京都の東大寺 京の大仏跡・東山 方広寺 | タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

前回の吉野宮に続いて、これまでためていた過去の寺社史跡めぐりの蔵出しレポです。

 

『日本三大仏』という言葉があります。日本の大仏の中で代表的三尊として数えられるもの。この中で文句なしの二尊が『東大寺 盧舎那仏』(奈良の大仏)、『高徳院 阿弥陀如来』(鎌倉の大仏)。二尊は国宝で、仏像の大きさ、知名度、歴史的価値から間違いなく日本を代表する大仏です。

 

 

奈良の大仏(左) 鎌倉の大仏(右) 画像引用:Wikipedia『日本三大仏』

 

しかし、もう一尊は? 日本三大仏のあと一尊として、兵庫県神戸市の能福寺 毘盧舎那仏(兵庫大仏)、富山県高岡市の大佛寺 阿弥陀如来(高岡大仏)、岐阜県岐阜市の正法寺 釈迦如来(岐阜大仏)、東京都板橋区の乗蓮寺 阿弥陀如来(東京大仏)など日本各地の大仏と称する仏像が名乗りを上げています。

しかし、残念ながら先に挙げた二尊に比べると突出した三尊目の大仏は無いと言わざるを得ません。なぜならば、小生が思う日本三大仏とは本来、奈良の大仏、鎌倉の大仏、京の大仏を指す言葉として江戸時代に生まれた言葉であり、京の大仏が失われてしまった今、小生は日本三大仏の三尊目は欠番になってしまったと考えています。

「奈良の大仏と双璧と成す大仏が京都にあった」

もしかして、そう聞いて意外に思われる方もおられるかも知れません。。

京の大仏があったのは、京都市東山区に門を構える天台宗方広寺です。徳川家康が「国家安康 君臣豊楽」の銘文を理由に、大阪の陣を起こして豊臣家を滅ぼしてしまった『方広寺鐘銘事件』の引き金となった梵鐘の、あの方広寺のことです。

この方広寺鐘銘事件で知られるように豊臣秀吉によって創建されたお寺なのですが、実は日本三大仏の中でも大きさでも最大である大仏があったことで知られる寺院なのです。このブログ記事では東大寺の歴史をずっと追って来た小生の目から、京都の東大寺・方広寺について書いてみようと思います。

 

まず、実際に行った方広寺について、小生が撮影した画像と合わせて紹介します。小生が方広寺へ取材に行ったのは今年1月30日と2月22日で、まだコロナ感染拡大が大きな問題となる前のことでした。

今の方広寺のある場所は京都市東山区、京阪七条駅から600mほど。三十三間堂や京都国立博物館、豊国神社など京都随一の名所の多い地域の中に伽藍を持ちます

 

 

鴨川の東を南北に通るのが大和大路。七条通りとの交差点から北に進むと、その道の東側には京都国立博物館、豊臣秀吉を祭神とする豊国神社が立ち並び、方広寺はさらにその北、豊国神社と隣接して伽藍を構えています。

この京都国立博物館、豊国神社、方広寺沿いの大和大路には、200m以上にも及ぶ巨石を用いた石塁を覗うことが出来ます。この石塁すべて旧・方広寺の跡だと言うのです。この石塁を見るだけでも、かつての方広寺が如何に圧巻の威容だったか想像するに足ります。到着した方広寺には山門も無く、境内の入口はただ石塁の切れ間があるだけ。方広寺の寺号が刻まれた碑も無く、寺内で信仰を集めている大黒天が刻銘された石碑があるだけという淋しい限りです。

 

 

大和大路から境内に入ると、方広寺境内。決して広大とは言えない境内で、左側に本堂と方丈、右に境内の広さには不釣り合いな巨大な鐘楼となっています。

 

 

