タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

今月5日、桜爛漫の大津市の三井寺を参拝しまして、その時のレポを二回に分けて記事にしています。前編となる15日の記事では、国宝の金堂を主要伽藍とした中院地区を中心とした境内と、飛鳥時代の創建から、天台宗のビッグネーム 平安時代の高僧・智証大師円珍についての寺の歴史の紹介までを主にさせてもらいました。

 

金堂〈江戸時代初期・国宝〉

 

円珍大師廟所 唐院大師堂〈江戸時代初期・重文〉 画像引用:三井寺ガイドブック

 

後編となるこの記事では、主に南院についてのレポと、円珍の代以後の三井寺の波乱の歴史について書いて行きます。信仰の中心的な伽藍である三井寺の金堂を、比叡山西塔へ釈迦堂として移築したのか、そして慶長年間に他の寺院から移築された伽藍が三井寺には多いのか。それには円珍の時代以後の三井寺の波乱の歴史を知らずに語ることは出来ません。ここからぞの波乱の歴史について書いていこうと思います。

 

後半を書くにあたって、非常に心強い資料を手に入れることが出来ました。国宝三井寺展図録です。

 

 

国宝三井寺展は平成20(2008)年11月1日~12月14日 大阪市立美術館、平成21(2009)年2月7日~3月15日 東京都港区サントリー美術館、同4月1日~5月10日 福岡市博物館と全国を巡って開催された三井寺をテーマにした特別展で、三井寺の信仰の中心である唐院大師堂の秘仏三像(黄不動尊像・智証大師坐像・御骨大師像)など、国宝・重要文化財60点を含む全180点が出展された、前例のない大規模な三井寺の特別展でした。17年も前の特別展ではありますが、この図録は画像引用にも解説資料にも、これ以上は無いという資料となります。それによって前編よりさらに充実した記事がこの資料で書くことが出来ました。

 

国宝三井寺展(大阪市立美術館) 画像引用:フォートラベル

 

南院についての紹介の前に、前編で紹介しなかった、南院以外の三井寺の伽藍についてまず書きます。これらの伽藍は、いずれもその波乱の歴史を語る上で重要な建物であります。

まずは今回の参拝では行かなかった北院に建つ、新羅善神堂〈南北朝時代・国宝〉です。新羅善神とは、朝鮮の新羅人が崇拝する神で、円珍が唐から帰国する時に船上に現れ「汝のため護法の神とならん」と告げたという奇譚により、貞観2(860)年に三井寺の守護神として勧請されました。

 

新羅善神像〈鎌倉時代・重文〉 画像引用:三井寺ガイドブック

 

その新羅善神を祀るのが、北院の中心伽藍である新羅善神堂です。三井寺では数少ない慶長以前の建築物で、三間社流造の流れるようなフォルムは、建築美の上でも高い評価を受けています。また三井寺に参る機会があれば、ぜひ北院にも足を伸ばさないとと思っています。

 

新羅善神堂〈南北朝時代・国宝〉  画像引用:三井寺ガイドブック

 

この異国の神は武門の神としても信仰を集め、武門の長であった源氏は戦勝祈願の神を祀る寺として三井寺を尊びました。特に河内源氏の源義光はここで元服の儀を行い、『新羅三郎義光』と名付けられるほど関わりが深かったことで知られ、三井寺と源氏とのつながりは非常に強いものでありました。

御神体として新羅善神像〈平安時代・国宝〉が仏像のように安置されています。その霊験の高さゆえに祟りを畏れられ「見ると目が潰れる」とまで言われる秘神像として公開されることは全く無いと聞いています。…が、この像は『国宝三井寺展』に出展されていまして、思えばずいぶん冒険的な特別展だったと思います。

 

新羅善神坐像〈平安時代・国宝〉  画像引用:国宝三井寺展図録

 

もう一ヶ所紹介したいのは、中院の北西、金堂の西の山側の一段高いところにに建っている一切経堂です。創建は南北朝時代で、源氏の棟梁として征夷大将軍に就いた足利尊氏の発願で建立され、現在の建物は慶長年間の復興伽藍の一つです。檜皮葺宝形造で、裳階を付けた二層の建物は優美そのもの。国の重要文化財に指定されています。

 

 

一切経とは仏教のあらゆる経典を網羅した5000巻以上の全経典の総称で、一切経は八角輪蔵に納められおり、この輪蔵を一回 回すことがすべての経典を読むのと同じということになるのです。納められている経典の多くは足利尊氏が発願した時のもので、建物同様に国の重要文化財に指定されています。

 

画像引用:小学館 週刊古寺をゆく 42三井寺と近江の名刹

 

現在の一切経堂は、関ヶ原の戦いで西軍に付いた毛利輝元が、徳川の世になってから毛利家ゆかりの山口市の国清寺(現在の洞春寺)の経蔵を寄進したもの。納められている経典は、中国・元の普寧寺から朝鮮半島経由で日本に持ち込まれた木版経典で、お堂と共に重要文化財です。

 

元版一切経と経筥〈中国 元代・重文〉  画像引用:三井寺ガイドブック

 

ここまで見ても、三井寺が源氏と強い関わりを持っていた歴史、そして伽藍のほとんどが江戸時代初期の慶長年間に復興されていたことが覗えます。そして、それらは全て、この後に紹介する円珍没後の三井寺の波乱の歴史に大きく関わってくるのです。南院の紹介の前に、その歴史について詳しく書いて行こうと思いますので、しばらくお付き合いください。

 

三井寺の波乱の歴史は寛平3(891)年に円珍が示寂してすぐにから始まります。円珍の示寂後、比叡山の要職を円珍の弟子が占めるようになるのですが、密教や修験道に大きく傾倒した円珍の弟子たちによる円珍派(寺門)に対して、最澄の直接の弟子で最澄の教えを最も忠実だった円仁の弟子たちによる円仁派(山門)との間で起こった教義の対立は、やがて『山門寺門の争い』と言われる長く続く根深い争いへと発展していきます。

 

慈覚大師 円仁坐像〈栃木県壬生町 壬生寺蔵〉 画像引用:天台宗栃木教区HP

 

教義以前に「三井寺は延暦寺の末寺」と言う円仁派に対して、「三井寺は天智天皇勅願寺であり、寺格は三井寺の方が上」とお互いの上下関係から論争となり、円珍派と円仁派はことにつけおりにつけ反目関係を重ねて、ついには僧同士が直接武力で争う焼き討ちが度々起きるまでに事態は進んでしまいます。それまでも堂塔を壊す事件も起きていましたが、永保元(1081)年、比叡山は本格的に三井寺焼き討ちを謀り、三井寺は金堂を含む多くの伽藍を失うことになってしまいました。

その後も同様の争いが繰り返され、特に保延6(1121)年の焼き討ちは11回におよぶ合戦で300人の戦死者が出るというもはや戦乱といっていい事態に。繰り返された焼き討ちにより三井寺金堂は4回焼失と再建を重ねています。

 

小生は以前に「一神教の宗教に比べると、仏教が直接戦争を起こすことは無い」みたいなことをあるネットの宗教コミュニティで論じたことがありましたが、こと山門寺門の争いの話を聞くと、その考えを改めないといけないと反省してしまいます。国同士の戦争に巻き込まれるのならともかく、人の道を説く僧侶同士がお互いの教義を譲れなくて直接戦火を交えるというのはあまりにも空しいことで、鎌倉時代初期の説話集『古事談』には延暦寺の僧都であった忠胤が「寺門僧徒は憎いが、仏法経論を非難することは無く、焼討するいわれはない」と、両寺院の僧侶は罪障懺悔をし、涙を流したと書かれています。

 

山門寺門の争いに拍車を掛けたのは、それぞれの派閥に時の権力者と組んだことです。新羅善神堂のところでも触れたように、源氏は古くから三井寺を篤く信仰し、そのことから平家から睨まれて、ついには治承4(1180)年に源頼政と以仁王が挙げた兵が三井寺に拠った時に、南都焼き討ちを行った平重衡の兵によって全山焼き払われてしまいます。弁慶の引摺り鐘の伝承もその時の話です。

 

三井寺の梵鐘を谷底へ投げ落とす弁慶(近江名所図会・1814年刊)画像引用:びわ湖歴史百科

 

 

そして平家滅亡後、建保2(1194)年、三井寺鎌倉期復興を行ったのは室町幕府三代将軍実朝とその母 北条政子でした。このように三井寺は時の幕府と昵懇となり、そのために戦火に巻き込まれるという歴史をたどることになるのです。

南北朝の時代には源氏の血を汲む足利尊氏もまた三井寺の信仰篤く、そのため後醍醐天皇率いる南朝軍は三井寺を敵視した円仁派と組んで三井寺を襲撃し、金堂を始めとする全山を焼き討ちするのです。現在の北院・新羅善神堂はこの時代に尊氏によって復興された建物です。

 

『比叡山焼き討ち』というと織田信長のイメージが強いですが、実は室町幕府も二度比叡山を焼き討ちにしてまして、一回は永享6(1434)年、六代将軍足利義教による坂本地区放火事件で、前年の比叡山山徒による三井寺焼き討ちに将軍が激怒したことが理由です。二回目は室町幕府管領の細川政元による明応8(1499)年の焼き討ちで、政元は8代将軍義政の正室・日野富子と組んで、10代将軍義稙を廃して義澄を将軍に立てるというクーデターを敢行。将軍職を追われた義稙は越中に逃れると、北陸の守護勢などの支持を取り付け、それに呼応して比叡山も義稙を支持。比叡山が義稙の幕臣や縁故の公家などとともに挙兵をしたタイミングで政元は延暦寺に出兵し、山上の主要伽藍をすべてを焼き尽くし対立勢力を鎮圧したのです。

