タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

滋賀県甲賀市(旧・信楽町)の紫香楽宮についてこのブログの6月6日の記事で取り上げげました。紫香楽宮は奈良の東大寺の創建に尽力をした聖武天皇が、彷徨五年と呼ばれる天平12(740)~同17(745)年に平城京を離れて複数の京を転々と移った内の一つ。天平15(743)年に有名な『大仏建立の詔』を勅したことで知られています。

 

 

正史の続日本紀によると、聖武天皇は紫香楽京の京域に甲賀寺(こうかでら)という寺院を建立し、そこに大仏を造営しようと計画したという記述があります。天平16(744)年には実際に工事もはじめられたとありますが、火災や地震などの厄災が立て続けに起き、天平17年には聖武天皇は平城宮へ還ることとなり、紫香楽はわずか1年で廃都となってしまいました。結果紫香楽で頓挫した大仏の計画は平城京の東の外京で再開され、そうして建立されたのが東大寺、奈良の大仏なのです。

今回のブログ記事ではその甲賀寺について取り上げます。大仏建立が計画された甲賀寺とはどこだったのか、一般的に甲賀寺跡として知られているのは、史跡・紫香楽宮跡の南部、内裏野地区の寺院跡の遺構です。

 

 

内裏野地区は古代の礎石が露出していたこともあり、江戸時代には既に紫香楽宮跡として名所とされ、大正15(1926)年には紫香楽宮跡として史跡に指定されます。しかし、その後の発掘調査によって金堂に講堂・東塔などの伽藍が並ぶ寺院跡であることがわかり、現在はここを甲賀寺跡と推定する説が主流となりました。

 

しかし、小生は内裏野地区の寺院跡が、大仏建立が計画された甲賀寺だったという説には大いに疑問を持っているのです。その根拠として大きく以下の三つの理由が挙げられると思います。

 

① 大仏建立するには、金堂が小さすぎる。

発掘された金堂跡は幅79尺(約24m)、奥行41尺(約12.5m)、東大寺大仏殿の半分以下、丈六仏が本尊の薬師寺金堂の7割ほどの規模。建物の柱の跡からも、とてもここに大仏が建立されたとは考えられません。また寺域全体も面積も東大寺の三分の一程しか無く、遺構からは東大寺よりずっと小規模な寺院だったことがうかがえます。

 

②朱雀大路を塞いでしまう。

第二名神高速道路の工事現場から、都の中央を通るメインストリートである朱雀大路と目される大路の新宮神社遺跡が発見され、紫香楽宮の朱雀大路の位置がかなり特定されたのですが、その位置だと朱雀大路は内裏野地区の寺院跡が塞いでしまう、突き当たってしまうというおかしなことになってしまいます。朱雀大路は朝堂の正門である朱雀門と京の正門である羅城門との間に通される京のメインストリートであり、施設を建てて分断するなど、京の設計としてありえません。

 

 

すべての朱雀大路が特定されたわけでは無いので、寺院の所で朱雀大路が東西に少しずらされた可能性も否定は出来ませんが、それでは寺院跡が朱雀大路に面しているということになってしまいます。藤原京でも平城京でも平安京でも、大きな官寺が朱雀大路に面して建立されたという例はありません。

手元の資料にある復元イメージCGでは、朱雀大路が寺院で寸断されているという、摩訶不思議な推定図となっていました。

 

画像引用:シリーズ「遺跡を学ぶ」大仏造立の都 紫香楽宮(小笠原好彦著・新泉社刊)

 

③寺院は完成している

続日本紀によると、天平17(745)年の正月には紫香楽は新都として宣言がされたものの、地震や火事が頻発し、5月には朝議で平城京帰還が官人から奏上されることに。同月には聖武天皇は恭仁京へ、さらに平城宮に戻ってしまい紫香楽宮に還ることは無かったのです。「甲賀宮空しくて人無し。盗賊充斥し、火もまた未だ滅せず。仍て諸司および衛門の衛士らを遣わして官物を納めしむ」と続日本紀には記述があり、新都として宣言されたわずか半年弱でいかに紫香楽が荒廃していたかわかります。当然甲賀寺も紫香楽宮が廃都となったのに合わせて、建造途中で打ち棄てられてしまったと考えられます。

 

ところが、内裏野地区の寺院跡は七堂伽藍の建物跡が完全な形で出土しており、屋根に葺かれていた瓦も多く出土しています。この寺院は完成して落慶されていたのは間違い無いと思われます。

出土した寺院跡がもし甲賀寺とするなら、明らかに続日本紀の記述とは相違があるのです。

 

内裏野地区遺跡について解説する、紫香楽宮調査事務所 出土品展示室 展示パネ

 

そこで現在多く言われているのは、『甲賀寺の跡地に甲賀国分寺が建てられ、それが近江国分寺に寺格が移された』という説です。その根拠とされているのは正倉院文書(正倉院中倉が収蔵している1万数千点におよぶ文書)にいくつか見受けられる『甲可寺』の記述です。甲賀寺と同じと思われるこの記録が天平17年~19年の紫香楽宮廃都後の年月日で書かれていて、甲賀寺が廃都後も存続されていたことを見ることが出来ます。

さらに東大寺文書である奴婢見来帳に『甲賀宮国分寺』という記述が紫香楽が宮であった745年から6年後の天平勝宝3(751)年に見られ、一連の記録から甲賀寺は紫香楽宮廃都後も寺として存続され、甲賀国分寺として建立され、その後近江国分寺として運用されるようになったという説です。近江国分寺は伝教大師最澄が得度をした寺として知られていますが、場所は諸説あります。

この一連の文書を総合的に見て「甲賀寺は紫香楽宮が廃都になったあとも存続され、国分寺として運営されるようになった」とするのが、内裏野地区遺跡が甲賀寺跡とする裏付けとしていますが、これでは国分寺が紫香楽の京域に建立された裏付けになっても大仏建立が計画された甲賀寺であった裏付けにはなりません。

 

上記の三つの疑問点は小生独自の説では無く、内裏野地区の寺院跡が甲賀寺跡であることに否定的な意見を唱える研究者の共通の見解であります。もしも内裏野地区の寺院跡が国分寺であったとしても、甲賀寺だったするには否定的な要素はあっても、正しいと示す考古学的その他の裏付けは皆無と言っていいのです。内裏野地区が寺院が造営されたのは、やはり紫香楽宮が廃都となってその後というのが小生の見解です。

 

結局、聖武天皇は紫香楽宮のどこに大仏を建立しようとしたのでしょうか。それを考えた時に、そもそもとして聖武天皇はなぜ平城宮を離れ5年もの間彷徨をしたのかを知ることがその答えにつながると思ったのです。そして、昨年から始めた南山城(京都府南部)の仏教寺院めぐりで一つの仮説が立ったのです。

それは、京都府笠置町の笠置寺で本尊の弥勒菩薩磨崖仏を見た時に思いました。

 

 

恭仁京からもほど近い笠置寺の奈良時代の磨崖仏(崖を彫った仏像)は高さ15メートル。奈良の大仏の座高と同じで、正に大仏と呼ぶべき巨大な仏像。この笠置寺の弥勒菩薩磨崖仏を前にして思いだしたことがあったのです。

「奈良の大仏は、唐・洛陽の龍門石窟 奉先寺洞の盧舎那仏像をモデルにして造られた」

笠置寺の弥勒菩薩磨崖仏には、龍門石窟の巨大仏像を彷彿とさせると同時に、奈良時代の日本にも龍門石窟同様の磨崖仏の文化があることを知ったのです。もしかしたら聖武天皇は、磨崖仏で大仏を建立しよう考えていたのでは。そしてそれこそが、聖武天皇が恭仁京、紫香楽と平城京を離れて京を転々と遷した本当の目的だったので無いかと、そのような考えが浮かんだのです。

