9月の笠置町の笠置寺の記事に続いて、南山城=京都府南部の紹介ですが、今回紹介するのはお寺というより宮跡の恭仁宮跡を中心に紹介していきます。お寺参りというより古代史について語るのがテーマなので、笠置寺の記事というより、5月29日の『難波宮跡 ─ 令和5年5月16・18・27日 ─』と同じくくりとして書いています。
天武天皇の孫である文武天皇を父、藤原不比等の娘・宮子を母として生まれた聖武天皇は、奈良平城京にて即位しその後の藤原氏の時代のさきがけを築きました。聖武天皇は天平12(740)年に突然平城宮を留守にし東国御幸を挙行、東国を転々と遷りながら年末には南山城の瓶原(みかのはら)に至り、翌天平13年にはこの地を『大養徳恭仁大宮』として正式に遷都します。恭仁宮は平城宮の北東 約10kmの木津川の川の側に造営され、聖武天皇は約2年間ここを宮として過ごしましたが、天平15年、まだ造営も終わっていなかった恭仁京を離れ近江国紫香楽に遷ってしまいました。
たった2年間だけの都だった恭仁京は長らくその全貌が明らかにはされて来ませんでしたが、昭和48(1973)年から本格的に始まった発掘調査によって、その規模や造りが明らかになってきました。
今回の記事では今年9月9日にその恭仁宮跡を実際に訪問した時のことを書きながら、その歴史について掘り下げて行きたいと思います。
その恭仁宮跡の紹介の前に、同じ木津川市の恭仁京に関連する寺院を一つ紹介します。JR木津駅北側の大智寺です。南山城の南部を流れる大河・木津川のすぐそばに位置する大智寺は、鎌倉時代に創建され、その後衰退するも江戸時代前期に再興され今に至っているという、恭仁京よりもずっと新しい時代の寺ではあります。しかし、木津川に架かる泉大橋”のたもとに門を構えるこの寺は、この泉大橋と大智寺、そして恭仁京とは深い関係があるのです。
泉大橋はこれまで何度も流された歴史を持ち、現在のものは昭和26(1951)年に架けられた銀色のカンチレバー式トラス橋。木津なのに泉大橋と呼ばれているのは、木津川とは近年になっての名称で、古代からの旧来の川の名称は“泉川”だったから。その泉川に最初に泉大橋が架けられたのは奈良時代の恭仁京が造営された時代、あの仏教界のスーパースター・行基の土木事業のひとつと記録されています。
小生は恭仁京訪問の翌月となった10月10日に大智寺を拝観しました。突き当たりに木津川の土手が見える道の脇に、大智寺は門を構えていました。
境内は本堂、山門、鐘楼、石造十三重塔、庫裏といずれも江戸時代前期の寛文年間の建立。この時代の建物がこれだけまとめて残っている寺は貴重と、すべて府文化財に指定されています。
大智寺は観光寺ではないので、受付を設けて一般参拝者に門戸を開けているわけではありません。小生も事前予約をしての上で拝観させていただきました。年度によっては“秋の特別公開”をされることもあるそうですが、今年は特別公開は無く、寺のご厚意による本当の意味での特別拝観です。住職に応対していただき、本堂に入って御本尊の普賢菩薩を拝観しました。
文殊菩薩騎獅像[鎌倉時代・重文]は、もう一躰の寺宝の十一面観音立像[平安時代・重文]と一緒に一つの厨子に納められていて、やや狭そうに見えました。
大智寺内陣厨子 文殊菩薩騎獅像(左) 十一面観音立像(右)
画像引用:https://blog.goo.ne.jp/kiremakuri/e/71fedd629d8a0c2bbb545f8eac76921c
本尊の文殊菩薩は今年の夏に鑑賞をし8月17日の記事で紹介をしました、奈良国立博物館『特別展 聖域 南山城』にも出展されていて、拝ませていただくのは二度目です。
右手に宝剣、左手に経典を載せた蓮華、獅子の上に蓮華座に結跏趺坐で乗る姿は経典通り。像は近くでも拝ませていただきましたが、獅子は後補で明らかに文殊像より新しいと見受けられました。
画像引用:『特別展 聖地 南山城』図録
その形容や衣類の表現など、文殊菩薩像の最高傑作と言われる安倍文殊院・文殊菩薩と共通すると指摘され、安倍文殊院 文殊菩薩と同じ仏師 快慶による作の可能性をずっと取りたださされている美仏であります。
画像引用:『特別展 聖地 南山城』図録
今回奈良博での特別展に出展されるにあたってX線CTスキャン調査が行われ、納入品の存在が確認されました。大智寺で調査内容をまとめたパンフレットもいただきましたが、『特別展 聖地 南山城』の図録にも画像付きで解説がありました(画像下)。
