特別公開 食堂 西塔初層 ─ 薬師寺 平成31年1月2日 ─ | タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
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前回の記事では薬師寺と興福寺の吉祥天巡りのことを書きました。その午前中に参拝した薬師寺、最寄りの駅である近鉄橿原線の西ノ京駅の改札を出て外に出たすぐの所に、このような看板が立てられていたのです

 
 
薬師寺では3つの特別公開が行われているという案内の看板。この中で玄奘三蔵院と大唐西域壁画殿は過去に見たことがありまして、このブログでも2013年6月13日の記事でレポを書いています。しかし、他の二つの特別公開はまったく見たことが無いものだったのです。前の記事にも書いたように小生が薬師寺を参拝するのは平成27年3日3日以来4年ぶり。その4年間に薬師寺はずいぶん様変わりをしていて、驚かされました
 
玄奘三蔵院 画像引用:2013年6月13日記事 
 
この記事では金堂の吉祥天と同じ日に参拝をした二つの特別公開、食堂と西塔初層内陣のことを書きます。まず最初に拝観したのは食堂です。食堂(じきどう)とは薬師寺の寺僧の斎食の修行の場として設けられた、講堂の裏にあった創建時からの由緒を持つ仏堂です。
 
 
平安時代に再建された建物が後の時代(時代不明)に焼失してから、平成29年の10月にようやく最後の白鳳伽藍の主要建物として再建され、26~28日に落慶法要が営まれました。4年前の参拝の時には建設予定地である旧食堂跡に、完成予定図の看板が立てられていました。
 
 
それから4年が過ぎて、落慶をした新食堂へ初めて訪れました。食堂は幅41メートルと、講堂と同規模のとても大きなお堂でした。復元設計は政府認定団体の文化財保存計画協会で、施工は大手ゼネコンの竹中工務店。
 
 
見た目には他の白鳳伽藍と同様の木造古建築で、見た目だけでは無く実際に柱にも触ってみたのですが、その感触は木そももの。
でも、この建物の構造は鉄骨造の近代的な工法による建物であり、古式の木造建築ではありません。木造のように見えるのは鉄柱に本物の木材で化粧してあるからです。境内に入る時にチケット売り場で買った特別拝観券を見せて堂内に入ると、古建築ではないことが明らかになります。
 
食堂内部 画像引用:日本経済新聞 
 
木造建築にはあるはずの柱が堂内には全く無く、外回りの強度があり軽量の鉄骨の柱だけで支えられた、ホールのようなとても広い空間となっていました。内部設計を携わったのは、建築家の伊東豊雄氏。世界的建築賞を数多くの賞を受賞した同氏は、新国立競技場で最終的に採用された隈研吾氏のA案の、対抗馬B案の設計プランを出したことで世に知られています。
採光窓は無く照明による光だけの落ち着いた空間の天井には、極楽浄土を現す雲をイメージそした金色のアルミ板による装飾で飾られています。本来安置されていた仏像は安置されず、代わりとなる仏画の阿弥、陀三尊浄土図を本尊としています。正面の阿弥陀三尊図は高さ4メートル、幅4メートルの巨大な仏画。目の前に立つと見上げるように拝むこととなります。
 
阿弥陀如来三尊浄土図(食堂本尊) 画像引用:薬師寺食堂 図録
 
そして阿弥陀如来を挟むように描かれた内壁全面に『仏教伝来の道と薬師寺』と題された14面の壁画が描かれています。西安の大雁塔を遠望する港から出港する遣唐使船が、瀬戸内を通って日本に帰還し、その後の飛鳥までの風景。そして飛鳥京、藤原京、平城京と時代の変遷を描き、薬師寺と法相宗の歴史を現しています。
 
