特別公開 薬師寺三重塔『釈迦八相像』 | タクヤNote

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前回の記事では3年延期になった、薬師寺東塔の解体修理落慶法要について書きました。11年かかった東塔の落慶法要のニュースには感慨深いものがありました。

 

画像引用:sankei.com 2023年4月21日

 

今回の落慶に併せて薬師寺では記念特別公開が行われているのですが、その目玉となっているのが、今度開眼式が行われた、東西両塔所在の『釈迦八相像』の特別公開です。

『釈迦八相』とは何か、実はこのブログでは4年前の2019年1月28日の記事でレポを記事で書いております。釈迦八相についての解説は、まずその時の文書をそのまま以下に抜粋引用します。

 

近年の仏塔の初層には四方仏を安置するのが一般的ですが、記録を見ると上代の仏塔には塑像(土を焼かずに作成した像)の群像を安置するのが一般的だったようです。薬師寺三重塔・興福寺五重塔など奈良の各寺院の仏塔にも同様の塑像群が祀られていたことが文献などで確かめられますが、現存しているのは世界最古の木造建築・法隆寺五重塔初層の塑像塔本四面具[奈良時代・国宝]だけです。

薬師寺三重塔初層ですが、平安時代に編まれた『薬師寺縁起』によると、両塔のそれぞれの初層に釈迦の生涯の重要な八つの場面を描いた『釈迦八相』を法隆寺同様の塑像群で安置していていたと記録があります。薬師寺東西三重塔初層の塑像群はわずかに欠片として東塔伝来品として遺っている他、西塔跡からも欠片が発掘され、合計160点ほどの欠片が確認されていますが、そのほとんどは失われ当初はどんな姿だったかは今となっては全くわかりません。

薬師寺では現在解体修理中の東塔の落慶に向けて、かつての釈迦八相を蘇らせようと、文化勲章受章者の彫刻家・中村晋也氏に金銅製の群像を依頼。平成27(2015)年に先行して釈迦八相・果相が完成し西塔初層に安置され、6月2~3日に開眼法要が営まれたのです。

 

2019年 釈迦四相像公開  画像引用:タクヤNote2019年1月28日

 

釈迦八相像を製作した中村晋也氏は、本尊(弥勒如来)の脇侍である阿僧伽(無著)、伐蘇畔度(世親)両菩薩像や十大弟子像といった大講堂の諸像を製作するなど、薬師寺とはつながりの深い方です。東西両塔の釈迦八相像は、同氏による薬師寺での作品の集大成と言える大作です。

 

画像引用:三重県 亀山市HP

 

 

御年96歳となる同氏によって東塔の解体修理にあわせ大作の釈迦八相像は製作され、この落慶法要でも開眼式でも健勝な姿を見せてられています。

 

画像引用:南日本新聞371.com 2023年4月28日

 

4年前の前回の拝観では東塔はまだ解体修理中でしたから、この時に小生が拝観したのは西塔の果相だけ、東塔の因相は見れませんでした。

その東塔も落慶法要が滞りなく終わり、開眼式も行われて、未公開だった釈迦八相の因相がようやく西塔の果相と併せて公開となりました。両塔の釈迦八相は初めての一般公開ということで、小生もこの日の一番のお目当てで拝観に行きました。

 

正面の中門の所で販売されていたのが、これ、釈迦八相の図録です。東塔の因相と西塔の果相。二冊セットで2,000円で販売されていました。(バラでの販売はありませんでした)

 

 

「二冊で2,000円って、まあまあお手頃」って買った時は思ったのですが、家に帰ってよく確かめてみたら、西塔の果相の図録は両方とも同じ平成30年5月20日刊の第三版ではありませんか。同じ図録を二冊買ってしまったことに後で気付いたのでした。

 

 

今回の記事はこの図録と、拝観券と一緒にいただいたパンフレットを参照に釈迦八相像の解説をして行きます。西塔の果相については4年前の西塔の釈迦八相像公開のことを書いた、2019年1月28日の記事と内容が多くかぶることをご容赦下さい。

 

 

釈迦八相は釈迦の生涯の八大事由(代表的な八つの場面)のことで、各場面を物語形式で並べています。大きく分けて釈迦が悟りを開く前の物語が、前半となる因相、釈迦が悟りを開いた後の物語が、後半となる果相。