 

細川政元像(龍安寺(京都市右京区)蔵)画像引用:Wikipedia

 

比叡山は「当山はどの権力にも組みしない、独立した宗教集団である」というスタンスを持ち続けたことから時の権力者との対立が絶えず、さらにそのような対立が起きる度に比叡山を敵対視する勢力と三井寺は接近するという歴史が繰り返されて来たために、山門寺門の争いは中央の政治を巻き込んでエスカレートしていったのです。

織田信長の比叡山焼き討ちについては、よく「神も仏を怖れない、信長の蛮行」の例に取り上げられますが、それは比叡山側の目線からの解釈。比叡山がそれ以前から多くの権力者と対立し、兵を交えていたことを知らなくては歴史は語れません。

 

その信長が比叡山焼き討ちを行ったのは元亀2(1571)年9月で、この出来事にも山門寺門の争いが関係していることは言うまでもありません。この焼き討ちに際して信長は三井寺を陣所とし比叡山攻撃の拠点としており、その後も信長は円仁派とは敵対しながらも円珍派とは信長は良好な関係を続け、数々の罹災を繰り返しながらも三井寺は武門の庇護の元大いに栄えました。信長が没した後も山崎の戦いで秀吉は三井寺を本陣とし、討たれた明智光秀の頸実検をしています。

 

信長比叡山を焼く(絵本太閤記・1797年刊)画像引用:Wikipedia

 

信長の後を継いで天下人となった秀吉でしたが、ここで三井寺最後の、そして最大の厄災が訪れます。三井寺と良好な関係であったはずの秀吉が、文禄4(1595)年11月、突然三井寺の闕所を命じるのです。闕所とは寺の領地没収と破却、つまり廃絶を意味します。これまで何度も全伽藍が焼失する憂き目に遭った三井寺ですが、お上から廃絶を命じられるのはこれが唯一のことです。

なぜ秀吉が突然このような命ををしたのか現在もはっきりとした理由はわかっていません、謎としか言いようのない思い付きのような秀吉の命によって、金堂は復興中の比叡山の西塔釈迦堂に移築され、堂宇も寺宝もすべて他所に移されるか壊されてしまい、三井寺は新羅善神堂などごくごく限られた建物を残してすべて姿を消してしまうのです。

この事態に時の長吏(別当職)だった道澄は、本尊弥勒菩薩像や唐院大師堂の円珍ゆかりの三尊像(金色不動明王像・智証大師坐像・御骨大師像)など、三井寺の主要な信仰の対象となっていた像を、南院西南の外れ、別所の上光院に避難させていました。道澄は息を殺して、三井寺復興の時が来るのをじっと備えてたのです。

慶長3(1598)年8月、その秀吉は伏見城で世を去りますが、その直前になって遺言のように三井寺再興の許可を出しています。言い伝えだと、それは秀吉が亡くなる前日のことだったそうです国宝三井寺展には、再興の許可書状である、豊臣家五大老が連署した三井寺の領地寄進状の写しが出展されました。

 

豊臣家五大老園城寺領地寄進状(写)〈桃山時代〉  画像引用:国宝三井寺展図録

 

死期を前に霊験あらたかな三井寺の仏罰を畏れたからとも言われていますが、それならなぜ闕所の命などわざわざ出したのか、理不尽な思いしか残らない話です。

 

ともあれ、その命を受けて秀吉の正室 北政所の指示により金堂が再建され、現在の三井寺の伽藍はこの慶長の復興によって、ほぼ今の形に整備されました。

さらに伏見城に移築されていた常楽寺の楼門、世尊寺の三重塔が伏見城を経て三井寺に移築されたのも慶長年間です。慶長5(1600)年に秀吉の没後、留守役の家康に代わって城にいた家臣だった鳥居元忠が石田三成に反旗を翻して伏見城に籠城、西軍の激しい攻撃によって秀吉終焉の城は落城 炎上してしまいます。その結果伏見城に残されていたこれらの仏閣が再移築されたることになりました。また毛利元輝が一切経堂を国清寺から移築させたのもこの時期で、西軍についていた毛利家によってはお家存続のための必死の寄進だったのでしょう。三井寺の伽藍のほとんどが慶長年間築なのは、以上の波乱の歴史の果てのことなのです。

そして、徳川家康には寺院勢力だけではなく、大名を始めとするすべての日本国内の軍事力や経済力を弱体化させる強権政治を徹底し、その政治力で比叡山と三井寺の間の山門寺門の争いも焼き討ちなど直接の武力闘争はやっと治まったのでした。

 

今回調べてみて壮絶な対立と争いの血の歴史を刻んできた三井寺のことを詳しく知りましたが、ついでで言えば波乱の歴史は江戸時代で終わったわけでは無く、この寺は明治の廃仏毀釈の嵐にも巻き込まれ、特に16院の子院を誇った北院は明治6(1873)年に寺域の大半が軍部に接収され陸軍用地にされてしまいました(戦後は米軍キャンプ地を経て、大津商業高校や皇子が丘公園に)。近代になってからも、三井寺の苦難が果てることは無かったようです

 

戦後 北院跡に造られた米軍キャンプ 画像引用:三井寺HP

 

湖畔に鐘の音が響く癒やしの三井寺ですが、これだけの壮絶な歴史があったのです。その歴史を追って少々疲れましたが、ここからようやく華やかな桜風景の記事内容を戻すことが出来そうです。

 

前編の記事の続きとして書きますと、円珍ゆかりの唐院から出て本堂正面の参道に戻って南に向かって歩いて行きますと、村雲橋という石橋が参道に渡されていまして、その橋のたもとにはしだれ桜がソメイヨシノとは違った趣の美しい爛漫の花の風景を作っていました。

 

 

 

三井寺でも、このしだれ桜は特に人気があるようで、参拝客の多くはここで歩む足を止めて、スマホで写真を撮っている姿を多く見かけました。

村雲橋には円珍の伝説があります。この橋を渡ろうとした円珍が、西の空を見て「青竜寺が焼けている」と、入唐の時に密教を学んだ唐の寺が火災に見舞われていると感知したのです。そして、橋の上から閼伽水を撒いて真言を唱えると、橋の下から一条の雲が湧き起こって西の空へ飛び去り、青竜寺の火災は鎮まったという伝説です。

そのような伝説のある石橋が南院への入口となります。前編と同様に三井寺HPの境内図Map画像を小生で南院をピックアップして加工したものを載せます。以後の解説はこの地図を参考にしていただければと思います。

 

 

南院は前編で最初に紹介をした惣門に突き当たる東西に通る参道沿いに、独立した別院と呼ばれる独立した小さなお寺が建ち並ぶという、中院のような開放的なお堂はあまり無い構成となっています。非公開の別院も多く、今回の参拝ではあまり見どころとして紹介出来る所は多くなかったです。

そこで、ここで小生が訪れたのは、、南院のなかにある『文化財収蔵庫』です。文化庁の指導で全国の神社仏閣などで多く建てられている耐火保存施設で、三井寺では平成26(2014)年に開館しました。

 

 

三井寺文化財収蔵庫には南院のいくつかの別院の寺宝も所蔵しており、ぞれぞれの別院では見ることが出来ない仏像などの寺宝をここで見ることが出来ます。ここからは入館の時に買った『三井寺文化財収蔵庫収蔵品ガイド』を資料に加えて記事を書き進めます。

 

 

まず、収蔵庫の目玉となっているのが、勧学院客殿障壁画〈江戸時代初期・重文〉です。勧学院は唐院の西隣に位置する山内屈指の子院の一つ。鎌倉時代の延応元(1239)年に幸尊僧正が三井寺の学問所として創建しました。今の建物は慶長5(1600)年の再建で、手掛けたのは豊臣秀頼の命を受けた毛利輝元。前述した一切経堂を国清寺から移築をした、あの武将です。

勧学院の主殿は客殿で、主殿造りの様式を伝える初期の書院造り建築の代表とされ、国宝に指定されている名建築として知られます。

 

勧学院客殿  画像引用:文化財収蔵庫収蔵品ガイド

 

文化財収蔵庫の目玉というのは、この客殿の狩野光信の筆による障壁画です。一之間と二之間を埋め尽くしていた襖絵39面をガラスケースに納めての展示が、収蔵庫の大部分のスペースを占めています。

 

収蔵庫展示室 画像引用:三井寺HP

 

この障壁画を描いた狩野光信とは日本の画壇の頂点に君臨した狩野派の画家で、狩野派を代表する狩野永徳の長男。室町から江戸文化への時代の橋渡しを担ったと評価をされています。その光信の代表作として、障壁画は国の重要文化財に指定されています。

 

一之間襖絵 四季花卉(北面) 画像引用:文化財収蔵庫収蔵品ガイド

 

二之間襖絵 花鳥図(東面) 画像引用:文化財収蔵庫収蔵品ガイド

 

勧学院の障壁画以外にも、別院所蔵のいくつもの仏像や図画などの宝物も展示されています。南院ゆかりの宝物を上げると、まず障壁画と同じ勧学院から鎌倉時代の智証大師坐像。像高39.4センチと小ぶりの像で、大師堂の智証大師坐像の模像として作成されました。この像も国の重要文化財に指定されています。