旅立ち(食堂壁画) 画像引用:薬師寺食堂 図録
 
うねび(食堂壁画) 画像引用:薬師寺食堂 図録
 
平城京(食堂壁画) 画像引用:薬師寺食堂 図録
 
本尊阿弥陀三尊浄土図および、14面の壁画を描いたのは、日本画家の田渕俊夫氏。院展(日本美術院展覧会)で何度も入選されている同氏は、日本画壇の巨匠・平山郁夫氏に師事されておられた、平山郁夫氏の弟子であります。
平山郁夫氏の代表作の一つとされる大唐西域壁画が大唐西域壁画殿に納められているのがこの薬師寺であり、田渕氏の手による食堂壁画は、師匠の薬師寺の作品を受け継いだ作品であります。大唐西域壁画は三蔵法師がたどったインドから長安までの道のりを描いた作品なので、長安から奈良の都までの道のりを描いた食堂壁画は大唐西域壁画の続編、二宇のお堂の壁画は二組でインドから日本までの法相宗教義の伝来を描いた一つの壮大な作品という意味もあるのです。
 
小生が食堂を見た印象としては、無柱の広い空間に近代的な内装。また、旧伽藍の再建でありながら、鉄骨造りの近代建築であること、仏像は安置されず、当然仏像を安置するための須弥壇も設けられずなど、宗教的な目的の薄いお堂という感がありました。多目的ホールとして建てられたという感じで、いずれは何かイベントなどに活用されるのではと予想されますが、いずれにしても薬師寺において新たな特徴を持つ建物として落慶したことは間違いないと思います。
 
食堂でいただいた御朱印は『無量光』でした。無量光仏とは食堂の本尊・阿弥陀如来の異名と聞いていますが、御朱印と一緒だった印刷された紙には「この印は、お薬師様や聖観音様の宝印です」という記載が。薬師様とは金堂本尊の薬師如来像であり、聖観音様とは東院堂本尊の聖観音菩薩像のこと。この御朱印は阿弥陀如来であると同時に、薬師寺全体の御朱印ということでもあったようです。
 
 
薬師寺でもう一か所、特別公開されていたのは西塔でした。東塔が創建当時から残る唯一の本物の白鳳伽藍であるのに対し、西塔は昭和56(1981)年に落慶した再建伽藍。古びた東塔に対して真新しい彩色が目にも鮮やかな、対照的な仏塔となっています。
 
 
二か所目の特別公開はこの西塔の初層でありました。西塔初層の特別公開ということで、開扉された西塔の中に入って拝観したのは、実はこれが初めてではありません。小生が初めて西塔初層の中に入り、拝観をしたのは平成24(2012)年3月10日のことです。当時の小生のネットでの情報発信の中心はまだmixiであり、その時の西塔初層特別公開のことは小生が管理人をしていたmixi南都七大寺コミュニティの方に書きました。
その時は西塔の初層には阿弥陀如来・宝生如来・阿閦如来・不空成就如来の四方仏が心柱を囲んで安置されていました。
 
西塔初層(平成24年時) 画像引用:mixi南都七大寺コミュニティ 
 
これは東塔の初層に江戸時代に造像された四方仏が安置されていたのに合わせ、西塔初層にも新造した四方仏が安置されていたのです。連子窓のある無しなどの違いはあるものの、東塔に極めて似せたフォルムで造られた西塔。塔内もまた東塔と同じ、四方仏で揃えられたというわけです。
「西塔初層内部は昔見たからいいかな」と思っての薬師寺参拝だったのですが、西塔の特別公開の現場に行くと、『文化勲章受章者 中村晋也作 西塔内陣 釈迦四相像特別公開』という横断幕があるではありませんか。「7年前とは違っている」と、ようやく気が付いたのでありました。
 
 
西塔の釈迦八相について、小生は当日現地で初めて知りました。以下に書くことは全て当日に知ったことばかりであります。
近年の仏塔の初層には四方仏を安置するのが一般的ですが、記録を見ると上代の仏塔には塑像(土を焼かずに作成した像)の群像を安置するのが一般的だったようです。薬師寺三重塔・興福寺五重塔など奈良の各寺院の仏塔にも同様の塑像群が祀られていたことが文献などで確かめられますが、現存しているのは世界最古の木造建築・法隆寺五重塔初層の塑像塔本四面具[奈良時代・国宝]だけです。
 
