タクヤNote

タクヤNote

元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

8月31日のNHKの『新プロジェクトX』で、平成21年から12年間にわたって行われた大事業、薬師寺東塔全解体修理が取り上げられたので、主に奈良の古寺院を紹介するこのブログでも緊急寄稿として記事を上げます。

 

 

 

 

 

NHKのプロジェクトXは産業・文化などのプロジェクトに取り組んだ日本人達を取り上げるドキュメンタリー番組で、2005年で5年間の放映を一旦終了させましたが、今年4月から『新プロジェクトX』として第二期がスタートしています。

これまで番組はプロジェクトを紹介する内容で、技術的な解説が多いという印象がありましたが、今回の薬師寺東塔全解体修理を取り上げた回では技術的な話より、プロジェクトに携わった人物について語るというヒューマンドラマ色が強い内容となっていました。

 

番組のメインゲストとして出演をされたのは、宮大工の石井浩司氏。

 

 

番組を視聴している人のほとんどは『石井浩司』のことを知らなかったのではと思いますが、実は小生はこの石井浩司氏を以前にもこのブログで取り上げたことがあり、名前はよく知っていました。なので石井氏が番組に出演されたとき、ちょっと気持ちが動きました。

 

岡山の工務店のせがれだった石井氏は、薬師寺宮大工の棟梁、西岡常一氏の元に修行に出されて奈良に来られました。薬師寺白鳳伽藍の再建事業の棟梁として名を残すのが、宮大工・西岡常一氏。西岡氏は建物だけでは無く江戸時代までには廃れていた『鐁』(やりがんな)、『釿』(ちょうな)と言った古代の大工道具や、それらを使いこなす工人と、古代の技術の復刻まで行った伝説の宮大工として知られ、宮大工の間では“神”、“鬼”とまで呼ばれ尊敬を集めています。

 

 

小生は西岡常一氏について、このブログでは2020年3月20日3月25日の二回の記事で、西岡氏を取り上げたドキュメンタリー映画『鬼に訊け 宮大工 西岡常一の遺言』のプレビューというスタイルで紹介をしていまして、その映画にインタビュー出演を石井氏がされていたのです。短いインタビュー内容ではありましたが、小生が石井氏をブログに書いたことが理由か、新プロジェクトX放映時間に石井氏のことを書いた記事がアクセス数解析でものすごくアクセス数があったのです。

 

 

映画に出演をしていた当時の石井氏はプロジェクトXよりずいぶんお若かったようです。映画当時はまだ西岡棟梁の元で仕事をされる宮大工のお一人でしたが、石井氏は東塔全解体修理の中心を担うまでになられたということですごいなと思いました。

 

 

まず薬師寺東塔について書きますが、白鳳時代創建とされる薬師寺、かつては荘厳な七堂伽藍が立ち並んでいました。

番組では「ほとんどの伽藍は戦国時代に焼失した」と紹介されていましたが、実際には平安時代の火災によって主要な伽藍は既に焼失をしてしまっていたようです。その後規模を小さくして再興がされたものの、戦国時代の享禄元(1528)年の戦火によって、残ったのは東塔と鎌倉時代再建の東院堂、他から南大門跡に移築されている室町時代築の四脚門だけとなってしまったのです。

 

 

白鳳伽藍の再建で薬師寺は多くの宮大工が仕事をしていましたが、いずれも新築か後世の再建。白鳳時代から今に残る東塔、日本最古級の文化財の解体修理は、これまでの仕事とは訳が違っていたのです。

プロジェクトXでは石井氏の入門当初からの経歴を紹介、若い頃はロックンローラーの矢沢永吉を好んだということで、『黒く塗りつぶせ』をBGMにその人となりを番組では紹介をしていました。

西岡棟梁の元で技術を積み重ねた石井氏に対して、西岡氏は告げたのは「創建当時の工人の心になって仕事をしなさい」という言葉でした。西岡棟梁はこの言葉を残して他界、「技術的なことはわかるけど、“心”とはどういうことだ?」と、石井氏はこの謎に長年向かい合うことになるのです。番組はこの「工人の心」がキーワードとなって進んで行きます。

 

番組では石井浩司氏の他に、心柱の修復を担当された元奈良文化財保存事務所の修理技術者であった松本全孝氏も出演されていました。

 

 

心柱は塔の中心に通された柱。基礎から頂部の相輪まで貫く建物を維持する最も重要な柱なのです。外見はそれほど欠損は見られなかったのですが、基礎から離して持ち上げると現場関係者からどよめきが。直径90センチメートルのその底部は、シロアリに喰われ何と奥へ約3(2.7)メートルにも及ぶ空洞となっていたのです。このことはニュースとしても大きく取り上げられました。

 

 

こうなってしまうと柱を短く伐り接ぎ木をして修理するしか無いところなのですが、東塔は国を代表する文化財建築である上に、その心柱はブッダの肉身である仏舎利を納める信仰上でも最も尊い部材。

古材を遺すことを宮大工の経験でたたき込まれていた松本氏は「伐るべきでは無い」と考え、柱を伐らない方法を模索します。そして、朽ちた木を最小限に削った上で、その空洞にすっぽりはまる木材を用意し、削った心柱をキャップのようにかぶせるという異例の工法を取る決断をするのです。

 

 

その方法を取るためには、心柱内部から朽ちた木をミリ単位で正確に削らなくてはなりません。心柱の直径は90センチと、内部の空洞は人が一人入るのも大変なほどの狭いスペース。松本氏はその中にただ一人入って精密な作業を行わなくてなりませんでした。松本氏はそんな過酷な作業を約1年間も続け、そのために食事を制限して減量をしたり、ずっと歯をくいしばっての作業で奥歯が割れたというエピソードも番組では取り上げていました。

 

 

また、番組は塔の頂部、九輪のてっぺんに載せる『水煙』の復元作業も取り上げていました。水煙は仏塔の頂点に設置される火炎状の装飾金具。これまで東塔の頂部に設置されていたのは創建当初からの水煙で、塔を雷や火災から護るための魔除けとされています。

 

 

本来なら解体修理が終わればまた塔に戻されるはずだった創建当初の水煙なのですが、調査で数十ヶ所に亀裂が見つかるなど損傷がはげしく、もはや修復で屋根の上に上げられる状態では無いと判断されました。

結局修理の終わった東塔には新調された水煙を取り付けることになり、新たな水煙が製作されることになりました。そしてその仕事を引き受けたのが富山県・高岡市。『高岡銅器』の名で知られる伝統的な鋳物の生産が盛んで、これまでも多くの文化財復元にも貢献をして来た経緯があります。

石井浩司氏、松本全孝氏に続く番組で取り上げられた技術者は高岡の銅器製造業・梶原製作所の社長で伝統工芸高岡銅器振興協同組合の理事長だった梶原壽治氏です。

 

 

高岡銅器の組合はかつて、法隆寺金堂の釈迦三尊像の限りなくオリジナルと同じ複製を製作する『釈迦三尊像再現プロジェクト』に携わり、その功績が認められての今回の発注だったそうです。

今回も『オリジナルと完全に同じ複製』という難易度の高い仕事に、梶原氏は高岡の15の銅器業者に協力を呼びかけて分担で水煙の製作を開始しました。

製作はは平成30年から一年かけられ、3Dの最新技術によって製作された原型、オリジナルと同一の銅合金の配合の分析、そして長年の風雪によるオリジナルの現在の色の再現と、高岡銅器の技術の粋を尽くして水煙は製作されたのです。

 

 

 

鋳込みには薬師寺の僧侶による法要も行われたようです。平成31年には納品が行われ、3月には薬師寺で新旧水煙の両方が間近で見れる特別公開も行われています。

 

 

 

そして番組は宮大工の石井氏の奥様、幸代夫人の話になりました。

多くの技術者達が携わり東塔の解体修理は進められていましたが、その中心を担っていた石井氏の仕事もまた甚大。東塔を構成する部材の数は1万3千、その一つ一つを確かめて、痛んだり朽ちた部分だけを削って埋木で補修する。それは気の遠くなるような手間のかかる作業の連続でした。

 

 

それらの部材を見ている内に気づいたことを、石井氏は番組の中で写真パネルを指さして語っておられました。

「自分ならばちょっとずつ削っていくようなところを、切り口が一撃でズバッと伐られている。失敗したくない、自分の仕事をよく見せたいと思うならば慎重になるところなのに、その仕事は思い切りがあまりに良すぎて迷いが無い。大工のエゴが東塔の部材の残された仕事には見られない」

 

 

これは西岡常一氏の著述を読んでも「自分の大工の先生は法隆寺の建物」とあったように、大工には独特の感覚があるのです。それは大工は鑿や鉋を使った木の跡を見て、その仕事をした大工の仕事ぶり、時には性格や心情までもを察することが出来る。その仕事の跡を見て棟梁は大工にアドバイスをするのです。

