難波宮跡 ─ 令和5年5月16・18・27日 ─ | タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

今回のブログ記事で取り上げるのは『難波宮跡』です。

難波宮とは日本書紀や続日本紀といった正史に記録されている、飛鳥時代と奈良時代と二度にわたって造られたという、大阪にかつてあった都のことです。

今回取り上げるのは古代の宮跡。このブログは主にお寺を取り上げていますが、古代の皇宮跡を取り上げた記事はこれまでも『飛鳥京(2013年11月28日記事)』『平安宮跡(2020年2月28日記事)』『吉野宮跡(宮滝遺跡・2020年10月7日記事)』『平城宮跡(2020年11月7日記事)』と幾度かあります。

 

小生がブログにお寺を取り上げることが多いので、「神社よりお寺が好きなんですか」と聞かれることも多かったのですが、小生が飛鳥時代や奈良時代のお寺を取り上げることが多いのは、飛鳥時代や奈良時代の歴史が好きだからというのが一番の理由なのです。飛鳥時代・奈良時代は仏教を中心とした政治が進められ、特に奈良時代には仏教勢力が権威を強めすぎて、朝廷の脅威になるほどでした。

「この時代の歴史を語るには、お寺の歴史を語ること」という考えからお寺について語ることが多いのであって、結局小生が本当に語りたいことは古代の歴史なのです。

そのためにお寺ファンのために書いているような記事が増えて、歴史ブログというより旅ブログ化している感もあると思うこともあります。バランスも考えて、政治の中心であった古代の宮跡の記事も増やしていきたいと思っています。

そのテーマで今回取り上げるのは、難波宮です。このブログで取り上げる古代遺跡や古寺院は主に奈良で、たまに京都もありますが、大阪は稀だったりします。しかし、このブログを書いている小生は大阪在住なので実は奈良・京都よりも行きやすく、この記事を書くにあたって5月16・18・27日の3回も現地に足を運んでます。何しろ同じ大阪ということで行きやすかったもので…。

 

今回取り上げる難波宮は、大阪城の南の法円坂および大手前に史跡公園として整備されています。大阪府庁や府警本部など大阪の府政の中心からほど近い大阪の都心に位置し、都会のど真ん中に緑豊かな広大な史跡公園が広がっています。御堂筋と並んで大阪を代表する幹線道路・中央大通りを車で通ると目にとまるので、歴史好きで無くとも大阪の人間にとってはなじみの場所となっています。

 

 

 

むかし小生の父とここを車で走っていた時に難波宮の話題になり、小生が知っている歴史の経緯を話したところ、戦前生まれの父は「難波宮って、長柄の豊崎宮やないんか」と、キョトンとした表情で不思議がっていたという思い出があります。

戦前までは難波宮とは、長柄の豊崎宮とされていたという一つのエピソードです。なので、今回の記事は史跡の難波宮跡について書く前に、豊崎宮跡と伝えられる大阪市北区の豊崎神社のことの紹介から紹介します。難波宮跡に行く前にちょっと寄り道という感じで行ってきました。

 

 

豊崎神社は大阪市北区豊崎、推奨土木遺産に指定されている毛馬閘門からほど近い淀川のそばに建ち、大阪一番の繁華街である梅田から1.5キロメートルと都会のど真ん中にありながら、都会を感じさせない閑静な杜となっている不思議な場所。

 

主祭は難波宮を造営した孝徳天皇で、後に配祭として須佐之男命と応神天皇が祀られてます。由緒は平安時代の正暦年間(990-995)、一条天皇は荒れ果てた孝徳天皇の長柄豊崎宮跡を憂い、藤原重治なる人物に再興を命じ、松林の中に祠を作り皇蹟を称えたのが始まりと伝えています。

孝徳天皇とは中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我馬子を討った、有名な『乙支の変』の後に即位した天皇で、日本書紀によると飛鳥時代の大化2(646)年に“難波長柄豊碕宮”に都を遷したと記録されています。この難波宮でそれまでの慣習などを一新する大改革を発表します。その改革が『大化改新』です。

 