本音を言うと記事の流れとして、今回初公開となった目玉の東塔を最後に紹介したいところだったのですが、前半の因相の像が置かれているのが東塔で、後半の果相の像が置かれているのが先に公開となった西塔。なので、物語の進行に従って釈迦八相を紹介するとなると、東塔→西塔に順で紹介しなくてはならない…ということになるのです。

 

というなことで、まずは東塔と、釈迦八相の因相からの解説していきます。ちなみに薬師寺東塔の初層の内部に入るのは、小生はこれが初です。

薬師寺は平城京の六条二坊に建立された官寺で、飛鳥藤原京に建立された本薬師寺の建物を移築した説もあり、創建時からの遺構とされる東塔は奈良時代以前の白鳳時代の姿を今に伝える遺構として『白鳳伽藍』と呼ばれます。薬師寺東塔は、白鳳時代を今に伝えるタイムカプセル。明治時代の東洋美術史家、アーネスト・フェノロサが『凍れる音楽』と例えた美しい外観だけでは無く、その内部もまた白鳳時代の空気に満ちた空間となっていました。

 

 

 

堂内に入ってまず目を奪ったのは、天井板に残る宝相華の彩色模様。少なくとも薬師寺平城京移築から1300年は経って今も残る古代の彩色です。薬師寺東塔内部の一般公開はこれまで数えるほどしかされておらず、塔の内部を拝観するだけでも貴重な機会なのです。天井を見上げ自分の目で宝相華を、法隆寺でも見ることの出来なくなった古代の彩色を目の当たりにした時には、大いに気持ちが高揚してしまいました。

 

画像引用:朝日新聞DIGITAL 2011年3月2日

 

画像引用:四国新聞社2010年1月26日

 

そして塔に安置された、4躰の四天王像です。薬師寺東塔の四天王像は、研究家による調査で平安時代中期の像と比定され、元の所在は不明。かつては江戸時代には元あった四方仏と共に内陣に安置され、仏塔の守護をしていました。

解体修理後は四方仏は塔から下げられましたが、四天王像は残されました。安置場所は釈迦八相像に内陣を譲り、外陣の四隅で塔を守護しています。展覧会では見たことのある四天王像でしたが、白鳳の塔の中で見ると特別なものを感じます。

 

   

東塔四天王像[平安時代] 画像引用:あべのハルカス美術館『薬師寺展』図録

 

そして、江戸時代の四方仏に代わって、薬師寺三重塔の主尊となったのが『釈迦八相』です。ブロンズ群像は塔の初層 中央4.7メートル四方の内陣をほぼ覆い隠し、中心の心柱だけでは無くその心柱を取り囲む四天柱まで見えなくなっていました。

 

画像引用:朝日新聞DIGITAL 2023年4月22日

 

『釈迦八相』についてもう一度解説をしますと、釈迦の生涯の代表的な八つの場面を物語形式で並べたものです。その場面について平安時代の長和4(1015)年の撰述された『薬師寺縁起』の寶塔の条に「両塔内安置 尺 釈迦八相 東塔 因相 入胎 受生 受樂 苦行 西塔 果相 成道 転法輪 涅槃 分舎利」と、左右両塔の釈迦八相について記述されています。

 

薬師寺縁起(寶塔の条) 画像引用:『薬師寺釈迦八相』〈東塔 因相〉図録

 

ここに書かれている釈迦八相は一般的な釈迦八相の八つの場面とは違うもので、中村晋也氏は記録に忠実に薬師寺両塔の釈迦八相を復元しました。さらにインドに何度も足を運び現地の人体や風景などを研究し、リアルな世界観を群像に投影したのです。釈迦八相は…

 

東塔 因相 入胎〈北面〉→  受生〈東面〉→ 受楽〈南面〉→  苦行〈西面〉

西塔 果相 成道〈東面〉→ 転法輪〈南面〉→ 涅槃〈西面〉→ 分舎利〈北面〉

 

という並びで安置され、いずれも塔の中を時計回りの順路となっています。

 

釈迦八相像 配置図  画像引用:『薬師寺釈迦八相』〈東塔 因相〉図録

 

そのため今回の特別公開は東塔は北口から入堂し西口から出堂、西塔は東口から入堂し、北口から出堂するという順路でした。このブログでもこの順番に紹介をします。それぞれの場面の解説文(緑字)はパンフレットからの引用です。

 

 

 

東塔 因相

『入胎』(にったい)〈北面〉

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』パンフレット

 

お釈迦様の母マヤ夫人は、ある夜、夢を見ました。6本の牙を持つ白象が右脇から体に入る夢です。マヤ夫人は、この夢でお釈迦様を身籠もったことを知ったといわれます。右手前には夢にまどろむマヤ夫人が、中央にはお釈迦様をあらわす白象の姿が表現されています。