それは千年前の工人に対しても同じであり、文化財となっている建物の木材に残された仕事の跡を見ると、関わったはるか昔の大工の技量だけで無く、その心情まで読み取ることが出来るというのです。だから、古建築は古代からの仕事のデータバンクであり、大工は鑿や鉋の跡を見て古の技術を学ぶと言います。

石井氏もまた同じ感覚で、古の大工の仕事の跡から、西岡棟梁から言われていたその心のヒントを読み取ったのです。「良い仕事をして、評価されたい。後世に自分の仕事を残したい」そういう気持ちで仕事をしていないのなら、いったいどういう心で仕事をしていたのか、石井氏の古の工人の心の探究は続いていました。

 

そんな多忙を極めた東塔の工事の最中に石井氏に届いたのは、突然の幸代夫人のがんの知らせでした。既にステージIVで、おそらく末期だったのでしょう。

以前から石井氏の名前は知っている小生でしたが、それは映画の中の短いインタビュー程度で、このような詳しいご家庭の話を知り正直驚きを覚えました。

 

 

幸代夫人は石井氏の8歳下、常時仕事の無い宮大工の夫に代わって、フルタイムの仕事をして家庭を支えたそうです。それは古い寺社が好きだった幸代夫人は石井氏の仕事に対して誇りを持ち、影で支えることで薬師寺修復に貢献出来ていることを幸せであると語っていました。

 

 

そんな家庭の妻として、宮大工の仕事の理解者として石井氏を支えてきた幸代夫人のがんの知らせに愕然としながらも、石井氏は東塔解体修理の仕事には変わらず打ち込み、家では妻の闘病を支えるという生活をするようになりました。仕事に精を出したのは仕事に対する使命感もありましたが、ステージIVのがんの前に出来ることが無い、どうすることも出来ないという気持ちの行き場が無かったからだと、番組で石井氏は話されていました。

そして、その行き場の無い感情の中で石井氏は一つの考えが浮かんだそうです。

 

薬師寺が建立された時代は、病疫や天災で民は不安で溢れていました。今のような科学が発達していなかった時代、薬師如来に祈ることが疫病蔓延に打ち勝つ唯一の手段と考えられていた。石井氏は今の自分のようなどうにもならないことが古代の人々にはもっと多くあって、薬師寺は民衆の心の拠り所になったのでは無いか。そして、薬師寺の部材に残された迷いの無い仕事の跡には、世の中を良くしたい、国家安寧のために塔を建てるという祈りが込められているのではと思うようになったのです。

 

番組でのこの話を聞いて、小生は最後の棟梁・西岡常一が座右の銘としていた『法隆寺宮大工 口伝』を思い出しました。法隆寺宮大工の家に代々伝えられている、宮大工が持つべき心得で、全部で十項ある口伝のその最初にあるのが下の文言です。

 

一、神を崇めず仏を敬礼せずして伽藍社頭を口頭にすべからず。

 

神仏への信仰を持たずに、神社仏閣を語るな。西岡氏はかねてから「舎利を祀る仏塔とはお釈迦様そのもので、お堂は仏像を納める厨子と同じ。寺院の建物はただの建築物では無くそのものが信仰の対象」と語っていたと伝えられます。石井氏に遺言として残した「古の工人の心になって」で、石井氏がたどり着いた答えは、いかにも西岡棟梁らしい考えだと思います。

僧侶が読経するように、信徒が写経を書くように、宮大工は鑿を振ることが祈りである。宮大工の仕事は普通の建物建設の仕事では無く、そのものが宗教活動なのである。その気持ちを持つことが古の工人の心。よい建物を造って評価されたいなんて考えなど無く、ただ世の中の安寧を祈って木を伐った、それが石井氏が東塔で見た古の大工の仕事の跡だったのです。

 

そんなたくさんの関わった技術者のたくさんの想いを乗せて、東塔の全解体修理は令和3年2月に竣工し、コロナ禍を挟んで令和5年4月に晴れの落慶法要が営まれました。

 

 

東塔の解体修理の終了を石井氏から伝えられた幸代夫人は、石井氏が修理をやり遂げて再びその美しい姿を見せた東塔を見届けるように、51年の生涯を終わらせたのです。

 

そして、番組は修理に関わった技術者達のその後を紹介して終わりました。

心柱の修復を担当した松本全孝氏は奈良文化財保存事務所を定年退職し、地元の吉野で寺社修復の工房を開業されました。人生の最後まで人々の信仰の場に寄り添い大工の仕事をしたいと考えてのことでした。

 

 

そして、大仕事を終わらせた石井浩司氏。その石井氏の家に一通の封書が届いたのです。宛名は幸代夫人で送り主は薬師寺、東塔修理事業勧進の写経を納付したお礼でした。幸代夫人は生前に写経を薬師寺に納入をされていたのです。

 

 

その写経について石井氏は次のようにインタビューで話されていました。

「願文は東塔の無事落慶もあるけど、おそらく僕のことを書いてる。もう自分はこの世に何の未練もないけど、あなたを一人置いていくことだけ心残り」

そして石井氏もまた幸代夫人の月命日に、写経をされておられるのです。

 

 

 

番組は一人の宮大工の深い祈りの心を追いましたが、東塔に納められた写経は合わせて十万、その一つ一つに深い祈りが込められているのです。1300年の歴史の中でそんな無辜の祈りが無数奉じられていて、その建物を通じて重くて深い人々の心が積み重なっている。それが薬師寺なのだと番組はメッセージを伝えていました。

 

 

アクセスカウンター
コーヒーメーカー通販ホームベーカリー通販デジタルブック

前のブログ記事を上げるのが遅くなってしまったので、8月に入ってからの記事となってしまいましたが、今回は『大和三大観音あじさゐ回廊』プラス・ワンの参拝レポを書きます。

 

 

大和盆地の南東の山内の比較的近い場所に門を構える『岡寺』『壺阪寺』『長谷寺』は、それぞれが観音菩薩を本尊としていることもあり西国三十三観音霊場になっていることもあり、古くから観音霊場として多くの信仰を集めて来ました。近年ではこの三門の寺院は『大和三大観音』と称し、霊場巡りを勧めていたりしています。

おのおのの寺院がそれぞれに境内の参道に紫陽花の花を荘厳し、雨の季節の美しい風景を拝観者を楽しませるという企画です。令和4年から始まった『あじさゐ回廊』ですが、今年は先に紹介した三門の寺院に加えて宇陀市の室生寺を加えた四寺院での開催となりました。

 

 

今回の記事は6月22・23日に拝観をしたこれらの寺院の紫陽花の花を紹介をします。

このイベントは5月25日から7月7日の開催だったのですが、これは昨年の梅雨入りが5月29日だったのに合わせての日程だったようです。ところが実際に6月に入っても一向に近畿の梅雨入り発表は無く、結局梅雨入りは6月終盤の21日で、このイベント中に梅雨の期間となったのはわずか2週間ほど、6月前半は晴れの日が多く、会期の半分は真夏の日差しの中となってしまったのです。

 

6月の奈良の天気 画像引用:tenki.jp

 

夏の強い日差しを受けてグッタリしているような紫陽花では絵にならない、紫陽花を美しく写真に撮るには雨が降ってもらう必要がありました。そのために小生は『あじさゐ回廊』に行くのを梅雨入りになるまで待ったのです。そうして梅雨入り後に雨の予報が出ていた6月22日を車を出したのですが…

22日は朝は少し曇っていたのですが、午前中は予報と違い雨どころか雲が切れ晴れ間もあり、強い日差しまで差し込むような天候になったのです。

「このままでは、夏の日差しの中の紫陽花風景になってしまう」と当日に予定を変更、当初は小生が住む大阪に近い『壺阪寺』→『岡寺』→『長谷寺』→『室生寺』の順番で参拝する予定だったのですが、時間稼ぎのために一番遠い室生寺を最初に行く逆ルートにしたのです。

その変更もあって、22日一日で四寺院すべてをまわり切ることが出来ず、あじさゐ回廊の四寺院めぐりは翌日の23日も加えた二日間となりました。それも両日とも期待した降りの雨にはならず、さしずめ曇りの紫陽花風景となったのです。

 

ここからは二日間かけてめぐった、各寺院の創意工夫された紫陽花風景を紹介します。今回は『あじさゐ回廊』のみを取り上げる記事としますので、おのおのの寺院の詳しい紹介は行いません。長谷寺は2020年12月9日の記事、岡寺は2014年10月16日の記事、壺阪寺は2020年12月18日の記事と過去の記事で既に寺院そのものについての紹介をしています。室生寺についてはこのブログではまだ書いたことが無く、寺院そのものの紹介は近くしたいと思っています。

 