 

洛陽とは西安の東320kmにあり、長安と並んで各王朝の首都と定められた場所。5世紀の南北朝時代に文研記録上の中国最古の仏教寺院である白馬寺が建立され、洛陽は中国仏教の中心地として信仰を集めました。そして唐代には高宗皇帝の発願で龍門石窟に奉先寺洞が彫られたのです。高さ17.14mの大盧舎那像で有名な石窟仏像です。

 

龍門石窟奉先寺洞 大盧舎那像 画像引用:東大寺のすべて展(2002年・奈良国立博物館)図録

 

盧舎那仏は奈良時代最も最先端の仏法として尊ばれた華厳経の中心的な仏で、サンスクリット語のヴァイローチャナは『光明普遍』(世界を光であまねく照らす)は、この仏像は光を放ち世界中を救うと説かれ、その像が大きければ大きいほど、その光は広く世界を照らし人々は救われると考えられたのです。

聖武天皇は天平6(734)年に第十次遣唐使船で帰還した吉備真備や玄昉らから龍門石窟の大盧舎那仏のことを聞いていたのでは無いかと思われ、この大仏発願につながったと推測されます。

そして、笠置寺の大弥勒菩薩磨崖仏を見た小生は、そこから一つの推測を抱いたのです。

「聖武天皇が最初は、大仏を鋳造仏では無く、石窟像として造ろうと考えていたのではないだろうか」

もしそうなら謎とされている、五年間にもわたる聖武天皇の転々と京を遷した『彷徨五年』の理由を垣間見ることが出来ます。恭仁京も紫香楽も正に巨石の里であり、恭仁京からほど近い笠置寺には大仏と呼んでも良い、巨大な磨崖仏も造られています。聖武天皇は洛陽のような石窟仏を造れる仏教の聖地を選定するために京を転々と遷したのではと考えると、聖武天皇の不可解な行動もつじつまが合うと小生は推測しました。

 

しかし、続日本紀には甲賀寺の大仏が銅造の鋳造仏として計画されたことを示す記述が幾つかあり、小生の石窟で大仏が造られようとしたという説には反論があると思われます。

まずは、有名な天平15(743)年10月の聖武天皇の大仏建立の詔ですが(抜粋)…

 

ここに天平十五年歳癸未にやどる十月十五日を以て、菩薩の大願を発して盧舎那仏の金銅像を一躯造り奉る。国銅を尽して銅を鎔し、大山を削りて堂を構へ、広く法界に及ぼして朕が知識となす。…

 

また、初めて甲賀寺のことが記録に残る天平16(744)年11月の記事には…

 

十一月壬申。甲賀寺に始めて盧舎那仏の体骨柱を立つ。

 

…と記されています。鋳造された東大寺の大仏は、まず木柱の骨組みを組んでからそこに土型を造り、その土型に溶けた銅を流し込んで造像するという手順で造られました。この天平11年の記述は甲賀寺の大仏も同じ方法で造像されていたことを示しています。

 

画像引用:『東大寺Kid's』(東大寺HP)

 

続日本紀の記述を信じる限りは、甲賀寺に建立が計画された大仏は銅製の鋳造仏であります。それを踏まえて甲賀寺の大仏が、石窟仏で造営が計画されたいう説を持つ小生の見解を以下に書きます。

 

聖武天皇は後の状況による計画の変更で、紫香楽でも恭仁京でも無く平城京の東の外れである外京で建立しました。そして、続日本紀に見られる大仏建立の詔の内容は、明らかに東大寺での大仏建立を意識したと小生には読めます。「大山を削り堂を構へ」とありますが、現在甲賀寺の跡として主流になっている内裏野地区の遺跡はやや開けた場所で“大山”ではありません。

大仏建立の詔は東大寺建立という国家プロジェクトを成功させるための国威発揚のスローガンとして、東大寺造営の時にも使われていたのでは無いかと小生は思います。それが最初に発せられたのが聖武天皇が紫香楽にいた時だったので天平15年の記事に載ってしまったのであり、その内容は後の東大寺建立に沿ったものに、時代の状況に合わせて詔の文面が修正されたというのが小生の推測です。天平16年11月の甲賀寺の体骨柱の記事も同様の理由で書かれたもので、実際には立てられなかったのではと小生は考えています。

もしも、内裏野地区から大仏が建立されたことを示す遺構でも見つかれば、大仏は石窟では無く鋳造仏として建立された証明になるかも知れませんが、現在のところ考古学見地からの発見はありません。

 

ここまで、小生が紫香楽に建立が計画された盧舎那大仏が鋳造仏か石窟仏かについての持論を書いてきました。小生が石窟仏説を推していることはもう十分に説明が終わったので、ここからはいよいよ「内裏野地区の寺院跡が甲賀寺跡では無いとしたら、大仏建立が計画された甲賀寺はどこにあったのだろうか」という本題に触れていきます。

先に断っておきますと、甲賀寺がどこであったかは(内裏野地区の遺跡も含めて)現在特定はされてはいません。ここから先に書くことはあくまでも、小生の推論であって、証明はまったくされていないとお断りした上で話を進めます。

 

甲賀寺の大仏が石窟仏として造られたとしたら、当然それは平地では無く岩山に築かれたということになります。そこで調べるとこの信楽という場所は全体が花崗岩地質だという、注目すべき情報がわかりました。この花崗岩の長石が良質な陶器の材料として、信楽は焼き物の里として発展をしたのです。そう思うと大石窟仏を建立する場所として信楽は適所と都に選ばれたと考えられます。

 

画像引用:甲賀市HP

 

紫香楽宮からほど近い岩山であることが条件になりますが、平城宮と東大寺との位置関係を考慮すると、小生が推定する甲賀寺は紫香楽宮の丑寅…つまり北東か、あるいは北の山です。本場・洛陽の龍門石窟は洛陽城の南に流れる伊河の川沿いにありますが、信楽の地形と日本の都市計画のスタイルを考えると、小生は大仏は宮の後ろに建立されたのでは無いかと思います。

それらのことを踏まえて紫香楽宮近辺の地図をあらためて見直して見ると、気になる場所が一つ見つかりました。

 

 

紫香楽宮朝堂院跡から北東に約3kmにある“飯道山”(はんどうざん)という山です。位置関係で言えば、平城京朝堂院と東大寺に類似しています。この山に祀られている“飯道神社”(はんどうじんじゃ・いひみちじんじゃ)は、創建は奈良時代初期、和銅年間に熊野本宮から分霊したと伝えられ、奈良時代初期には開けていたことがうかがえます。

 

地勢的な面から気になった飯道山で「もしかしたら、ここが紫香楽の東大寺があった場所では」と思い、よくよく調べてみました。するとここが甲賀寺だったのではと思わされるような要素が、次々と出てきたのです。以下にそれらを列記します。

まず、地質的なことを言いますと、飯道山は全山が花崗岩からなる岩山であります。おそらく山肌を彫れば、大石窟仏を彫るにふさわしい大きな岩崖も出てくるでしょう。実際に登山道には露出した岩を多く見ることが出来ます。

 

 

そして飯道山はただの岩山では無く、岩の信仰の山でもあります。日本の古代宗教の原点と言われる神を神体である岩に見立てて信仰する『磐座信仰』の地としても知られ、飯道山の参道入口近くには飯道神社の境外社の岩尾神社という神社もあります。岩尾神社は神を祀る祠が無く、巨岩がご神体となっている典型的な磐座信仰の神社となっています。

 

 

『巨石信仰の聖地』それが小生の飯道山の印象でした。平安以後は修験道の霊場として栄えたようで、飯道神社を神宮寺とする飯道寺という寺号の寺もありました。飯道山は険しい岩山として、修験道者の道場として修行の場とされたのです。

