吉野宮跡の里 世尊寺・宮滝 ─ 令和2年4月11日 ─ | タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

8月30日の東大寺ミュージアムに移転展示となっている戒壇堂四天王像の記事以来のテーマ『奈良はなし』の記事です。奈良のお寺のブログを称しておきながら、最近は依頼の多い自作イラストの記事が増えているのと、コロナ禍でお寺の行事や奈良のイベントが相次いで中止になっていることもあり、7月28日の東大寺解除会以来8月9月10月と奈良にまったく行っていなくて、なかなか本来の奈良のお寺や歴史の話題を上げられなかったのです。

でも、ネタがまったく無いというわけではありませんでした。ずいぶん前に行きながらずっと披露していなかったネタが多数ありまして、今回その一つを蔵出しする形でブログ記事に書くことにします。今回の記事ですが、かつて今年の4月11日に訪れた奈良・吉野山の金峯山寺のレポを4月17日のブログ記事に書きました。

実はこの日は金峯山寺以外にも足を運んだ場所がありました。吉野の宮里集落、古代の吉野宮の故地とされる場所です。飛鳥・奈良時代の歴史が好きな小生にとって、吉野と言えばこの場所のことを指すのです。

今回のブログ記事では宮滝遺跡を中心に、古代の吉野を訪ねる旅を書きたいと思います。

 

その前にまず、吉野宮と同じ飛鳥時代が由緒のお寺、世尊寺から紹介します。実は4月11日は金峯山寺に先駆けて最初に世尊寺を参拝させてもらっていたのです。そのためにこの日に乗った近鉄特急・青の交響曲は金峯山寺最寄りの吉野駅でも吉野神宮最寄りの吉野神宮駅無く、世尊寺最寄りの吉野上市駅で下車しています。

大和上市駅から歩くこと約2.5㎞、世尊寺の境内には遅めとなった桜が、まだきれいに咲いていました。

 

 

江戸時代に曹洞宗 世尊寺として禅寺となりましたが、この地にはかつて“比曽寺”という伝 聖徳太子開基のお寺がありました。比曽寺は日本書紀に欽明天皇の時代、河内国に漂着した樟木から仏像二体を作り祀ったという記述があるなど、吉野の名刹として古くから信仰を集めていました。

 

小生は吉野を訪れる機会があったら、この旧・比曽寺もお参りしたいと兼ねてから思っていました。それは、このブログで数回取り上げている里中満智子のコミック『天上の虹』の中に、この比曽寺が出て来る場面があったからです。コミックスに登場する比曽寺を実際にお参りしたいと思ったのです。

天智10年10月17日(671年11月23日)、大海人皇子(後の天武天皇)は天智天皇に出家して吉野に隠遁すると告げ、都を後にして吉野への道中の場面です。

 

『天上の虹』第6巻 第16章「壬申の乱1⃣」(里中満智子著・講談社コミックス ミミ)

 

一般的にこの時、大海人皇子は吉野宮である吉野の宮滝に入ったとされていますが、僧として出家したことから、この比曽寺に入ったという説もあります。そうなると、あるいはこの世尊寺こそが大海人皇子が都を出て隠遁した場所なのかも知れません。

 

世尊寺に到着した小生は、山門をくぐり境内の中に入ります。

 

 

世尊寺の山門は再興期に建てられた江戸時代初期の新しいものですが、『天上の虹』の比曽寺のシーンにはこの山門が登場します。

 

『天上の虹』第6巻 第16章「壬申の乱1⃣」(里中満智子著・講談社コミックス ミミ)

 

山門をくぐると、参道の向かって左側に西塔(下像左)、右側に東塔(下画像右)の礎石が。奈良時代の伽藍の跡で、両塔は三重塔でありました。

 

 

 

東塔跡の脇に立てられた看板には、世尊寺の境内図と、かつての比曽寺の伽藍の跡の図のがありました。

東西の塔跡の間を通って参道を進むと、中門を越えた所が伽藍の中心である金堂跡、現在本堂が建っている場所が講堂跡と、奈良時代には薬師寺式伽藍の寺院だったのです。

 

 

東塔は聖徳太子が父・用明天皇のために、西塔は推古天皇が夫・敏達天皇のために建立したと伝えられており、西塔は残念ながら戦火で平安時代には失われてしまいましたが、東塔は中世(室町時代)に再建された後、伏見城を経て滋賀の三井寺に移築され、その威容を今も見ることが出来ます。