この鐘楼に吊るされている梵鐘こそ、大阪の陣で豊臣家が滅びる発端となった『方広寺鐘銘事件』の銘で有名な当時の梵鐘です。梵鐘に近づくとその歴史に名を残す銘を見ることが出来まして、家康の名の間に文字が入り、豊臣の繁栄させる句と合わせた問題の「国家安康 君臣豊楽」の文字には目立つように白い枠で囲ってあります。全体は豊臣家を讃える四言長詩となっています。

 

 

鐘楼には鐘楼と梵鐘に関する説明が書かれた張り紙がありました。それによると、梵鐘のサイズは「高さ4.2m、径2.8m、重さ82.7t」とありビックリ。ちなみに大鐘で有名な奈良・東大寺の梵鐘『奈良太郎』のサイズを書きますと、高さ3.86m、径2.71m、重さ26.3t。方広寺梵鐘は桁外れのジャンボサイズだったのです。

そんな特大の梵鐘は豊臣政権時代のものですが、その梵鐘を吊るす大きな鐘楼は明治17(1884)年に建てられたもの。以前は梵鐘は吊るされず、野ざらしで置かれていたそうです。鐘楼の天井に見える美しい天井画は、元々は伏見城のものだったと説明がありました。

 

 

方広寺で有名なのはこの梵鐘ですが、今回のブログのテーマは『京都の東大寺』でありまして、ここからは東大寺に深い造形を持つ小生がなぜ方広寺に興味を持つのかについて書いて行きます。

東大寺と言えば大仏ですが、この方広寺も大仏のお寺でありました。今は失われてしまっている京都の大仏ですが、大仏があったことを示すものとして『大仏前交番』『大仏前郵便局』などを近隣で見ることが出来ます。

 

 

 

京都の大仏とはどんなものだったのか。それを確かめるために小生は方広寺境内から、大仏が建立されていた跡である方広寺近くの大仏殿跡緑地公園という場所に移動しました。

大仏殿跡緑地公園については地図で見て場所を確かめていたのですが、実際に行くのは今回が初めて。地図を見ると方広寺のすぐ裏手にあって、奈良の東大寺や興福寺には広い境内の中に旧伽藍跡があるように「大仏殿跡緑地公園も方広寺境内の一部じゃないか」くらいに思っていました。しかし、実際の大仏殿跡緑地公園は方広寺から70mほど離れていて、住宅地の中の公園という感じで整備されていました。

方広寺と大仏殿跡緑地公園との間は私有地の駐車場となっているのですが、有志による寄付で方広寺から大仏殿跡緑地公園とを結ぶ小路が設けられ、それで方広寺参拝者は大仏殿跡にも足を延ばすことが出来るようになったのです。

 

 

大仏殿跡緑地公園は方広寺から小路を通って東へ、豊国神社の真裏にあります。豊国神社の本殿の裏が公園となっていて、公園からは本殿の檜皮葺の屋根を見ることが出来ます。

 

 

公園は中央に丘のように盛り上がった芝生の広場が、そしてその丘を取り囲むように石敷きの舗装がされ、その石敷きには特徴的な配置で並べられた石のベンチが設営されています。

 

 

地上からでは、公園全体がどのような配置に整備されているのかよくわかりません。そこでグーグルマップの航空写真で、大仏殿緑地公園を見てみます。

 

 

航空写真で見ると、一部が豊国神社本殿に重なっている、公園をいっぱいに埋め尽くす程の巨大な八角形が浮かび上がります。この八角形、これが京の大仏の台座の跡なのです。発掘調査で明らかになった大仏の台座の位置がわかるように公園は整備されたのです。

方広寺大仏の台座の直径34m、東大寺大仏の台座の直径が20m強なので、京の大仏の方が一回り大きかったことがここからも伺えます。

 

大仏殿緑地公園には、文献記録や発掘調査などから推定されている旧・方広寺の地図が看板に掲げられており、大仏殿がどのようなものだったのかを窺うことが出来ます。この地図および説明文から在りし日の方広寺大仏殿に夢を巡らせてみます。

 

