奈良国立博物館 特別展『聖地 南山城』 ─ 令和4年7月26日 ─ | タクヤNote

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奈良国立博物館での大型特別展・昨年夏の『中将姫と當麻曼荼羅』に続き現在開催中の『聖地 南山城』に行ってきました。先月7月22日で、この日の奈良は良い天気で最高気温34.7度と暑くはあったのですが、この後35~38度近くと超猛暑が続いて、この日はまだ暑さがマシと、今年の夏は感覚がおかしくなっております。

 

 

『南山城』(みなみやましろ)とは、旧山城国の南部のことで、現在の京都府南部の山間部を指す言葉です。山城国は平安遷都以前は山背と表記し、平城京の山の向こうという意味で、本来は南山城地域を指す地名でした。

 

当時 都への水運の要衝であった木津の河港には、古代の土木事業で有名な行基信仰の寺院が点在し、奈良と京都を結ぶ奈良街道や伊賀に続く笠置街道などを仏教の都という色の濃かった平城京の山房として寺院が建てられ、平城京近郊という土地柄によって、南山城は独自の仏教文化を花開いて来たのです。

…いや、この特別展の名称を最初見た時に「“なんざんじょう”とは、なかなか重みのある言葉の響きだ」と恥ずかしい感想を持ってしまいました。

 

 

出展一覧を数えると、この展覧会には京都府南部の8市町村の27の寺社から出展がありました。広い地域から、数多くの寺社の名宝が出展されている特別展となっていました。

 

 

一階のグッズ売り場には、それらの寺院を紹介するロールスクリーンが。これまでだと展覧会の内容に即したグッズが売られていたのですが、今回はどちらかと言うと京都府南部の物産展のようで、特定の寺社や名刹というより地域紹介の特別展の色合いが濃い内容だった気がします。

 

 

小生も三年前の令和2年11月に木津川市の浄瑠璃寺に参拝してまして、2020年11月15日のブログ記事で紹介しています。非常に見応えのある素晴らしいお寺で、小生がこの特別展に興味を持ったのも、この浄瑠璃寺への参拝からという気持ちがありました。

前述の通り、今回の『特別展 聖地南山城』は浄瑠璃寺だけでは無く、同地区の数多くの寺社について取り上げています。その中には全国的に著名な場所も数多くありますが、小生は浄瑠璃寺以外にはまだ参拝したことがありません。小生としてはまだまだ参拝した寺社は少ない南山城のガイドのような特別展という感じになりました。

 

なので、このブログ記事はいずれここで紹介した寺院へいずれ参拝をして詳しく取り上げることを前提に、その内容はダイジェストとして書いていこうと思います。書き方としては取り上げる寺院などをしぼり、特別展での出展品を画像付きで紹介しながらそれぞれの寺院を紹介していくスタイルを取ります。出展品の画像は図録から引用します。

 

 

恭仁京跡〈木津川市〉

この特別展の最初では南山城の始まりとして、聖武天皇の築造した恭仁京(くにきょう)などの考古的遺物が展示されていました。

聖武天皇は天平12(740)年10月、東国御幸として平城宮を離れると、4年半後の天平17年5月まで戻らない、いわゆる『彷徨五年』と呼ばれる遷都を繰り返しました。恭仁京はその最初の遷都先で、山背国相楽郡(現在の木津川市加茂地区)で天平12年12月15日に遷都の詔が行われ、約3年間首都と定められます。

この地が都となった理由として考えられるのは、当時官衙の最高権力者であった右大臣(後の左大臣)橘諸兄の勢力拠点だったため、諸兄のあっせんによるものとする説です。

南山城が聖地として栄えたのも、そのあたりの地勢が大きかったと言えます。

 

   

恭仁京出土品(左・軒丸瓦 軒平瓦 右・人名文字瓦) 画像引用:聖地 南山城 図録

 

 

恭仁京の他、飛鳥時代創建の高麗寺跡や恭仁京跡に建てられた山背国分寺跡などの出土瓦などの展示もあり、考古的展示品で地域の歴史へ観覧者をいざなう構成となっていました。

 

海住山寺〈木津川市〉

海住山寺(かいじゅうせんじ)恭仁京跡の北1.5kmほどの三上山の中腹に建ち、東大寺の開基である聖武天皇と良弁を開基に建立されたという伝承を持つ古刹寺院。本堂本尊・十一面観音菩薩立像[平安時代・重文]が直々に出展されていました。古様の仏像で、奈良時代の創建期まで遡る可能性も指摘されています。

 

十一面観音立像[平安時代・重文] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

鎌倉時代初期には興福寺僧 解脱上人・貞慶が移り住んだことでも知られ、特別展には貞慶をテーマとするコーナーが設けられ、海住山寺からも関する出展が多くされていました。