 

正に神聖なる盧舎那大仏(石窟仏)を建立するにふさわしい巨岩の聖地でありますが、奈良時代の遺構などの遺跡などは確認されていないようで、ここが内裏野地区に代わる甲賀寺の跡地と見る発見は残念ながらありません。しかし、飯道山と東大寺を結びつける大きな証拠は存在します。

それは現在も東大寺で見ることが出来ます。お水取りが行われる東大寺二月堂にはその鎮守である三社の神社があるのですが、その一社がなんと飯道神社。二月堂の南の石段を登った南側の広場、その広場に面して祀られています。二月堂の飯道神社は、この甲賀の飯道神社から分霊し勧請されたのです。

 

 

甲賀の飯道神社が二月堂の鎮守として勧請されたかについては、東大寺は江戸時代の元禄年間に編纂された『東大寺諸伽藍略録』に東大寺要録の記録を引用し、宝亀2(771)年に大仏殿動揺防止工事でお水取りの祖と言われる実忠が紫香楽の材木で行われたことから飯道神社が鎮守とされたと書かれており、東大寺はその由緒を飯道神社が二月堂鎮守になった理由としています。

二月堂の飯道神社について調べてみましたが、一部に紫香楽宮との関わりを指摘する解説はありましたが、紫香楽大仏の甲賀寺との関わりを指摘する研究は見つけられませんでした。

甲賀寺が飯道山に建立される計画があったのかはともかく、飯道神社が二月堂に祀られていることは、二門の大仏建立寺院を結びつける大きな鍵だと指摘する研究者がいないことが、小生にはむしろ不思議に感じています。

小生は山を背にした紫香楽宮、その背後の山には盧舎那大仏を望む。それが聖武天皇が望んだ仏の世界、仏教に篤く傾倒した聖武天皇が求めた理想郷だったのではというのが、小生のイメージする紫香楽宮の姿です。

 

紫香楽宮復元CGに龍門石窟奉先寺洞を合成したイメージ画像

画像引用::MIHOミュージアム HP(紫香楽宮復元CG)

 

東大寺二月堂の鎮守三社と言いますと、飯道神社・興成神社・遠敷神社の三社でそのうち興成神社と遠敷神社は若狭国ゆかりの神社です。お水取りは若狭の遠敷明神が若狭の水を東大寺まで引いたという伝承により始まった行事と言われています。これらの三社を祀ったのは東大寺初代別当だった良弁の高弟でお水取りを始めたと伝えられる実忠和尚と伝えられています。小生はむしろ三社は良弁ゆかりの神社では無いかと思います。

 

良弁上人坐像(東大寺開山堂所蔵)[平安時代・国宝]

画像引用:東大寺のすべて展(2002年・奈良国立博物館)図録

 

東大寺に伝わる良弁は出身が近江国の百済氏の出身、または若狭国小浜下根来生まれとされ、伝承は見事に二月堂鎮守と場所が合致します。さらに疑問を上げますと、東大寺の由緒は聖武天皇が亡き子である基皇子を追善するために建立をした奈良若草山の麓に建てた金鐘寺という山房に始まり、良弁はその九人いた金鐘寺の僧の一人だったと言われています。でも、大仏は当初は平城京では無く紫香楽に建立される計画だったのでは…? さらに良弁が近江国出身という伝承もあるとすれば、紫香楽宮は良弁の地元ということに。

となると、聖武天皇と良弁との接点は紫香楽宮時代に端を発するか、もしかしたら紫香楽遷都を推したのは良弁…という可能性も出てくるのです。もしも飯道山近辺に奈良時代の遺構が見つかるなんてことになれば、東大寺の歴史が大きく塗り替えられる可能性もあると小生は思っています。

 

今回のブログでは、紫香楽大仏が計画された甲賀寺が定説となりつつある内裏野地区には無かった。そして可能性として飯道山に石窟仏として建立されようとしていたのでは無いかという説を説きました。

発掘調査でも文献上でも、小生の説を裏付けるものは何もありません。しかし小生は、内裏野地区が甲賀寺であるという説もまた、同じだと思っています。裏付けが何も無いのに、まるで内裏野地区の寺院跡が定説のように言われることが多いという今の状況に、一石投じたいという思いもあり今回の記事になりました。

 

今回は小生の自説を語るのみの記事となりましたが、実は昨年の秋に小生が甲賀寺跡では無いかと考えている飯道山に実際に行って来ました。飯道山とはどういう場所なのかの現地レポ、そして紫香楽大仏について改めて記事に書きたいと思います。

 

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今回このブログ記事で取り上げるのは、滋賀県甲賀郡信楽町です。滋賀県南東部に位置する信楽と言えば、多くの人はタヌキの置物で有名な信楽焼の里というイメージされるでしょうが…

 

 

 

小生のような考古学ファンにとっての信楽は特別な場所、奈良時代の『紫香楽宮』という、かつて日本の首都があった歴史的に重要な場所なのです。

奈良時代に大仏を建立した聖武天皇は、巨大な宮城である平城宮において治世を送りましたが、天平12(740)年から同17(745)年の間、『彷徨五年』と称される平城京を離れ転々と宮遷りをした時期がありました。紫香楽宮はその宮が造られた地の一つで、有名な天平15(743)年の『大仏建立の詔』が発せられ、紫香楽の京域の甲賀寺に大仏を造る計画が実際に行われたと続日本紀には書かれています。奈良・東大寺の大仏の鋳造が始まったのは天平19(747)年9月と記録されています。紫香楽の甲賀寺での大仏鋳造は東大寺に先駆けての最初の計画であり、もしも計画が変更にならなければ、大仏は奈良では無く紫香楽にあったかも知れないのです。

『彷徨五年』で聖武天皇が都としたのは…

 

   恭仁宮(740-743)

   難波宮(744-745)

   紫香楽宮(745)

 

…の三箇所。このブログではその内の二箇所をこれまでに紹介しています。2023年10月19日の記事で恭仁宮を、同5月29日の記事で難波宮のことを取り上げ、聖武天皇の彷徨五年について書きました。今回の記事では三箇所目となる紫香楽宮を取り上げ、聖武天皇の彷徨五年の話の総括としようと思います。

 

信楽の里は国道307号線沿いに多くの窯元が建ち並び、焼きものの里として多くの人々が訪れますが、その紫香楽宮の遺構はその信楽の里の北部に、いくつか点在してあります。

 

 

 

今回の紫香楽宮跡のレポは2023年9月9日に行った時のことを中心に書きますが、この日は土曜日。後述する『紫香楽宮 関連遺跡群 調査事務所』が土日祝が休館だったので、補うために同年10月10日にも追加で訪れていまして、二回にわたる訪問を元にレポを書かせていただきます。

 

正史の続日本紀に『紫香楽宮』と書かれているくらいですから、信楽の里が紫香楽宮の跡地として注目されていたのはかなり古くからでした。

古来から紫香楽宮跡と考えられていたの黄瀬・牧地区。そのあたりの丘陵地区は「内裏野」とも呼ばれ、一部建物の礎石が露出していたことから古くから紫香楽宮の跡地と言われていたのです。江戸時代にはすでに、内裏野は紫香楽宮の内裏や大仏殿跡と記した歴史書も書かれていました。大正年間には『紫香楽宮跡』として国の史跡に指定され、今もガイドブックなどでは紫香楽宮跡と言えばこの内裏野のことを指しています。

まずは、内裏野地区の遺構から紹介をしていきます。国道307号線を北上し、分岐点で左の県道57号線へ進むと、すぐにあまりに立派な「紫香楽宮址」の石碑が立てられているのが見えます。

 

 