 

この方広寺の推定復元図を、グーグルマップと合成すると下の画像になります。(復元図は看板の図からでは無く、seesaaブログ京都はんなり旅より引用)

かつての方広寺は今の方広寺境内ほか、豊国神社全体、京都国立博物館の一部、さらに近隣の住宅地まで含む規模でした。豊国神社は明治13(1880)年に現在の地に造営されたのですが、図の通り大仏殿前庭跡地を境内として造られたのです。豊国神社参道は方広寺大仏殿の正面参道をそのまま転用しているのです。 

 

 

方広寺の大仏殿の威容を今に見れる文化財が、豊国神社の宝物殿で見ることが出来ます。方広寺と隣り合わせの豊国神社へ行き、宝物殿に入ってみました。豊国神社へは、鐘楼の脇に抜ける入口もあります。宝物殿は本殿の向かって右で、宮造りの鉄筋コンクリートの耐火建築となっています。

 

 

秀吉に仕えたという桃山時代の絵師、狩野内膳の筆による『豊国祭礼図屏風』[桃山時代・重文]です。豊臣秀吉七回忌の模様を描いた屏風画で、左隻には方広寺大仏殿が描かれています。

 

『豊国祭礼図屏風〈左隻〉』 画像引用:Wikipedia『狩野内膳』

 

方広寺は大きなお寺ですが、塔や講堂と言った七堂伽藍は造られず、主要伽藍は大仏殿と仁王門だけでした。建立した秀吉は、宗教的な目的と言うよりも自分自身の時代のモニュメントという意図で大仏を造ったと思われます。

 

 

『京の大仏』と聞いても、そんなものが本当にあったのかピンと来ないというのが、現代に生きる我々の実感では無いかと思いますが、方広寺近辺を歩くと確かにこの地に大仏があった痕跡が次々と見つかります。しかし実際に大仏も大仏殿も今見ることは出来ません。

「…もし、大仏殿があったら、どの様な風景を私たちは見ることになるのか」

そう思った小生は、紙にプリントした方広寺の地図に大仏殿の絵を貼り、在りし日の大仏殿がどのように見えたのかを検証して見ました。

 

 

その検証結果を元に、方広寺大仏殿がどのように見えるか合成画像を作ってみました。合成画像は下の豊国神社門前の正面通りから撮影した豊国神社と、桃山時代から大仏殿造営に携わったという宮大工・中井家に伝わる方広寺大仏殿指図絵とを合成して作りました。

 

 

方広寺 大仏殿 指図絵 画像引用:https://3dkyoto.blog.fc2.com/blog-entry-37.html

 

実際には豊国神社入口には仁王門が建っていたので、画像のようには見えることは無かったと思われますが、でもこの画像を見ていただければ京の大仏の大仏殿が如何に巨大なものだったのか実感していただけるのではと思います。

 

 

宮大工が残した図面、指図絵に描かれている方広寺大仏殿の外観ですが、見た印象「東大寺大仏殿とそっくり」でした。寄棟造りの屋根に一重裳階、正面に唐破風と、規模が近いと外観も類似してしまうのかも知れませんが、それにしても酷似しており、「東大寺大仏殿を真似したのでは」と思ったほどです。

しかし、現在の東大寺大仏殿が建造されたのは江戸時代の宝永6(1709)年。方広寺の大仏殿が建造されたのは桃山時代の文禄4(1595)年と、東大寺よりも120年も時代を遡るのです。と言うことは、東大寺の方が方広寺の建築様式を模したということになるのでしょうか。今の東大寺大仏殿が建立された時、方広寺には慶長17(1612)年に再建された二代目の大仏殿が建っており、奈良の大仏殿がその建築様式を踏襲していたとしても不思議ではありません。