孝徳天皇の遺徳を称え明治5年には村社の格に、同40年には神饌幣帛料供進社に指定されました。ビルの谷間のオアシスのような境内、本殿は江戸時代中期の明和9(1772)の火災により焼失、現在の本殿は昭和39(1964)年の再建となる鉄筋コンクリート造です。

 

 

こんな機会も無いとなかなかお参りする機会も無い神社ですが、結縁はしておきたいと思い御朱印もしっかりいただいて来ました。

 

 

発掘調査によって難波宮が大阪城公園南の法円坂・大手前であることはほ確定的になってはいるのですが、古くから大阪に住んでる人からは「昔から難波宮言うたら、長柄・豊崎のことやん。日本書紀にも『難波長柄豊碕宮』って書いてあるんやろ。それやったら豊崎・長柄に決まっているやない、なんで法円坂やの」と言う人も少なく無いようです。

 

難波宮の遺構が考古学的に確認されたのは戦後のことですから、やむを得ない話ではあります。その発見はどのような経緯で行われたのか、難波宮とはどのようなものだったのか。それを知るのに現地以上に必ず行くべき場所があります。難波宮跡のすぐ北西に建つ『大阪市立・大阪歴史博物館』です。NHK大阪放送局と一体の複合施設として平成13(2001)年にオープン。モダンなグレーの壁とガラス張りのNHKの高層ビルとは対照的な、温かみのある赤茶のタイルで化粧された外観を持ちます。

 

 

以下の遺物や資料の画像は難波宮跡および、大阪歴史博物館で撮影した画像、大阪歴史博物館刊の資料からの引用となります。館内は特に撮影禁止を指定された展示物の撮影、フラッシュ撮影は禁止となっていますが、許可の無い商業利用をしなければ館内の撮影はOKとなっています。

大阪歴史博物館は、大きく3つの時代に分けての常設展示となっています。10階フロアが古代をテーマにした『発見! 難波宮大極殿』、9階フロアが中世・近世をテーマにした『探検! 水都の町並みぐるっとめぐり』(画像下)

 

 

7階フロアが近代・現代をテーマにした『経験! 等身大のリアルな街のパノラマ』となっています(画像下)

 

 

いずれのフロアも文化財などの文物の展示と、ミニチュアのジオラマ、それと映画のセットのような大がかりな実物大模型でその時代の風景を再現するという展示を合わせるという方法を取っています。

 

また、8階フロアは発掘調査をテーマにした『冒険! 実物大の発掘現場』で、発掘現場が実物大セットで再現されていたり、入館者が出土した欠片のレプリカで土器の復元を体験出来る、ワークショップコーナーなどもありました。

 

 

 

古代の難波宮について取り上げているこの記事は、10階フロアでの展示、そして小生も参加した難波宮遺構見学ガイドを主な内容を中心にして、古代の都・難波宮のことを紹介して進めます。

10階の古代史フロアには、下の画像の舟形埴輪など国の重要文化財に指定されている長原古墳群出土の象形埴輪を初めとする、多くの貴重な考古学資料が展示されています。

 

 

この記事で紹介したいのは、その10階フロアの東(北東)側に設けられた『難波宮を掘る』というコーナーです。このコーナーの中央には、とある人物のブロンズ胸像が置かれていまして、ここはその人物を顕彰するためのコーナーなのです。

 

 

このブロンズ像で顕彰されている人物は『山根徳太郎』(1889-1973)。大阪市生まれの考古学者で、難波宮の発掘事業を先導し、遺構を確認をした人物であり、大阪の都心である遺構を保存する活動にも力を尽くしを史跡公園にすることを実現した「難波宮史跡公園の父」なのです。山根はギリシャ神話のトロイの遺構を発見したシュリーマンになぞらえて、「大阪のシュリーマン」とも称されます。

 

 

山根氏は戦中から当時は陸軍の管轄地であった難波宮跡から出土していた古代の瓦に目を付け、戦後米軍から接収解除されると、近辺の宅地工事で掘り出された土から古代の出土物が無いかを、同地に通って調べたのです。その執念の探求の末に昭和28(1953)年、山根氏は奈良時代の大型建物の屋根に乗せられた鴟尾(画像下)を発見、「ここが難波宮」そう確信していた山根氏は、文部省からの助成を取り付け、翌・昭和29年から本格的な発掘調査を着手します。