 

智証大師坐像〈鎌倉時代・重文〉 画像引用:文化財収蔵庫収蔵品ガイド

 

次に紹介するのは南院の別所 微妙寺の本尊の十一面観音立像です。微妙寺は文化財収蔵庫のすぐ西南の斜め隣に建つ別院で、本尊の十一面観音立像がお寺では無く、今は文化財収蔵庫の方に納められていて展示室で拝むことが出来ます。

南院に建つ別所の微妙寺は平安時代中期の正暦5(994)年、比叡山から下った慶祚によって建立されました。慶祚は千日回峰行をした阿闍梨として尊敬を集め、智者と名高くその元には多くの学者が集まったそうです。円珍派が比叡山追放後された時代、慶祚は比叡山を離れて天台密教興隆に努め、今の三井寺隆盛の立役者となりました。

その慶祚ゆかりと伝えられる本尊の十一面観音は功徳を求めて多くの信徒を集め、押し寄せた霊験を求める参詣者が被っていた笠が破れて脱げるほどの評判だったことから、『笠ぬげ観音』の愛称で呼ばれています。この像も国の重要文化財に指定されています。

 

十一面観音立像〈平安時代・重文〉 画像引用:文化財収蔵庫収蔵品ガイド

 

もちろん南院には他にも多数の別院などの寺社が建ち並んでいますが、小生が参拝をした春は特に注目すべき特別公開などをされてはいなかったですし、今回は桜を見に来たという感じでの参拝でしたので、日を変えてまた三井寺を訪ねてみたいと思っています。

調べたところ三井寺の特別公開が主に行われているのは秋のようなので、今から「また必ず秋に三井寺を訪れて、今回はしょった仏堂などの紹介を含めてレポを書く」と今からここで言っておこうと思います。

 

こうして南院参道を西から東に向かって進み、前編の最初で書きました三井寺の入口である惣門の近くまで戻って来ました。ここで最後に紹介するのは『観音堂』です。観音西国三十三霊場の十四番で、元々は三井寺を見下ろす長柄山の山上“華の谷”に門を構えていて聖願寺、もしくは正法寺と寺号を名乗っていました。三十三霊場に数えられながらも参拝には厳しい山道を登らねばならず、また女人禁制の山だったこともあったので、室町時代の文明13(1481)年に三井寺の境内である今の場所に遷されました。三井寺の中でも最も信仰を集めている霊場とあって、『札所伽藍』と呼ばれ、南院の主要伽藍となっています。

観音堂への参拝は南院の山道を東へ一旦低い場所に降りてから、高台になった境内に石段でもう一度登らなくてはなりません。観音堂前の石段の前も桜並木の枝は美しい花が咲き乱れていました。

 

 

現在の観音堂は元禄2(1689)年の再建、入母屋造本瓦葺の本堂に次ぐ大建築で国の重要文化財に指定されています。周囲には鐘楼、百体堂、観月舞台などの重要文化財建築をはじめとする多くの建物が建ち並び、三十三所霊場として参拝者を迎えるように整備されています。

 

 

本尊は如意輪観世音菩薩坐像〈平安時代・重文〉で、智証大師が自ら感得した観音像を礼拝供養して造ったと伝えられている観音像。観音菩薩が33身に変化するという教義により、この観音像も原則として公開は33年に一度しだけとなっています。ただし、特別な御遠忌と天皇陛下が即位した翌年にはその原則とは別にご開帳され、近年では智証大師生誕1200年の平成26(2014)年と今上天皇即位の翌年令和2(2020)年に開帳されています。

国宝三井寺展が開催された平成26(2009)年がその33年に一度の年にあたり、特別展にも如意輪観音は秘仏の一つとして出展されました。次のご開帳は16年後の令和26(2042)となります。

 

如意輪観世音菩薩坐像)〈平安時代・重文〉  画像引用:国宝三井寺展図録

 

この春の三井寺特別公開となったのは、この観音堂の所にある重要文化財の観月舞台で行われた5分間の貸し切り拝観というもの。舞台上に鏡になったアクリル板を敷き、桜爛漫の眼下を眺めが、まるで桜花の宇宙の中に浮かんでいるような空間を作る没入型アートイベントです。

事前予約制ということですが、舞台に上がっている人は小生が行った時にはおらず、舞台脇から桜風景をスマホで撮っている人を見かけました。

予約してこの上に上がったら、果たしてそんな風雅な風景を見ることになったのでしょうか。HPなどの写真を見ながら想像を膨らませてしまいました。

 

 

そして、観音堂から、行きに通った惣門まで戻り、この日の三井寺拝観が終わったのは午後4時ごろでした。後半はバタバタした感じの三井寺巡りとなったのが感想で、秋に再び訪れる時は特別公開などを探して、テーマを絞ってレポを書きたいと思います。もしかしたら三回目、四回目の記事もあるかもと今から思っています。

 

画像引用:CHEKI POSS

 

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4月8日の記事で滋賀県大津市の近江大津宮跡錦織遺跡を取り上げましたが、その時に関連する弘文天皇陵や資料集めのため大津市立歴史博物館などにも行くために大津市役所近辺にも足を伸ばしました。実はここには大津市一番の名刹である“三井寺”があるのです。桜の名所としても知られていて、特に桜のシーズンには多くの参拝客で賑わいます。

 

 

近江大津京の取材をした3月26日にも前を通りましたが、思えば三井寺もまた飛鳥時代にまで歴史を遡ることが出来る古い寺院。近江大津京の補足取材のためにもう一度大津に行ってみたいとも思っていた小生は、桜のシーズンに本格的に三井寺をお参りしようと、4月5日にもう一度大津市を訪れたのです。

 

今回のレポは三井寺の桜風景と銘打っていますが、本当のことを言うと初めてこのブログで紹介する三井寺のことを紹介する記事にしたかったのですが、何しろ広大な境内にはあまりに見所が多くて一日で三井寺の全てを見尽くすのは困難、そして見尽くしたとしても奥深い三井寺の歴史や文化はとても一回の記事で書き切れるものでは無い。なので今回の記事はダイジェスト程度に三井寺を紹介し、県内随一の桜の名所として知られるこのお寺の美しい桜風景をピックアップした内容に、各お堂の写真もなるべく桜の花が写り込んだものを選んで載せています。控えめにしたつもりだったのですが、それでも情報量が多くなりすぎたので、前・後編の二回に分けた記事にさせてもらいます。前編は本堂を中心とした主に『中院』について書きます。

三井寺についてはもっともっと深く取り上げていきたいと思っているので、第二弾・第三弾の三井寺レポを今後記事にする可能性もあります。

 

三井寺へは琵琶湖疎水の取水口の琵琶湖岸からほど近く、境内入口へは琵琶湖疎水の横を通って向かいます。拝観は自家用車で行ったのですが、6月5日は日曜日で、それまで雨が多かったこともあって、三井寺には桜目当ての参拝客でごった返していて、近隣の駐車場はどこも満車でここまで来るのも大変でした。

まず参拝者を最初に迎えるのが『惣門』です。江戸時代前期の元和7(1621)年の建造で、延暦寺とのお家対決で何度も兵による抗争が起きたこともあり、まるで城門を彷彿とさせる堅牢な薬医門の構えとなっています。

 

 

惣門をくぐって直ぐ右に曲がり北へと向かいますと、寺の駐車場の前へ。ここにあるのが『レストラン風月』。ここで三井寺名物、『長寿そば』を昼食としていただきました。海老に焼き餅と、縁起物が具になっているお蕎麦で、これを食べるのも三井寺拝観の縁起ものであります

 

 

 

レストラン風月での昼食を終えて、駐車場の脇にさらに北へと進むと、三井寺の顔 大門に到着します。入母屋 檜皮造りの楼門で、仁王像が左右に囲う仁王門の名でも呼ばれます。

大門は室町時代の宝徳4(1452)年に琵琶湖の南に門を構える常楽寺の門として築造されたのですが、豊臣秀吉によって伏見城に移築されましたが、秀吉の死後 伏見城の戦いで城がほぼ焼失してしまい、慶長6(1601)年に三井寺の大門として今の場所に再移築されたのです。まだ、境内に入る前の門を見ただけですが、すでに波瀾万丈の三井寺の歴史を覗うことが出来ます。

日本屈指の美しい楼門として評価が高く、国の重要文化財に指定されています。

 

 

ここまでなら拝観料を払わずに拝観が出来るとあって、大門の大桜で春を満喫する大津市民も多いようで、ここで写真を撮る人が特に多かったと思いました。確かに美しい大門と華やかなの組み合わせは、ディス・イズ・ジャパンという絵になります。

 

 

その大門をくぐると、いよいよ拝観料を払っての受付エリアです。小生も受付で拝観料800円を払って境内の中へ。

三井寺は大きく分けて、本堂を始めとする寺の主要伽藍となる『中院』、さきほど通った惣門からまっすぐ伸びる参道沿いに数多くの別院(三井寺の別院となる寺)が建ち並ぶ『南院』、そして少し離れた弘文天皇陵の近くに門を構える新羅善神堂を中心にした別院のような『北院』の三つの区画に大きく分かれます。

 