この石碑から林に入っていた先が『紫香楽宮内裏野地区』です。宮址には皇居跡を示す『紫香楽宮』を祀る社が建てられていました。大正時代以後はこの内裏野地区が紫香楽宮の皇居跡と見なされ社が祀られたのです。

 

 

しかし、その後発掘調査が進むにつれて、どうやら内裏野地区は皇居では無いことがわかって来ました。

 

紫香楽宮内裏野地区(GoogleMAPに遺構配置図を合成)

遺構配置図引用:https://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_oumikokubunji.htm

 

社が建てられている金堂跡の他、講堂跡、塔跡と、次々と見つかった建物跡遺構の配置から当初は皇居跡とされていた内裏野地区は、昭和5(1930)年には仏教寺院跡だったとわかったのです。

遺構は整備され、推定復元図もある全体図や各伽藍位置を示す碑が設置されていました。

 

 

金堂を中心に、南側に中門、北側に講堂。講堂を囲むように三面僧坊と、東側には塔院が置かれ塔の礎石が並びます。伽藍配置で言えば元興寺にも似ていますが、でも元興寺の食堂は金堂の真北にあったのに対し、この紫香楽宮内裏野地区の寺院跡は金堂の北東に食堂が建てられていました。

  

 

 

 

この食堂の位置は、東大寺と同じなのです。しかし、東大寺と同じ伽藍なら金堂の西側にも塔があるはずなのに、ここからは西塔の遺構は検出されず、研究者の間では「西塔は存在しなかった」という見方が強いということで、非常に謎の多い伽藍配置なのです。

 

CGで復元された内裏野地区寺院 画像引用:紫香楽宮パンフレット(甲賀市教育委員会刊)

 

思わぬ展開で見つかった奈良時代の寺院跡。歴史家の間では、紫香楽宮に建てられた『甲賀寺』ではないかと指摘されています。

甲賀寺が正史の続日本紀に記されているのは、天平16年11月の記事で『甲賀寺に始めて盧舎那仏像の体骨柱を建つ』というもの。甲賀寺に盧舎那仏像…すなわち大仏を、建立する計画だったと記録されているのです。。

奈良・東大寺の大仏の鋳造が始まったのは天平19(747)年9月と記録されています。紫香楽の甲賀寺での大仏鋳造は東大寺に先駆けての最初の計画であり、もしも計画が変更にならなければ大仏は紫香楽に建立され、奈良の大仏は存在しなかったかも知れないのです。

 

古来から紫香楽宮の跡と言われて来た内裏野地区でしたが、宮の中心である内裏や朝堂では無いことが発掘調査によって明らかになって来ました。

それでは紫香楽宮の主要部はどこにあったのでしょうか。それを知るために小生が訪れたのは、内裏野地区遺跡の2km北にある『紫香楽宮跡 関連遺跡群 調査事務所』です。紫香楽宮の発掘調査拠点の施設で、プレハブの建物です。

 

 

ここは紫香楽宮についての解説のパネルや、出土品などの展示室にもなっているのです。紫香楽宮について学ぶのに、必ず行くべきとされる場所となっています。失われた紫香楽宮とはどのようなものだったのか、小生もこちらの展示から大いに学ばせていただきました。

 

 

 

 

当初、紫香楽宮跡と目されていた内裏野地区ですが、裏付けとされたこの地名が江戸時代から呼ばれるようになったことが文献資料などからわかり(それ以前の地名は『寺野』)、発掘調査もあって寺院跡だったということが確かめられてしまったのです。

そこで始まった紫香楽宮の全貌を明らかにする調査、そのヒントとなったのが1970年代の圃場(農地)の整備事業で発見された『根柱』です。掘立柱の根の部分で、3本見つかった内の1本が、展示室にはその実物が展示されていました。

 

 

昭和59(1984)年にこの根柱の年輪年代測定法が奈良文化財研究所によって行われ、天平14~15(742~743)に伐採された木であることが判明したのです。天平17(745)年に遷都した紫香楽宮造営の時期とピタリと一致し、「紫香楽宮跡は信楽町宮町地区」と研究者たちは確信、昭和58(1984)年から宮町地区の絞られて大規模な発掘調査が繰り返し行われたのです。

 

 

画像引用:現説公開サイト 宮町遺跡第30次調査

 

その結果、宮町地区からは奈良時代の多くの建物跡が見つかり、平成12(2000)年には内裏の主要施設と思われる大型建物の跡が発見され、紫香楽宮の中心部は宮町地区であることがほぼ確実となりました。下の画像は宮町地区の遺構の図と、GoogleMapを合成したものです。黄色が建物跡が発掘で見つかった場所で、特に主要施設は赤で示しています。

 

 

小生は出土品展示室で得た情報を元に、紫香楽宮遺跡調査事務所の200メートル西に位置する、地域の集会所となっている宮町会館へと行きました。

 

 

集会所である宮町会館ですが、建物の壁面には紫香楽宮に関するパネルがいっぱい掲示されていました。

この集会所のある場所が発掘調査によって紫香楽宮正殿前庭であるとわかり、宮の主要施設がこの集会所をぐるっと囲むように建っていたのです。そのこともあって、この集会所が内裏野に代わる紫香楽宮の跡地となっているのですが、まだ史跡として整備されていないので、その代わりに集会場にこのようなパネルが掲げられています。

 

 

 

 

朝堂院の主要建築は北に前殿と後殿の二棟の建物と、西脇殿と東脇殿の掘立柱の柱列跡が発掘されました。朝堂院正殿と思われる前殿は東西37.1×11.9メートル。平城宮大極殿の44.0×19.5メートルより一回り小さく、正式に大極殿として機能していたのかは検討の余地がありますが、注目されているのは朝堂院の東西に建てられた東西脇殿です。

南端が未調査なので正確な建物の規模は不確定ですが、両脇殿は南北100メートル以上と考えられています。それまで当時最大と言われていた新薬師寺金堂の幅68メートルを超える、奈良時代で最も長大な建造物の跡が見つかり、それまで「急造りの仮宮では」とも目されていた紫香楽宮が本格的な宮城であったことが解り、大きなニュースとなりました。

 

紫香楽宮朝堂院跡出土を伝える新聞記事(毎日新聞 2001年11月14日)


宮町遺跡からは、数多くの木簡(木の板に書かれた墨書き)も出土しています。その中には「造大殿」(宮造営の大殿の造営をする部署)や、「皇后職」(光明皇后立后の翌年に設置された皇后の家政機関)といった文字が書かれた、宮町遺跡が皇宮であることを証明する木簡も見つかっています。

 

 

 

紫香楽宮調査事務所の出土品展示室には、残念ながらこれらの木簡の実物の展示はありませんでした。展示室にあったのは『あさかやま木簡』と呼ばれる裏表に和歌の書かれた木簡の複製品でした。

 

 

(表)安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

(裏)難波津に 咲くやこの花 冬ごもり いまは春べと 咲くやこの花

 

安積香山の歌は万葉集巻16 3807番に、難波津の歌は古今和歌集に掲載されており、古来よりこの二首は書道の初学の手本として用いられていました。ただ、この木簡は万葉集が編纂されるより前に書かれたと考えられ、万葉集成立のルーツと知る貴重な資料なのです。

 

この発見によって内裏野地区のみ指定されていた紫香楽宮跡の国の史跡は、平成17(2005)年宮町地区も追加指定されました。ただ、宮町地区は内裏野地区と違ってほとんど整備はされておらず、宮町会館のパネルだけが朝堂院跡であることを示すものとなっています。

 

 

宮町会館に朝堂院をCGで再現した画像のパネル展示がありましたので、この再現画像と同じ方向から宮町遺跡を写真に撮ってました。かつてはこの場所に上のような朝殿が立ち並んでいたのですが、現状ではその往年の姿をイメージするのはかなり難しくなっています。