納入品は文殊菩薩の小像や経巻と思われる巻物など。もしかしたら謎とされる文殊菩薩像の由緒や、大智寺の知られざる歴史も明らかにされる発見だったかもですが、像の分解は文化庁からストップがかかり、納入品の取り出しは行われなかったそうです。
この文殊菩薩像には行基にまつわる伝承があります。
恭仁京が築かれた時に、行基の指揮で泉川に泉大橋が架けられましたが、平安時代初期に流されてしまいました。鎌倉時代になり、西大寺僧 慈真和尚 信空が残されていた行基ゆかりの泉大橋の橋柱の古材を用いて「行基菩薩の反化なり」と日本霊異記にも書かれている文殊菩薩像を造像。その文殊菩薩を供養するために建立されたのが、大智寺の前身であ『橋柱寺』だったのです。
こういう寺社の由緒の多くはあり得ないような非科学的な奇譚が多い中で、行基ゆかりの橋柱で本尊を彫ったというのはリアリティのあるもの。それゆえに、この寺伝は真実では無いかと思ってしまいます。
橋柱寺もその後衰退をしてしまいますが、江戸時代の寛文年間に本寂和尚が御水尾天皇皇后・東福門院和子の費用の下賜で『橋柱山 大智寺』として再興、大智寺の御朱印も、この文殊菩薩のものでした。
この文殊菩薩は行基信仰を通じて、泉大橋が架けられた恭仁京の時代とつながっているのだと思いました。恭仁京の造営により木津川には橋が架けられ、南山城はまるで平城京の京域が拡大したように多くの寺社が建立されたのです。このことが後の平安遷都につながったのかも知れないと思うと、恭仁京が果たした歴史的意味を考えさせられます。
大智寺の話はここまで、いよいよ恭仁京について解説して行きます。恭仁京跡は大智寺から北東に約5km。木津川の北側を通る国道163号線(京都チャーミングロード)沿いに東に車を走らせると、国道沿いに「史跡恭仁宮跡 山城国分寺跡」と書かれた大きな看板に至ります。
平城京から離れた東の狭い平地に狭苦しく造られた宮という印象の場所で、「なぜこんな所に遷都を?」と誰もが疑問に思わされます。研究者の多くは「ここには宰相である“橘諸兄”の別邸があったから」というのが選定された理由としてあげていますが、地図を見ると木津川が南に蛇行していてこの場所だけ平坦部がやや広い、平城京に近い西には鹿背山があり、ここにしか都に適した場所が無かったからではと思ってしまいます。
それでも都とするには鹿背山の東はあまりに狭すぎる。京都大学の地理学者・足利健亮は続日本紀の記述などから、鹿背山の西が右京、右が左京という東西に離れた都の案を唱えて話題になりました。
恭仁京 足利案
足利案による恭仁京の条里区画図をよると、泉大橋は六条西二坊大路に架けられていたことになります。
確かに続日本紀 天平13年9月12日の項には「賀世山の西道より以東を左京となし、以西を右京となす」と記録されています。しかし、恭仁京このような条里制の都であったかは考古学的な証明はまったくされてはいません。わずか2年だけの恭仁京は造営途中で中止になったたも正史に記録されていることもあり、このような計画がされたかどうかはともかく、おそらく実際に着工されることは無く、平城京から距離が近かったこともあり副都の地位に甘んじて終わったのでは無いかと小生は推測しています。
さて、ここから9月9日に訪れた恭仁宮跡のレポに入りますが、こう言うとおかしいと思われそうですが、恭仁宮跡は恭仁宮跡であって、恭仁宮跡ではありません。
どういうことかと言うと、続日本紀によると天平18年9月29日の記事に「恭仁京の大極殿を国分寺に施入す」と記されています。つまり聖武天皇が去った後の恭仁宮は、改築され国分寺に転用されてしまったのです。山城国分寺は鎌倉時代までは残っていたことが資料などからも伺え、現在見られるのは宮では無く山城国分寺という寺の遺構であり、恭仁小学校と隣り合わせの金堂跡土壇と…
その南東の15個の礎石を残す塔跡。塔の基壇の大きさは17メートル四方という大きさで、続日本紀 天平13年3月24日の記事に書かれている国分寺建立の詔には七重塔を建てることとあり、ここも七重塔だったと言われています。
この二宇の堂塔跡以外の山城国分寺の建物の遺構は確認されていないそうです。恭仁宮としての歴史は極めて短く、昭和32年(1957)年に史跡に指定された時も恭仁宮跡では無く山城国分寺跡としてでした。
山城国分寺 復元CG 画像引用:(株)都市景観設計HP