前編となるこの記事は、『中院』を取り上げ、三井寺創建の歴史と中興の祖である智証大師 円珍について書いて行きます。下の境内図は三井寺HPから引用したMap画像を、小生で中院をピックアップして加工し載せました。

 

 

大門をくぐってすぐ右手に構える仏堂が、釈迦堂(食堂)〈室町時代・重文〉です。入母屋 檜皮造りの簡素な造りで、秀吉が京都御所の清涼殿(天皇の起居のための建物)を移築したとも伝えられます。

 

 

古地図には食堂(じきどう・僧侶が斉食の修行をするためのお堂)と書かれており、本来は食堂として使われたようですが、現在は室町時代に造られた清涼寺式釈迦如来立像を本尊とする釈迦堂として崇められています。

 

釈迦堂本尊釈迦如来立像〈室町時代〉

画像引用:伝教大師最澄魅力交流1200コミュニケーションサイト いろり端

 

三井寺では通常の御朱印も6ヶ所14種類をいただくこと出来、この釈迦堂でも3種類の御朱印がいただけるのですが、その中で小生がここで書いていただいたのは下の御朱印です。

 

 

『大友皇子』の御朱印には、小生も意表を突かれました。寺伝では三井寺の開基は『大友与多王』という人物で、大友皇子(弘文天皇)の子であり、天智天皇の孫。日本書紀などには名前が見られ無いことなどから伝説上の人物ととらえられいますが、室町時代に編纂された『本朝皇胤紹運録』にその名を見れることから実在説もあります。

三井寺の正式な寺号は『長柄山 圓城寺』(ながらさん おんじょうじ)。寺伝では祖父と父のかたみである弥勒菩薩像を、朱鳥元(686)年に天武天皇の許しを得て自らの田畑屋敷(荘園城邑)を投げ打って建立、そこから三井寺の正式な寺号を『園城寺』(おんじょうじ)としたと記録されています。

これらの話はあくまでも伝説の域ですべてが事実ではないと思われますが、この釈迦堂や本堂の近辺からは飛鳥時代の瓦などが出土しており、三井寺の歴史が飛鳥時代まで遡ることは確実。百済系渡来氏族の大友氏の氏寺であったという説が有力で、一族の大友村主は大友皇子の養育の任を受けており、母の身分が低かった大友皇子の有力な支持勢力として大友氏は近江で栄えたようです。

 

 

本堂近辺で出土した、創建期 飛鳥時代の複弁蓮華文軒丸瓦

画像引用:『古代の古都 よみがえる大津京』図録(大津市歴史博物館刊)

 

 

 

そして、釈迦堂を背に大門から本堂へ向かう参道に戻ります。本堂は南が正面なのでこちらからだと横向きで、ここから望む本堂の桜風景は、三井寺の中でももっともアーティスティックな絵かも知れません。

 

 

中院の中心となる金堂〈江戸時代初期・国宝〉です。本尊は弥勒菩薩で天智天皇が用明天皇より拝命された持念仏を、孫の与多王が建立した三井寺の本尊としたと伝承されています。本堂前の石灯籠には、古今和歌集に書かれている天智天皇が請願のため弥勒菩薩前の灯籠に切り落とした自らの薬指を埋めたという解説が書かれた看板が立っています。

 

 

この看板を読んで「あれ、その伝承は、崇福寺のものでは?」という疑問が。崇福寺については前の記事で書きましたが、調べてみると崇福寺と三井寺は平安時代後期の戦火で同じ時期に全山ほとんどが焼失し、三井寺の方は再興されたものの崇福寺は寺格を三井寺に属することになり、衰退してしまったと記録されているのです。だから崇福寺の伝承がそのまま三井寺に受け継がれているようですね。

 

小生も靴を脱いで本堂に登りましたが、桜シーズンの日曜ということもあってか、本尊が安置されている内陣には本尊にお参りする参拝者が行列を作っていました。しかし、参拝者が御本尊の弥勒菩薩を拝むことは出来ません。本尊は絶対秘仏として誰一人としてその姿を拝んだことが歴史上無いとされ、内陣の扉は常に固く閉ざされていたのです。列を作っていた参拝者はこの閉ざされた内陣厨子の扉の前で礼拝をするのです。

 

金堂内陣 画像引用:https://miidera1200.jp/aomomiji2019/#

 

今回、三井寺でいただいた御朱印は二枚で、その二枚目はこの御本尊 弥勒菩薩でした。

 

 

金堂の建物は慶長4(1599)年の再建で、再興をしたのはあの秀吉の正妻北政所のねねだったのです。その前の金堂は失われたのかと言えばそうでは無く、今も現存して見ることが出来ます。

前の三井寺金堂があるのは比叡山延暦寺で、最澄の墓所がある西塔に建つ釈迦堂(転法輪堂)が元・三井寺金堂なのです。

 

比叡山西塔釈迦堂 画像引用:比叡山延暦寺HP

 

現在比叡山西塔釈迦堂となっているこのお堂は鎌倉から南北朝時代に築造されたと推測されていますが、文禄4(1595)年に織田信長 比叡山焼き打ちの復興のために、三井寺金堂が秀吉によって移築されたのです。

最初に書いたように三井寺はその正式名称を園城寺と書きましたが、三井寺の名称が広く知られています。なぜ三井寺と呼ばれているかですが、その理由が本堂西の大屋根の庇の下に建てられた小さな社の中に見ることが出来ます。この見逃してしまいそうな社ですが、実は重要文化財建築に指定されている『閼伽井屋』。その格子戸のすき間から覗き込むと、注連縄が絞められた泉が見えます。

 

 

この泉は『三井の霊泉』で、三井とは天智・天武・持統という白鳳時代を代表する三人の天皇の産湯を汲んだという伝説からその名で呼ばれています。この泉には九頭一身の龍神が住んでおり、年に十日だけ金の御器にで閼伽(仏前に捧げる水)として、この霊泉の水を弥勒菩薩に捧げたという言い伝えもあります。

 

そして、本堂の周囲では、二基の梵鐘が名所となっています。一つは『三井の晩鐘』の名で親しまれている、三井寺の梵鐘。鐘が吊るされている鐘楼と共に国の重要文化財に指定されています。

 

 

江戸初期に選定され、今も滋賀県の魅力を紹介するのに使われる『近江八景』の一つにこの鐘が『三井晩鐘』として数えられています。天下の三銘鐘の中でも音の美しさが評価され、見ると言うよりも暮れなずむ琵琶湖の美しい風景に鳴り響く鐘の音で近江八景に選ばれた耳で聞く景色なのですね。この鐘も慶長の復興期に鋳造されました。

 

 

三井寺でもう一口、名物となっている鐘は本堂の西、『霊鐘堂』という建物の中に、吊るされず置かれた状態で展示されています。これは慶長の現在の梵鐘が鋳造されるまで、三井寺の梵鐘として鳴らされていた鐘で、奈良時代の鋳造とされ、国の重要文化財に指定されています。この鐘は『弁慶の引摺り』の名で呼ばれ、三井寺の名物の一つとなっています。

 

 

この名称については、鐘にまつわる伝承があります。鐘の前に展示されていたパネルの説明文を以下に引用します。

 

その昔、三井寺が比叡山と争ったとき、比叡の荒法師・武蔵坊弁慶が三井寺に攻め入り、この鐘を奪って比叡山まで引摺り上げて撞いてみると、「イノー、イノー」(帰りたい)と響いたので、「そんなに三井寺へ帰りたいのか」と谷底へ投げ落としたといいます。その時のものと思われる引摺った疵痕やヒビがいまも残されています。

 

後述しますが三井寺と比叡山は対立関係にあり、この伝説もその対立が背景となっている内容であります。しかし、義経の忠臣として人気のある弁慶の名にここはあやかっているようです。

 

続いて、本堂の南西の位置する『唐院』を先に紹介をします。唐院は本堂の正面からの参道の西脇、一段高くなっている所に塀に囲われた区域。唐院に向かう石段になっている参道は、桜のトンネルとなっていました。

 

 

唐院は土塀で囲われた区画で、主な伽藍は江戸時代前期の再建。入口は四脚門(唐門)〈重文〉です。

 

 

四脚門をくぐると正面に建つのは灌頂堂〈重文〉で、京都御所の仁寿殿(紫宸殿後殿)を移築したという伝承があります。灌頂とは密教の用語で、阿闍梨が弟子に五智を与える灌頂の儀式を行うための重要な儀式殿。その密教の全奥旨を唐に渡って会得したと伝えられるのが智証大師 円珍で、三井寺中興の祖として尊ばれている高僧です。

 

 

ここで円珍のことを紹介していきます。円珍は比叡山で菩薩戒を得た後、大峯・葛城・熊野の三山を巡礼して三井修験道を開くと、天台宗・修験道を極めるというスーパーマンのような活動を行っていきます。仁寿3(853)年に商船に乗って私的に入唐し、長安の青竜寺 法全和尚から『両部大教阿闍梨位』の奥旨を伝授されました。帰国した円珍は貞観8(866)年に三井寺の長吏(別当職)に就き、2年後には天台座主(比叡山延暦寺のトップ)にまで登り詰めます。三井寺において円珍はまさに聖人そのものであり、その遺徳を称えるための寺院と言っても良いと思います。

 

唐院には灌頂堂の西隣に建てられているのが大師堂〈国宝〉で、宝形檜皮造のお堂です。円珍の廟所であり唐院の中心的建築なのですが、灌頂堂が本殿を隠す拝殿のように大師堂の前に建てられているので、現地では大師堂の建物自体を見ることが出来ません。