 

 

昭和からスタートした発掘調査は宮町地区と内裏野地区だけでは無く、広範囲で行われ数多くの紫香楽宮の遺構が発見されています。いずれも看板が立っていたので紹介をします。

まずは鍛冶屋敷地区、第二名神高速道路の信楽インターのすぐ南に位置し、高速道路の建設に際しての大規模な発掘調査によって、18基以上の鋳造工房が発見されました。紫香楽は大仏の鋳造が計画されたことが記録にあり、鍛冶屋遺跡は大仏建立が計画された甲賀寺跡と目されている内裏野遺跡からも近く、鋳造施設の遺構は大仏鋳造との関連も考えられ注目されています。

 

 

鍛治屋敷地区の遺跡と第二名神高速道路を挟んで反対側となる北側に看板が立つのは『新宮神社遺跡』。

近くの鎮守の神社から名付けられた遺跡で、朝堂院跡の宮町遺跡と甲賀寺跡と目されている内裏野遺跡との中間に当たり、朱雀通りに該当する紫香楽京の南北のメインストリートがあったと推測されている場所。

平成12年にここから幅18メートルもの大路の跡と、この時代ここを流れていた川に架けられていた橋の跡が見つかり、検出された橋脚の残存木材から天平16(744)年伐採されていたことが調査によって明らかになっています。聖武天皇が平城宮に帰還し紫香楽宮が廃都となったのが天平17(745)年ですから、紫香楽宮が造営途中の段階で打ち棄てられてしまったことが、ここからも確かめられているのです。

鍛治屋敷遺跡と新宮神社遺跡は紫香楽宮跡として、平成22(2010)に史跡に追加指定されました。

 

 

また新宮神社遺跡から約1km西で発掘されたのが『北黄瀬地区遺跡』で、ここからは井戸の木枠の遺構が良い保存状態で発見されました。井戸は2メートル四方という破格の大型サイズで、このような大きな井戸が一体どのような目的で整備されたのか注目を集めます。

 

 

 

紫香楽宮調査事務所には職員の方がおられて、パンフレットなどをいただきながら少しお話もさせてもらいました。「発掘調査はこれからもさらに行われるのですか」と聞きましたら、職員の方は「調査はほぼ一段落をしていまして、これからは整備の方に向かうと思います」というちょっとうれしいお話をいただきました。

甲賀市のHPを見てみても、“史跡紫香楽宮調査整備委員会”が設置されたという広報が令和2年3月30日の公示がありました。宮町遺跡の整備事業は実際に始まっているようです。

しかし、実際の整備計画の公開されている資料を見ると「宮町遺跡の発掘調査の報告書がまだ出来上がっていないので、整備協議は出来ない」との意見も協議会から上がっているようです。どうも、整備事業は長期の事業と捉えられているようで、実際に整備計画がいつ実現するかはなかなか見えないようです。

 

画像引用:https://www.city.koka.lg.jp/secure/31593/R4.3siryou.pdf

 

聖武天皇の『彷徨五年』の三都で、整備が進んだのは大都市の都市公園として整備された、難波宮跡だけ。現在も市街地とは言えない恭仁宮と紫香楽宮の整備は費用や整備による効果を図れないというのが実情でしょうか。

小生としては元々信楽焼の里として観光地となっている紫香楽宮跡などは、焼き物の里という観光資源とタイアップして町おこしに使ってもらえないかと思ったりしてしまいます。

 

三回にわたる聖武天皇・彷徨五年の宮跡めぐりのラストとして、今回紫香楽宮跡を紹介しました。これで終わりと言いたいところですが、紫香楽宮について実はもう一つ書きたいことがあるのです。

聖武天皇が『大仏建立の詔』を発布し、大仏建立が計画された紫香楽の甲賀寺。現在、内裏野地区で見つかった寺跡がその甲賀寺跡というのが最も有力と言われていますが、小生はその内裏野地区の寺跡が甲賀寺だという説には大きな疑問を持っているのです。

なぜ内裏野地区の寺院跡が甲賀寺では無いのか、そして内裏野地区の寺院跡が甲賀寺では無いのなら、甲賀寺はいったいどこにあったのか。次のブログ記事では小生の紫香楽大仏についての考察を、そして小生が甲賀寺と予想する場所のレポを書いていきたいと思います。

 

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配信アプリREALITYで知り合った友だちの紹介とアバターのイラスト。今回紹介するのはぺん さんです。平日の午前中に配信をされる朝配信者、歩くさんぽんぽんさんと、これまで歴代の推してきた朝の歌配信者枠を受け継ぐ形で、このごろは毎朝 枠におじゃまさせてもらっています。

後述しますが、新アカウントでREALITYの活動してからの、推しの最有力後補の人であります。

 

 

ぺんさんは愛らしい歌声のウクレレ演奏歌配信者さん。朝に似合うほっこりした枠を平日は毎日されていて、関西弁の温かみのあるトークもあって朝枠ながら人気の配信者さんです。

今回イラストを描くことになったのは、ぺんさんの依頼からです。小生が所見で枠におじゃました時に、ぺんさんはプロフィールの「無償でアバターのイラスト描きます」という文を読まれて、すぐに「私も描いて」と言われて来たのです。その後イラスト依頼者に読んでもらっているブログ記事をしっかり読んでくれた上、直後に小生の配信も覗きに来られて「この依頼は本物」と、依頼を承けて描くことに決めました。

依頼者用の説明ブログ記事を読まれたぺんさんは、愛用のウクレレの画像を送って来られたり、ダイレクトメールで希望を伝えてもらいました。

 

 

上の画像が、配信で実際に弾かれている ぺんさんの愛用のウクレレです。ぺんさんファンで初めて見られる方もいるかもですね。関西人のぺんさんらしく、舞妓さんのステッカーが貼られているのがかわいい。

 

ぺんさんからダイレクトーメールで送られてきた、イラストの依頼内容は以下の文の通りです。

 

虹のある風景で、どっちかいうとリアルじゃなくて夢の中みたいな、ふわふわした世界観がいいです

 

上記の条件で、どのような状況設定で描くかは小生任せということに。配信を聞きながらいつも通りの二枚のイラストのイメージを膨らませることにしました。

そうして思い付いたのが、『ウクレレ → ハワイ』という連想から、ハワイをテーマにしたイラストです。ぺんさんのプロフィール画像も真っ青な空に虹の橋で、ハワイの青い空と海に架かる虹の橋という絵が思い浮かんだのです。

 

 

この案をぺんに伝えたところ「アロハシャツも水着もREALITYの服では持ってない。持っていない服を着ている自分のアバターに興味津々」と期待される返信をいただきました。

あと、“ぺん”というハンドルネームについて「ペンギンから取った」と話を配信でされ、さらに「実は一番好きなのはパンダ、だけどパンダは他アプリで使っているので、二番目に好きなペンギンを名前にした」とぺんは教えてくれました。

それなら、好きなパンダとペンギンに挟まれて、青い海と空、そして虹を背景にウクレレを手に歌うぺん、さらに南国の花で飾るというレイアウトでまとめてみることにしました。一枚目が下のイラストです。

 

 

本当ならもっとふわっとしたタッチで描ければ良かったのですが、非リアルな感じでを意識したイラストとなりました。

 

二枚目のイラストですが、これはぺんのREALITYのルームをイラストにすることにしました。ぺんは最近『くらげたちの海底宮殿ガチャ』をいっぱい回していて、深い深海のようなルームで配信をされているのです。

 

 

「これはハワイの海のイメージとぴったり」と、二枚目のイラストは海底宮殿のルームをテーマに描くことにしました。ルームをモチーフにしながら、南の海らしさを意識して描いて行きました。