 

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』〈東塔 因相〉図録

 

釈迦八相はこの夢のシーンから始まります。この八種は引用する経典によって差異があるそうで、一般的な釈迦八相は『兜率天』(釈迦の前世は兜率天の菩薩で、白い象となってこの世に舞い降りた)『託胎』(白い象となった釈迦が、マヤ夫人の右脇から胎内に宿った)が始まりですが、薬師寺の釈迦八相は事実上二番目の『託胎』が最初となっています。

多くの人物彫像が見どころの中村晋也氏の釈迦八相ですが、最初の場面には人物は少なく具象的な風景もありません。大きな渦巻きとその中央から覗く白い象、全八場面でも特徴的になっています。

 

『受生』(じゅしょう)〈東面〉

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』パンフレット

 

お釈迦様は4月8日、ルンビニ園の花園でお生まれになりました。マヤ夫人は急に産気づかれ、アショカ樹をつかみ誕生の時を迎えました。マヤ夫人の側では妹が寄り添っています。生まれたばかりのお釈迦様は7歩歩まれた後に、手を上げて「天上天下唯我独尊」と唱えられました。

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』〈東塔 因相〉図録

 

4月8日は潅仏会・仏生会と呼ばれ、日本では「花まつり」として親しまれています。象徴的なシーンとして各寺院では、多くの誕生仏が作られました。

 

『受楽』(じゅらく)〈南面〉

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』パンフレット

 

シャカ族の皇太子として生まれたお釈迦様は、29歳まで宮殿で生活をされます。やがて、お釈迦様は苦悩をいだかれ、出家を志します。その情景は、王城の4つの門から出掛けたお釈迦様が、老人、病人、死者、修行者に出会い、苦しみを目のあたりにし、出家を決意されたという「四門出遊」の物語で描かれます。

 

 

 

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』〈東塔 因相〉図録

 

小生が拝観している時この場面の前でちょうど僧侶の方が解説をされていて「他の釈迦八相を説くお寺には、この「受楽」はほとんどありません。これがあるのは薬師寺ならではです」と力説されていました。話によるとこの場面は釈迦が出家を決意する理由といきさつを説く大事な場面なのですが、俗世の享楽に溺れる生活の描写があることから、信仰の対象である釈尊のイメージを損なうとカットされがちなのだそうです。

 

『苦行』(くぎょう)〈西面〉

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』パンフレット

 

宮殿を捨てて出家したお釈迦様は王族としての衣を脱いで修行生活に入ります。お釈迦様は厳しい苦行にいどまれますが、悟りは得られません。中道の教えに気づいたお釈迦様は、苦行をやめて村娘スジャーターの乳糜の布施を受けられます。

 

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』〈東塔 因相〉図録

 

こうして当時インドで主流だった苦行での解脱から、瞑想による悟得へと釈迦の道は転換するのです。ここで僧侶の方は「スジャータって、あのコーヒーに入れるんやないですよ」と、お約束の冗談で拝観者の笑いを誘っていました。

 

落慶して法要が行われた東塔の拝観をし、参加出来なかった落慶法要の空気を少しだけでも感じることが出来て充実感を得た小生でしたが、釈迦八相は東塔だけで無く、後半である 西塔 果相に続きます。

4年前に拝観していることは冒頭で触れていますが、やはりこの群像はセットで見るべきもの。拝観券もセットということもあるので、小生は4年ぶりの西塔初層の拝観にも行きました。入堂は東口です

 

 

西塔は昭和56(1981)年の再建で、建立から1300年を経ている古びた東塔とは対照的な鮮やかな姿をしています。朱丹の柱に東塔の彩色から復元された華やかな宝相華が描かれた天井と、何もかも真新しい初層内部は、東塔に比べてとにかく明るいという印象でした。

 

画像引用:産経フォト2015年5月11日

 

西塔の外陣四隅に安置された四天王像は、何もかも新造である西塔の中では、唯一の文化財指定を受けた古物です。

安置されたのは平成23(2011)年と最近なのですが、薬師寺が保存していた彫刻の残欠部材が、学術調査によって薬師寺が所蔵する平安時代造の四天王の内の二天(持国天・多聞天)の残りの二天像の部材であると判明。それをきっかけに部材の復元作業が行われ、明治の旧制度で国宝に指定されていた二天と合わせて、四天王として晴れて国の重要文化財に指定されたのです。