 

 

堂内には秘仏の金色不動明王像〈重文〉、智証大師坐像〈国宝〉、胎内に円珍の遺骨を納めた御骨大師の三尊が安置されています。大師堂は安置されている像だけでは無く、建物そのものも非公開という三井寺の中でも聖域中の聖域。まさに、三井寺の信仰の要というべき場所なのです。

 

智証大師坐像〈国宝〉 画像引用:三井寺ガイドブック

 

大師堂は拝観することは出来ませんでしたが、灌頂堂の北に建つ三重塔〈鎌倉-室町時代・重文〉は見ることが出来ました。小生が三井寺を訪れたかった理由の一つに、この唐院の三重塔が見たかったことがありました。

 

 

実はこの三井寺唐院の三重塔について、このブログタクヤNoteで前に話題にしたことがあるのです。

この塔は、元々は吉野の世尊寺の伽藍の一つでした。元 常楽寺の伽藍だった大門同様にこの三重塔も秀吉によって伏見城へ移築された後、伏見城の戦いによってここに再移築されたのです。そのことは、2020年10月7日の記事で世尊寺を参拝したレポとして書いていまして、今回はようやくその三重塔を直接拝む機会となりました。過去の記事では三井寺HPから画像を引用して貼りましたが、三井寺を参拝した機会にこちらの記事の画像も、自分で撮った写真に置き換えました。

世尊寺は大海人皇子(後の天武天皇)が対立関係の大友皇子による近江朝から逃れるために吉野に下がった折りに立ち寄った、大海人皇子ゆかりの比曽寺がかつて建っていた寺院。その世尊寺の三重塔が巡り巡って大友皇子の菩提を弔う三井寺へ移築されたのには、数奇な運命を感じてしまいます。

 

このように大友氏の氏寺として創建され、大友皇子の菩提を弔う寺となり、天台宗のビッグネーム・智証大師円珍によって天台宗門宗の総本山として揺るぎない名刹となり隆盛を極めた三井寺。しかし、その後の三井寺が待ち受けていたのは波乱の歴史でありました。後編ではその歴史について語っていくと共に、南院を中心とした三井寺の伽藍や名宝、さらに桜風景の紹介をして行きます。


 

なぜ比叡山の復興に、信仰の中心的な伽藍である三井寺の金堂を移築したのか、そして慶長年間に他の寺院から移築された伽藍が三井寺には多いのか。後編では円珍の代以後の三井寺の波乱の歴史についても書いて行きます。

 

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これまで何度も記事にしました古代の皇宮跡、今回紹介するのは『近江大津宮』です。数多い古代の宮城でも特に取り上げたいとずっと思っていましたが、実際に現地を訪れるのはこれが生まれて初めてになります。(明治時代から宮跡とされていた近江神宮には、昔行ったことがあります)

近江大津宮とは? 辞書には以下のように書かれています。

 

近江大津宮 おうみおおつのみや

天智(てんじ)天皇の宮室。近江宮、大津宮、さらに近江京ともよぶ。ただし京域を設定したか未詳。天智天皇は即位前年の667年(天智天皇6)3月に遷都したが、671年崩御、翌年の壬申(じんしん)の乱で近江朝が敗北したためこの都は廃絶した。飛鳥(あすか)を離れて琵琶湖畔に退いたのは、百済(くだら)の役における白村江の敗戦に伴う国防上の理由からであろう。『日本書紀』から、宮内に内裏(だいり)、大殿、西小殿、仏殿、宮門などの建物のあったことが知られる。漏剋(ろうこく)(水時計)を新台に設置し、また天智天皇の死の直前、西殿の仏像前で大友皇子が群臣と同心の誓盟を交わしたという宮跡は、従来、大津市粟津(あわづ)、南滋賀、錦織(にしこおり)などの地に推定されてきたが、1974年(昭和49)以後の発掘調査で、錦織地区で宮の遺構の一部が発見された。〈小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)〉。

 

湖上からの大津京遠景 鈴木靖将筆 画像引用:参議院議員 嘉田由紀子HP

 

 

天智天皇は大化改新で蘇我馬子を打倒して親政政治を敢行した、明治時代の皇室史観において英雄視された人物。その天智天皇が即位をし、治世を行った場所として注目を集めたのが近江大津宮であります。また、古代最大の内戦として知られる“壬申の乱”の表舞台でもあり、井上靖の『額田女王』のクライマックスシーン舞台でもあり、この時代をずっと追っている小生にはぜひ行ってみたい場所とずっと思っていたのです。

 

大津市という街が大津宮の歴史を持つこともあり、大化改新の英雄である天智天皇を祀る宮を造ろうという運動が明治時代に起こり、昭和10(1940)年に近江神宮が鎮座されました。小生の大津レポ、この日はまず近江大津宮の故地として築造された近江神宮参詣からスタートしました。

 

 

国の有形登録文化財である本殿を挟んで、向かい側の楼門の横には時計博物館が。この施設は水時計である“漏刻”(ろうこく)を天智天皇が天智10年旧暦4月25日に大津宮に造ったという日本書紀の記事にちなみ、この故事から6月10日の“時の記念日”はそれを新暦に直して制定されました。時計博物館の脇には推定復元の漏刻が設置されていて、説明文には時計メーカーのオメガ日本法人から寄贈されたと書かれています。(飛鳥時代の漏刻がどのような物だったのかは不明。江戸時代に中国の文献などから推測された想像図があり、この漏刻はそこからの復元)

 

 

また、小倉百人一首の第一歌が天智天皇が詠んだ歌であることから、競技かるたの最高峰と呼ばれる全日本競技かるた協会主催の名人位・クイーン位戦は1月に、『かるたの甲子園』と呼ばれる『全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会』は7月に近江神宮の近江勧学館役所で開催され、近江神宮は『かるたの聖地』として全国的に有名なのです。

 

競技かるたクイーン位戦 画像引用:朝日新聞1月7日記事

 

そのように天智天皇が宮とした近江大津宮が造営された大津市。その近江大津宮の宮跡へ行くことが今回の大津市訪問のメインの目的地です。その近江大津京跡として国の史跡になっているのが『近江大津宮錦織遺跡』で、近江神宮参道から南に300メートルほどの、京阪石山坂本線 駅前である近江神宮前駅前となる錦織(にしこおり)地区の住宅地の中にあります。この地名は古代の渡来系氏族・錦部氏が居住地としていたことに由来すると言われています。

 

 

錦織には志賀宮(近江大津宮)の顕彰碑である『志賀宮址碑』が、明治28年に立てられています。江戸時代の儒学者が「錦織村の中に御所跡と伝えられる地がある」という文書を記していることを根拠に、当時の大津市長が建立したもの。しかし当時は学術的な根拠はありませんでした

 

 

近江大津宮の具体的な位置については、文献上の記録はほとんどありません。何しろ5年あまりで廃された“まぼろしの宮”ですから、その記録もほとんど無いのです。近江大津宮の別名が『粟津宮』と平安時代の文献には書かれており、古くから石山寺のある琵琶湖の南端・粟津が近江大津宮跡とされることが多かったようです。

その中で、唯一根拠とされるのが崇福寺という古代寺院に関する、『扶桑略記』に記された記録です。『扶桑略記』とは平安時代に比叡山僧が私選したと伝わる歴史書で、そこに崇福寺の由緒が書かれていて、それは三井寺寺門伝記や今昔物語にも引用されています。そしてその記述に近江大津京の場所を解明するヒントがあると注目されているのです。

 

天智天皇が夢で現れた僧に「戌亥(北西)の方向に出掛けてみなされ」とお告げがあり、その方向が光り輝いていたので御幸すると、窟の中に住む仙人と思わしき翁がいるのを見て、「ここは尊い霊場だ」と寺院を建立し丈六の弥勒仏を祀った

 

奇譚ではありますが、崇福寺が大津宮の北西の方角、つまり大津宮は崇福寺の南東の方向に造営されていたことが、この記述から窺うことが出来るのです。

 

崇福寺が比叡山山麓の滋賀里山中に伽藍を構えていたことは明治ー昭和初期の調査で明らかになっており、小生も三つの尾根の上に残る崇福寺伽藍跡にも行って来ました。下の写真の左が天智天皇が祀った弥勒仏が祀られていたという弥勒堂跡で、右は創建由緒にちなんだ仙人が住む窟とその横の清流による“金仙滝”です。

 

 

 

瓦などの遺物が当時の宮殿では使用されていなかったこともあって、近江大津京の位置の特定は困難を極め、崇福寺の伝承が最も有力な根拠として、学者の間ではその南東の方角の平地のいくつかが近江大津宮の候補地として上げられる時代が続きました。

 

大津宮所在諸説位置図

画像引用:『幻の都 大津京を掘る』(林弘道著・学生社刊)

 

その近江大津宮の位置が特定されることとなったのは、昭和49(1974)年11月に錦織地区で行われた発掘調査。建物の新築がこの地区で行われると聞いた滋賀県立大学教授 林博道氏が「もしかしたら」という思いで地主に発掘調査を依頼、その結果 宮跡と思われる柱の抜き取り穴が検出されたのです。

その後錦織地区の複数の箇所で発掘調査が進められると、多くの宮跡と思わしき遺跡が次々と発見され、昭和53(1978)年には県教育委員会は錦織地区を近江大津京と断定、翌年には国の史跡として指定されるに至りました。