貞慶(1155-1213)は法相宗の興福寺僧で、当時急速に信徒を増やしていた浄土系 専修念仏宗派の仏教に真っ向対立し、法相・律の重要さを説いたことで歴史に名を残します。

 

解脱上人坐像[江戸時代] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

二十五条袈裟(伝解脱上人所用)[鎌倉時代] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

海住山寺からは他にも数多くの寺宝が出展され、その数は35点と群を抜く多さ。国宝の鎌倉時代造の五重塔が伽藍に建つ恭仁京跡にもほど近いこの寺は、南山城においての中核的な聖地として信仰と歴史を伝えて来たのです。

 

  

 

 

四天王立像[鎌倉時代・重文] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

法華経曼荼羅[鎌倉時代・重文] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

特に、五重塔の初層内陣扉絵は、今回の特別展において2点だけの国宝の一つとなっています。

 

 

五重塔初層内陣扉絵[鎌倉時代・国宝] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

笠置寺〈笠置町〉

笠置寺(かさぎでら)は木津川の南岸、標高289メートルの笠置山の山頂に伽藍を構える山寺。海住山寺の中興の祖である解脱上人・貞慶が興福寺から最初に移り住んだ南山城の寺として、海住山寺と並び貞慶ゆかりの寺院として信仰を集めています。

特別展では貞慶の遺品として、貞慶が笠置寺で説いた弥生講式と地蔵講式の式次第として書かれた書の、鎌倉時代の書写が展示されていました。

 

弥勒講式[鎌倉時代・重文] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

 

地蔵講式[鎌倉時代・重文] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

笠置寺は弥勒信仰の聖地と呼ばれ、本尊は弥勒菩薩なのですが他の寺院の仏像とはかなり異なものです。笠置寺本尊は磨崖仏…つまり岩山を掘り抜いて造られた露天仏。南北朝時代の元弘の乱の戦火によって後背を残し失われてしまいましたが、寺は今もこの弥勒菩薩のあった崖を本尊として崇拝しています。磨崖仏の高さは15メートルと東大寺盧舎那仏にもひけをとらない、正真正銘の大仏だったのです。

特別展では弥勒菩薩磨崖仏の写真がロールスクリーンで展示されていましたが、実物大ではなかったもののその存在感、そして笠置寺という場所の特殊性、神秘性がその写真からも伝わって来ました。

 

弥勒磨崖仏[奈良時代?] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

笠置寺からの出展品は、『梵鐘』[鎌倉時代・重文]です。鎌倉時代の東大寺大仏を建立した大勧進職・俊乗房 重源が、貞慶が建立した般若台に施入するために鋳造したという、鎌倉時代の南都の二大高僧の交流を伝える歴史的価値の高い文化財です。

特徴は『六葉形』と呼ばれる最下部の6つの切れ込み。中国鐘に多く見られる様式で、宋に渡った経歴を持つ重源らしい梵鐘です。

 

梵鐘[鎌倉時代・重文] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

蟹満寺〈木津川市〉

蟹満寺(かにまんじ)は恭仁京から奈良街道を恭仁京から5kmほど北に上った、木津川市綺田に建つ寺院。明確な創建の由緒は伝わっていませんが、境内の発掘調査で出土した瓦などから飛鳥時代後期には建てられたと考えられている、南山城の先駆けと位置する古刹です。

 

蟹満寺出土 軒丸・軒平瓦[飛鳥-奈良時代] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

本尊は銅造釈迦如来坐像[飛鳥時代・国宝]で、像高240cmの丈六仏は、一目見て白鳳仏の特徴が際立っている南山城の至宝。この像は蟹満寺の─南山城の知名度を高めています。

 

釈迦如来坐像[飛鳥時代・国宝] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

名高い本尊の釈迦如来像ですが、この特別展では出展はされていず、写真パネルのみの展示となっていました。その代わりか市指定文化財となっている阿弥陀如来坐像が、蟹満寺からは出展されていました。

 

阿弥陀如来坐像[奈良時代・木津川市指定文化財] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

大御堂観音寺〈京田辺市〉

大御堂観音寺は寺伝では天武天皇の命により、高僧・義淵によって創建されたとされる古刹。古くは息長山普賢教法寺と号しました。本尊は創建時から伝わるという十一面観音立像[奈良時代・国宝]で、像高172cmの等身像は奈良県桜井市の聖林寺・十一面観音と並んで二大天平十一面観音と呼ばれる美仏。穴場の国宝としてファンが多い観音様です。

 