 

   

西塔四天王像[平安時代・重文] 画像引用:あべのハルカス美術館『薬師寺展』図録

 

そして釈迦八相の後半、釈迦が悟りを開いた後の物語である『果相』の群像の拝観です。ここからは釈迦というより、悟りを開いた『仏陀』と言った方がいいかも知れません。

 

『成道』(じょうどう)〈東面〉

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』パンフレット

 

スジャーターの供養を受けたお釈迦様は、草を敷いて菩提樹の下で瞑想に入られます。マーラ(悪魔)は、3人の美女や魔衆を遣わして、お釈迦様の悟りを邪魔しようとしますが、お釈迦様は瞑想を続け、遂に成道を果たします。猿や猪、象などの顔を持つ魔衆たちと静かに瞑想するお釈迦様が対照的にあらわされます。

 

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』〈西塔 果相〉図録

 

蓮華座を組み瞑想する様は、正に各地の寺院で見慣れた釈迦如来像。普段は仏堂の真ん中で単独でいる釈迦如来像ですが、経典通りに菩提樹の下で悪魔から邪魔をされる様子を描くこの群像を見ると、いつも見る釈迦如来像のイメージも改まってしまう気がしました。

 

中村晋也氏が作り上げた魔衆像には、鬼気迫るような圧倒的な迫力が。前に立つと呻き声が聞こえて来そうな、経典の世界に自分自身も引き込まれるかのような感覚になってしまいます。

 

『転法輪』(てんぽうりん)〈南面〉

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』パンフレット

 

転法輪ではお釈迦様の布教のようすが描かれます。お釈迦様は鹿野苑で5人の比丘にはじめて法を説かれます。その横にはマガダ国ビンビサーラ王の帰依、祇園精舎を寄進したスダッタ長者の姿も見えます。背後の霊鷲山ではお釈迦様が弟子とともに瞑想にふけります。

 

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』〈西塔 果相〉図録

 

ブッダガヤーで悟りを開いた釈迦が、その後45年間にわたって布教活動を行った様子です。釈迦の主な功績で期間も長いこともあり、初めて説法をした鹿野苑(現在のサールナート)、観無量寿経や法華経を説いた霊鷲山、釈迦に帰依したマガダ王 頻婆沙羅(ビンビサーラ)が建て釈迦が布教の拠点とした竹林精舎、給孤独長者(スダッタ)が建てて釈迦に寄贈した有名な祇園精舎など、複数の場所での場面が一面の中に描かれています。

 

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』〈西塔 果相〉図録

 

『涅槃』(ねはん)〈西面〉

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』パンフレット

 

80歳のお釈迦様は、クシナガラで病に倒れました。涅槃では、沙羅双樹の間に身を横たえて、まさに涅槃に入られる情景があらわされます。空には満月が輝き、母マヤ夫人が見守ります。足元ではアーナンダをはじめ、多くの弟子たちがお釈迦様の最期にのぞんで、嘆き悲しむ姿が描かれています。

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』〈西塔 果相〉図録

 

お釈迦様の命日として3月15日(前後)は、各寺院では涅槃会として、お釈迦様の誕生日の4月8日と共に広く法要が行われます。

釈迦八相を製作するに作者にとっては、この場面を作ることは特別な意義があります。それは世界遺産の法隆寺五重塔 初層の塔本塑像の存在です。日本で唯一と思われる近代以前に製作された釈迦の生涯を現した群像で、特に北面の『涅槃浄土』の弟子たちが泣き叫ぶ像は『法隆寺の泣き仏』日本美術の金字塔と呼ばれる名作。

この場面は法隆寺の泣き仏を再現することであり、制作者にとって特別な想いが注がれることになります。

 

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』〈西塔 果相〉図録

 

『分舎利』(ぶんしゃり)〈北面〉

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』パンフレット

 

中央にはお釈迦様を荼毘(火葬)に付す炎が高く上がります。その左では、各国の使者たちが、仏舎利をもらおうと争いだします。それをドローナというバラモンが諫めて、仏舎利を8つに分けました。使者は、仏舎利を象に乗せて持ち帰り、国に仏塔を建ててお釈迦様を祀りました。お釈迦様の仏舎利の信仰のはじまりが表現されています。

 

 

画像引用:『薬師寺釈迦八相』〈西塔 果相〉図録

 