 

錦織地区が大津宮と断定された1978年2月9日の朝日新聞 滋賀版

 

以下錦織地区の住宅地に点在する近江大津宮の遺跡を順番に紹介していきます。解説は発掘を担当された上記の林博通氏の著書『まぼろしの都 大津京を掘る』(学生社刊)、および平成5(1993)年に秋に大津市歴史博物館で開催された特別展『古代の宮都 よみがれる大津京』の図録を古書で手に入れたので、主にこれらの資料を参考としました。

 

 

この日は第7地点に設置された看板に掲示された地図を参考に現地を回りました。ここに示されている第1~第9地点の内、他の地点は公園として整備されているのに対して第5・第6地点は特に整備されている様子は無く、看板には県有地になっていると書かれてはいましたが、念のために写真掲載はせず説明のみとします。

 

 

 

第1地点

1974年最初に発掘調査された地点で、南北に延びる塀跡および門の一部、南北に延びる回廊跡の柱穴が見つかりました。コンクリートの円柱が、柱跡に整備されています。

またここには前述した志賀宮址碑や、持統天皇の代に荒廃した近江大津宮の跡を訪れた柿本人麻呂が詠った歌の碑が置かれています。

 

 

 

玉たすき畝傍の山の橿原の ひじりの御代ゆ生まれましし

榊のことごと つがの木の いや継ぎ継ぎに天の下知らしめししを

天にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え

いかさまに 思ほしせめか天ざかる 鄙にはあれど 石走る

近江の国の楽浪の 大津の宮に天の下 知らしめしけむ天皇の

榊の尊の大宮は ここにきけども大殿は こと言へども春草の

繁く生ひたる霞たち 春日の霧れるももしきの

大宮処 見れば悲しも(万葉集 巻1・29)

 

発掘当時の第1地点の門跡

画像引用:『古代の古都 よみがえる大津京』図録(大津市歴史博物館刊)

 

第2地点

第2地点は第1地点の約70メートル北。ここからは、大形建物跡の東南(右前)の隅が検出されました。

 

 

発掘当時の第2地点の大形建物跡

画像引用:『幻の都 大津京を掘る』(林弘道著・学生社刊)

 

第3地点

住宅の奥まった場所にある第3地点は第1・第2地点に比べて小さな区画で、見つけるのに少し時間がかかってしまいました。ここからは、東西に伸びる塀の跡が見つかっています。

 

 

第4地点

第4地点は近江神宮駅の駅前で、近江大津宮の東端と推定されています。南北に延びる、塀の跡が見つかっています。

 

 

第5地点

第5地点からは、T字になっている南北と東西の塀の跡が検出されました。またすぐ北には、東西に伸びる長い建物の跡が見つかっています。

 

第6地点

第6地点からは南北に四間、東西に二間の建物跡が検出されています。建物の跡のすぐ南には南北に延びる塀の跡が確認されています。

小生がここに注目するのは、日本書紀天智10年5月5日の記事「天皇、西の小殿に御す。皇太子・群臣、宴に侍り、是に田舞再び奉る」で、飛鳥京では内裏の西には宴が開かれたとされる苑池が造られており、もしかしたらこの建物が書紀にある『西の小殿』かも知れないと想像をしました。

 

第6地点の建物跡 画像引用:大津市立歴史博物館パネル展示

 

第7地点

第7地点は整備はされていたものの、区画全部フェンスに囲われて、公園のように中に入ることは出来ません。看板によると発掘調査はまだ行われていないとのことですが、第2地点で発見された大形建物の西南(左前)の隅と推測されています。

 

 

第8地点

第1地点と接してすぐ南の第8地点。看板にはまだ未調査と書かれていましたが、第1地点で一部が発見されている門の遺構があると推測されています。

 

 

第9地点

第2地点の道を挟んですぐ西側、第7地点のすぐ北側が第9地点です。第2地点で検出された大形建物の北西(右奥)の隅部分だったと推測されており、今後の調査を待つ状況となっています。

 

 

このように、近江大津宮錦織遺跡は住宅地の中に小さな史跡公園が分散して点在しているという状況で、現地に行っても近江大津宮の全体のイメージを把握するのはなかなか容易ではありません。

そこで、大津宮についてもっと理解したいと思った小生が錦織地区から南に、大津市役所の近くにある『大津市歴史博物館』へと移動しました。

 

 

平成2(1990)年にオープンしたこの博物館ですが、常設展示には近江大津宮の復元ジオラマを始めとする資料や情報が多く展示されているのです。近江大津京については、ここを訪れれば詳しく知ることが出来るのです。

 

 

近江大津宮のジオラマ復元については、発掘調査の中心となった林博道氏の監修で制作されました。実は検出された遺構は全体のほんのわずか、発掘調査されたポイントはジオラマに見える濃い茶色で示してます。

全体の復元は林氏の推測でなされて、第1地点から見つかった遺構を内裏南門と回廊、第2地点から見つかった大形建物の遺構を正殿である内裏前殿で、その北から検出された柱跡は後殿と推測しています。そして第1・第3・第4地点から検出された塀の遺構を、南門を左右に挟んだ東西37m、南北42mの二つの枡形の区画と推定されています。

 

 

近江大津宮のジオラマ復元については、発掘調査の中心となった林博道氏の監修で制作されました。実は検出された遺構は全体のほんのわずかで、発掘された場所にはジオラマの濃い茶色によって示しています。

復元は主に中大兄皇子(後の天智天皇)が皇太子として治政をした、前期難波宮を参考にされたそうです。難波宮で確認された南門東西の枡形区画からは八角形の建物の遺構が発見されており、大津京も未確認ですが、区画内に何かの建物が建っていた可能性が高いです。

 

前期難波宮内裏復元図 画像引用:展示の見所4 復元前期難波宮(大阪歴史博物館刊)

 

ただ、大津市立歴史博物館で用意された解説シートには「宮殿全体の建物の配置は大阪の前期難波宮を参考に復元していますが、奈良の飛鳥宮とよく似たつくりだったとも考えられています。今後、調査や研究が進めば、大津宮のすがたは、また違った形に復元できるかもしれません」と書かれており、現在の大津宮はまだまだ調査不足で、まだまだ不明な部分が多いことを現場も認めています。

 

現状の発掘調査の結果から作成された大津宮中枢部配置図、それに第9地点にあった各地点の地図にGoogleマップを重ねた地図を小生で作りました。現場で歩いてもよくわからない大津宮の全体のイメージが、この地図で把握出来ればと思いで作成してみました。

 

 

この地図を参考にしますと、宮の中心軸は現在錦織地区の主要道路となっている県道47号線とほぼ同じ所に通っていたようです。小生はその県道の上から第2・第7地点に向かって撮った写真に県教育委員会が作成した内裏正殿の復元図を重ねてみました。小生が撮影したポイントは内裏正殿前庭と推定されている場所で、内裏正殿はこの位置からこのように望めたと思われます。天智天皇の即位式がこの場所で執り行われたかと思うと、とても感慨深くなります。

 

 

内裏正殿は右前の隅のみ検出されていないとのことですが、全体の発掘調査から宮全体の中心軸が確かめられており、宮城は例外なく正殿を中心に左右対称の建物配置になっていることから正殿の規模が割り出されました。

内裏正殿は幅7間奥行4間、大きさは21.3×10.4メートルと推測されています。これは参考にされた難波宮内裏正殿の幅7間奥行5間、大きさ36.4×19.0メートルの十分の六しかありません。

 

CGで復元された大津宮正殿(前殿) 画像引用:大津市立歴史博物館パネル展示

 

博物館で撮った写真が不鮮明なのと、何となく内裏正殿をリアルにしたいと思いまして、ChatGPTを使って画像を作り遊んでみました。

 

 

また正殿前庭も幅82.5メートルと、難波宮の114.3メートルの十分の七ほどしかありません。規模で言えば飛鳥宮に近く、大津宮は政庁として長く使うことを前提にしていない、小規模な宮として造られたと考えられるところです。

大津は西に山、東に湖が迫る狭い土地であり、広大は平地を必要とする宮殿の造営には向か無い地であり、日本書紀の天智9年2月の記事では「時に、天皇、蒲生郡の匱迮野に幸して、宮地を観はす」と、琵琶湖南東に広がる蒲生野の平地に新京を計画していると書かれており、天智天皇は宮造りを広い場所を遷って行うことを考えていました。

下の画像は近江大津京跡と前期難波宮を同縮尺で重ねた図で、赤が近江大津京、青が難波宮の建物配置です。それぞれの宮の規模はこの図の通りとなっています

 

 

それを踏まえると大津宮には難波宮のような、八省の官庁の建物群が正殿前庭を囲んで建ち並ぶ『朝堂院』が造られたのかは疑問であると言えます。

しかし、林博通氏は日本書紀の天智9年正月7日に「士大夫等に詔して、大きに“宮門”内に射る」の『宮門』と書かれている記事に注目、宮門とは朝堂院の正門を指す用語であります。さらに内裏南門から約100メートル南西から建物跡の遺構が見つかっており、林氏はこの建物跡について「朝堂院西第一堂として、今後の遺構の増加を待ちたい」と著書で朝堂院の存在を期待も込めて書かれています。

 

近江大津京錦織遺跡南西で検出された建物跡 画像引用:大津市立歴史博物館パネル展示

 