室生寺(むろうじ)に到着したのは午前11時過ぎ、雨に濡れる紫陽花を見るのが目当てだったのですが、到着した時点では日差しが明るく境内を照らしていたのです。そのために、あじさゐ回廊以外の境内を一通りめぐってり、やや曇ってきた午後1時くらいになってようやく紫陽花の撮影となりました。

この室生寺のお寺の詳しい記事は、後日改めてアップする予定です。さて、あじさゐ回廊についてですが、室生寺の紫陽花は山門を入ってすぐの所にありました。

 

 

山門を入ったすぐ左手に大日如来を表す梵字の『バン』()の形をしている『バン字池』と呼ばれる蓮のきれいな池があります。室生寺のあじさゐ回廊による紫陽花は、主にこの池の周囲に厳修されていました。

 

 

 

また、山門やバン字池のある平地から金堂に向かう参道には『鎧坂』という名称の石段があり、この鎧坂と金堂を背景にした紫陽花の撮影用プランターも設置されていました。

 

 

この撮影用プランターの前には丁寧に撮影用のスマホスタンドまで用意されていました。このスマホスタンドは宝珠型のフレームまで付く優れもので、小生がいる間も何組かの人がスマホをスタンドに置いて撮影をされているのを見ました。

 

 

この『あじさゐ回廊』では、寺で紫陽花を愛でる以外に別の企画もありました。『大和巡礼あじさい重ね色巡礼』というもので、各寺院で四色のスタンプを重ねて捺していき一枚の絵を完成させるというものです。

室生寺のあじさい重ね色巡礼スタンプは、寺の入口の参拝受付所のすぐ近くに建つ納経所の前に置かれていました。

 

 

『あじさい重ね色巡礼』はカウンターの上にスタンプと、スタンプを捺す台紙、それに台紙を固定するスタンプ台が置かれていて、このスタンプは参拝者が自分で捺すというものでした。セルフでしたが、無料という良心的なイベントでありました。

 

 

最初に参拝をした室生寺のスタンプの色は赤でした。これから4寺院を巡ってそれぞれの色のスタンプを重ねていくと、どんな絵が完成するのか。期待しながら次の寺院へと向かいます。

 

 

次のあじさゐ回廊の寺院は、桜井市初瀬の長谷寺(はせでら)です。真言宗豊山派の総本山で国宝の本堂に納められている本尊の十一面観音立像は高さ10.18メートルという、近世以前では奈良の大仏に次ぐ巨大な仏像として知られます。

長谷寺については2020年12月9日の記事で既に詳しく書いていますのでそちらを読んでいただくとして、この記事では今年のあじさゐ回廊について書きます。

初瀬山の山麓に広大な境内を持つ長谷寺は『花の寺』の異名もあり、特に牡丹の花の見事さは広く知られていますが、紫陽花も参道の随所で見ることが出来ました。

 

 

 

 

特に本堂に登る参道の途中となっている『嵐の坂』と呼ばれている、本堂左側の石段。50メートルほどのこの石段の参道が、長谷寺のあじさゐ回廊のメインゾーンとなっていました。

 

 

本堂の向かって左側に出る嵐の坂の石段。あじさゐ回廊に合わせて幻想的な『紫陽花の道』となっていたのです。参道横だけでは無く、参道の石段の上にまで紫陽花のプランターが置かれ、ここを歩けばまるで紫陽花の花に包まれるような不思議な空間となっていました。

 

 

 

 

長谷寺の『あじさい色重ね巡礼』のスタンプが置かれていたは本堂左手の納経所ですが、納経所前には『御朱印所』と書かれたテントが張られていて、そこに御朱印を求める多くの参拝者が列を作っていました。

長谷寺では3月から『春期特別拝観』の期間となっていて、御本尊十一面観音の限定御朱印の授与が行われている上に、今年の大河ドラマ『光る君へ』が放映されているのに合わせて、源氏物語にも登場する長谷寺は『源氏物語切絵御朱印』の授与も始められました。加えて今回のあじさゐ回廊の御朱印と合わせて限定御朱印の授与を次々と始めたとあって、今回参拝者がこれだけ列をなして御朱印を求めて来られたようです。

 

 

『あじさい色重ね巡礼』のスタンプは、納経所とは別にテント下に用意された長テーブルの上に置かれていましたが、当初は他の御朱印の授与を求める人と同じ列に並ばなくてはいけなくて、結構長い時間列を並んでスタンプを捺すことになってしまいました。

 

 

長谷寺の『あじさい重ね色巡礼』のスタンプは水色でした。本当ならその場で捺したスタンプを写真に撮っておかなくてはならなかったのですが、うっかり撮り忘れてしまいました。やもうえず、室生寺で撮影したスタンプにチラシに載っていた長谷寺のスタンプの絵柄をペイントツールで合成した画像を作りましたので下に貼ります。

 

 

『あじさゐ回廊』三番目の寺院は明日香村岡に門を構える『岡寺』(おかでら)です。正式名称は『東光山 真珠院 龍蓋寺』といい、長谷寺を総本山とする真言宗豊山派を宗派としています。本尊 如意輪観音坐像は奈良時代の重要文化財で、日本最大の塑像(土を焼成せずに固めた像)として知られています。

岡寺についても、このブログでは2014年10月16日の記事で詳しく紹介しておりまして、お寺についてはそちらの記事を見て戴けたらと思います。この記事ではあじさゐ回廊の模様を紹介します。

 

岡寺は他の寺院に比べると寺の規模が小さいこともあり、あじさゐ回廊もややこぢんまりとした印象でした。紫陽花は手水舎や本堂前にプランターが並べられ、境内を彩っていました。

 

 

 

中でも、特に紫陽花に目を奪われたのは平成24(2012)年に竣工した新書院の前庭です。池の上に欄干が美しい橋が架けられているのですが、紫陽花は橋の欄干の上、さらには池の上にまで浮かべられ、何とも風流な風景を作っていました。

 

 

 

岡寺で見れる紫陽花はこれで全てかなと思っていましたが、一番の見どころは岡寺境内の一番奥に隠れるようにありました。境内の一番奥に祀られた稲荷社、その参道が長谷寺の嵐の坂のような紫陽花の道になっていたのです。

 

 

 

広大な他の寺院と比べれば狭い岡寺の境内でしたが、創意工夫で梅雨の風情をたっぷり得ることが出来たと思います。さて『あじさい重ね色巡礼』ですが、岡寺では本堂内と棟続きの納経所の前にスタンプが置かれていました。

 

 

岡寺のスタンプの色は黄緑、主に葉の色で絵柄の全体図がかなり見えて来ました。

 

 

あじさゐ回廊も室生寺、長谷寺、岡寺とまわり、後は壺阪寺を残すのみとなりましたが…

前述したように、小生が奈良を訪れた6月22日は午前中雲が切れて日差しが照るような天気になり、梅雨の紫陽花風景らしくないと、曇りだした午後から集中しての寺院めぐりとなってしまいました。

そのため、室生寺を出たのが午後1時過ぎ、長谷寺を出たのが午後4時前、そして岡寺の参拝が終わった時には既に午後4時半を大きくまわっていたのです。さすがにここから広い境内を持つ壺阪寺を参拝するのは不可能と判断、天気予報を調べると次の日は朝から曇り時々雨の予報が出ていたので、1日で済ませるつもりだったあじさゐ回廊でしたが、急きょ壺阪寺へ行くのを翌日午前中に順延することにしました。

ただ、23日は午後から家の用事があったため、早朝に大阪の家を出て壺阪寺を参拝してから急いで帰るという強行スケジュールとなってしまったのです。

 

ということで、あじさゐ回廊の最後の寺院となった壺阪寺(つぼさかでら)。到着したのは23日の日曜日、午前9時半でした。高市郡高取町に門を構える壺阪寺、正式な寺号は『南法華寺』といい、平安時代には本尊・十一面千手観音の霊験が広く知られ、観音霊場として栄えた古刹。後に興福寺僧・真興上人が真言宗子島法流の道場とし、以後真言宗の寺院となりました。

壺阪寺については2020年12月18日の記事で詳しく紹介していますのでそちらに説明を譲り、ここからは今年のあじさゐ回廊について書いていきます。

 

壺阪寺の紫陽花は、門を入ってすぐの大講堂前から見ることが出来ました。ガラスのボール鉢に水中花のように飾られていて、いかにも涼しげな感じで並べられていました。

 

 

 

大講堂の前を通って、仁王門の石段を登ると、さっそく壺阪寺での あじさゐ回廊のメインとなる場所に到着します。

壺阪寺では国際奉仕事業としてインドで製造された、像高10メートルもの石造大釈迦如来像・『壺坂大仏』が鎮座しているのですが、あじさゐ回廊では紫陽花がこの壺坂大仏の全体を取り囲み紫陽花の風景を織りなしていたのです。

 

 

 