 

 

難波宮遺跡は奈良時代の後期難波宮の遺構のさらに下から、飛鳥時代の前期難波宮遺構が出土し、同じ場所に違う時代の二つの宮跡が重なるという複合遺構であったことが確かめられました。

発見された難波宮跡とは、どのようなものだったのでしょうか。大阪歴史博物館には、他の博物館には無い特別なものが見れます。

大阪歴史博物館を下から望むと、10階部分がガラス窓になっているのが見えます。一般的な博物館は文化財保護などの目的から外光の入る窓の無いことが多いのですが、難波宮をテーマにしたこのフロアには、眼下の難波宮跡を一望出来る、広い展望窓が設けられているのです。

 

 

 

 

展望窓からは、大極殿や朝堂跡をパノラマのように見下ろすことが出来ます。難波宮の実物であるこの展望こそ、どんな展示物よりも見るべきものと言えます。これまで名所旧跡を紹介するとき、上空からの画像としてグーグルアースを使うことが多かったのですが、今回は必要がありません。この展望は高層ビルが建ち並ぶ、大阪の都心の博物館ならではです。

 

 

 

上空から見てもよく整備されているのがわかりますが、この難波宮、二つの重要な時代の宮跡が重なっているということで、どのような遺構であったかを理解するのは少しややこしいのです。現地の看板や、大阪歴史博物館などで配られているパンフレットに掲載されている図などは、二つの時代の遺構を色分けをして案内するなどの工夫をしていますが、やはりややこしいという感は拭えません。

 

 

そこで小生が考えたのは、動画です。「時代の経過を表すには一枚の図よりも、動画で紹介した方がわかりやすい」。そう考えて、今回の記事用に難波宮の時代の変遷を紹介する動画を作りました。

本当は一枚図を見やすくするだけのショートムービーにするつもりだったのですが、説明する文書などを加えたら、長さ2分53秒の動画になってしましました。でも、一枚図よりは親切な説明にはなったのではと思います

 

 

 

以下の記事は、動画を見てから読んで戴けたらと思います。なお、動画では時代の変遷で難波宮を紹介しているので、古い時代の遺構から順に紹介していますが、記事は遺構が発見されたいきさつも紹介するため、地層の浅い新しい時代の遺構が先に紹介されます。

 

最初に発見されたのは、昭和30(1955)年に宮の南限あたりからの凝灰岩製の溝で、当初は奈良時代末期の瓦が多く出土したために、難波宮ではないのではとの見解も多かったのでした。

しかし、ここが難波宮だと確信を持っていた山根氏は、宮の主要遺構は北にあると見定め、狙いを定めて発掘を行いました。その結果、昭和32(1957)年に掘立柱式の柱三本幅(複廊)の回廊跡が発見されました。東西二本の回廊の幅は600尺(約180m)で、これは平城宮の朝堂院の回廊の東西幅と一致し、奈良時代の宮殿跡である可能性がいっきに高まりました。

そして昭和36(1961)大極殿跡が発見され、発掘現場が聖武天皇が造営した、奈良時代の難波宮跡であることが確定したのです。

 

 

奈良時代の聖武天皇は即位して3年後に、難波宮造営の詔を出します、その18年後の天平16(744)1月、恭仁京から御幸した難波宮で突然、難波宮遷都の詔を発表され、紫香楽宮遷都まで約1年間、難波宮は都と定められました。山根徳太郎が発見したのは、そのまぼろしの難波宮の大極殿だったのです。

 

「われ、幻の大極殿を見たり」

大極殿跡を発見した時の、山根徳太郎が残した名言として、語り継がれている言葉です。大極殿跡はコンクリート造の基壇が整備され、難波宮跡のシンボルとなっています。

 

 

 

検出された大極殿の基壇跡は横幅41.7メートル、南北21.2メートルで、これは藤原宮や平城宮の大極殿にひけをとらない大きさ。大阪歴史博物館10階フロアのメインの展示は、この後期難波宮の実物大再現大極殿です。

 

 

大極殿の復元エリアは、官人や女官らをマネキンで再現する徹底ぶり。ただ天皇が座す高御座はさすがにパネルでの再現となっていました。

 