 

和歌山市 三井寺三重塔[室町時代・重文]  画像引用:三井寺HP 

 

東西両塔跡の間を通り、中門をくぐると目の前には本堂前庭が。この前庭に奈良時代の古刹、比曽寺の金堂が、そしてその先に見えるの現在の世尊寺本堂に講堂が建っていたのです。

 

 

本堂では本山一路住職が出迎えていただき、拝観料300円を志納し拝観させていただきました。

しかし、普段の参拝通りとはいかないのが昨今の事情。実は小生が世尊寺を拝観した4月11日は政府による新型コロナ感染拡大の非常事態宣言中で、不要不急の外出自粛が呼び掛けられている只中での参拝となったのです。

もちろん、マスクをするなど感染対策には万全を尽くしての参拝でしたが、それでも非常に気を遣いながら、もしかしたら「来て欲しくない」と思われているのではとも思いながらの参拝だったのです。それだけに、住職から歓待していただけた時には、非常に嬉しく感じました。

堂内に入ってからは用意してあった消毒液で手を洗い、住職から説明をうかがいながらの参拝となりました。

世尊寺のご本尊は阿弥陀如来坐像[国重美]。

寺伝では日本書紀に記述のある欽明天皇が河内国の海に漂着した樟木で作らしめた仏像としていますが、調査によって江戸時代後期に造像されたことが確かめられています。

 

世尊寺本尊 阿弥陀如来坐像[江戸時代・国重美]  画像引用:吉野ビジターズビューロー よしのーと 

 

そして、吉野町最古の仏像、十一面観音菩薩像[奈良県指定文化財・国重美]。頭部は後世の補作ですが、首から下は奈良時代のもの。まぎれもない“比曽寺”の遺品となる仏像です。

住職は「この観音様は東京国立博物館に行っていたのが、先日お帰りになられた」と盛んに話されていました。戻って来た吉野町の至宝を拝むことが出来たのは、小生にとってラッキーだったと思います。

 

東京国立博物館 特別展『出雲と大和』で展示される 世尊寺 十一面観音菩薩立像

 

そして、住職には御朱印を書いて戴きました。『南海之霊木』は日本書紀推古3年および聖徳太子伝暦という平安時代の文書にある記事で、土佐国の南海に光を放つ香木・沈水香が出現し淡路島に漂着。聖徳太子は南海に自生する栴檀の沈水香であると天皇に献上したところ、推古天皇はこの不思議な木で観音菩薩像を作らせ、比曽寺に祀ったとあります。

聖徳太子三十六霊跡の第七番の十一面観音菩薩の御朱印ということでいただきましたが、住職の能筆が極めて目に映った書跡でした。

 

 

世尊寺にお参りした後は、吉野神宮と金峯山寺へ。その模様は4月17日の記事に書いた通りです。

この記事では吉野に特急で到着したのは午前8時過ぎ、その後すぐに吉野神宮を訪れたように書いていますが、実際に吉野神宮にお参りしたのは午前10時ごろで、その約1時間半は世尊寺参りをしていました。

吉野神宮の後は金峯山寺へ、そして、吉野山をさらに登って桜風景を楽しんだところまで記事には書かせてもらってましたが、実はここまでで午後3時過ぎ。そして、この日の吉野詣でにはまだ続きがあったのです。下に4月11日での吉野山での全行程を地図に記しました。青の線が4月17日のブログ記事で紹介した行程、赤の線は前回のブログ記事では紹介しませんでした、今回の記事ではじめて紹介する行程です。

 

 

吉野山で一目千本の桜を楽しんだ小生は、南朝勅願の如意輪寺の近くで吉野山を下山しました。目指すのは古代の吉野宮の遺跡である宮滝です。山深い道に分け入ると、宮滝を示す道標が立っていました。

 

 

山道の途中にある祠は『稚児松地蔵』、聖徳太子の伝承があるそうです。

 

 

ここを過ぎると、藪のような山道から立派な吉野杉の山林へと風景が変わります。そして山道はずっと一本の渓流と並行します。

この川の風景は『象(さき)の小川』として、万葉集の中でも多く歌に詠まれている、歴史ある場所なのです。

 

 

