京の大仏と、京都・東山に豊臣秀吉の晩年を巡る | タクヤNote

タクヤNote

元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

前回の記事では、京の大仏・東山方広寺について紹介をしました。かつて京都に奈良の大仏と双璧を成す大仏があったのです。

方広寺は京都のお寺ですが、mixiで東大寺コミュニティの管理人をして以来東大寺にこだわって来た小生には、妙に気になるお寺でありました。関連…と言うよりも因縁と言った方がいいでしょうか。

今回、方広寺のことを記事にするにあたって、よく方広寺について調べてみようと思い、一冊の本を取り寄せました。『秀吉の大仏造立』(河内将芳 著・法蔵館 刊)。奈良大学教授の著者が、方広寺を造立した豊臣秀吉の思想信条から京の大仏について著述されている本です。

 

 

 

 

 

今回の記事はこの本をタネ本に、より学術的な見地から方広寺について取り上げます。前の記事にも書きましたが、方広寺へは1月30日、2月22日、10月11日と3回足を運びましたが、その際に方広寺の歴史にまつわる場所も複数巡っているのです。その方広寺関連の地のレポを合わせながら、京の大仏とは何だったのか、そして奈良のお寺のブログとしてこのタクヤNoteを書いている小生の目線から、方広寺と東大寺との因縁について書いてみようと思います。

 

まず紹介しますのは、方広寺の南で東福寺の近くにある、遣迎院というお寺です。京阪電車の鳥羽伏見駅から歩いてすぐの京都の閑静な街の中に建つお寺で、真宗遣迎院派を宗派としています。

方広寺と同じ京阪電車沿線で、方広寺最寄りの七条駅から二駅と近かったので、方広寺にお参りした足で行かせてもらいました。観光寺院では無いので、お寺の外から山門を拝みました。

 

 

『秀吉の大仏造立』を読むと、本能寺の変の4年後である天正14(1586)年4月に、公家の吉田兼見が著した『兼見卿記』に秀吉が次のような動きをしたと記録があります。

「東福寺に至り御出、この近所に大仏御建立あるべし、その地を御出とうんぬん」

おそらく京の大仏に関する最初の文献で、これによって最初に京の大仏の建立予定地として指定されたのが、この遣迎院があった場所だったのです。遣迎院の宗派である真宗遣迎院派ですが、その本山は同じ京都市北区の同じ名前の遣迎院。同じ名前なのは元は同じお寺だったのが分立して二門のお寺になったからで、実はその分立も秀吉の大仏造立が理由でした。遣迎院を移転して跡地に大仏を造立する計画は遣迎院の移転も終わらないうちに中止となってしまい、移転途中だったために遣迎院は二分されてしまったという訳です。そのため、東山の遣迎院は『南遣迎院』とも呼ばれているようです。

 

 

東福寺の近くへの大仏造立を中止した秀吉が大仏造立を再開させたのは2年後の天正16(1588)年、現在の方広寺跡での大仏造立が本格的に始まりました。この地には仏光寺という寺が建っていました。仏光寺は一時期、本願寺を凌ぐ数の末寺を持つほどの日本仏教の一大勢力でありましたが、大仏造立により秀吉の別荘だった龍臥城の地である五条坊門高倉に移転させられてしまったのです。仏光寺は今も、移転先である龍臥城跡である京都市下京区に今も門を構えています。

 

このように秀吉の大仏造立にあたって、京都の都市設計がいくつも変更されたのです。

その極みは五條大橋でしょう。五条大橋と言えば五条通りの道が通る鴨川に架かる橋。今の日本の最重要の幹線道である国道1号線の前身、東海道の起点としてあまりに有名な橋。橋の上で牛若丸と弁慶とが闘ったのは童謡に歌われるなどよく知られています。五條大橋のたもとには牛若丸と弁慶を象ったモニュメントが置かれています。

 

 

実は、牛若丸と弁慶が闘った五条大橋は、ここではありません。そう言われると驚かれるかも知られませんが、これが地元の人には常識だったりします。

五条大橋から北へ400mほどの鴨川の上流に、松原通りという通りがあり、鴨川には松原橋という橋が架かっています。

 

