橋を渡り左の山道に入ります。     小さな集落(旧明神村)があります。

 

左側の斜面に馬頭観音があります。     広い道(初恋街道)に合流します。

 

「大妻橋」を渡ります。          左側に石柱道標の説明板

説明板によれば 「明治25年(1892)に賤母(しずも)新道が開通するまで、馬籠~妻籠~三留野を通る中山道は、古くから幹線道路として重要な役割を果たしていた。ことに妻籠の橋場は 「追分」 とも呼ばれ、中山道と飯田街道の分岐点として栄えた所である。
 この道標は、飯田の皆川半四郎という人が発起人になって、当所の松井輿六・今井市兵衛・藤原彦作の世話人とともに、飯田・江州・地元の商人によって、明治14年(1881)6月に建てられたものである。当時の繁栄が伺える石柱である」

 

ガードレールの隙間から入りました。   石柱道標 道からは見えません。

 

 

左の小道に入ります。 道標「中山道」   蘭川(あららぎがわ)

 

有料駐車場にある妻籠宿入口の案内図

 

「中山道歩き 馬籠宿から妻義塾まで②」に続く。