壺阪寺では壺坂大仏を見下ろせる『遙拝台』というテラスがあります。

桜の季節には桜の花に埋もれた壺坂大仏と壺阪寺の風景を一望出来るスポットとして『桜大仏特別遙拝台』と呼ばれますが、あじさゐ回廊のここからの眺めもすごい。壺坂大仏だけでは無く、遙拝台のデッキの上にも紫陽花のプランターが並べられていて、それは目を見張るような紫陽花風景となっていたのです。

 

 

紫陽花は他にも、長さ50mの佛伝図レリーフ『釈迦一代記』や、高さ20mの石造大観音立像への入口となっている『天竺門』など、主に壺阪寺の名物となっているインド製造の石造物のエリアを中心に紫陽花で彩られていました。

 

 

 

日本原産の花である紫陽花とインド石仏とのコラボレーションは、境内のエキゾチックさをより増して、たたでさえ魅力的な境内をより不思議空間にしていたように思います。

 

さて『あじさい重ね色巡礼』ですが、御朱印を授与していただける納経所で捺せるのかと行っていました。壺阪寺の納経所は本堂横にあり、受付であじさい重ね色巡礼のことを尋ねてみると…

「スタンプはここじゃなくて、御本尊のおられる八角円堂の中に置いてますよ」

…という返事。思わぬ形で本堂の中に入ることになりました。

壺阪寺の御本尊は八角円堂の中心に安置されていて、その外周は廻り廊下のようになっているのです。

 

 

スタンプはその廻り廊下の一角に置かれていました。小生は壺阪寺の御本尊の前でそのスタンプを捺し、二日がかりで四寺院めぐりの重ね色巡礼スタンプを完成させたのです。

 

 

壺坂寺のスタンプの色は紫でした。四寺院の中では一番濃い色で、最後の最後の一色が加わって締まった感じの絵になりました。こうして、小生のあじさゐ回廊めぐりは終わりました。

 

 

梅雨のシーズンにぴったりのイベントに今回は大和路をまわりました。いい企画ではありましたが、何しろ今年は梅雨が短かかった上に、梅雨らしい一日ジトジト雨という日は少なく、晴れ間と夕方に激しい豪雨という夏本番のような天候が多かった気がします。

イメージしていた雨の風景とは遠い結果になってしまったのが残念ということで、ここイベントには来年も参加してみようかと思っています。来年こそ雨の紫陽花をきれいに写したいと思っています。

 

アクセスカウンター
コーヒーメーカー通販ホームベーカリー通販デジタルブック

配信アプリREALITYで知り合った友だちの紹介とアバターのイラスト。今回紹介するのはつるふぇった さんです。

 

 

小生が初めて つるふぇったさんと知り合ったのは5月のこと、お名前とその時の枠のタイトルなどから「あっ、以前にもイラストを描いたことのある、入浴系配信者さんかな」なんて興味本位で枠に行ってイラスト描きであることを自己紹介をし、トントン拍子でイラストを描く話がまとまったという出会いでした。

その後も何回か枠におじゃまさせてもらいお話を聞くと、つるふぇったさんが驚異本位でイラストを描くような、ただのREALITY配信者では無いことがわかってきたのです。

 

つるふぇったさんは佐賀県嬉野市の嬉野温泉の非公式応援の活動をされておられるREALITYなのです。嬉野温泉は市の中心地区に50件以上の旅館が建ち並ぶ九州有数の大温泉街で、『日本三大美肌の湯』として、女子旅の名所として人気がある温泉地です。

 

 

つるふぇったさんは元々は事務所所属のVtuberをされていましたが、今は事務所に所属せず個人で嬉野温泉のアンバサダーとして活動され、温泉系ネットタレントとして以下のようなサイトやアプリで幅広く活動をされています。

 

 つるふぇったのHP

touhu-turun.com

 

 つるふぇったのTwitter

twitter.com/bihada_turun

 

 つるふぇったのREALITY(不定期)

t.co/bmFNXeNzpY

 

 つるふぇったのIRIAM(ゲリラ配信)

web.iriam.app/s/user/0PbjYiwZuN?uuid=b2f81679

 

 つるふぇったのFanPicks

fanpicks.jp/vtalent/5517

 

 つるふぇったのinstagram

instagram.com/turufetta_onsen

 

 つるふぇったのリットリンク

lit.link/admin/creator?openExternalBrowser=1

 

小生がつるふぇったさんと知り合ったのはREALITYの配信者としてですが、実はライブ配信者としてはREALITY、IRIAM、そしてYoutubeの三種類の媒体を使われて、小生がおじゃました配信も同時刻にREALITYとIRIAMの同時の二元配信をされていたのです。

小生はつるんふぇったさんとはREALITYでの友人ということになっていますが、Youtube、X(旧twitter)その他の媒体ではIRIAMの立ち絵をVタレントとしてのメインキャラクターに立てておられています。

 

 

 

つるふぇったさんは多くのグッズも出されていますが、いずれもIRIAMの立ち絵をモデルにしたファンアートからデザインされているのです。

 

 

今回の小生のイラスト作成は、もしかしたら つるふぇったさん初となるREALITYのアバターからのファンアートです。…と言っても温泉系Vtuberなのにつるんふぇったさんのアバターは無料ガチャチケで当てた晴れ着が標準のコーデとなっていたのです。

あくまでもREALLYのアバターのイラストを描くというのが目的なので、顔のパーツや髪型はREALITYのアバターを元に描きましたが、温泉系Vtuberというコンセプトを重きにされていることも考えて、浴衣や髪色はIRIAMと揃えました。嬉野は嬉野茶というお茶の産地ということに合わせて、IRIAMのアバターの髪色は抹茶色にされているということで、小生もそこはこだわってREALLYの白っぽい髪色では無く緑色を強くしました。

 

 

 

以下に今回小生が描いたイラストの紹介をします。まずは、台湾の露天温泉をモチーフにしたイラストです。イラストの依頼を承けた当初、つるふぇったさんは現地の温泉レポのために台湾に渡っておられて、現地からの配信もされたりもしていたのです。なので、二枚のイラストの一枚は台湾の温泉のイラストを描くということになりました。

台湾の温泉地は北投温泉公園の地熱谷温泉という場所です。台湾と言えば今年1月8日の記事をイラストを描いてブログに上げた台湾人の女子の みにさんに地熱谷温泉のことを聞いてみました。みに さんは「その温泉のことはよく知らないけど、台湾の温泉は露天で水着を着て混浴で入るのが一般的」と解説をしてくれました。さらに みにさんは「私は水着姿になるのがイヤだから、あまり温泉は好きくない」とも。あちらの温泉ってそういう感じなんですね。

 

画像引用:Tripadvisor

 

 

そして、アバターに着せる水着もつるふぇったさんご本人から画像が送られてきて指定がありました。ちなみにこの画像は つるふぇったさんがインターネットで拾ってきたもので、つるふぇったさんご自身ではありません。

 

画像引用:SHOP LIST

 

台湾の温泉のイラストはこんな感じに仕上がりました。温泉に遣っているポーズはいただいた水着のモデルのポーズをそのままに。水着のイラストということで、つるふぇったさん自身も明るい雰囲気に描いてみました。

 

 

そして二枚目はつるふぇったさんが非公認アンバサダーをされている佐賀県の嬉野温泉です。

つるふぇったさんに「おすすめの嬉野温泉の見どころはありますか」と訪ねたところ、つるふぇったさんが勧められたのは『茶心の宿 和楽園』です。露天「茶」風呂は、名産“嬉野茶”をお湯に浸している名物の温泉となっているそうです

 

和楽園・露天「茶」風呂  画像引用:和楽園HP

 

つるんふぇったさんの入浴シーンを絵にするということで、これまでファンアートは全部同じ髪型だったものを、小生はあえて上げた髪型にすることにしました。やはり温泉美女はこうでないと色気が出ないという考えです。

それともう一ヶ所ということで、嬉野温泉の人気スポット・公衆浴場の『シーボルトの湯』の大正ゴシック建築風の建物の前で、浴衣姿でポーズという立ち絵を組み合わせました。

 

 

アクセスカウンター
コーヒーメーカー通販ホームベーカリー通販デジタルブック

シーボルトの湯  画像引用:たびらい佐賀

 

イラストについては途中までは細かい打ち合わせをしていたのですが、つるんふぇったさんは無償の小生のイラストは“あくまでもファンアートの一環”と考えておられていたので、ある程度のところで「タクヤさんの思うように描いてください」ということに。しかし、小生としてはつるんふぇったさんの温泉系Vtuberとしての活動を応援するという気持ちを持って筆を振るったつもりです。

 

 

始めは「入浴シーンのイラスト」と興味本位のところがありましたが、つるんふぇったさんの活発な温泉系Vtuberとしての活動を目のあたりに、「小生も応援しなくては」という意気込みを持って今回は描きました。このイラストがつるんふぇったさんの活動の役に少しでも立ったらと思うところです。

 

 