内部だけ、あくまでも同時代の建物からの推定復元ではありますが、この博物館の特徴である実物大の復元展示は、見ることの出来ない古代の大極殿を体感できるものとなっています。

 

後期難波宮は大極殿が回廊で囲われていて、朝堂院とは回廊と門で隔てられているのが特徴。これは藤原宮と共通し、なぜか古い様式なっているのです。また、平城宮や平安宮の朝堂の建物は12棟だったのに対し後期難波宮は8棟。朝堂院全体の面積も狭く、後期難波宮は他の宮よりも小規模に造られたようです。

 

 

後期難波宮の主要伽藍の発掘調査が行われていた時期に、後期難波宮の内裏跡のさらに60センチほど下層から、新たな遺構が発見されました。発掘された地層から出土した土器などから、7世紀中頃かそれ以前のものとわかり。また火災の跡も発見され、すべて日本書紀に書かれた孝徳天皇の前期難波宮の記述と完全に一致。難波宮遺跡は奈良時代の聖武天皇が造った後期難波宮と、孝徳天皇が造った前期難波宮が同じ場所に重なっている複合遺跡だったことが解ったのです。

大阪歴史博物館では、発掘現場の模型の展示がありました。

 

 

朝堂院・内裏は前期・後期難波宮とも同じ場所に造られましたが、朝堂院は前期の方が面積が広く、朝堂の建物も14棟と歴代の宮の朝堂院でも最も多いのが特色。朝堂院が広くなった分、朝堂跡は前期の方が外側になっています。

難波宮跡の朝堂跡は、下層の遺構を意識して低く掘り下げて整備されていました。前期難波宮の建物があった場所には赤系のタイルで整備され、主に黒灰色のタイルで場所を示した後期難波宮跡の建物とは色分けで区別できるように配慮されていました。

 

 

前期難波宮の内裏と朝堂院を隔てていたのが内裏南門。後期難波宮では内裏南門の跡地に大極殿が建てられました。そして前期難波宮の大きな特徴として上げられるのが、内裏南門の東西左右にシンメトリーに建てられた二棟の八角形の建物。西の建物のみ鉄骨フレームで外観をイメージ再現されていました。

 

 

復元八角形建築を間近に見て「大きい」というのが印象でした。建物の径17.5メートルで、三重になっている柱の列の一番内側の心柱は、径60センチと極めて太い柱が用いられてました。もしかしたら楼閣のような高層の建物だったのかも知れません。

 

前期難波宮にはまだ大極殿は無く、内裏の正殿である内裏前殿が難波宮の正殿の機能を果たしてしました。内裏跡は前期・後期とも、中央大通を挟んだ北側になっているのですが、前期難波宮の主要建物であった内裏前殿跡はちょうど中央大通の道の下、東行き車線の車道あたりですから下の写真の場所になりますが、跡地を示す表示等はありませんでした。

 

 

前期・後期の内裏跡には旧・NHK大阪放送局・大阪府農林会館・大阪郵便局 大手前倉庫などの建物が建っていましたが、現在は更地となり柵に囲われて入ることが出来ません。ここは難波宮内裏跡として整備が計画されているという話ですが、何しろ前期難波宮の最重要建物である内裏前殿の上に道路が通ってしまっていて、その整備には課題がいっぱいであります。

ちなみに中央大通と並行して走っている阪神高速東大阪線は、他の区間は高架道路になっているのですが、難波宮の所だけは地上と同じ高さにされています。これが難波宮が分断されてしまっている大きな理由の一つになっているのですが、このようになったのは、高架工事をすると遺構が破壊されてしまうからという、やむを得ない事情があったのです。中央大通に分断された内裏跡を史跡公園としてどう整備するのか、注目されるところです。

 

平城宮では再建されシンボルとなっている朱雀門ですが、難波宮の朱雀門は難波宮史跡公園からはみ出した場所に跡地が検出されました。難波宮が史跡公園に整備出来たのは、この場所は陸軍の管轄地だったのでまとまった土地だったことが大きかったのですが、逆に軍の敷地の外から見つかった遺構は史跡公園には出来なかったのです。

波宮跡公園から130メートルほど南の大阪府立中央視聴支援学校のグラウンドから遺構が見つかったということで、小生はそこにも行ってみたいと史跡公園から出て足を運びました。