大規模な古代の遺跡の発掘調査というものは十年単位で行われる根気のいるものではありますが、ことこの近江大津京錦織遺跡においては、宮跡の解明が進んでいるとはまだまだ言えません。それは大津市という県庁所在地の、一般の住宅地の中の遺跡だからに他なりません。

ロマンを求める古代史ファンからすれば「一刻も早く調査をして、近江大津京の全貌を明らかにして欲しい」と思うところですが、実際にここに土地を持つ住人にとっては「それまでの日常生活が変わり、自分の土地なのに住みにくい場所になってしまった」という街ぐるみで困った状況になっているのです。錦織地区に点在する小さな県有地は、住民が遺産相続などをされるタイミングに、県職員が文化財保護法の説明と丁寧な説得によって取得していったそうです。土地の取得だけでは無く発掘調査ですらも、地域の住民の許可を取りながらわずかずつ進めて行かなくてはならず、その全貌解明は非常に気の長さが求められることになりそうです。小生が生きている間にどこまで大津宮の解明が進むのか、考古学は古いものを扱う学問ですが、常に新しい発見によってそれまでの研究が塗り替えられる、非常にトレンドな学問でもあるのです。

林氏は著書で「日常生活をしている私有地に制限が加えられることになるので、当然強い反対の意見も出されたが、繰り返し説明をして了解を得ることができた。これらの地では建物の新築、増築、改築時には事前の発掘調査を実施することになったのである」の一文と共に、それまでの発掘調査に協力をしてもらった住民に対する謝辞が書かれていました。

 

近江大津宮の取材が一通り終わったのは夕刻前、大津市から家に帰る前に、近江大津京や近江神宮ゆかりの天皇陵に参詣をして帰りました。まずは、弘文天皇陵、いわゆる大友皇子の陵墓です。宮内庁による陵名は『弘文天皇長等山前陵』で、住所は大津市山陵町。大津市役所のすぐ裏が陵墓で、ここは滋賀県で唯一の天皇陵です。

 

 

元々天皇と認められていなかったのを、明治3年になって歴代天皇の一人に加えられた人物。当然それまで陵墓とされていた場所もありませんでした。この場所が弘文天皇陵となったのは籠手田 安定という県令(いまの県知事)がこの場所築かれていた亀丘という丘陵がに大友皇子は葬られたと陵墓と自説を政府に上申したことからだそうです。ここに関しては陵墓というより、弘文天皇を祀る供養墓という意味合いが強いのではという気がします。

 

そして、さらに暮れてゆく大津市を後に、小生は県境を越えて京都市の山科へ。県は違いますが大津にほど近い近江神宮の主祭、そして近江大津宮の主であった天智天皇陵の参拝もさせてもらいました。宮内庁による陵名は『天智天皇 山科陵』すっかり薄暗くなった中の、夜が迫る薄暮の参拝となりました。

 

 

古代天皇陵の中でも、埋葬者が確実とされる数少ない陵墓。久しぶりにに訪れた天智天皇陵でしたが、初代神武天皇陵より長い400メートルの参道の長さにはあらためて驚かされます。それだけ明治政府が天智天皇陵を壮麗に整備したのは、大化改新を歴史的な出来事として重んじていたからだと思われます。おそらく明治天皇政権=中大兄皇子政権、蘇我本宗家=徳川家のイメージを重ねようとしたのでしょう。

 

 


天智天皇陵は近年の調査で天武・持統天皇陵や、真の皇極・斉明天皇陵される牽牛子塚古墳と同じ八角墳と解明されていますが、大正時代まで上円下方墳と見なされており、明治天皇・大正天皇・昭和天皇陵はいずれも上円下方墳なのは、この天智天皇陵の形体を手本に造られているのです。

 

 

画像左・天智天皇陵測量図

画像引用:https://plaza.rakuten.co.jp/asobikokoro2/diary/201702140001/

 

画像右・昭和天皇武蔵野陵 画像引用:宮内庁HP

 

天智天皇の血筋を継ぐ今の天皇家が、大化改新の英傑を祖先の鑑として尊重をしているのは確かです。

 

「湖面の水際は毎日のように氷が張り詰めている寒気の厳しい時季であったが、その日は風もなく気持ちよく晴れ渡っていて、王宮の宴席からは、琵琶湖の静かな湖面に明るい陽の散るのが見られた。湖を取りまく山々は雪をかぶって、きびしい白さで塗られているが、心なしか、山々も亦、表情を改めていた。群臣たちはこの日初めて、近江が美しい国であることを知った。飛鳥の都でも、難波の都でも、このように美しい自然には恵まれていなかったと思った。王宮の持っている眺望は単に美しい許りではなく、限りなく大きく広かった。宴席は昼から夜に及んだ。」

井上靖の名高い歴史小説『額田女王』から、大津京を描いた一文です。一面に広がる広大な琵琶湖のパノラマは誰が見ても心動かされる素晴らしい情景ですし、それまでの古い都とは一線を画す新しい時代を期待させる近江大津京は、人々の心に新しい風をもたらしたのではというのが、実際に大津を訪れることで感じる想いです。

 

 

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配信アプリREALITYの友だち紹介とイラスト、今回はヤカイソウ(夜顔)さん。6回目となるイラスト依頼の記事で、すっかり常連さん。今回はむしろ小生の方から「そろそろ新イラストを描く頃合いでは」とヤカイソウさんに持ちかけて描きました。

 

 

ヤカイソウ(夜顔)さんについては、2021年12月19日2023年2月27日2024年3月29日2025年4月13日同年10月26日と、繰り返し記事にしてその人柄などの紹介も過去に繰り返しています。出会った時はまだ初々しい高校生だった夜顔さんも、今は20代の大人の配信者になりました。その話は過去の記事を見ていただくとして、今回の記事は新作イラストのことだけを書いて行こうと思います。

 

毎回細かく依頼をして来られるヤカイソウさん(それゆえに描きやすいのですが…)今回のヤカイソウさんからの依頼は次のようなものでした。

 

1枚目は今日みたいに、編み進めつつケータイにマイクをつけつつ枠しつつ(手元とケータイとマイクとが全部映る構図で)のわたし

2枚目は夜、ぬいぐるみ(100円均一のグッズ)を抱っこしながら眠るわたし

 

…それで、マイクに編み物の毛糸にかぎ編み針とハサミ、さらに縫いぐるみに普段愛用のコンパクトラジオの画像まで大量の画像を送って来られたのです。これらを受け取って「えー、これ全部描くの」というのが第一に思ったことでしたが、思えば細かく描き込むのが小生のとりえ。ここは「試されている」と思い、全部描くのが小生の本領発揮と張り切ってペンを進めました。

まずは2枚目の依頼から先に紹介します。送られて来たのは100円均一のぬいぐるみの画像でしたが、そのまま描いたのでは版権にかかるかもということで、そこはイラスト 似た感じに工夫して描いてみました。(送られた画像もここに載せるのは控えます)

ヤカイソウさんからは寝間着姿のアバターの画像も、メガネも掛けさせてという依頼をいただきました。

 

 

本来ならば掛け布団でも掛けていた方が自然なのでしょうが、せっかくのパジャマもアバターも見えなくなってしまいますから布団は無しで(風邪引いたらゴメンなさいね)。ベッドや布団の上では構図が落ち着かないので、窓際にリクライニングベッドチェアで半分座った感じの寝姿で描いてみました。

そして、ヤカイソウさんは『夜』という指定がしっかりとされていましたので、夜の雰囲気を強調することに。絵全体を夜間ライティングである青を基調にしましたが、それだけではつまらないと思い、今回は「月の光で木漏れ日が差す」という、ちょっと特殊な光と影の演出を加えました。光の演出を取り入れるのは学生時代から小生の得意技だったのです。

 

 

そして、最初の依頼である編み物をしながら配信するヤカイソウさんのイラスト。これは昨年に承けた“大人の塗り絵をしているわたし”という依頼の延長で、最近夢中になっていることをしている自分を絵にするという依頼ですね。

 

画像引用:タクヤNote 2024年3月29日記事

 

ヤカイソウさんは最近はpixivと連携をした創作活動向けネットショップサービスである『BOOTH』にショップを出されていて、そこで自作の編み物を販売されておられるのです。そのショップで販売する作品を造りながらREALITYで配信をするということが最近は多くなっておられて、その様子をイラストにというのが今回の依頼であります。ヤカイソウさんの作品は絶賛販売中なので、興味のおありの方はぜひ御一見下さい。

 

 

送られて来た画像から、使われているマイクはArctis X USBマイク、ラジオはオーム電機ポケットラジオRAD-P211S-Sと判明。名刺サイズの超コンパクトサイズのラジオなのですが、それでは絵にしにくいとかなり大きめのサイズに変更をして描きました。ヤカイソウさんからは品番までは伝えられはしなかったのですが、送られていた画像をAiで調べられる便利な世の中になったものです。

 

 

画像引用:左 Amazon 右 オーム電機ダイレクト

 

そして背景をどうするかですが、今回はそこは詳しい打ち合わせがありませんでした。ただ、送られた来た画像の中で気になったことがあったのです。前述したぬいぐるみの画像です。

 

 

書きました通りぬいぐるみそのものは版権の問題があるのでお見せは出来ないのですが、小生が気になったのはそのぬいぐるみが置かれている場所。それは畳の上で、ヤカイソウさんが和室で創作をしていることがこの画像から判明したのです。