アクセスカウンター
コーヒーメーカー通販ホームベーカリー通販デジタルブック

滋賀県甲賀市(旧・信楽町)の紫香楽宮についてこのブログの6月6日の記事で取り上げげました。紫香楽宮は奈良の東大寺の創建に尽力をした聖武天皇が、彷徨五年と呼ばれる天平12(740)~同17(745)年に平城京を離れて複数の京を転々と移った内の一つ。天平15(743)年に有名な『大仏建立の詔』を勅したことで知られています。

 

 

正史の続日本紀によると、聖武天皇は紫香楽京の京域に甲賀寺(こうかでら)という寺院を建立し、そこに大仏を造営しようと計画したという記述があります。天平16(744)年には実際に工事もはじめられたとありますが、火災や地震などの厄災が立て続けに起き、天平17年には聖武天皇は平城宮へ還ることとなり、紫香楽はわずか1年で廃都となってしまいました。結果紫香楽で頓挫した大仏の計画は平城京の東の外京で再開され、そうして建立されたのが東大寺、奈良の大仏なのです。

今回のブログ記事ではその甲賀寺について取り上げます。大仏建立が計画された甲賀寺とはどこだったのか、一般的に甲賀寺跡として知られているのは、史跡・紫香楽宮跡の南部、内裏野地区の寺院跡の遺構です。

 

 

内裏野地区は古代の礎石が露出していたこともあり、江戸時代には既に紫香楽宮跡として名所とされ、大正15(1926)年には紫香楽宮跡として史跡に指定されます。しかし、その後の発掘調査によって金堂に講堂・東塔などの伽藍が並ぶ寺院跡であることがわかり、現在はここを甲賀寺跡と推定する説が主流となりました。

 

しかし、小生は内裏野地区の寺院跡が、大仏建立が計画された甲賀寺だったという説には大いに疑問を持っているのです。その根拠として大きく以下の三つの理由が挙げられると思います。

 

① 大仏建立するには、金堂が小さすぎる。

発掘された金堂跡は幅79尺(約24m)、奥行41尺(約12.5m)、東大寺大仏殿の半分以下、丈六仏が本尊の薬師寺金堂の7割ほどの規模。建物の柱の跡からも、とてもここに大仏が建立されたとは考えられません。また寺域全体も面積も東大寺の三分の一程しか無く、遺構からは東大寺よりずっと小規模な寺院だったことがうかがえます。

 

②朱雀大路を塞いでしまう。

第二名神高速道路の工事現場から、都の中央を通るメインストリートである朱雀大路と目される大路の新宮神社遺跡が発見され、紫香楽宮の朱雀大路の位置がかなり特定されたのですが、その位置だと朱雀大路は内裏野地区の寺院跡が塞いでしまう、突き当たってしまうというおかしなことになってしまいます。朱雀大路は朝堂の正門である朱雀門と京の正門である羅城門との間に通される京のメインストリートであり、施設を建てて分断するなど、京の設計としてありえません。

 

 

すべての朱雀大路が特定されたわけでは無いので、寺院の所で朱雀大路が東西に少しずらされた可能性も否定は出来ませんが、それでは寺院跡が朱雀大路に面しているということになってしまいます。藤原京でも平城京でも平安京でも、大きな官寺が朱雀大路に面して建立されたという例はありません。

手元の資料にある復元イメージCGでは、朱雀大路が寺院で寸断されているという、摩訶不思議な推定図となっていました。

 

画像引用:シリーズ「遺跡を学ぶ」大仏造立の都 紫香楽宮(小笠原好彦著・新泉社刊)

 

③寺院は完成している

続日本紀によると、天平17(745)年の正月には紫香楽は新都として宣言がされたものの、地震や火事が頻発し、5月には朝議で平城京帰還が官人から奏上されることに。同月には聖武天皇は恭仁京へ、さらに平城宮に戻ってしまい紫香楽宮に還ることは無かったのです。「甲賀宮空しくて人無し。盗賊充斥し、火もまた未だ滅せず。仍て諸司および衛門の衛士らを遣わして官物を納めしむ」と続日本紀には記述があり、新都として宣言されたわずか半年弱でいかに紫香楽が荒廃していたかわかります。当然甲賀寺も紫香楽宮が廃都となったのに合わせて、建造途中で打ち棄てられてしまったと考えられます。

 

ところが、内裏野地区の寺院跡は七堂伽藍の建物跡が完全な形で出土しており、屋根に葺かれていた瓦も多く出土しています。この寺院は完成して落慶されていたのは間違い無いと思われます。

出土した寺院跡がもし甲賀寺とするなら、明らかに続日本紀の記述とは相違があるのです。

 

内裏野地区遺跡について解説する、紫香楽宮調査事務所 出土品展示室 展示パネ

 

そこで現在多く言われているのは、『甲賀寺の跡地に甲賀国分寺が建てられ、それが近江国分寺に寺格が移された』という説です。その根拠とされているのは正倉院文書(正倉院中倉が収蔵している1万数千点におよぶ文書)にいくつか見受けられる『甲可寺』の記述です。甲賀寺と同じと思われるこの記録が天平17年~19年の紫香楽宮廃都後の年月日で書かれていて、甲賀寺が廃都後も存続されていたことを見ることが出来ます。

さらに東大寺文書である奴婢見来帳に『甲賀宮国分寺』という記述が紫香楽が宮であった745年から6年後の天平勝宝3(751)年に見られ、一連の記録から甲賀寺は紫香楽宮廃都後も寺として存続され、甲賀国分寺として建立され、その後近江国分寺として運用されるようになったという説です。近江国分寺は伝教大師最澄が得度をした寺として知られていますが、場所は諸説あります。

この一連の文書を総合的に見て「甲賀寺は紫香楽宮が廃都になったあとも存続され、国分寺として運営されるようになった」とするのが、内裏野地区遺跡が甲賀寺跡とする裏付けとしていますが、これでは国分寺が紫香楽の京域に建立された裏付けになっても大仏建立が計画された甲賀寺であった裏付けにはなりません。

 

上記の三つの疑問点は小生独自の説では無く、内裏野地区の寺院跡が甲賀寺跡であることに否定的な意見を唱える研究者の共通の見解であります。もしも内裏野地区の寺院跡が国分寺であったとしても、甲賀寺だったするには否定的な要素はあっても、正しいと示す考古学的その他の裏付けは皆無と言っていいのです。内裏野地区が寺院が造営されたのは、やはり紫香楽宮が廃都となってその後というのが小生の見解です。

 

結局、聖武天皇は紫香楽宮のどこに大仏を建立しようとしたのでしょうか。それを考えた時に、そもそもとして聖武天皇はなぜ平城宮を離れ5年もの間彷徨をしたのかを知ることがその答えにつながると思ったのです。そして、昨年から始めた南山城(京都府南部)の仏教寺院めぐりで一つの仮説が立ったのです。

それは、京都府笠置町の笠置寺で本尊の弥勒菩薩磨崖仏を見た時に思いました。

 

 

恭仁京からもほど近い笠置寺の奈良時代の磨崖仏(崖を彫った仏像)は高さ15メートル。奈良の大仏の座高と同じで、正に大仏と呼ぶべき巨大な仏像。この笠置寺の弥勒菩薩磨崖仏を前にして思いだしたことがあったのです。

「奈良の大仏は、唐・洛陽の龍門石窟 奉先寺洞の盧舎那仏像をモデルにして造られた」

笠置寺の弥勒菩薩磨崖仏には、龍門石窟の巨大仏像を彷彿とさせると同時に、奈良時代の日本にも龍門石窟同様の磨崖仏の文化があることを知ったのです。もしかしたら聖武天皇は、磨崖仏で大仏を建立しよう考えていたのでは。そしてそれこそが、聖武天皇が恭仁京、紫香楽と平城京を離れて京を転々と遷した本当の目的だったので無いかと、そのような考えが浮かんだのです。

 

洛陽とは西安の東320kmにあり、長安と並んで各王朝の首都と定められた場所。5世紀の南北朝時代に文研記録上の中国最古の仏教寺院である白馬寺が建立され、洛陽は中国仏教の中心地として信仰を集めました。そして唐代には高宗皇帝の発願で龍門石窟に奉先寺洞が彫られたのです。高さ17.14mの大盧舎那像で有名な石窟仏像です。

 

龍門石窟奉先寺洞 大盧舎那像 画像引用:東大寺のすべて展(2002年・奈良国立博物館)図録

 

盧舎那仏は奈良時代最も最先端の仏法として尊ばれた華厳経の中心的な仏で、サンスクリット語のヴァイローチャナは『光明普遍』(世界を光であまねく照らす)は、この仏像は光を放ち世界中を救うと説かれ、その像が大きければ大きいほど、その光は広く世界を照らし人々は救われると考えられたのです。