山城国分寺も発掘調査はまだ途中で、その全容は明らかになっていません。同じ場所に造られていた恭仁宮跡はさらに未解明ではあるのですが、昭和48(1973)年から本格的に始まった発掘調査によって次第にその容貌が明らかになって来ました。
山城国分寺跡の近くに『くにのみや学習館』という施設があります。旧恭仁宮保育所の建物を、恭仁京および恭仁宮跡の資料館としてオープン。
くにのみや学習館での展示は、発掘調査で掘り出された恭仁宮跡の遺物の実物やパネル展示、恭仁京を紹介する映像作品の放映などとなっていました。
パネル展示の中に、これまでの発掘調査で確認された恭仁宮の配置図が掲示されていたのです。恭仁宮がどういうものだったかわかりやすく描いた地図です。
この地図を元に、GoogleMapを使って恭仁宮の配置図を作ってみました。白が恭仁宮の宮域と建物、赤が山城国分寺の宮域と建物です(大極殿と山城国分寺金堂は同じ建物)
発掘調査の結果小規模な朝堂院・朝堂殿院と二つの内裏(皇居(常御殿))という独自の宮殿配置がわかりました。くにのみや学習館には、恭仁京の復元イメージ図の展示もありました。
発掘はまだこれからなので、実際の恭仁京との違いは多いと思われるイメージ図ではありますが、大きな大極殿に狭い朝堂院、二つの内裏という独自の宮の姿を想像することが出来ます。
続日本紀 天平15年12月26日の記事には「平城の大極殿幷びに歩廊を壊ちて恭仁京に遷し造ること茲に四年にして其の功纔かに畢りぬ」と記述されています。加えて平城宮第一大極殿礎石と恭仁宮大極殿礎石のサイズがピタリと一致したこともあり、平城宮第一次大極殿は移築されて恭仁宮大極殿として転用されたというのが定説となっています。
現在 平城宮歴史公園には第一大極殿が復元されていますが、これが当時の建物の姿と同じなら、これがそのまま恭仁京で見ることが出来たということになります。
くにのみや学習館では、復元平城宮第一大極殿を恭仁京大極殿跡に合成したイメージ画像の展示もありました(画像手前は恭仁小学校)。この画像を見て小生が2020年2月28日にこのブログで上げた『幻の平安宮跡』の記事で、平安宮大極殿をモデルにした平安神宮外拝殿を平安宮大極殿跡である千本丸太町交差点に合成したイメージ画像を作ったの思い出して、発想が同じで面白い試みだと思いました。
恭仁京の朝堂院は他の宮よりも小規模であったことが確かめられていますが、それを実感していただくために、恭仁宮と区画配置が類似している平城宮第二次朝堂院のグーグルマップを同縮尺で恭仁宮跡のマップと並べてみます。
測ってみると、恭仁宮区域は南北 平城宮第二次朝堂院の4分の5、東西は半分くらいしかありません。発掘現場からのコメントで「内裏が二つだったり、朝堂院が狭かったり、本来ここにあるだろうと踏んで発掘した場所から思った遺構が見つからず、戸惑い続きの発掘現場となった」という感想だったそうです。
くにみや学習館には山城国分寺跡からの出土品の展示の他、恭仁宮ゆかりの出土品も多く展示されていました。現地で新調された瓦(画像下・左)と平城宮の建物から葺き直された瓦(画像下・右)が混在していることも確かめられ、このあたりも続日本紀の記述を裏付ける遺物となっています。
ここまで、恭仁京について現地に直接足を運びながら、ほとんど くにのみや学習館のことばかりになってしまいましたが、現地の恭仁宮跡は大極殿跡と七重塔跡以外に見どころが無いんです。
大極殿跡の東側は公園に整備され、10月後半にはこの公園をはじめとする恭仁京一帯は、一面のコスモス畑となり多くの観光客が集まります。
撮影:2023年11月3日
大極殿跡と七重塔跡以外で恭仁宮であることを分かる場所と言えば、この公園の中に設置された看板、
それと、内裏西地区に設置された、内裏の説明看板があるくらいです。
朝堂院内跡では幟旗を立てた穴である宝幢遺構や、恭仁宮を取り囲む大垣に設けられた東面南門などの遺構が発見されたそうですが、現在現地に行っても何もありません。
朝堂院も区画が確認されただけで、朝堂の建物の遺構はまだ発掘されていないそうで、宮跡史跡公園として整備されるのは現状はまだ先だという印象を持ちました。
そもそも、聖武天皇がなぜ恭仁京遷都を挙行したかも歴史ロマンの謎であります。新たな発見によってその謎が僅かずつ解かれて、それがニュースとして報じられに歴史ファンを刺激し続ける、恭仁京は未来の宮跡だと言えると思います。