 

この松原橋のたもとには、このような説明看板が立てられているのですが、その内容は驚くべきものであります。

 

 

かつての五条通りが今の松原通りであり、豊臣秀吉の大仏造立の時に400m下流の六条坊門通りを五条通りと改名させて、新たに架けたのが今の五条大橋というのです。(もちろん、現在の橋は昭和34(1959)年に架けられた近代のもの)

条里制だった平安京なのですから別の通りを五条通りにしちゃダメと思ってしまいますが、おそらく京都一番のメインストリートから大仏殿が見えるようにという思惑での都市整備だったのでしょう。その大胆な都市変更にはただただ驚かされてしまいます。

豊臣秀吉が大変に大仏造立に熱意を持っていたことははっきりうかがえますが、では何故大仏を造ろうとしたのかとなると、これだけの大事業でありながら、実はその目的についてはあまり記録が無いのです。

『秀吉の大仏造立』には、秀吉が何故大仏を造ろうとしたのかについて、引用しているのはイエズス会宣教師ルイス・フロイスがインドの管区長に送ったという報告書の一文です

 

「奈良の市の大仏を、金で塗った千余体の仏像のある大寺院(三十三間堂)の附近に造ることを命じた」

 

秀吉は奈良の大仏を京都に造ると言っていました。奈良の象徴、日本の仏教の拠点東大寺のシンボルである大仏を、自らが居地とする京都に新たに造立することが望みとしていたのです。

実際に方広寺という寺号が使われるようになったのは、江戸時代中期くらいから。それまでは何と呼ばれていたのかと言うと「大仏」「新大仏」なのです。そこから見ても方広寺は宗教的な意義で建立されたというよりも、大仏というシンボリックな物を造ることが目的だったのではと察することが出来ます。

 

織田信長を主君としてその天下取りを支え続け、その信長が天下取りを目の前にして斃れた後は、信長の権威を徐々に取り込み、天正13(1585)年に朝廷から関白職を任官し、天下人として君臨しました。

その秀吉による自らの時代の象徴として、奈良の大仏を京都に造立させようとした。京の大仏は権威を世に知らしめるためのモニュメントという意図が大きかったように思います。

 

しかし、完成し落慶を目の前にしていた京の大仏にアクシデントが起きたのは、文禄5(1596)年閏7月13日(9月13日)に発生した慶長伏見大地震でした。秀吉のもう一つの象徴的な建造物・伏見城天守が倒壊するなどの京都における被害は甚大で、方広寺も大仏殿には大きな被害は無かったそうですが、大仏は木製で漆喰で固めて造像されたとあり決して地震に強いとは言えない構造でした。左手は落ち胸は崩れ、全身がヒビだらけになるなど大破してしまったのです。秀吉の怒りは大仏に対して向けられたと記録にあり、『秀吉の大仏造立』には宣教師ぺドウロ・ゴーメスの書簡が紹介されています。

 

「太閤様(秀吉)は死去の前にその姿を見て非常にいきどおり、それを粉々になるまで砕いてしまうように命じて、こういった。もし地震のときに自分自身を助けることができなかったのなら、ほかのひとびとの訳に立てるはずがなかった」

 

尊い仏さまに何ということを言うのかと思いましたが、この後、秀吉はさらに驚くべき行いをするのです。

京都・相国寺の塔頭、鹿苑院に伝わる『鹿苑日記』に、その行いのことが記されていると『秀吉の大仏造立』は紹介をしています。

 

「その節、善光寺如来三夜夢に入り、大仏殿にいたらんと欲す」

 

阿弥陀如来三尊は長野の有名な善光寺のご本尊であり、欽明天皇の代に朝鮮・百済の聖明王から天皇に献納されたと日本書紀に記述のある、仏教公伝の時の『日本最古仏』と寺は伝えています。そして、何者も見ることは許されない絶対秘仏という特別な仏像なのです。

戦国時代、武田信玄が善光寺が戦火に逢うことを恐れ、疎開目的で信玄の地元甲斐に移したのをきっかけに、信長が岐阜、家康が尾張、遠江と戦況によって転々とし、この時は徳川家康によって甲斐に移されていました。