聖武天皇は天平6(734)年に第十次遣唐使船で帰還した吉備真備や玄昉らから龍門石窟の大盧舎那仏のことを聞いていたのでは無いかと思われ、この大仏発願につながったと推測されます。

そして、笠置寺の大弥勒菩薩磨崖仏を見た小生は、そこから一つの推測を抱いたのです。

「聖武天皇が最初は、大仏を鋳造仏では無く、石窟像として造ろうと考えていたのではないだろうか」

もしそうなら謎とされている、五年間にもわたる聖武天皇の転々と京を遷した『彷徨五年』の理由を垣間見ることが出来ます。恭仁京も紫香楽も正に巨石の里であり、恭仁京からほど近い笠置寺には大仏と呼んでも良い、巨大な磨崖仏も造られています。聖武天皇は洛陽のような石窟仏を造れる仏教の聖地を選定するために京を転々と遷したのではと考えると、聖武天皇の不可解な行動もつじつまが合うと小生は推測しました。

 

しかし、続日本紀には甲賀寺の大仏が銅造の鋳造仏として計画されたことを示す記述が幾つかあり、小生の石窟で大仏が造られようとしたという説には反論があると思われます。

まずは、有名な天平15(743)年10月の聖武天皇の大仏建立の詔ですが(抜粋)…

 

ここに天平十五年歳癸未にやどる十月十五日を以て、菩薩の大願を発して盧舎那仏の金銅像を一躯造り奉る。国銅を尽して銅を鎔し、大山を削りて堂を構へ、広く法界に及ぼして朕が知識となす。…

 

また、初めて甲賀寺のことが記録に残る天平16(744)年11月の記事には…

 

十一月壬申。甲賀寺に始めて盧舎那仏の体骨柱を立つ。

 

…と記されています。鋳造された東大寺の大仏は、まず木柱の骨組みを組んでからそこに土型を造り、その土型に溶けた銅を流し込んで造像するという手順で造られました。この天平11年の記述は甲賀寺の大仏も同じ方法で造像されていたことを示しています。

 

画像引用:『東大寺Kid's』(東大寺HP)

 

続日本紀の記述を信じる限りは、甲賀寺に建立が計画された大仏は銅製の鋳造仏であります。それを踏まえて甲賀寺の大仏が、石窟仏で造営が計画されたいう説を持つ小生の見解を以下に書きます。

 

聖武天皇は後の状況による計画の変更で、紫香楽でも恭仁京でも無く平城京の東の外れである外京で建立しました。そして、続日本紀に見られる大仏建立の詔の内容は、明らかに東大寺での大仏建立を意識したと小生には読めます。「大山を削り堂を構へ」とありますが、現在甲賀寺の跡として主流になっている内裏野地区の遺跡はやや開けた場所で“大山”ではありません。

大仏建立の詔は東大寺建立という国家プロジェクトを成功させるための国威発揚のスローガンとして、東大寺造営の時にも使われていたのでは無いかと小生は思います。それが最初に発せられたのが聖武天皇が紫香楽にいた時だったので天平15年の記事に載ってしまったのであり、その内容は後の東大寺建立に沿ったものに、時代の状況に合わせて詔の文面が修正されたというのが小生の推測です。天平16年11月の甲賀寺の体骨柱の記事も同様の理由で書かれたもので、実際には立てられなかったのではと小生は考えています。

もしも、内裏野地区から大仏が建立されたことを示す遺構でも見つかれば、大仏は石窟では無く鋳造仏として建立された証明になるかも知れませんが、現在のところ考古学見地からの発見はありません。

 

ここまで、小生が紫香楽に建立が計画された盧舎那大仏が鋳造仏か石窟仏かについての持論を書いてきました。小生が石窟仏説を推していることはもう十分に説明が終わったので、ここからはいよいよ「内裏野地区の寺院跡が甲賀寺跡では無いとしたら、大仏建立が計画された甲賀寺はどこにあったのだろうか」という本題に触れていきます。

先に断っておきますと、甲賀寺がどこであったかは(内裏野地区の遺跡も含めて)現在特定はされてはいません。ここから先に書くことはあくまでも、小生の推論であって、証明はまったくされていないとお断りした上で話を進めます。

 

甲賀寺の大仏が石窟仏として造られたとしたら、当然それは平地では無く岩山に築かれたということになります。そこで調べるとこの信楽という場所は全体が花崗岩地質だという、注目すべき情報がわかりました。この花崗岩の長石が良質な陶器の材料として、信楽は焼き物の里として発展をしたのです。そう思うと大石窟仏を建立する場所として信楽は適所と都に選ばれたと考えられます。

 

画像引用:甲賀市HP

 

紫香楽宮からほど近い岩山であることが条件になりますが、平城宮と東大寺との位置関係を考慮すると、小生が推定する甲賀寺は紫香楽宮の丑寅…つまり北東か、あるいは北の山です。本場・洛陽の龍門石窟は洛陽城の南に流れる伊河の川沿いにありますが、信楽の地形と日本の都市計画のスタイルを考えると、小生は大仏は宮の後ろに建立されたのでは無いかと思います。

それらのことを踏まえて紫香楽宮近辺の地図をあらためて見直して見ると、気になる場所が一つ見つかりました。

 

 

紫香楽宮朝堂院跡から北東に約3kmにある“飯道山”(はんどうざん)という山です。位置関係で言えば、平城京朝堂院と東大寺に類似しています。この山に祀られている“飯道神社”(はんどうじんじゃ・いひみちじんじゃ)は、創建は奈良時代初期、和銅年間に熊野本宮から分霊したと伝えられ、奈良時代初期には開けていたことがうかがえます。

 

地勢的な面から気になった飯道山で「もしかしたら、ここが紫香楽の東大寺があった場所では」と思い、よくよく調べてみました。するとここが甲賀寺だったのではと思わされるような要素が、次々と出てきたのです。以下にそれらを列記します。

まず、地質的なことを言いますと、飯道山は全山が花崗岩からなる岩山であります。おそらく山肌を彫れば、大石窟仏を彫るにふさわしい大きな岩崖も出てくるでしょう。実際に登山道には露出した岩を多く見ることが出来ます。

 

 

そして飯道山はただの岩山では無く、岩の信仰の山でもあります。日本の古代宗教の原点と言われる神を神体である岩に見立てて信仰する『磐座信仰』の地としても知られ、飯道山の参道入口近くには飯道神社の境外社の岩尾神社という神社もあります。岩尾神社は神を祀る祠が無く、巨岩がご神体となっている典型的な磐座信仰の神社となっています。

 

 

『巨石信仰の聖地』それが小生の飯道山の印象でした。平安以後は修験道の霊場として栄えたようで、飯道神社を神宮寺とする飯道寺という寺号の寺もありました。飯道山は険しい岩山として、修験道者の道場として修行の場とされたのです。

 

正に神聖なる盧舎那大仏(石窟仏)を建立するにふさわしい巨岩の聖地でありますが、奈良時代の遺構などの遺跡などは確認されていないようで、ここが内裏野地区に代わる甲賀寺の跡地と見る発見は残念ながらありません。しかし、飯道山と東大寺を結びつける大きな証拠は存在します。

それは現在も東大寺で見ることが出来ます。お水取りが行われる東大寺二月堂にはその鎮守である三社の神社があるのですが、その一社がなんと飯道神社。二月堂の南の石段を登った南側の広場、その広場に面して祀られています。二月堂の飯道神社は、この甲賀の飯道神社から分霊し勧請されたのです。

 

 

甲賀の飯道神社が二月堂の鎮守として勧請されたかについては、東大寺は江戸時代の元禄年間に編纂された『東大寺諸伽藍略録』に東大寺要録の記録を引用し、宝亀2(771)年に大仏殿動揺防止工事でお水取りの祖と言われる実忠が紫香楽の材木で行われたことから飯道神社が鎮守とされたと書かれており、東大寺はその由緒を飯道神社が二月堂鎮守になった理由としています。

二月堂の飯道神社について調べてみましたが、一部に紫香楽宮との関わりを指摘する解説はありましたが、紫香楽大仏の甲賀寺との関わりを指摘する研究は見つけられませんでした。

甲賀寺が飯道山に建立される計画があったのかはともかく、飯道神社が二月堂に祀られていることは、二門の大仏建立寺院を結びつける大きな鍵だと指摘する研究者がいないことが、小生にはむしろ不思議に感じています。

小生は山を背にした紫香楽宮、その背後の山には盧舎那大仏を望む。それが聖武天皇が望んだ仏の世界、仏教に篤く傾倒した聖武天皇が求めた理想郷だったのではというのが、小生のイメージする紫香楽宮の姿です。

 

紫香楽宮復元CGに龍門石窟奉先寺洞を合成したイメージ画像

画像引用::MIHOミュージアム HP(紫香楽宮復元CG)

 