十一面観音菩薩立像[奈良時代・国宝] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

特別展には本尊では無く、像高28cmの菩薩立像が出展されていました。小仏ながら作例少ない奈良時代の木心乾漆像(木製の芯に麻布と漆で固めた像)で、持物などは欠損しているものの京都府指定文化財となっています。

 

菩薩坐像[奈良時代・府指定文化財] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

禅定寺〈宇治田原町〉

宇治田原は南山城でも北に位置し、禅定寺(ぜんじょうじ)は奈良街道から近江に抜ける道に建立されました。開祖は東大寺第53代別当だった長老の平崇で、藤原道長の父・兼家の帰依を受けて建立され、貴族の庇護を受け東大寺や平等院の末寺として運営された、京都・奈良の両方の影響深い寺院でした。戦国時代には衰退しましたが、近世になって曹洞宗の禅寺となり今に至っています。

正に南山城という地域の特色を如実にあらわす由緒を持つ寺院。特別展には本尊の十一面観音立像[平安時代・重文]や、文殊菩薩騎獅像[平安時代・重文]などの、本堂所蔵の仏像が出展となっていました。十一面観音は像高3メートル近い巨像で、拝む者を圧倒します。

 

 

左・十一面観音立像[平安時代・重文] 右・文殊菩薩騎獅像[平安時代・重文]

画像引用:聖地 南山城 図録

 

神童寺〈木津川市〉

神童寺(しんどうじ)は木津川の河川に臨する山の山中に伽藍を構える山寺。寺伝では聖徳太子を開基とし、神道と仏教の両方の信仰を持つ山岳信仰の聖地として、『北の金峯山寺』と称し、修験道場の山として信仰を集めて来ました。

本堂は室町時代に再建された国の重要文化財で、本尊は吉野の金峯山寺蔵王堂と同じ蔵王権現立像[室町時代]、修験道の始祖である役行者が造ったと言い伝えられています。

 

蔵王権現立像[室町時代] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

特別展には等身大の不動明王立像[平安時代・重文]と、像高64cmの愛染明王坐像[平安時代・重文]と、真言密教系の二躰の明王像が出展されていました。

 

 

左・不動明王立像[平安時代・重文] 右・愛染明王坐像[平安時代・重文]

画像引用:聖地 南山城 図録

 

大智寺〈木津川市〉

大智寺(だいちじ)は奈良と京都を結ぶ国道24号線、木津川に架かる泉大橋のたもと近くに建つこの寺は、古代の泉大橋を築造し京と山背国とを結んだ日本仏教界のスーパースター行基ゆかりの寺。

鎌倉時代の真言律宗の僧・慈真和尚 信空が行基が架けた泉大橋の古材の柱を用いて文殊菩薩を造像し、本尊として寺を開きました。その故事から古くは橋柱寺と号したそうで、特別展では、本尊の文殊菩薩が出展。南山城と行基をテーマにしたコーナーの主要展示物となっていました。

 

文殊菩薩騎獅像[鎌倉時代・重文] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

浄瑠璃寺〈木津川市〉

浄瑠璃寺は旧相楽郡当尾村の当尾の里の山の中に伽藍を構える浄土式庭園が美しい古刹です。開基は地元の僧・義明上人ですが、平安後期に興福寺一乗院の恵信によって祈願所として大規模に整備され、以後興福寺の末寺に、明治時代に真言律宗の寺となり西大寺の末寺となりました。

このブログは奈良のお寺をメインに取り上げているため、南山城のお寺のことをブログに書くことはほとんど無かったのですが、唯一この浄瑠璃寺だけ3年前の2020年11月15日の記事で取り上げてます。日本の仏像の中でも随一の美女と誉れ高い吉祥天女立像[鎌倉時代・重文]に会いたかったのです。

 

吉祥天女立像[鎌倉時代・重文]

画像引用:2017年 あべのハルカス美術館『奈良 西大寺展』図録

 

浄瑠璃寺については、この過去の記事に詳しく書いているので参考にしていただければと思います。小生は薬師如来坐像[平安時代・重文]や、大日如来坐像[平安-鎌倉時代・京都府指定文化財]など、今回の特別展に出展されている多くの寺宝を、3年前の浄瑠璃寺で拝観しています。

 

 

左・薬師如来坐像[平安時代・重文] 右・大日如来坐像[平安時代]

画像引用:聖地 南山城 図録

 

この南山城の特別展ですが、この浄瑠璃寺が企画の発端となったようです。浄瑠璃寺の本尊は本堂に居並ぶ9躰の阿弥陀如来坐像。浄瑠璃寺が誇る国宝仏像群であります。

 

