毎年恒例の「24時間テレビ」
以前は時々見ていたけれど、今はほとんど見ない。というより、見れない(見ることができない)といったほうが正しいかも。
なぜだろう。
最近の番組内コンテンツの多くが、大切な人を亡くしたり障がいのある方たちなどが、悲しみから立ち上がろうとしたり何かに挑戦したりする姿を追って「さあ、ここ泣くとこですよ!」とばかりに視聴者の涙を誘うような、「(意図的に誇張された)感動ストーリー」に見えてしまって、観たとしてもなんだか胸が苦しくなってしまうから・・と書いてみたけど、自分でこの説明で合っているかどうか自信がない。
出演している皆さんの、前に進もうとする真摯な気持ちやチャレンジ精神、それを支える周囲の方々の温かい善意を否定するものでは全くありません。
どちらかといえば、下記のようなケースと、僕の中では似ている気がします。
たまたまテレビに出た素人さんが、生放送で的外れなことをしゃべってしまって番組がシラけてしまうような場面(正確に言えば、そうなりそうな予測を僕がしてしまったとき)に遭遇したときに、見続けることが苦しくなってあわててチャンネルを変えたりテレビを消してしまったりすることが、僕はけっこうあります。
こういう感覚やチャンネルを変えたくなる気持ちは、僕だけじゃなく誰でも同じように持っているものだろうと思っていたのだけれど、実はそうでもないらしい。
先月たまたま見たテレビ番組『マツコ&有吉の怒り新党』で、このような感覚や行動を専門用語で「共感性羞恥」と呼んでいて、テレビ番組の恥ずかしいシーンや他人の失敗を目にしたときに、自分が恥ずかしい思いをした時と脳の同じ部分が働き、あたかも自分の失敗のように感じてしまう、と解説されていました。
それを見て、僕が今まで感じていたこの苦しさ(胸騒ぎのようなもの)って、これだったんだ、と一応は納得したのだけれど、びっくりしたのは僕と同じように感じる人の割合が意外に少なかったこと。
番組アンケート(500人)の結果では、およそ1割(10.4%)の人が「同じような経験がある」と答えたそうですが、僕の感覚ではもっと多い(大げさに言えば、正反対の9割が経験有りでも納得)と思っていました。
あと、マツコの番組の中では、共感性羞恥の例として「ドラマやアニメの登場人物が窮地に追い込まれたり失敗したりする場面」を多く取り上げていたけれど、僕はドラマやアニメは全然気にならない。いくら恥ずかしかったり可哀そうだったりする場面でも、自分の中では「これはフィクション(創作)だ」という確信があるから、かな。
その一方で、最初に挙げたような生放送の街頭インタビューとかは、いつ見てもハラハラする(ニュースなどで繰り返し流される編集済みのものは大丈夫)し、そういえば『NHKのど自慢』でも、歌い終えた後にアナウンサーから話しかけられた素人さんが、緊張して沈黙してしまったり、トンチンカンな返答をしてしまったりすると見ていられなくなってすぐにチャンネルを変えてしまいます。
話がどんどん別のほうに行ってしまいました。
24時間テレビ。
視聴率は15%前後もあって、寄せられる募金も毎年10億円近いとか。
僕も、子どもたちが街頭でおそろいの黄色いTシャツを着て「ご協力お願いしまーす」と募金を呼びかけていたりすると、少しでも何かの役に立てれば、と思っていつも募金しています。
でも、番組そのものは、どうしても平常な気持ちで見ることができない。
このブログを書くためにネットを見ていたら、「やらない善よりやる偽善」という言葉にも遭遇しました。言葉の是非はともかく、関連していろいろなことを考えさせられます。
僕がテレビを見ようが見まいが、この番組によって多額の寄付金が集まり、それにより毎年たくさんの人たちが助かっていることには変わりない。
まもなく、リオパラリンピックも始まり、メディアで幾多の「メダル獲得まで(または獲得できなくても)の感動ストーリー」が報じられるのだろう。
できればその報道が、いたずらに涙や感動を煽るようなものでなく、また「障がいという困難があってもこんなにがんばっているんだから、(障がいのない)自分たちもがんばらなくては。」という無意識に障がい者を弱い者、障がいを乗り越えるべきもの、とみなすことを植えつけるような安易な構成にならないよう願っています。