ぺんに着させたのは、ズバリ・ディズニーのリトル・マーメイドのアリエルのコスチュームでございます。やや安直なチョイスとなりましたが、ぺんを人魚にしたと言うより、人魚のコスチュームを着たぺんというコンセプトで、人魚のヒレの中には足があるようにちゃんと描きました。髪型もアリエルに寄せて、アバターよりも少し赤みを付けました。

こうして描き上げたのが二枚目のイラストが下の画像です。

 

 

一枚目のイラストと違って、ウクレレの舞妓さんのステッカーまでここはちゃんと描きました。ぺんの依頼に応えられたかどうかはわからないですが、二枚描くことが出来ました。

 

前述した通り、ぺんは現在の小生の推し候補であります。それは、彼女の配信が素敵で歌が魅力的というのもありますが、小生が初見としてぺんの枠に初めて訪れた時の強烈な印象があります。

ぺんは初めて入室した小生に対し、プロフィールを見て「イラスト描いて」といってこられたました。初見依頼です。他の多くのリスナーがいる中で初めて枠に訪れた小生に時間を割き、関心を持ってくれたのはとても丁寧な対応と思ったのです。

小生にとってREALITYと言えば、絶対的な最推しだったふう[日常系]さんの存在があります。彼女との出会いも初見でのイラスト依頼、小生のために何回も服を着替えてイラストのモデルになり、ノリノリでポーズを取った思い出があるのです。リスナーとの距離を縮めるのが上手な人、それが小生の初めて会った印象でした。

 

ぺんの対応はその最推しの思い出を思い出させるに十分な丁寧なものでありました。ぺんという人は本当にリスナーに対して距離を縮めるのが上手、小生のような初見で枠に入った人にも分け隔て無く、この人柄は代え難い魅力と感じたのです。だから「この人のためにイラストを描きたい」と強く望んだのです。

ここ最近は毎日のようにぺんの枠におじゃましているのですが、ぺんからは「イラストの依頼をしてくれたから、枠に来てくれるのかな。イラスト描き終えたらもう来なくなるなんてことは無いよね」と、また、気持ちをくすぐるようなことを言われたりしています。

もしかしたらかつての最推しのように、いなくなったらREALITYから離れたいと思うような存在になっていくのかもと思うこのごろです。

ぺんの枠には“ぺんぱる”という用語があります。ぺん推しという意味で、何人かのリスナーはプロフィールに『ぺんぱる』と書いて、ぺんを推しているようです。小生もいずれプロフィールに『ぺんぱる』と書きたいなと思っています。

 

 

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配信アプリREALITYで知り合った友だちの紹介とアバターのイラスト。今回紹介するのはユウ/You さんです。普段はYouと呼んでいる、現在新高校一年生の女の子です(以下普段通りに呼び捨てで書きます)。

 

 

Youを紹介する前に、まず、ここ最近の小生の配信アプリREALITYでの近況について書きます。

3月12日の記事で書きましたとおり、休止宣言をしてから約1年半を経て新しいアカウントで、この4月1日から再開しました。新たなアカウントのアバターは下の画像の姿で、今までして来なかった毎日配信を、既に1ヶ月以上にわたって継続中です。

 

 

4月1日の新アカ初配信は3時間たっぷりして、視聴者15人とスタートとしては100点とは言えない結果になったこともあり、強化のために新アカウントでの枠まわりも再開。今回依頼をイラスト依頼を承けたYouさんはその枠まわりで知り合いました。Youさんの初配信に小生がお邪魔をして相互フォローになったのです。

その後、Youは小生の配信によく来てくれるようになり、小生もYouの枠に行くことも多くなり、小生にとって新アカで最初の、そして一番の親しい間柄になれたのです。Youの最初のフォローも初コラボの相手も小生となりました。

 

 

Youは関西在住(滋賀県)で、大阪在住の小生とコラボでしゃべると、普段小生はあまり使わない大阪弁がいっぱい出て、すごく気心が知れたって感じで話すことが出来ていいのです。

そんなYouさんですから、新アカウントで知り合った人最初のイラスト依頼もトントン拍子で話が進みました。

イラストはこれまで通り二枚かくことに。当初は実際に彼女が着ている学生服で描こうかなんて話もありましたが「学校から怒られるかも」ということも気になって、一枚目はベッドの上でパジャマ姿でまとまりました。パジャマはREALITYのデフォルト(初期標準)のこのパジャマで描くことになりましたが…

 

 

You談によると、彼女はリアルで愛用しているのも黒のパジャマなのだそうで、REALITYのパジャマをベースに、実際に彼女が着ているパジャマの再現を試みました。彼女の話によれば、アバターのような白い線は無くボタンも黒という、無地の真っ黒なパジャマだそうで、イラストはその話に則って描きました。

また、ベッドはREALITYのルーム機能のベッドをイラストに起こしました。Youの話によると、「上ふとんの色目は、REALITYと似ている」ということで、彼女のリアルな生活感を少しでも出せたらと思いました。

 

 

リアルの話はさらに進み、Youから「ミケムラさんの抱き枕をいつも抱っこしてる」という情報も。ぬいぐるみメーカー山二のマスコットということで、これもイラストに描きましたが、そのまま描いたら権利の問題とかいろいろあるので、いつも通り似て非なる感じにしました。

また、加えて「壁にアザラシの写真が掛けてある」という話も。どんな写真かをYouは、配信中にルームのキャンパスにイメージを描いて見せてくれました。

 

 

いっぱい提供したくれた情報を元に、描いたのが下のイラストです。リアルなYouの生活感出せたらという気持ちを持って描きました。

 

 

ちなみに、Youのアバターがかぶっているのはガチャで当たったウィッグ。彼女は初配信前にガチャを回してこのウィッグを当てたそうで、初配信時にはすでにかぶられていたのです。だから、デフォルトの髪型を誰も見たことが無いのです。

また、たまに黒縁メガネをかけてますが、リアルYouも視力が悪くて普段眼鏡をかけているということです。リアルを追求するとメガネをかけさせた方がいいんでしょうが、女子は「限界まで可愛くが鉄則」というのが依頼イラストのお約束なので、メガネは無しにしました。

 

そして、二枚目のイラストですが、新体操を題材に描く打ち合わせになりました。

Youは小中学生の時には新体操をされていたそうで、経験者として新体操には思い入れがあるというとのこと。イラストとしても映えると思って、面白そうと描かせてもらいました。

…と言っても、小生は新体操の知識は皆無で、小生がYouからいろいろ教えてもらうことになりました。まず衣装となるレオタードですが、小生の新体操のレオタードのイメージと言えばこんな感じだったのですが…

 

画像引用:YAHOO!フリマ

 

Youが拾って来てくれたサイトで見せてくれた、レオタードはこの二枚の画像でした。

肌色のレオタードの上からスパンコールや花飾りいっぱいの、ドレス調というコスチュームに最近はなっているんですね。新体操も進化しているのだなと感心してしまいました。

 

 

 

画像引用 左:Mash Leotard 右:オリンストーン

 

Youからは「どっちもかわいい。どちらにするかタクヤさんのセンスで選んで」と言われまして、結局どっちか一つでは無く、両方のいいところをミックスしたオリジナルのレオタードにしました。強い色も欲しかったので、紫と青に加えて赤も入れてみました。

 

そしてどんなポーズを取らせるかですが、Youからは「今は出来るかどうかだけど、バックルでリボンの演技」という指定が。もちろん小生は知らない用語で、Youから詳しく教えてもらいました。バックルとは…

 

片足で立ったまま、もう片方の足を後ろから受け止めるボディワーク要素の一種(スカイ・グレースHPより)

 

画像引用:スカイ・グレースHP

 