このような奥深い吉野の山道を4㎞もずっと下って行きます。吉野山ではコロナの非常事態宣言中にもかかわらず多くの観光客がいましたが、象の小川に踏み入れてからは人影はまったく見かけることはありません。ただ杉の木立から差し込む零れ日と、川のせせらぎの音だけが山中に響く、約2時間の下山は正に心洗われる時間となりました。

 

 

高滝の瀑布の近くには、象の小川を案内する看板が。歌人として名高かった大伴旅人の歌が紹介されていました。

 

 

昔見し 象の小川を今見れば

いよいよ清けく なりにけるかも(万葉集・巻3・316)

 

わが生命も 常にはあらぬか昔見し

象の小川を 行きて見むため( 〃 ・巻3・332)

 

前の歌は聖武天皇の吉野宮御幸の際に詠んだ歌。後の歌は歌った大伴旅人が後に大宰帥として九州の太宰府に赴任した時に、大和を懐かしんで歌った歌で、小生が歩いた癒しの杉並木の風景は、一つの大和の原風景と当時の歌人には感じられていたのかも知れません。

 

稚児松地蔵から2㎞ほど山を下った所で、杉林の山道は終わり開けた里となります。喜佐谷の集落です。吉野山の山の上ではかなり終わっていたと思った桜花でしたが、意外にこの喜佐谷できれいな桜の花を見ることが出来ました。世尊寺の時もそうでしたが、この日よりも吉野の山の上よりも山を下りた麓の方できれいに咲く桜を見る機会が多かった気がします。

 

 

こうして喜佐谷の里も抜けて、吉野の山から4㎞下り幅の広い大河川に到着。近畿地方屈指の大河、吉野川です(下流の和歌山県内では河の名称が紀の川と変わります)。川に架かるトラス橋は柴橋と言い、古代の吉野宮はこの橋を渡った対岸です。いよいよ古代における吉野、吉野宮の故地・宮滝へと入ります。

 

 

宮滝の集落は吉野山のある吉野川の南側の対岸となる北側の河岸が遺跡となっています。宮滝の北側は山地となっていて、その山を越えると飛鳥に到るという、吉野は地理的には京である飛鳥の近郊なのです。京にも近く、さらに吉野川の水運も便利という、とても恵まれた立地に造られた離宮であります。

 

橋を渡って宮滝に入ると、吉野宮を示す物がすぐに現れます。昭和18年2月と刻まれた『宮瀧碑』の石碑と、文化庁と書かれたちょっと古めの説明看板です。

碑が立てられているのは柴橋を渡ってすぐにある、学校の校庭のような場所。かつて吉野町立中荘小学校だった場所ですが、現在は廃校となり学校の跡地は宿泊やレクリエーションの施設として活用されています。

 

 

宮滝に来たら、吉野宮のことを知るために行くべき場所と聞いていたのが、『吉野町立吉野歴史資料館』です。宮滝に着いた小生は、夕刻となったこともあり急ぎ足を運びました。

吉野歴史資料館は吉野川に沿って通っている国道169号線を越えて山側に少し登った場所に建っている立派な施設で、吉野らしい天然木の外装が特徴的な建物です。

 

 

しかし、この日はこの施設に入館することは出来ませんでした。入館出来なかったのは開館時間が午後4時半までだったということもありましたが、この時はそれ以外の事情があったのです。建物の正面入口にはこのような張り紙が貼ってありました。

 

 

張り紙には「4月中旬再開予定」と書かれていましたが、実際には再開は6月まで延長となりました。もちろん、コロナの感染拡大が理由です。

実を言うと事前に調査していて、小生が訪れた4月11日に再開されていないことは知っての上で確かめるという感じでここに来ました。この日は吉野の桜と金峯山寺での“とも祈り・疫病退散祈祷”の様子が見たいと思っての吉野だったので「あるいは、入館出来ればラッキー」くらいに思って来たのでした。

 

しかし、吉野宮についてブログ記事を書くとなると、やはりここに入館しておく必要があるとずっと思っていました。それで、7月26日のブログ記事にも書きました、奈良国立博物館での再現模造の正倉院宝物をテーマにした特別展『よみがえる正倉院宝物』を鑑賞した7月11日に、その足で吉野の宮滝を再訪し吉野歴史資料館への入館をしました。

そのために7月11日はマイカーで奈良に行き、奈良盆地を北から南へ縦断するという強行軍での行程となったのです。

 