 

 

東向きの校門の扉は閉ざされていたので、朱雀門跡であるグラウンドはここから写真を撮るしかありませんでした。ただこの場所が難波宮の南限で、門から横に伸びる塀の跡も見つかり、この校門の所にも塀は築かれていました。

 

初めての朝堂院を持つ宮として造られた前期難波宮は、後の時代の宮との違いが多く、唐の様式の取り入れた過渡期の宮として注目を集めます。前期難波宮は後期難波宮よりも遺構の保存状態が良かったということもあり、東方官衙や西方官衙の、周辺の建物群の遺構も発見されました。

 

 

昭和40年代の発掘調査によって確認され、高床式の倉庫や楼閣を回廊が取り囲むという、特異な建物群であります。内裏のすぐ隣で回廊で囲われるなどの配置から重要な役所であったと考えられていますが、飛鳥時代のこの場所は『草香江』と呼ばれた内海(湖)に臨んでおり、海の港湾や防衛のための施設だったかも知れません。

現在は『パル法円坂』(旧・大阪市教育会館)が建ち、看板がその遺跡の存在を示すにとどまっています。

 

 

そして西方官衙の遺跡です。東方官衙は遺跡の整備がされておらず見るものは無かったのですが、西方官衙は難波宮の中でも特に整備が充実していて、難波宮の見どころになっています。このブログの最後は、西方官衙の紹介で締めたいと思います。

西方官衙の遺跡があるのは、大阪歴史博物館が建っている大手前4丁目です。小生は西方官衙の遺跡のある大阪歴史博物館に戻ってきました。

この大阪歴史博物館とNHK大阪放送局がある場所、大阪市立中央体育館(丸善インテックアリーナ大阪)が港区の八幡山公園に移転する前に建っていた場所で、体育館の移転に合わせて発掘調査が行われて見つかった遺構です。

NHKと大阪歴史博物館が建設されるにあたり、遺跡の保存で整備に最大限配慮されたため、難波宮の中でも見どころと言われる場所となりました。

 

 

まずNHKと大阪歴史博物館の前庭に広がる、『法円坂遺跡』を紹介します。5世紀・古墳時代の倉庫と思われる高床式の柱の跡が並ぶ、四角い建物跡が16棟も並ぶ大規模な遺跡で、仁徳天皇が和歌にも詠んだ『難波津』の遺構と考えられています。難波宮の発掘調査で見つかりました。

NHKと博物館はこの場所を避けて建てられました。、建物跡はタイルでわかりやすく整備され、一部は石柱で柱の跡を示しています。1棟の倉庫は復元建物が建てられました。

 

 

古代では海が今よりも内陸に入り込み、大阪城を北端とする上町台地は東側が内海の草香江、西側が『茅渟の海』と呼ばれた大阪湾の海が迫る両側が海に挟まれた土地で、大陸との交易品を都に運ぶ交易の拠点でした。

奈良時代・飛鳥時代・さらに古墳時代の大規模建物跡が見つかり、難波宮が造営されたこの場所の重要性が再認識される遺跡であると共に、「もしかして仁徳天皇の高津宮もここだったのでは」と、古代ロマンが色めく遺跡です。

そして、前期難波宮の西方官衙の遺跡ですが、これはNHKと大阪歴史博物館の建物の下にあります。実は大阪歴史博物館では『難波宮遺跡探訪』という、前期難波宮西方官衙の遺跡見学を博物館の学芸員のガイドで見学するというツアーイベントが毎日午後3時から行われ、小生も参加しました。受付は大阪歴史博物館の一階専用カウンターで、参加希望者は午後3時前にここに集まり参加証をもらいます。

 

 

 

ツアーは女性の学芸員さんがガイドで始まりました。大阪歴史博物館とNHKの建物の下にあるのは飛鳥時代の前期難波宮の遺構で、両方の建物は遺跡の保存を重視しての設計施工で建てられ、遺構は非常に良好に保存され、また見学のことも考えての造りになっています。

 

西方官衙で発見されたのは、管理棟とされる23メートルの長い建物と、管理棟を左右に挟んだ倉庫と推定される建物の列です。管理棟の西側には6棟の倉庫が東西一列に並んでいるのが確かめられましたが、東側には1棟の建物跡しか検出されていません。