東大寺二月堂の鎮守三社と言いますと、飯道神社・興成神社・遠敷神社の三社でそのうち興成神社と遠敷神社は若狭国ゆかりの神社です。お水取りは若狭の遠敷明神が若狭の水を東大寺まで引いたという伝承により始まった行事と言われています。これらの三社を祀ったのは東大寺初代別当だった良弁の高弟でお水取りを始めたと伝えられる実忠和尚と伝えられています。小生はむしろ三社は良弁ゆかりの神社では無いかと思います。

 

良弁上人坐像(東大寺開山堂所蔵)[平安時代・国宝]

画像引用:東大寺のすべて展(2002年・奈良国立博物館)図録

 

東大寺に伝わる良弁は出身が近江国の百済氏の出身、または若狭国小浜下根来生まれとされ、伝承は見事に二月堂鎮守と場所が合致します。さらに疑問を上げますと、東大寺の由緒は聖武天皇が亡き子である基皇子を追善するために建立をした奈良若草山の麓に建てた金鐘寺という山房に始まり、良弁はその九人いた金鐘寺の僧の一人だったと言われています。でも、大仏は当初は平城京では無く紫香楽に建立される計画だったのでは…? さらに良弁が近江国出身という伝承もあるとすれば、紫香楽宮は良弁の地元ということに。

となると、聖武天皇と良弁との接点は紫香楽宮時代に端を発するか、もしかしたら紫香楽遷都を推したのは良弁…という可能性も出てくるのです。もしも飯道山近辺に奈良時代の遺構が見つかるなんてことになれば、東大寺の歴史が大きく塗り替えられる可能性もあると小生は思っています。

 

今回のブログでは、紫香楽大仏が計画された甲賀寺が定説となりつつある内裏野地区には無かった。そして可能性として飯道山に石窟仏として建立されようとしていたのでは無いかという説を説きました。

発掘調査でも文献上でも、小生の説を裏付けるものは何もありません。しかし小生は、内裏野地区が甲賀寺であるという説もまた、同じだと思っています。裏付けが何も無いのに、まるで内裏野地区の寺院跡が定説のように言われることが多いという今の状況に、一石投じたいという思いもあり今回の記事になりました。

 

今回は小生の自説を語るのみの記事となりましたが、実は昨年の秋に小生が甲賀寺跡では無いかと考えている飯道山に実際に行って来ました。飯道山とはどういう場所なのかの現地レポ、そして紫香楽大仏について改めて記事に書きたいと思います。

 

アクセスカウンター
コーヒーメーカー通販ホームベーカリー通販デジタルブック

今回このブログ記事で取り上げるのは、滋賀県甲賀郡信楽町です。滋賀県南東部に位置する信楽と言えば、多くの人はタヌキの置物で有名な信楽焼の里というイメージされるでしょうが…

 

 

 

小生のような考古学ファンにとっての信楽は特別な場所、奈良時代の『紫香楽宮』という、かつて日本の首都があった歴史的に重要な場所なのです。

奈良時代に大仏を建立した聖武天皇は、巨大な宮城である平城宮において治世を送りましたが、天平12(740)年から同17(745)年の間、『彷徨五年』と称される平城京を離れ転々と宮遷りをした時期がありました。紫香楽宮はその宮が造られた地の一つで、有名な天平15(743)年の『大仏建立の詔』が発せられ、紫香楽の京域の甲賀寺に大仏を造る計画が実際に行われたと続日本紀には書かれています。奈良・東大寺の大仏の鋳造が始まったのは天平19(747)年9月と記録されています。紫香楽の甲賀寺での大仏鋳造は東大寺に先駆けての最初の計画であり、もしも計画が変更にならなければ、大仏は奈良では無く紫香楽にあったかも知れないのです。

『彷徨五年』で聖武天皇が都としたのは…

 

   恭仁宮(740-743)

   難波宮(744-745)

   紫香楽宮(745)

 

…の三箇所。このブログではその内の二箇所をこれまでに紹介しています。2023年10月19日の記事で恭仁宮を、同5月29日の記事で難波宮のことを取り上げ、聖武天皇の彷徨五年について書きました。今回の記事では三箇所目となる紫香楽宮を取り上げ、聖武天皇の彷徨五年の話の総括としようと思います。

 

信楽の里は国道307号線沿いに多くの窯元が建ち並び、焼きものの里として多くの人々が訪れますが、その紫香楽宮の遺構はその信楽の里の北部に、いくつか点在してあります。

 

 

 

今回の紫香楽宮跡のレポは2023年9月9日に行った時のことを中心に書きますが、この日は土曜日。後述する『紫香楽宮 関連遺跡群 調査事務所』が土日祝が休館だったので、補うために同年10月10日にも追加で訪れていまして、二回にわたる訪問を元にレポを書かせていただきます。

 

正史の続日本紀に『紫香楽宮』と書かれているくらいですから、信楽の里が紫香楽宮の跡地として注目されていたのはかなり古くからでした。

古来から紫香楽宮跡と考えられていたの黄瀬・牧地区。そのあたりの丘陵地区は「内裏野」とも呼ばれ、一部建物の礎石が露出していたことから古くから紫香楽宮の跡地と言われていたのです。江戸時代にはすでに、内裏野は紫香楽宮の内裏や大仏殿跡と記した歴史書も書かれていました。大正年間には『紫香楽宮跡』として国の史跡に指定され、今もガイドブックなどでは紫香楽宮跡と言えばこの内裏野のことを指しています。

まずは、内裏野地区の遺構から紹介をしていきます。国道307号線を北上し、分岐点で左の県道57号線へ進むと、すぐにあまりに立派な「紫香楽宮址」の石碑が立てられているのが見えます。

 

 

この石碑から林に入っていた先が『紫香楽宮内裏野地区』です。宮址には皇居跡を示す『紫香楽宮』を祀る社が建てられていました。大正時代以後はこの内裏野地区が紫香楽宮の皇居跡と見なされ社が祀られたのです。

 

 

しかし、その後発掘調査が進むにつれて、どうやら内裏野地区は皇居では無いことがわかって来ました。

 

紫香楽宮内裏野地区(GoogleMAPに遺構配置図を合成)

遺構配置図引用:https://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_oumikokubunji.htm

 

社が建てられている金堂跡の他、講堂跡、塔跡と、次々と見つかった建物跡遺構の配置から当初は皇居跡とされていた内裏野地区は、昭和5(1930)年には仏教寺院跡だったとわかったのです。

遺構は整備され、推定復元図もある全体図や各伽藍位置を示す碑が設置されていました。

 

 

金堂を中心に、南側に中門、北側に講堂。講堂を囲むように三面僧坊と、東側には塔院が置かれ塔の礎石が並びます。伽藍配置で言えば元興寺にも似ていますが、でも元興寺の食堂は金堂の真北にあったのに対し、この紫香楽宮内裏野地区の寺院跡は金堂の北東に食堂が建てられていました。

  

 

 

 

この食堂の位置は、東大寺と同じなのです。しかし、東大寺と同じ伽藍なら金堂の西側にも塔があるはずなのに、ここからは西塔の遺構は検出されず、研究者の間では「西塔は存在しなかった」という見方が強いということで、非常に謎の多い伽藍配置なのです。

 

CGで復元された内裏野地区寺院 画像引用:紫香楽宮パンフレット(甲賀市教育委員会刊)

 

思わぬ展開で見つかった奈良時代の寺院跡。歴史家の間では、紫香楽宮に建てられた『甲賀寺』ではないかと指摘されています。

甲賀寺が正史の続日本紀に記されているのは、天平16年11月の記事で『甲賀寺に始めて盧舎那仏像の体骨柱を建つ』というもの。甲賀寺に盧舎那仏像…すなわち大仏を、建立する計画だったと記録されているのです。。

奈良・東大寺の大仏の鋳造が始まったのは天平19(747)年9月と記録されています。紫香楽の甲賀寺での大仏鋳造は東大寺に先駆けての最初の計画であり、もしも計画が変更にならなければ大仏は紫香楽に建立され、奈良の大仏は存在しなかったかも知れないのです。

 

古来から紫香楽宮の跡と言われて来た内裏野地区でしたが、宮の中心である内裏や朝堂では無いことが発掘調査によって明らかになって来ました。

それでは紫香楽宮の主要部はどこにあったのでしょうか。それを知るために小生が訪れたのは、内裏野地区遺跡の2km北にある『紫香楽宮跡 関連遺跡群 調査事務所』です。紫香楽宮の発掘調査拠点の施設で、プレハブの建物です。

 

 

ここは紫香楽宮についての解説のパネルや、出土品などの展示室にもなっているのです。紫香楽宮について学ぶのに、必ず行くべきとされる場所となっています。失われた紫香楽宮とはどのようなものだったのか、小生もこちらの展示から大いに学ばせていただきました。

 

 

 

 