九体阿弥陀如来[平安時代・国宝] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

今回の特別展、そのサブタイトルが「浄瑠璃寺九体阿弥陀修理完成記念 特別展」となっていて9躰の阿弥陀如来坐像は、2018年から五ヶ年計画の修理が行われていたのです。そのため、3年前に小生が参拝した時も、九体阿弥陀の真ん中の中尊阿弥陀如来像がいませんでした。

今回の特別展の目玉として、九体阿弥陀如来から北端の第一像と南端の第八像が出展されていました。海住山寺五重塔扉絵と並ぶ、国宝の展示物です。

図録では完成した姿で写真が載っていましたが、博物館での実際の展示は台座が外され、仏像と光背が別々に展示されていました。奈良博での特別展らしく阿弥陀像は正面からも背面からも鑑賞できるような展示になっていたのです。

 

阿弥陀如来坐像(九体仏の第一)[平安時代・国宝] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

阿弥陀如来坐像(九体仏の第八)[平安時代・国宝] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

岩船寺〈木津川市〉

岩船寺(がんせんじ)は浄瑠璃寺と同じ当尾の里に伽藍を構え、共に美しい三重塔を持つことから、参詣者は浄瑠璃寺と岩船寺を「当尾の里 三重塔めぐり」と称して合わせて参拝するのが古来からのコースになっています。

寺に伝わる由緒によると、当尾にほど近い大和国鳴川(現・奈良市鳴川町)に建てた阿弥陀堂が始まりとされ、現在の本堂本尊は阿弥陀如来坐像[平安時代・重文]で、四天王像[鎌倉時代・京都府指定文化財]が本尊を守護しています。

 

岩船寺内陣 画像引用:聖地 南山城 図録

 

特別展には三重塔由来の普賢菩薩騎象像[平安時代・重文]が出展されていました。像高39.5cm小像で、主に女性の信仰を集めたそうです。

 

普賢菩薩騎象像[鎌倉時代・重文] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

現光寺〈木津川市〉

現光寺(げんこうじ)は、恭仁京から木津川を挟んで1kmほどの小高い土地の上に伽藍を構える小さなお寺です。今は住職のいない無住の寺となっていて、管理は海住山寺が行っているというありさまなのですが、今回の特別展では重要文化財の本尊・十一面観音坐像[鎌倉時代・重文]をはじめとし、海住山寺に次ぐ13点の寺宝を出展していたのです。

 

観音菩薩坐像[鎌倉時代・重文] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

   

四天王立像[鎌倉時代] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

現光寺は江戸時代前期、丹波国の僧・雲松 実道を再興の祖とします。珍しい十一面観音坐像の素晴らしさに感動しながらも、当時の現光寺の荒廃ぶりを嘆いた雲松 実道は当時奈良仏教界で絶対的な権威を誇った、興福寺一乗院の眞敬法親王に願い出て現光寺を再興、江戸時代の南山城の重要な寺院としました.

そのこともあって、現光寺の出展は江戸時代の書画が中心となっていました。

 

雲松律師像[江戸時代・重文] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

酬恩庵〈京田辺市〉

最後に紹介する京田辺市の酬恩庵(しゅうおんあん)は今回の特別展では毛色の違う寺院として紹介されています。

酬恩庵は鎌倉時代に建立された臨済宗の妙勝寺というお寺でしたが、後世に衰退したものを室町時代の僧・一休宗純が63歳で再興をし晩年を過ごしたことで有名になった寺です。一休宗純 ─ そう、あのとんち話で誰もが知っている一休さんのことで、酬恩庵は『一休寺』とも呼ばれて親しまれています。

今回の聖地 南山城の特別展では『禅の教えと一休禅師』というコーナーが設けられ、あのシンガーソングライターの槇原敬之似の有名な肖像画を筆頭に、一休宗純をピックアップして紹介していました。

 

 

一休宗純像 自賛[室町時代 左・重文 右・府指定文化財] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

一休宗純置文(一休宗純自筆)[室町時代・重文] 画像引用:聖地 南山城 図録

 

特別展『聖地 南山城』を通して南山城の寺院を、駆け足で紹介するという内容で記事を書かせてもらいました。今回はいずれの寺院も簡単な解説となりましたが、今回それぞれに寺院について資料などを目に通すと、いずれの寺院も単独のブログ記事に出来る価値ある寺院だと思いました。

南山城は京都府ではありますが、地域としては南都(旧・平城京)の近郊であるので、奈良の寺院と同等と考えても差し障りは無いと言えます。

いずれもぜひ詳細に紹介したいと思う所ばかりですし、今後は南山城ブログのようにこれらの寺院について増えてくると思います。その時には今回の特別展のことも繰り返し取り上げることになるでしょう。

 

奈良国立博物館 特別展『聖地 南山城』は9月3日までの開催です。

 

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