一般的な釈迦八相は釈迦の最期である涅槃が最後の場面とするのですが、薬師寺の釈迦八相は釈迦の没後の場面である、この分舎利が加わります。薬師寺の釈迦八相に、この場面が加えられたのは、小生には安置されたのが塔の中だったことを考慮したのではないかと考えてます。仏教寺院の塔の本来の目的は釈迦の遺骨である仏舎利を祀るためであり、実際に東塔の心柱の頂上から、中に肉舎利が納められた江戸時代後期の蓮華形舎利容器が見つかっています(現在は舎利は新しい容器に移されて、東塔に戻されています)。

 

蓮華形舎利容器[江戸時代] 画像引用:あべのハルカス美術館『薬師寺展』図録

 

誕生から始まり、悟りを開いて布教の旅を巡った後、涅槃を得た釈迦は火葬にされ、その遺骨は分骨され各国の仏塔に祀られた。その仏舎利が祀られている場所こそが、今拝観者がいる薬師寺の東西両塔であるという、釈迦と参拝者を繋ぐ、より身近に感じられる演出として、釈迦の没後のこの場面が加えられたのではと思います。

 

4年前の西塔 釈迦八相 果相の特別公開のことを書いた記事で、小生は今度新たに安置された釈迦八相像について、以下のような感想を書いています。

 

 本来ならたとえ推測の範囲であったとしても、限界まで創建当時の様式を研究調査して、同じ技法を用いて同じ様式の塑像を蘇らせるべきでは。どれほど素晴らし作品であったとしても、現代芸術作品を常時置くべき場所では無い。特に現在解体修理中の東塔にも、修理完了後の初層に中村氏による釈迦八相、前半生の『印相』の四場面が同じように置かれると聞いた時には「絶対にダメ。白鳳を現代に蘇らせた宮大工のこころざしを台無しにしかねない」くらいに考えたのです。 

 

今回の特別公開も、その時の記憶を思い出しながらの拝観だったのですが、東西両塔の釈迦八相を見終えた感想は4年前とは明らかに違っていたように思います。4年前の西塔の因相だけの公開の時は、再建された塔の新しさもあって美術館で現代アート作品を見ている気分があったかも知れません。

しかし今回の拝観では八相全部が公開となって釈迦の生涯をたどる全場面が完成し、横幅4.7メートル 高さ3.1メートルの巨大なブロンズ群像がまるで映画の大スクリーンのように、遙かインドにいるような感覚で物語を追うことが出来た。美しいブロンズ彫刻の素晴らしさも加わって、名作映画を観たような感動を覚えたのです。

薬師寺東西両塔は確かに文化財であり、建物には深い歴史が刻まれています。しかし、それが文化財である以前に宗教施設であることを忘れてはならないと、この日は気付かされました。この日 金堂の方で聴いた法話の中で「釈迦は一人なのに、仏舎利を納める塔が二つもある薬師寺は、道理にかなわない伽藍をしております。でも、二つあったからこそ、スペアとして片一方が残り創建以来今も残っている」と、少し冗談も交えて僧侶の方が話されていたのですが、小生は薬師寺の塔が二基なのは、釈迦八相全場面を安置するには塔一基では足りない。もしかして薬師寺に塔が二基建てられたのは、釈迦八相のためでは無いかとそんな気もしたのです。

その意味では、釈迦八相あっての薬師寺と言うべきなのかも知れません。おそらく釈迦の生涯を体感できる寺院施設として、薬師寺両塔はその頂点に立ったと言えます。薬師寺東西両塔は、ブッダについて学ぶ場所として一度は行くべき場所になったと考えます。

 

画像引用:

http://genmai-asuka.com/2015/11/16/buddhas-statues-in-the-west-tower-of-yakushi-ji-temple/

 

釈迦八相像を安置する薬師寺三重塔、見上げると塔の上には相輪、頂点には透かし彫りの水煙が青空の下で吹き流しが揺れていました。

東塔の解体修理の期間、令和25年・薬師寺境内での『東塔水煙 降臨展』、令和27年・奈良国立博物館での『特別展 白鳳』、令和2年・あべのハルカス美術館での『薬師寺展』と、この11年の間、博物館で何度も鑑賞する機会がありましたが、落慶法要の終わった東塔の頂上を飾っているのを見た時は「博物館で間近で見た水煙も、ようやく下の塔の上に戻ったのだな」と、長い解体修理の日々が今では懐かしく感じれました。

 

 

薬師寺東西両塔 初層公開、中村晋也氏作『釈迦八相像』の特別公開は、来年(令和6年)1月15日まで行われます。*薬師寺HP

 

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