当初、紫香楽宮跡と目されていた内裏野地区ですが、裏付けとされたこの地名が江戸時代から呼ばれるようになったことが文献資料などからわかり(それ以前の地名は『寺野』)、発掘調査もあって寺院跡だったということが確かめられてしまったのです。

そこで始まった紫香楽宮の全貌を明らかにする調査、そのヒントとなったのが1970年代の圃場(農地)の整備事業で発見された『根柱』です。掘立柱の根の部分で、3本見つかった内の1本が、展示室にはその実物が展示されていました。

 

 

昭和59(1984)年にこの根柱の年輪年代測定法が奈良文化財研究所によって行われ、天平14~15(742~743)に伐採された木であることが判明したのです。天平17(745)年に遷都した紫香楽宮造営の時期とピタリと一致し、「紫香楽宮跡は信楽町宮町地区」と研究者たちは確信、昭和58(1984)年から宮町地区の絞られて大規模な発掘調査が繰り返し行われたのです。

 

 

画像引用:現説公開サイト 宮町遺跡第30次調査

 

その結果、宮町地区からは奈良時代の多くの建物跡が見つかり、平成12(2000)年には内裏の主要施設と思われる大型建物の跡が発見され、紫香楽宮の中心部は宮町地区であることがほぼ確実となりました。下の画像は宮町地区の遺構の図と、GoogleMapを合成したものです。黄色が建物跡が発掘で見つかった場所で、特に主要施設は赤で示しています。

 

 

小生は出土品展示室で得た情報を元に、紫香楽宮遺跡調査事務所の200メートル西に位置する、地域の集会所となっている宮町会館へと行きました。

 

 

集会所である宮町会館ですが、建物の壁面には紫香楽宮に関するパネルがいっぱい掲示されていました。

この集会所のある場所が発掘調査によって紫香楽宮正殿前庭であるとわかり、宮の主要施設がこの集会所をぐるっと囲むように建っていたのです。そのこともあって、この集会所が内裏野に代わる紫香楽宮の跡地となっているのですが、まだ史跡として整備されていないので、その代わりに集会場にこのようなパネルが掲げられています。

 

 

 

 

朝堂院の主要建築は北に前殿と後殿の二棟の建物と、西脇殿と東脇殿の掘立柱の柱列跡が発掘されました。朝堂院正殿と思われる前殿は東西37.1×11.9メートル。平城宮大極殿の44.0×19.5メートルより一回り小さく、正式に大極殿として機能していたのかは検討の余地がありますが、注目されているのは朝堂院の東西に建てられた東西脇殿です。

南端が未調査なので正確な建物の規模は不確定ですが、両脇殿は南北100メートル以上と考えられています。それまで当時最大と言われていた新薬師寺金堂の幅68メートルを超える、奈良時代で最も長大な建造物の跡が見つかり、それまで「急造りの仮宮では」とも目されていた紫香楽宮が本格的な宮城であったことが解り、大きなニュースとなりました。

 

紫香楽宮朝堂院跡出土を伝える新聞記事(毎日新聞 2001年11月14日)


宮町遺跡からは、数多くの木簡(木の板に書かれた墨書き)も出土しています。その中には「造大殿」(宮造営の大殿の造営をする部署)や、「皇后職」(光明皇后立后の翌年に設置された皇后の家政機関)といった文字が書かれた、宮町遺跡が皇宮であることを証明する木簡も見つかっています。

 

 

 

紫香楽宮調査事務所の出土品展示室には、残念ながらこれらの木簡の実物の展示はありませんでした。展示室にあったのは『あさかやま木簡』と呼ばれる裏表に和歌の書かれた木簡の複製品でした。

 

 

(表)安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

(裏)難波津に 咲くやこの花 冬ごもり いまは春べと 咲くやこの花

 

安積香山の歌は万葉集巻16 3807番に、難波津の歌は古今和歌集に掲載されており、古来よりこの二首は書道の初学の手本として用いられていました。ただ、この木簡は万葉集が編纂されるより前に書かれたと考えられ、万葉集成立のルーツと知る貴重な資料なのです。

 

この発見によって内裏野地区のみ指定されていた紫香楽宮跡の国の史跡は、平成17(2005)年宮町地区も追加指定されました。ただ、宮町地区は内裏野地区と違ってほとんど整備はされておらず、宮町会館のパネルだけが朝堂院跡であることを示すものとなっています。

 

 

宮町会館に朝堂院をCGで再現した画像のパネル展示がありましたので、この再現画像と同じ方向から宮町遺跡を写真に撮ってました。かつてはこの場所に上のような朝殿が立ち並んでいたのですが、現状ではその往年の姿をイメージするのはかなり難しくなっています。

 

 

昭和からスタートした発掘調査は宮町地区と内裏野地区だけでは無く、広範囲で行われ数多くの紫香楽宮の遺構が発見されています。いずれも看板が立っていたので紹介をします。

まずは鍛冶屋敷地区、第二名神高速道路の信楽インターのすぐ南に位置し、高速道路の建設に際しての大規模な発掘調査によって、18基以上の鋳造工房が発見されました。紫香楽は大仏の鋳造が計画されたことが記録にあり、鍛冶屋遺跡は大仏建立が計画された甲賀寺跡と目されている内裏野遺跡からも近く、鋳造施設の遺構は大仏鋳造との関連も考えられ注目されています。

 

 

鍛治屋敷地区の遺跡と第二名神高速道路を挟んで反対側となる北側に看板が立つのは『新宮神社遺跡』。

近くの鎮守の神社から名付けられた遺跡で、朝堂院跡の宮町遺跡と甲賀寺跡と目されている内裏野遺跡との中間に当たり、朱雀通りに該当する紫香楽京の南北のメインストリートがあったと推測されている場所。

平成12年にここから幅18メートルもの大路の跡と、この時代ここを流れていた川に架けられていた橋の跡が見つかり、検出された橋脚の残存木材から天平16(744)年伐採されていたことが調査によって明らかになっています。聖武天皇が平城宮に帰還し紫香楽宮が廃都となったのが天平17(745)年ですから、紫香楽宮が造営途中の段階で打ち棄てられてしまったことが、ここからも確かめられているのです。

鍛治屋敷遺跡と新宮神社遺跡は紫香楽宮跡として、平成22(2010)に史跡に追加指定されました。

 

 

また新宮神社遺跡から約1km西で発掘されたのが『北黄瀬地区遺跡』で、ここからは井戸の木枠の遺構が良い保存状態で発見されました。井戸は2メートル四方という破格の大型サイズで、このような大きな井戸が一体どのような目的で整備されたのか注目を集めます。

 

 

 

紫香楽宮調査事務所には職員の方がおられて、パンフレットなどをいただきながら少しお話もさせてもらいました。「発掘調査はこれからもさらに行われるのですか」と聞きましたら、職員の方は「調査はほぼ一段落をしていまして、これからは整備の方に向かうと思います」というちょっとうれしいお話をいただきました。

甲賀市のHPを見てみても、“史跡紫香楽宮調査整備委員会”が設置されたという広報が令和2年3月30日の公示がありました。宮町遺跡の整備事業は実際に始まっているようです。

しかし、実際の整備計画の公開されている資料を見ると「宮町遺跡の発掘調査の報告書がまだ出来上がっていないので、整備協議は出来ない」との意見も協議会から上がっているようです。どうも、整備事業は長期の事業と捉えられているようで、実際に整備計画がいつ実現するかはなかなか見えないようです。

 

画像引用:https://www.city.koka.lg.jp/secure/31593/R4.3siryou.pdf

 

聖武天皇の『彷徨五年』の三都で、整備が進んだのは大都市の都市公園として整備された、難波宮跡だけ。現在も市街地とは言えない恭仁宮と紫香楽宮の整備は費用や整備による効果を図れないというのが実情でしょうか。

小生としては元々信楽焼の里として観光地となっている紫香楽宮跡などは、焼き物の里という観光資源とタイアップして町おこしに使ってもらえないかと思ったりしてしまいます。

 

三回にわたる聖武天皇・彷徨五年の宮跡めぐりのラストとして、今回紫香楽宮跡を紹介しました。これで終わりと言いたいところですが、紫香楽宮について実はもう一つ書きたいことがあるのです。

聖武天皇が『大仏建立の詔』を発布し、大仏建立が計画された紫香楽の甲賀寺。現在、内裏野地区で見つかった寺跡がその甲賀寺跡というのが最も有力と言われていますが、小生はその内裏野地区の寺跡が甲賀寺だという説には大きな疑問を持っているのです。

なぜ内裏野地区の寺院跡が甲賀寺では無いのか、そして内裏野地区の寺院跡が甲賀寺では無いのなら、甲賀寺はいったいどこにあったのか。次のブログ記事では小生の紫香楽大仏についての考察を、そして小生が甲賀寺と予想する場所のレポを書いていきたいと思います。

 

アクセスカウンター
コーヒーメーカー通販ホームベーカリー通販デジタルブック