以下、7月11日の吉野歴史資料館のレポを、文字の色を変えて紹介します。アップする画像は原則7月11日撮影ですが、一部4月11日撮影の画像もあります。

 

4月11日に入館出来なかった吉野歴史資料館を目的として、7月11日に再び吉野を訪れました。この日は宮滝のみの訪問で吉野山の方へは行きませんでした。吉野歴史資料館は土日以外の入館は予約のみとなっていたため、土曜日である7月11日を選びました。

4月11日には近鉄特急で訪れた吉野でしたが、7月11日は自動車を使いました。吉野の宮滝へは、飛鳥の石舞台古墳から、県道15号を使って向かいました。『芋ヶ峠越え』よ呼ばれるルートで、壬申の乱の際に大海人皇子が石舞台古墳の近くにあった嶋宮から吉野に行く時にも通った道としても知られます。

 

 

み吉野の 耳我の嶺に時なくぞ

雪は降りける間なくぞ

雨は降りけるその雪の

時なきがごと その雨の

間なきがごと 隈もおちず

思いつつも来るその山道を(万葉集・巻3・316)

 

大海人皇子が政治から離れて、京から逃げるように吉野に下る想いを詠ったという長歌です、おそらくこの道の途中で詠ったのでしょう。

 

県道15号は県道とは名ばかりの正直道幅の狭い山道で、舗装もされていない区間も多い悪路ではありましたが、でもショートカットを狙って選んだ道で飛鳥と吉野との近さを実感した気がしました。

こうして吉野宮の故地に建つ、宮滝の吉野歴史資料館に到着。入口では古代の超服を着たマネキンがお出迎えです。

 

 

200円の入館料を支払うと、下のようなモノクロ刷りのリーフレットをいただきました。

 

 

このリーフレットを開くと、見開きで館内の平面図が載っていて、吉野歴史資料館の概要がわかります。ここから記事に内容は、のこの施設の解説は、この館内の平面図およびリーフレットの説明をを参考に見ながら読んでいただきたいと思います。。

この施設は一階が主に玄関ホールと事務施設。二階全体が展示スペースという構造で、入館者はエレベーターか階段で二階に上がります。

 

 

このように吉野歴史資料館は宮滝遺跡、吉野宮の歴史資料館となっています。下の画像は吉野宮以前の先史、縄文・弥生時代の遺物などの展示で、宮滝にはこれだけ古代から人の営みがあったことを示しています。

 

 

その宮滝に朝廷の離宮がいつ造られたのか、日本書紀には応神天皇、雄略天皇の条には吉野宮の記述があり、そのはじまりについては諸説ありはっきりしません。

確実に吉野宮が造営されたことと記す記録とされているのは、斉明天皇2(656)年の「又、吉野宮を造る」の記述です。弟の孝徳天皇が崩御し重祚した斉明天皇が後岡本宮や両槻宮などの大規模な土木工事を相次がせた時期で、吉野宮造営はその一つとして記録されています。

 

吉野宮の造営時期が定まらないのは、吉野宮が最初からきっちり造られたものではなく、宮滝の里に増築されたり建て替えされたり、年代ごとに造営されたこともあるようです。昭和2(1927)年から一世紀にわたり行われている発掘調査によって、そのことがはっきりと確かめられています。

下の画像は、橿原考古学研究所による第69次宮滝遺跡発掘調査結果のプレス発表の宮滝遺跡の平面図をグーグルマップに重ねたものです。黄色が飛鳥時代・斉明-持統朝に造営された遺構、赤色が奈良時代・聖武朝に造営された遺構です。

 

 

斉明天皇の時代に築かれた苑池遺跡、持統天皇と聖武天皇の時代に築かれた大型建築跡と、宮滝遺跡は正に複合年代遺跡。何世代もの遺跡が同じ場所に重なって発掘されている、宮滝遺跡が長年にわたって造営を繰り返し離宮として機能していたことが伺えます。

現在、吉野宮で見つかった最大の建物遺構は79尺(23.7m)、聖武朝の大型建物跡でおそらく吉野宮の正殿です。

 

宮滝遺跡 奈良朝大型建物復元図  画像引用:吉野町HP 

 