これまで描いたイラストとは全然違うポーズに、苦戦しながらも楽しんで描きました。ただ、ポーズもそうですが、もっとこだわりたかったのはYouのアバターの身体のプロポーションです。彼女のアバターは、背も高く胸のサイズも割と強調されていまして、小生からは「アバターの姿を再現するけど、イラストもそれでいいの?」とYouに聞いてみたところ…

 

 

Youが言うには「私は身長170cm、リアルのバストサイズもこのアバターくらいよ」と、朗報が。それならレオタード姿ということもあり、徹底的にグラマーに描いてみようかなと決めました。ただYouからは「腕は足先は細いから、そこはちゃんと描いて」という注文も入っています。

そこで取ったのはまず着衣の無いヌードでアバターを描いてから、後から服を着せるという方法です。ヌードのままで彩色まで完成させた後、レオタードを着せたのです。なので作業途中の絵はここには載せられませーん。

 

 

このやり方は昨年12月19日に記事をアップした猫咲みあさんのブラジリアンビキニのイラストでも取っていますが、この時は水着を着せるときにボディラインが隠れるようにしています。

それに対して今回のYouの新体操イラストでは、裸の上からボディペインティングのように衣装を重ねるという感じで、レオタードの下のボディラインがそのまま残るような描き方をしました。ネットで調べたセクシーレオタードのイラストでこのような技法が取られているのを見て、小生もやってみました。

 

そうして仕上げたのが下の画像です。どんな評判が来るか楽しみであります。

 

 

ちなみにユウ/Youというのは後から改名した名前で、彼女が最初に付けていた名前は『ユウカ』でありました。…そう、このブログで何回か紹介をしている現在事実上の相方の 大橋ゆうかと同名だったのです。「自分はよほど“ゆうか”という名前の女子と縁があるなぁ」とこの偶然の一致に感慨深くなって、現在二人のゆうかのために、曲のタイトルに『ゆうか』と付けた歌を書く予定をしています。

今回は意を決して作った新アカで最初に親しい仲になったYouを紹介しました。前アカでは過疎状態が続いて意を決しての新アカでしたが、そのスタートでYouと出会えたのはとても幸運なことだったと思います。

自分としてはこういう出会いを大事に大事にして行きたいですね。

 

 

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今回紹介するのは、京都府木津川市山城町の蟹満寺(かにまんじ)で4月18日に行われた『蟹供養放生会』のレポです。

蟹供養放生会は4月18日のことでしたが、実は蟹満寺へは昨年11月3日に参拝を一度させていただいていたのです。木津川市の蟹満寺はいわゆる南山城の古刹寺院で、昨年7月26日に鑑賞をし、8月17日の記事で紹介をした奈良国立博物館での特別展『聖地 南山城』で地域ナンバーワンの名宝・白鳳時代造の銅造釈迦如来坐像のことを知り、早々と南山城の白鳳仏を拝みたいと拝観をしたのです。

本当ならももっと早くに紹介すべき蟹満寺でしたが、その拝観の折りに4月の蟹供養放生会のことを知りまして、「蟹満寺のことは蟹供養放生会のレポをして、その時にブログで紹介をしよう」と、ここまで拝観レポを留保していました。この記事では今年4月18日の蟹供養放生会を中心に、併せて昨年11月の参拝の模様を併せたレポをしていきたいと思います。

 

蟹満寺とはユニークな山号の寺院ですが、実際にその由緒はカニと深い関わりがあります。それについては後述します。海の無い南山城で“蟹満寺はカニの寺”という触れ込みを地元ではされているようで、最寄り駅であるJR奈良線 棚倉駅にはカニのレリーフが。カニのお寺の里として地元を上げて盛り上げているという感じでした。

 

 

棚倉は最寄りの駅ですが、蟹満寺へ行くには棚倉駅からは1.5kmほど歩かないといけません。昨年11月には岩船寺や当尾の石仏群にも行ったので自家用車で行きましたが、4月18日は蟹供養放生会だけが目的だったので、電車を使って行ったのです。

 

 

途中、車と人がすれ違え難いような細い道もある中を、ダブルカメラをぶら下げて歩くこと30分、蟹満寺に到着しました。

決して広い境内を持たない蟹満寺ですが、本堂には五色の幕が張らていたり『蟹供養放生會』と書かれた登りが掲げられていて、すっかり法要の華やかな雰囲気となっていました。

 

 

 

 

ちなみに、下の画像は昨年11月3日の普段の日に撮影した蟹満寺の本堂です。ここから少し蟹供養放生会から離れて、蟹満寺というお寺について昨年の参拝レポと併せて書いてきます。

 

 

小生が参拝をした秋は『木津川市2023秋の特別公開』として、九相図などが公開されていると聞いて、白鳳仏の釈迦如来像と併せて拝観しようと訪れました。今年の蟹満寺は曇って日差しの無い一日となりましたが、昨年の蟹満寺は日差しがまぶしい快晴でした

 

 

山門の脇には鎌倉時代後期の十三重塔がひっそりと立てられていました。

 

 

蟹満寺は江戸時代初期に真言宗智山派の寺として再興され、厄除けの寺として信仰を集めて来ました。十三重の塔を横目に正面参道を通って、本堂に入ります。

本堂で特別公開されていた九相図ですが、九相図については図録もパンフレットにも解説は無く、現地に特に説明はありませんでした。ここで画像も説明もここでは省くことになります。『九相』とは複数の経典に書かれている、死体が腐り朽ちてゆく様を説いたもの。現世の肉体が不浄な物体であり肉体に執着する生への固執を諭すための教えです。本堂は江戸時代初期の建立ですが、平成22年に新築同様の大改築がされ、見た目にはピカピカの新築。堂内の須弥壇も無垢の白木が真新しくてきれいでした。

 

画像引用:KYOTO SIDE

 

本尊は『釈迦如来坐像』、像高240cmのいわゆる丈六仏(立った丈が1丈6尺(485cm)、座った丈が8尺(243cm))です。

年代は1300前の白鳳時代造とされ、かつて白鳳時代には多くの寺院の本尊として作られた銅造丈六仏でしたが、完全な形で現存するのはここと薬師寺の薬師如来しか無いという貴重な古仏。その芸術性もあり、国宝に指定されています。特別公開があるということで選んできた蟹満寺ですが、奈良国立博物館の特別展『聖地 南山城』でも出展されなかった、南山城の名宝中の名宝である釈迦如来坐像がお目当で参拝したというのが本音です。

 

画像引用:奈良国立博物館『特別展 聖地 南山城』図録

 

平安時代に罹災した後が痛々しく残っています。この仏像がいつどこでどういう目的で造像されたのかは記録が無く、現在も諸説議論が行われています。

 

画像引用:古寺巡礼 京都南山城の仏たち(京都 南山城古寺の会編・東京美術刊)

 

平成17(2005)の発掘調査で本尊の台座は白鳳期のものという調査結果が出たので、現在のお寺の由緒にも「白鳳時代からの本尊、不動の旧仏」と書かれています。しかし、平成20(2008)年の再調査で本堂下から江戸時代の地盤が発見され、不動の旧仏の可能性は薄くなりました。

また、蟹満寺に伝わる由緒の多くは観音菩薩の霊験にまつわるものばかりであり、元の本尊は観音菩薩だったようです。…となると、いつから白鳳時代の釈迦如来像が蟹満寺の本尊になったのか、この釈迦如来像は元はどこにあったのか。新たな謎となっています。

戴いた御朱印も釈迦如来でした。

 

 

本堂では本尊の銅造釈迦如来坐像の他、聖観音菩薩像や如来型坐像などを拝観することが出来ました。聖観音菩薩像は像高141cmの木彫像。元の本尊とされ、昭和前期までは独立した観音堂が建てられていましたが、現在は本堂須弥壇右が安置場所となっています。この像は平安時代造ですが、当初から残るのは頭部のみで、ほとんどが後補となっています。