管理棟は大阪歴史博物館のロビーが遺構で、建物跡は丸いタイルで柱の位置が解るようになっています。そしてロビーの床の一部が強化ガラスになっていた地下に保存された遺跡が見学出来るという、画期的な造りになっていたのです。

 

 

学芸員さんの説明では、中央のこの建物は他の建物より大きいのに外周だけで床を支える柱が無いことから、重量を支える倉庫では無く人のための管理棟だったのではと推測しているということ。発掘された時のままで保存されている遺跡の柱の跡は、かつてははっきりと色の違いがわかったそうですが、発掘30年を経て柱の跡の土の色は変色し他の地面の土と同じ色になってしまったそうです。そのために柱の跡に白い線が引かれました。

 

 

そして、管理棟西に並ぶ倉庫の遺跡へ学芸員さんが案内をします。案内されたのは大阪歴史博物館と棟続きになっているNHK大阪放送局の一階ロビーで、前期難波宮の西方官衙の倉庫の遺跡はNHKの建物の地下で保存されており、倉庫の建物と建物横に建てられた塀は、大阪歴史博物館同様に丸いタイルで柱の跡が示されていました。ツアーイベントに参加していなくても、難波宮の遺構はこのタイルを見てどのようなものだったかを知ることが出来ます。

 

 

そして、このツアーイベントの目玉、保存された地下の遺跡の見学へと進みます。前期難波宮 西方官衙の遺跡はロビーの真下で保存され、その一部が地下で見学出来るのです。学芸員さんはNHKの北ゲートから一旦出ると、防災センターになっている地下への通用口へ我々を案内してくれました。

 

 

 

階段を下って防災センターの前を通ると先に進むと、遺跡の保存展示室に至ります。中央の見学室の両側のガラス窓を通して左が倉庫、右が塀の遺跡。発掘された状態のままで保存され、見学することが出来ます。

 

 

遺跡は地下の床面より高く見学者の目線近くになっているので、見学室からだと全体はちょっと見えにくい。そのこともあり、ランタンで柱の位置がわかるように工夫をしてありました。

発掘で多くの遺跡が発掘されましたが、そのほとんどは調査が済んだ後に壊されたり、保存のために埋め戻されて、このように発掘された状態が見れるのは稀です。この展示室は、活きた文化財を展示する博物館そのものと言えるのです。

 

 

ツアーイベントの最後は『並び倉』跡の見学です。地下から出た我々参加者は、NHKの北側のやや狭い庭に案内されました。この場所には四間(柱四本幅の建物)が三棟並び、それぞれの棟の建物には連続した大屋根で結ばれていたという特殊な構造の倉庫が建っていました。他の遺構同様に、柱の位置を丸いタイルが敷かれています。

 

 

『並び倉』と命名された、この倉庫の建物。現地の立っていた掲示板には復元CGの画像がありましたが、見た目は正倉院正倉そっくり。でも、三棟の建物の間は壁や床の無い柱だけの部分を挟み、構造的には正倉院より、法隆寺の国宝・綱封蔵に類似しています。

『並び倉』は正倉院正倉ににた外観だったようですが、正倉院正倉の横幅が33メートルなのに対して、並び倉は48メートルという大蔵でした。発掘されたのは小さな金製品が一つだけでおそらくすべて運び出されたのでしょうが、いったいどんな宝物が納められていたのか興味は尽きません。

 

 

山根徳太郎が難波宮を発掘していた当時は、難波宮跡は住宅供給公社による公営住宅造成の予定地だったそうです。それを山根徳太郎をリーダーに保存の必要を訴え、史跡公園化にむけて大変な尽力をしました。まだ高松塚古墳極彩色壁画も発見されていないこの時代、これだけの功績を残せたのは奇跡と呼ぶべきことなのです。

大阪在住の小生としては非常に身近な場所であった難波宮でしたが、こうやってあらためてじっくり腰を据えて行ってみると、すごい場所だったんだなと思いました。そして史跡公園を作った山根徳太郎はじめとする人々の貢献にも、すごいなと感じたのでした。

 

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