「これは背景を和室で描くしかない」と思い、そこで頭に思い付いたのが以下のこれでした。

 

画像引用:https://roomclip.jp/photo/ZerL

 

今回和室ということで、窓や畳、タンスなどはサザエさんの居間を参考に描いてみたのです。別にそういう依頼をされていた訳ではないのですが、一つは遊び心が欲しいという小生の気持ちを加えました。

ヤカイソウさんから送られて来た画像のうち、ビニール袋だけは描いても絵にしにくいと描かなかったとだけ言っておきますね。

そして、アバターに着せる服装の話をした時、ヤカイソウさんから送られて来たのが以下の画像。

 

 

アメーバもされているヤカイソウさんから服装の参考としてピグの画像が送られて来たのです。それらのたくさんの情報を元に描いたのが以下の画像です。なかなか描き甲斐のある一枚になりました。

 

 

この作業をライブするという配信で、以前に比べてREALITYでも枠を開けることがやや多くなっている夜顔さんですが、やはりレアであることはかわりは今も変わりません。

お話では「REALITYはずっと続ける」とは話はされているヤカイソウさんですが、やはり小生にとっては最もREALITYで近い間柄の一人だと思っていますから、少しでも以前のような関係になれたらという気持ちはずっと持っているというのが本音です。

 

 

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今年もやって来ました、東大寺修二会(お水取り)の季節が。2017年から8年間にわたり舞台上を走るお松明の撮影にトライし、昨年の記事では“決定版”と自分で言った写真を上げて、これで一段落とも書かせてもらいました。

 


画像引用:タクヤNote2025年3月9日

 

昨年そう言ったこともあって「今年は撮影に行かないかな」とも考えていたのですが、さすがにこのシーズンが近づくと血が騒ぐ、家で何もしないでじっとしていられないという思いが高まってしまい、結局今年も超望遠レンズをレンタルして、お松明の撮影に行くことになってしまいました。

…と言っても、「今までと違った撮影ポイントは無いか」と、何年も探している堂の舞台に見える麓の撮影ポイントはいまだに見つけることが出来ず、それで今回小生が目を付けたのが、5年前に撮影ポイントとしていた平城宮跡です。以前はここの第二大極殿跡の基壇上からお松明の撮影をしていました。

 

画像引用:タクヤNote2021年3月15日

 

以前から「お松明の写真って、かならず右や左にカメラの位置が寄っている。真正面から撮影された写真が無い」と思っていて、出来るだけ真正面から撮影が出来いかと考えていました。それで時々撮影ポイントを探しに奈良に出掛けていて、平城宮跡に帰って来た小生は平城宮跡で下のように二月堂と大仏殿が見える撮影ポイントを見つけたのです。

 

 

この大仏殿と二月堂を撮影したのは、第二大極殿院の朝堂院と朝集堂院との境となる東側筑地塀跡です。前に撮影ポイントにしていた第二次大極殿跡基壇のわずか300m南なのですが、向かって少し右向きだった二月堂がほぼ真正面に、大仏殿が二月堂に被るという斬新な構図となります。

 

 

 

小生が見つけた撮影ポイントはちょうど東院復元庭園の真西で、復元された筑地塀が大仏殿のそばに見えます。ちょっと盛り土で高くなっていて、その上にはまるで撮影台のようにあつらえられたマンホールまであり、ここはまるで撮影用に整備されたのでは無いかと思うほど。

つて距離が遠すぎて撮影ポイントから外した第二次大極殿跡基壇と二月堂までの距離が同じということで、お松明撮影としてはそこが難ではありましたが、二月堂から距離の近い撮影ポイントが見つけられなかったことと、新しい構図を追うという意味で今年のお松明はここで撮影することにしました。

 

 

 

今回の撮影日は3月2日月曜に決めて、機材レンタルの予約をしました。レンタルで使用したのはレンズが昨年に引き続いてAF-S NIKKOR 500mm f/5.6E PF ED VRの固定焦点超望遠レンズ、三脚はハスキー3段(HT-1030)でした。

 

 

テレコンバーターTC-17 EIIを併用して、850mm(35mmフィルムカメラ 1275mm相当)の超望遠。三脚は重量3.7kg、耐荷重10kgの望遠レンズ向きのガッシリしたハスキー製三段三脚を借りることにしました。あとは、撮影当日となる天候のチェック、レンタル機材を使用しているために悪天候でも日にちの変更が出来ないために、当日の天候が非常に気になるところですが、実は去年、一昨年と撮影当日雨が降ったのです。

ただ濡れるだけでは無く、4kmも離れた場所からの超望遠撮影ですから、雨で視界が悪くなることは撮影に大きく影響を受けてしまうのです。それが二年連続で続いて「今度こそ雨の影響のない撮影をしよう」という思いで毎年同じ条件でお水取りが行われる奈良に足を運んでいるのですが、気象庁発表のの天気予報を見てみると…

 

 

確かに春は雨の多い季節ではありますが、3年連続で天気予報に傘のマークはさすがにげっそり「天気に恵まれていい写真が撮れないように、天が采配しているのでは?」なんて、天命を疑ってしまったりしてしまう小生がいました。

 

それでも、日にちは変更できないので、細かい雨の降る中大阪市内の撮影機材レンタルショップで機材を借りて、平城宮跡に向かいました。そして押さえていた撮影ポイントで撮影のセッティングです。

 

セッティングは今まで通りの手順で行いました。手順の記録についてはまとめた画像で見せます。

① 午後5時半までには現地に到着してセッティングを行う。

② ピントは厳格に合わせた上で、ピントリングをテープで止める

③ 大型三脚を使用する。

④ VR(手ブレ補正)機能をONにする。

 

 

マンホールには椅子の代わりにしているジュラルミン製のカメラケースを置き、三脚はその前に。双眼鏡ももう一脚の三脚にセットし、持ち出したノートパソコンをライブビューにしてデジタル一眼のファインダー画面を大きく映し出しました。

 

 

こうして用意は完了、午後7時のお松明上堂を待ちます。幸いに強い雨は降らなかったので去年のようにカメラやパソコンにレジャーシートをかぶせるなどの対策はしなかったのですが、家に帰ってみたら、カメラやパソコンにはかなりの水滴が付いていました。手元の温度計を見ると13度と極寒では無かったものの、雨のせいか気温よりも体感は寒く感じたように思います。

寒さに震えながら午後7時を迎えて、二月堂に火の光が現れるのがパソコンモニターに映し出されます。いよいよお松明が舞台の上を走り、小生も夢中でシャッターを切ります。撮影データは感度設定ISO160、絞りはf11、シャッタースピードはバルブで1分~1分30秒くらい露光しました。

 

 

もう一枚、写真を上げます。

 

 

明らかに雨で煙っている撮影結果となってしまいました。火の粉の光条もはっきりと写っていて、ズームレンズを使っていた以前の第二大極殿基壇から撮った写真よりも写りは良くはなったと思いますが、雨に祟られたお松明撮影は今年ではまだ終わらないというのが今回の撮影結果でした。

よって来年もこのお松明撮影は続くことになるだろうと、どうも天はお松明撮影からまだ小生を解放してはくれないようです。もしもお水取りで俗な祈願が出来るのであれば、小生の願いはただ一つ「来年こそは撮影日が晴れ渡った好天に恵まれますように」です。

 

最後に、二月堂を撮り続けて小生が思ったことを、この記事では書いて締めようと思います。

今回は二月堂が大仏殿と重なった構図の写真を撮影させてもらいましたが、お松明の写真を撮ろうとするとどうしても右寄りまたは左寄りの構図になってしまいます。それは正面には良弁杉とその先に大仏殿があるからで、真っ正面から二月堂を撮影しようとすると大仏殿の陰に隠れてしまうのです。

 

撮影:2010年8月22日

 

これは二月堂が大仏殿に向かって正面を向けているということに他なりません。このお松明の撮影ポイントを探し回ったことで二月堂の方角を詳しく知ることになったのですが、実はお松明が最もよく見える場所は大仏殿の屋根の上からでは無いかと思うところです。これは偶然では無く、修二会の行法とは大仏に対して行っている仏事では無いかと、二月堂というお堂そのものが、意図的に大仏に向けて建造されたのでは無いかと推測したのです。

これまでお水取りと東大寺大仏との直接の関わりというポイントを語る研究者の論は聞いたことが無かったのですが、もしかしたら密接な関係があるかも知れないのというのが、小生の新たな持論になりました。寺伝によると修二会が最初に行われたのは天平勝宝4(752)年2月1日で、大仏開眼が行われた同年4月9日の2ヶ月前のことになるのですが、盧舎那大仏が光明遍照によって国家安康をもたらすのに対し、修二会は国家が間違った行いを悔い改める“悔過”を行い十一面観音の功徳を求めるという法要。これまで小生は直接関連していないと思っていましたが、修二会が大仏に向かって行われる行法であるとするならば、二月堂だけで行われていると考えるより、国家鎮護の官寺である東大寺の全体の修法だと見なすべきかも知れません。

 

これまでも、自分の足で歩き回ることで新たな歴史の仮説を立ててきた小生ですが、二月堂の修二会もまた現地周辺を歩き回ってそのような考察を持つに至りました。小生の仮説で考えれば、お水取りのお松明を大仏殿の陰から覗き見るように眺めるのは、正しい行いなのかも知れませんね。

 

 

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