 

画像引用:蟹満寺パンフレット

 

如来型坐像は脱乾漆像を木彫で表現しようとした、あまり他に類の見ない技法で造られた像。奈良時代後期~平安時代初期の作と推定され、市の指定文化財となっています。昨年の奈良国立博物館での特別展『聖地 南山城』に、蟹満寺からはこの像が出展されました。

 

画像引用:蟹満寺パンフレット

 

蟹満寺の文化財を紹介すると以上となりますが、それよりもこのお寺の寺号『蟹満寺』こそがこのお寺の名物。「カニのお寺」それが蟹満寺の評判となっています。

海の無い南山城で何故蟹満寺か。学術的には蟹満寺がある綺田(かばた)という地名が古くは「かにはた」「かむはた」と読まれ、それが訛ったとするのが有力と言われています。しかし、寺はその縁起として「カニの恩返し伝説」というのを伝えています。以下、蟹満寺の縁起である、カニの恩返し伝説を紹介します。

 

昔むかし、南山城のこの地に観音信仰の深い父母と娘の三人家族がおりました。ある日その家族の娘が村に出掛けていると、村人がカニをいじめていたので、信心深い娘は命をいたわるようにと村人を諭し、家の糧を差し出してカニを助け逃がしてやりました。

その後日、家族の父が農作のために田に出ていると、ガマガエルを咥え、今にも飲み込もうとする蛇に出会いました。信心深い父もガマの命を救おうと蛇に命乞いを求め、その想いの末に「ガマを救えば、我が娘をおまえの嫁にやろう」という約束することに。ガマの命は救うことは出来ましたが、一家は蛇に娘を嫁がさねばならなくなってしまったのです。

家に帰った父は家族に打ち明け、蛇に備えて厳重な戸締まりをすることに。日没が近づいた刻を迎えて正装の貴公子が一家の家に。田での約束を果たすように一家に迫りますが、一家は厳重な戸締まりで対抗します。

すると貴公子は正体を現し、大蛇になって家を壊そうと激しく攻撃を繰り返して来たのです。絶体絶命の一家は家に閉じこもり、一心に祈ると観音菩薩が出現。「慈悲の心深く善良なそなたたちには、救いがあるだろう」と一家に告げました。

すると、大蛇が暴れていた家の外が、謀らず静かになったのです。恐る恐る一家は家の外に出ると一家がそこで見たものは…。

何万ものカニの死骸と、そのカニに切り刻まれた大蛇の亡骸がありました。いつか娘が救ったカニが、一家を助けるために加勢をして戦い一家を救ったのです。

観音菩薩の功徳と身を挺して一家を守ったカニのため、一家は観音菩薩を崇め一家を守ったカニの供養をするための寺を建立しました。それが蟹満寺の始まりです。

 

蟹の恩返し挿絵 引用:蟹満寺パンフレット

 

この奇譚は平安末期頃に編纂された『今昔物語集』の巻第十六に書かれているエピソードで、平安時代には既に蟹満寺がカニの奇譚の伝説を持つ寺であったことがわかります。

「カニの恩返し伝説の寺」として知られる蟹満寺は、とにかくカニの寺として有名。軒瓦や賽銭箱に見られる蟹牡丹の紋や、手水や蟇股に彫られた彫刻など、境内のいたる所カニ、カニ、カニ。カニをモチーフにしたデザインでいっぱいなのです。

 

 

 

 

話を今年の4月18日に戻しますが、そのカニの恩返し伝説にまつわる縁起を讃え、観音菩薩の功徳と創建の伝説にまつわるカニの供養を目的として行われるのが、毎年4月18日に行われる『蟹供養放生会』ということです。

放生会(ほうじょうえ)とは狩猟で捕獲した鳥獣を野に放ち、不殺生を戒めるという儀式。このブログでは奈良の興福寺一言観音堂の放生会を2015年4月16日の記事で紹介したことがあります。興福寺の放生会は金魚を猿沢池に放流するのですが、蟹満寺では境内南東隅に立てられた蟹供養塔と石造観音菩薩像にある手水鉢にサワガニを放流します。

 

 

蟹供養塔の所に立てられたのぼり旗をよく見ると、大阪の有名なカニ専門店『かに道楽』施主の文字が。

蟹供養放生会にはカニ業者をはじめ漁業関係・宿泊飲食業者など、全国のカニに関わる業者の協賛があり、参道や本堂の周囲には多くの関係業の奉賛のぼり旗が立ち並ぶのです。

 

 

蟹供養当日は本堂正面の扉が開放され、普段は拝観料を払って拝観をする本尊釈迦如来像を前庭から拝むことが出来ました。貴重な機会です。

…と言っても、この日だけは旧本尊だった観音菩薩が、事実上の本尊として法要が行われます。蟹満寺の聖観音菩薩は厄除け観音として家守りの霊験があると信仰を集めています。

 

 

 

本堂前には毛氈縁台が並べられ、さながら茶席のような雰囲気で参拝者を迎えられていました。以前は尺八演奏や抹茶接待も正午過ぎくらいからあったそうですが、コロナ禍以後は規模が縮小され午後2時からの本堂内の護摩法要の後、蟹供養塔での放生会だけとなっていました。

 

 

講の方には記念品もあったようですが、小生のような一般参加者には茶菓子のキットカットが配られました。

 

 

 

午後2時からの法要は堂内で行われます。法螺貝が鳴らされ厳粛な雰囲気の中、僧の列が正面から入堂されます。

 

 

蟹供養の法要は、本尊釈迦如来横の聖観音菩薩像前で真言宗らしい護摩法要が行われます。堂内に入れるのは招待された講の方のみなので、小生は前庭から法要の模様を伺うことになりました。

 

画像引用:KYOTO SIDE

 

30分ほどで法要は堂内での護摩法要から、蟹供養塔での放生会へと進行します。そして、このタイミングで放生会の主役、カニさんの登場。

場内にはカニを放生するためのプラスチックのカップは早くから置いてありましたが、ここでカニの入ったガラス水槽が持ち込まれ、中には何百匹ものサワガニが。持ち込まれたカニは一匹一匹、放生用のカップへと移されて行きます。

 

 

 

 

蟹供養塔の前には供え物として、立派なタラバガニが供えられます。(カニの供養に供え物がカニとは…)

 

 

 

そして、護摩法要が終わった僧侶の皆さんが本堂から出て来られて…

 

 

本堂前から山門前の席までのお練りとなります。法螺貝を鳴らし読経をされながら練り歩かれます。

 

 

そして、山門前で散華が撒かれます。

 

 

 

僧侶のみなさんは山門前の席に着席し、読経をして放生を迎えます。放生するのは一般の参拝者で、蟹供養塔の観音像の前に列を作ります。

 

 

放生をする参拝者は、列の最後尾に置かれた長机で受け取ったサワガニが一匹入った放生用のカップを受け取り、蟹供養塔前の水受け鉢に放すのです。

 

 

 

小さな手水鉢はたちまちサワガニで一杯に。池に放流すると生態系に影響すると思われてか、放生はこの小さな手水鉢ということですが、ここでは水槽と何ら変わらないということで、カニたちはみんな鉢の外に逃げようとゾロゾロと出てくるのでした。

 

 

観音菩薩の使いのように恩のある親子を大蛇から救ったという、カニたちを供養するという『蟹供養放生会』。「カニの恩返し」というユニークな伝説がこの行事を生み出したと考えると、この法要が語り部のように伝説を後世に伝える役を担っているのでしょうか。

去年の秋からずっと行きたかったこの法要、よい思い出となりました。

 

 

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