そんな見るだけでも大ごとという仏像を、秀吉は夢枕に立ったと、地震で大破し壊してしまった大仏の代わりとして、大仏殿の本尊に迎えると勧請を命じたのです。

何とも仏の威厳を損なう行いでありましたが、慶長伏見大地震の翌年となる慶長2年7月18日(1597年8月30日)年善光寺阿弥陀如来三尊を迎えた大仏殿は、善光寺如来堂と呼ばれるようになりました。

 

7年に一度公開される、善光寺阿弥陀三尊像 お前立て 画像引用:http://junrei3159.jugem.jp/?eid=75

 

すると、善光寺阿弥陀三尊を大仏殿に迎えた慶長2年の10月、秀吉は病に伏せてしまったのです。そして誰ともなく善光寺阿弥陀如来三尊について「不吉の兆」「御祟り」とささやかれるようになり、慶長3年8月17日(1598年9月17日)阿弥陀三尊は信濃の善光寺に還されることになりました。

しかしそれでも秀吉の病は回復せず、三尊が善光寺に還された翌日である8月18日、伏見城内にて62年の波乱の生涯を閉じます。

「太閤殿下は、善光寺如来三尊の御祟りで薨じられた」

それが当時の人々の認識だったようです。自らによる時代のシンボル、男のロマンとして造営した今日の大仏殿は、もしかしたら秀吉自身の命を奪う火種になったのかも知れません。

 

秀吉の遺言は、自らの遺体は火葬せず阿弥陀ヶ峰に葬ること、自らを『八幡大菩薩』と号し、京の大仏を守護する鎮守として祀ることというものでした。

ここにも東大寺の影がちらつきます。東大寺の鎮守は手向山八幡宮。豊前国宇佐八幡の八幡神を勧請して建てられた日本で二番目の八幡社で、武家の神として多くの武士政権で崇められていました。秀吉は自らが八幡大菩薩となり、自らの権威の象徴であった京の大仏を護ろうという遺志を持っていたのです。秀吉の京の大仏への深い傾倒のさま、奈良の大仏への意識がここにもはっきりと窺うことが出来ます。

 

東大寺鎮守 手向山八幡宮 撮影:2015年2月3日

 

しかし、朝廷は秀吉の遺言であった八幡大菩薩として祀ることは行わず、『豊国大明神』という神号を与えて、大仏と切り離して祀ることにしたのです。秀吉の大仏の鎮守になる望みはこうして潰え、豊国大明神として祀られたのが豊国神社。豊国神社は徳川政権になると廃絶されられてしまいますが、明治時代に方広寺大仏殿跡に場所を変えて再建されたのが、今の旧別格官幣社・豊国神社です。

 

 

秀吉が葬られた阿弥陀ヶ峰も方広寺、豊国神社の近く、裏の山と言うべき場所なのです。今回のレポのために、豊臣秀吉の墓、阿弥陀ヶ峰・豊国廟にも足を運んで見ました。

 

 

方広寺から阿弥陀ヶ峰へは、女坂という道を通ります。女坂というちょっと色っぽい道の名は、京都女子・中・高・大学がこの道に建てられ、女学生の通学路になったたことに由来します。

豊国廟参道の巨大な石碑の横には、女学生らしい女性が坂を登る姿も。太閤さんも、お墓の足元が広大な女学校のキャンパスになろうとは、びっくりでしょう。奥には新日吉(いまひえ)神宮の鳥居も見えます。江戸時代、幕府に隠れて豊臣秀吉を崇めていたという神社です。

 

 

新日吉神宮も京都女子大も超えた所で大鳥居が。ここが秀吉の墓、豊国廟の入口です。ここからは豊国神社の飛地境内となっています。

 

 

鳥居をくぐると開けた土地となっています。ここは太閤垣(たいこうだいら)と呼ばれ、豊臣家滅亡と共に徳川幕府に廃され取り壊された、旧・豊国神社のあった場所です。秀吉の没後、後を嗣いだ秀頼を名代とし、秀吉の命日である8月18日と桜の季節の4月18日の毎年二回、豊国祭という盛大な例祭がこの場所で行われました。