吉野歴史資料館には、その聖武朝の正殿の北西に遺構が見つかった、持統朝の正殿の復元模型が展示されていました。

壬申の乱で吉野で挙兵して政権を持った天武天皇、その皇后であった持統天皇は天皇在位中、吉野行幸を31回も行うなど、吉野宮に対してただならないこだわりがありました。この宮滝遺跡に残る遺構は、おそらく持統天皇にとって特別な場所であったと思われます。

 

 

 

吉野歴史資料館の展示で面白かったのは、ボタンを押すと人形が仕掛け動き、音声が流れるディスプレイで吉野宮の歴史ストーリーを紹介するというディスプレイでした。斉明天皇が造営し、大海人皇子が挙兵をし、持統天皇、聖武天皇がその大海人皇子(天武天皇)を讃えて行幸をする様子がで紹介されます。

 

 

 

歴史資料館の吉野宮の展示室は二部屋あり、第一の展示室には吉野宮の復元模型が、第二の部屋には発掘調査の成果を示す写真パネルなどが展示されていました。

 

 

しかしこの第二の展示室で小生が一番に興味を持った場所は展示以外のポイントでした。窓際の展示室で、窓にはスクリーン・カーテンで閉められていたのですが、そのスクリーンをちょっとめくってみると…

そこには万葉人が見たのと同じ吉野の自然風景が。まるで展望タワーにあるような線描きでわかりすく風景の解説がされていたのです。

 

 

よき人の よしとよく見て よしと言ひし

よしのよく見よ よき人よく見(天武天皇 万葉集・巻1・27)

 

 

かはず鳴く よしのの川の瀧の上の

あしびの花ぞ はしに置くなゆめ(詠み人知らず 万葉集・巻10・1868)

 

 

吉野歴史資料館の前庭に置かれている数多くの歌碑に刻まれている万葉集の歌の一部です。有名な人物、無名な人物、多くの万葉人が歌を詠んだその目の前に、古代の人々が見たのと同じ風景がそこにありました。あるいは宮滝で一番に見るべきものはこの風景、古代の風なのかも知れません。

 

 

二階の展示エリアでの観覧を終えた小生は再び一階に降りましたが、館を出る前に『情報・閲覧コーナー』に複数の資料を見つけ、係の人に無料で持ち帰るが出来ると聞いて資料として持ち帰らせていただきました。

その中でも興味深かったのは、下のカラー刷りのA4サイズのパンフレットです。

 

 

『史跡宮滝遺跡の整備がはじまります 吉野万葉整備活用事業紹介リーフレット』

そうタイトルが付けられたパンフレットには、発掘調査が進む宮滝遺跡・吉野宮跡を史跡公園として整備する計画の詳細が書かれていました。

一世紀にわたる発掘調査で多くの遺跡が見受けられた宮滝遺跡ですが、すべて埋め戻され現地に来てもそこが吉野宮だったと実感するのはかなり難しいのが現状です。多くの史跡公園のように、建物跡などがわかるように整備がされれば、古代の宮のイメージがよりわかりやすくなり、自分のいる場所が歴史に名高い吉野宮であることを肌で感じられるようになると期待できます。

パンフレットにはまだ発掘調査の途中であることも踏まえ整備計画が策定中、工事着手は令和4年からと史跡公園が見れるのはまだ先のこととなりそうですが、いつか整備された宮滝遺跡を見にまたここに来れたらと楽しみにしています。

 

 

以上が7月11日の吉野歴史資料館の鑑賞レポでした。

ここで、また4月11日に時間を戻しますが、閉まっていた吉野歴史資料館を後にした小生でしたが、何しろ宮滝は電車の駅から遠い。歩いて駅まで戻るのは大変と、タクシーで駅に行くことにしました。これまで数多くの奈良のレポを書いてきた小生ですが、タクシーを使うのは非常に珍しいことです。

…と言っても、決して交通量が多いとは言えないここでタクシーを拾うのは難しいところ。しかし、幸運にも宮滝には個人タクシーの事務所が。そこで話をして駅まで乗せてもらえることとなりました。何しろコロナの非常事態宣言中、タクシー事務所の人によると全然利用する人がいないという身につまされる話を聞くことに。感染を拡大させるとこの時期に外出することに「来て欲しくない」と迷惑がられるのではという不安を抱きながらの吉野入りでしたが、 どこに行っても掛けられるのは感謝の言葉ばかり。ある意味、コロナ禍の現実を体験させてもらったように思います。

 

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