記録に残る京の大仏の大仏殿の規模ですが、幅88m、奥行54m、高さ49m。納められた大仏は19m(6丈3尺)。比較すると創建時の東大寺の奈良の大仏殿は幅86m、奥行、50m、高さ49m。高さはほぼ同じですが、奥行はもちろん、現在の東大寺大仏殿の1.5倍だった創建時の大仏殿の幅よりも、方広寺の大仏殿は大きかった。

大仏も奈良のものは高さ14.7mで、方広寺大仏は奈良の大仏より一回り高い。大きさで言えば大仏殿は世界一の木造建築物としてその威容を京都にとどめていました。この時、方広寺は正に京都のランドマークだったのです。

 

そして、その大仏殿も京都の大仏も、今は失われてしましました。

 

小生は豊国神社から、再び方広寺に戻ります。下の画像が今の方広寺の主要の仏堂です。左の入母屋屋根の建物が本堂で、右のやや小さなお堂が大黒天堂となっています。いずれも鐘楼同様に新しい時代に建てられたもので、かつての巨大な大仏殿のことを知ると、小さなお寺になったとあらためて実感します

 

 

右の大黒天堂の祀られているのは、お堂の名の通り大黒天像。桓武天皇の命により最澄が比叡山山中で彫ったというのが寺伝。秀吉はこの像を大変に気に入り、この像の1/10サイズの大黒天像を造らせ、大黒天堂にはその秀吉由緒の大黒天像も祀られています。

 

 

そして、本堂の本尊は大日如来ということですが、印相は大仏の盧舎那仏の組み方に似ている気がします(ちなみに密教では盧舎那仏と大日如来は同一視されます)。光背に化仏があしらっているあたりも奈良の大仏とそっくりで、もしかしたら大仏を模した像なのでしょうかと思いました。

 

 

本堂本尊は本堂前でガラス越しに拝観をさせていただきました。本当は堂内で拝観をしたかったのですが、受付には下の画像ような張り紙が。ちなみに小生が参拝をしたのは1月30日と2月22日、それに10月11日といずれもコロナ感染の非常事態前後だったのですが、いずれの日も受付に人はおられませんでした。どういう事情で受付をされていなかったのか気になります。

 

 

結局はお堂の拝観も出来ませんでしたし、欲しかった御朱印もいただくこともかなわず。やもうえないのでネットから拾った画像で、方広寺の御朱印を紹介します。御朱印は二種類で、画像左は『廣福仏』、右は『大黒天』です。

 

方広寺御朱印 画像引用:https://w.atwiki.jp/shuinn/pages/1751.html

 

そして、最後にまた鐘楼に戻って来ました。『方広寺鐘銘事件』のことは記事の最初で書きましたが、また戻って来たのは、鐘楼には幻の大仏殿の遺物を見ることも出来るからです。

 

 

方広寺鐘楼では鐘の銘、伏見城の遺構という天井画を紹介していますが、大仏殿の遺物は鐘楼の鐘の下に置かれていました。大仏殿跡から発掘調査で掘り出された大仏殿の出土物です。鐘ばかりに目が行くので見逃しがちですが、奈良の大仏殿を凌ぐ巨大な大仏殿の遺物は、ひっそりと足元に置かれていたのです。

 

 

置かれていたのは柱や梁を固定していたであろう金具や柱に巻かれていた金輪、庇に吊るされていた風鐸などです。いずれも巨大な建物らしいとても大きな金物ばかり。大仏殿が失われた今、このような遺物でかつて威容を誇っていた大仏殿を偲ぶしか無いのです。

 

 

今回の記事では、幻の京の大仏について語りました。

そして、この記事の続きで『京の大仏と、東山に豊臣秀吉の晩年を巡る』というタイトルで、京の大仏を建立した豊臣秀吉について、方広寺近辺の東山近辺を巡りながら晩年の秀吉について、京の大仏をめぐる歴史の明暗と、東大寺にこだわって来た小生が考える方広寺とはどういう存在だったのかなど、方広寺をより深く掘り下げるブログ記事をアップしました。こちらも合わせてお読み下さい。

 

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