現在は社殿が建ち並ぶ壮麗だった神社の面影は失われ、豊国廟の参道を途切れさせるように建てられた拝殿が、唯一神社らしさのうかがえるポイントとなっていました。

 

 

拝殿の横には二基の五輪塔が。右の大きい方は秀吉の側室だった寿芳院(松の丸殿)の供養塔で、左の小さい方は秀頼の子で秀吉の孫、大坂夏の陣の後に六条河原で斬首された国松の供養塔です。寿芳院は出家して住していた三条新京極通りの誓願寺に国松の亡骸を引き取り寺内に五輪塔を立てて葬り、豊臣家の追善の勤めを最後まで果たされました。二基の五輪塔はその誓願寺から移されたものです。

 

 

そして、拝殿の横を抜けて数メートル進むと、いよいよ目の前に豊国廟へと続く石段が現れます。石段の数は563段、途中で平らになった土地に中門がありますが、あとはこの急な石段の参道が400m、阿弥陀ヶ峰山頂まで続きます。麓には「往復20~40分を要します」との案内があり、参拝にはそれなりの心づもりをするように注意を促されます。

この日は9月22日のブログ記事で紹介したダブル・カメラの撮影装備での、初めてのブログ記事のレポとなりました。それがこの阿弥陀ヶ峰の急峻な山登りとなり、装備のテストにはまたと無い状況でした。全身装備だらけの仰々しい姿でしたが、感想を言えば重いカメラバッグを担ぐよりは楽に歩けたと思います。ただ、右足の小指にマメが出来てしまい、今も歩くとちょっと痛いです。

 

 

ちなみに上の画像は阿弥陀ヶ峰の登り口から撮影した石段です。そして、下が途中の中門を抜けた所で山頂まで続く石段を撮影した画像です。正直、この石段を見た時はちょっと閉口してしまいました。

 

 

それでもがんばって、到着しました。標高196m、阿弥陀ヶ峰山頂です。そして山頂には豊臣秀吉の墓、豊国廟です。五輪塔は高さ10mのとても大きなもので、ここも豊臣家滅亡と共に一度廃された後、明治時代に再建されました物です。

ちなみにこの五輪塔が造営された時に、土中から-遺骸が納められた素焼きの壺が発掘されました。秀吉の遺体の可能性が非常に高いものでしたが、壺はそのまま再埋葬され、そしてそこにこの五輪塔が立てられたのです。五輪塔は明治時代の新しいものですが、これは正式に秀吉の墓なのです。

 

 

五輪塔の正面から礼拝した後、小生は五輪塔の左横、つまり北側へ回りました。これは、拝殿横の授与所で入山料(100円)を払った時に受付の方に話を聞いての行動です。

阿弥陀ヶ峰の山頂、豊国廟の北側に回ると、目の前に清水寺の全景がみごとに現れました。もしかしたら、清水寺に直接行くよりここからの眺めの方がいいかも知れないと思ったくらいです。

おそらく西側の足元には大仏殿が、南へ回れば伏見城が見られたでしょう。秀吉は京都随一の絶景ポイントを自らの眠る場所に選んだようです。

 

 

秀吉は大仏無き大仏殿を見下ろす山の上で、まるで大仏殿を見守るように葬られました。そして、その後の方広寺は豊臣家とリンクするように、それは悲惨な運命を辿ることになって行くのです。

 

秀吉亡き後、その遺志を継ぐという形で嫡子の秀頼によって、大仏再造が秀吉が没したその年から早くもスタートしました。木造漆喰製という弱い構造になりかわって、奈良の大仏と同じ銅による鋳造が採用されることとなりました。

しかし、大仏殿は地震の被害を免れていたので、木造の建物の中で溶融した銅を流して鋳造するという、言ってみればとんでも無い工法での造立でありました。

案の定慶長7(1602)年、溶融した銅が木製の骨組みに引火して造立途中の大仏は炎上、慶長伏見大地震の難を逃れた大仏殿まで焼け落ちてしまったのです。

 

関ヶ原の戦いで勢力を失っていた豊臣家が2代目の大仏殿、3代目の大仏の再建を始めたのは、慶長13(1608)年なってようやく企図、慶長15(1610)年には造立が始まりました。大仏は2代目と同じ銅造で鋳造され、2年後の慶長17(1612)年に完成しました。洛中洛外図に描かれている方広寺大仏はこの時代のものです。

 

洛中洛外図・舟木本[江戸時代・国宝](右隻 慶長年間の方広寺大仏殿)

 

しかし、秀頼は大仏の開眼法要を催すことは出来ませんでした。慶長19(1614)年にあの『方広寺鐘銘事件』が発生するのです。方広寺の鐘の銘を名目として徳川家康は大坂の陣を起こし、翌年大阪城は炎上し、秀頼も淀君も自害してここに豊臣家は滅亡したのです。

 

徳川の世になって豊国神社も豊国廟も廃されましたが、方広寺大仏殿だけは京の民衆の信仰を集めていたこともあり残されました。3代目大仏は造像されてちょうど50年後、寛文2(1662)年に発生した 近江・若狭地震で被害が出たのをきっかけに取り壊され、寛文7(1667)年同じ規模で木造の4代目大仏が造営されました。現在の東大寺大仏殿はこの30年後である宝永(1709)年に落慶し、京と奈良の二大仏の時代となります。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の中で弥次さん喜多さんが方広寺を訪れて、柱の穴くぐりで弥次さんが穴から体が抜けなくなるという騒動が書かれています。京の大仏にも柱くぐりがあったことを示す資料として興味深いところです。

 

都名所図会[江戸時代・安永年間]江戸時代の方広寺大仏殿

 

寛文2年に造立された江戸時代の大仏は、この後160年ほど東山で『京の大仏』京の名所となりました。しかし、京の大仏には、さらなる悲運が待っていました。江戸後期となる寛政10(1798)年7月1日、夜未明に大仏殿に雷が落ち、またも大仏殿と鐘楼が焼失してしまうのです。

この江戸期の大仏殿焼失は、相当に京の人々にショックを与えたようです。

 

京の京の大仏つぁんは天火で焼けてな

三十三間堂が焼け残った

ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン

うしろの正面どなた

 

 

この時の大仏殿焼失は、今もわらべ歌として京の人々に語り続けられているのです。

 

すでに方広寺には後ろ盾となる豊臣も無く、もはや大仏・大仏殿を再建する力はありませんでした。それでも、東山をはじめとする人々にとって『京の大仏』は、特別な想い入れの対象であったのです。尾張をはじめとして、伊勢・美濃・越前の有志が寄進を集め、焼失から数十年後の天保年間(1830-44)元の1/10、肩から上だけという、もはや大仏とは呼べない仏像ですが、4代目の大仏として方広寺境内に安置され、覆屋は大仏殿と呼ばれました。

 

 

それでも、大仏と呼べる何かが欲しい。それが人々の郷愁だったのでしょう。

明治に入ると反徳川幕府の象徴として豊臣秀吉が再評価される時代となりましたが、しかし悲しいことに時は神仏分離・廃仏毀釈の世。方広寺境内の大部分は接収され、豊国神社や京都国立博物館が建造されて、もはや大仏を再建するための土地すら失われることになってしまったのです。

そして、現代になっても、繰り返す大仏の不運は止まりません。切なる想いを込めて建立された肩から上だけの4代目の大仏も、昭和48(1973)年3月28日深夜、火災が発生し焼けてしまったのです。不審火も疑われましたが、練炭火鉢の火が火元と消防署は断定しています。

 

 

方広寺大仏殿火災を報じる新聞記事(朝日新聞3月28日 左:朝刊 右:夕刊)

 

歴史ある寺社仏閣が焼失と再建を繰り返すというのは珍しいことではありませんが、それにしても方広寺大仏殿のそれは異常です。『呪われた大仏』と囁かれることもあるそうで、想えば秀吉が死んだのも、豊臣家が滅んだのも、常にそこには方広寺が関わっていました。

 

さて、方広寺について総論を書きますと『京の大仏』とは何だったのか。豊臣の時代を誇示するためにが造立され建立されたはずが、豊臣家を滅亡に導いた呪いの寺となった方広寺。小生はそれは単なる流言ではなく、ある意味的を得ているのではないかと想う時があります。

「奈良の大仏よりも大きかった、京の大仏をこの目で見てみたかった」と、大仏の再建を望む声も無い訳ではありません。しかし、小生の個人的な見解と前置きをしますが、小生は京の大仏は再建するべきでは無い、むしろ秀吉は初めから京の大仏を造るべきでは無かったのではないか。そう思う時があります。

何故なら、京の大仏が造立された当時、奈良の大仏は永禄10(1567)年、松永久秀と三好三人衆との間の『東大寺大仏殿の戦い』 で焼失している状態だったのです。源平合戦で平氏に焼かれた創建時の東大寺大仏殿は、その後政権を撮った鎌倉幕府によって迅速に再建されましたが、秀吉は東大寺再建には関心を持たず、大仏を京都に再建すという事業に邁進していたのです。

 

そして、その大仏建立の目的も、感じられるのは豊臣の威信の象徴という意図しかありません。移転や造立地の変更などで仏教界を振り回し、五条通りを大仏殿の近くに移動させるなど、大仏をただ大きいランドマークとして人々を驚嘆させようという意図ばかりが目立っていました。

聖武天皇が大仏造立を発願する詔は「光明遍照の仏である盧舎那仏は衆生を慈悲の光で照らす。仏が大きいほどその光はより多くの衆生に届く。そして民の一人一人が心を一つにして、大仏建立という目的に励めば、人々は信仰心で結ばれて世の中は一つになる」と、その尊い理想を掲げているのです。大仏はただ形だけ造るのでは無く、大事なのはそのスピリッツであると小生は思います。

その意味では、秀吉は京の大仏など造立せず、東大寺大仏が持つスピしリッツを理解し、奈良の大仏を再建させるべきだったのでは無いかと思うのです。もしそうすれば、あるいは豊臣家は滅亡せずにずっと栄えたかも知れません。そんな気がしてならないのです。

 

さて、最後にまた方広寺の話に戻しますが、豊臣家が造立した方広寺の跡として残るのは、方広寺跡西側に200mに亘って続く巨石の石塁、現在の方広寺に残る梵鐘、そして豊国神社前の正面通り脇に立つ『耳塚』という五輪塔などです。

 

耳塚

 

しかしこれらは、いずれも建物ではありません。実は一つだけ今に残る、豊臣時代に建造された方広寺の、それも、巨大な方広寺の主要伽藍であった建物を今も見ることが出来るのです。それが見れるのは意外な場所です。1月30日にそれを見るために行ってきました。

それは、日本一の五重塔が京都のシンボルとなっている、弘法大師・空海のお寺、教王護国寺・東寺です。

 

 

東山の方広寺からは離れた場所にある東寺ですが、現在も残る方広寺の主要伽藍を見ることが出来るのはここなのです。

かつての方広寺は数多くの仏堂が建ち並ぶ伽藍というわけでは無く、主要伽藍と言えば大仏殿と鐘楼、そして大仏殿正面の仁王門くらいでした。

 

『豊国祭礼図屏風〈左隻〉』 画像引用:https://twitter.com/toyokunishrine/status/779238395969048576

 

東寺の正門である、南側中央の南大門。実はこれがかつて豊臣秀頼が建立した方広寺の西側正面、今の豊国神社鳥居が立っている場所にあった方広寺仁王門なのです。明治時代、豊国神社が造営されるのに合わせて、方広寺から解体移転され東寺の正門となりました。

重要文化財に指定された東寺南大門は幅18m、高さ13mの非常に大きな建築で、前に立つとあの方広寺大仏殿の正門だったというのも納得できる威容。何もかも失われた方広寺で、唯一その威容を実感できるのがこの建物なのです。

東寺を訪れた時には、南大門の正面に立ち、その向こうにあった世界一の木造巨大建造物、方広寺大仏殿を想像してみるのも良いかも知れません。

 

 

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