法隆寺五重塔 塑像本四面具(東面 維摩詰像土)
 
受付で購入した特別拝観のチケットを提示して、小生も西塔初層の中に入らせていただきました。
薬師寺三重塔初層ですが、平安時代に編まれた『薬師寺縁起』によると、両塔のそれぞれの初層に釈迦の生涯の重要な八つの場面を描いた『釈迦八相』を法隆寺同様の塑像群で安置していていたと記録があります。薬師寺東西三重塔初層の塑像群はわずかに欠片として東塔伝来品として遺っている他、西塔跡からも欠片が発掘され、合計160点ほどの欠片が確認されていますが、そのほとんどは失われ当初はどんな姿だったかは今となっては全くわかりません。
 
  
塑像欠片(西塔跡出土) 画像引用:釈迦八相像〈西塔果相〉図録
 
薬師寺では現在解体修理中の東塔の落慶に向けて、かつての釈迦八相を蘇らせようと、文化勲章受章者の彫刻家・中村晋也氏に金銅製の群像を依頼。平成27(2015)年に先行して釈迦八相・果相が完成し西塔初層に安置され、6月2~3日に開眼法要が営まれたのです。
この日に小生が拝観した西塔初層内陣特別公開で見たのは、この中村晋也氏が作った、金銅製 釈迦八相・果相だったのです。
 
中村晋也氏作『釈迦八相』西塔東面 成就 画像引用:産経WEST 
 
「中村晋也…どこかで聞いたことのあるお名前」と考えて見ましたら、同じ薬師寺の大講堂の本尊の真後ろ、後堂に安置された国宝・仏足石の両脇に並ぶ『釈迦十大弟子像』の作者でもありました。独特の作風で、記憶に残っていたのです。
同氏は他にも大講堂の阿僧伽・伐蘇畔度両菩薩像も作られるなど、薬師寺伽藍の仏像群に多くの像を奉納され貢献をされていた方でありましたが、中でもこの釈迦八相は特別な大作であります。西塔初層の中に入って釈迦八相群像を目の当たりにしましたが、その大きさは例えれば壁そのもの。初層内陣は群像でいっぱいに埋め尽くされる巨大さで圧倒されました。四方仏が安置されていた時には見ることの出来た塔の心柱は釈迦八相に完全に隠れて全く見えなくなっていました。
 
中村晋也氏作『十大弟子像』大講堂 画像引用:薬師寺HP 
 
釈迦八相とは、釈迦(ブッダ)の生涯において特に重要な出来事を八つの場面としたものです。場面の描かれ方は経典などによって多少の違いがありますが、薬師寺三重塔での釈迦八相は…
◎印相(釈迦が悟りを開く前の出来事)
入胎(釈迦が白象になって、摩耶夫人の胎内に入った)
受生(ルンビニー園で、釈迦が摩耶夫人の右脇から誕生する)
受楽(釈迦族の王子であった釈迦が、享楽を受ける)
苦行(出家した釈迦が、苦行生活をする)
 
◎果相(釈迦が悟りを開いた後の出来事)
成道(釈迦が菩提樹の下で悟りを得る)
 
成道(西塔東面) 画像引用:薬師寺HP 
 
転法輪(各地を回り、人々に法を説く)
 
転法輪(西塔南面) 画像引用:薬師寺HP 
 
涅槃(釈迦が入滅する直前、最後の教えを説く)
 
涅槃(西塔西面) 画像引用:薬師寺HP 
 
分舎利(仏舎利(釈迦の遺骨)を、八か国に分けて供養する)
 
分舎利(西塔北面) 画像引用:薬師寺HP 
 
大講堂の十大弟子像も素晴らしいブロンズ像でしたが、こちらは本当に大作。中村氏の彫刻家人生の集大成と後々まで語り継がれるような作品であるだろうと、目の当たりにして思いました。
 
しかし、同時に「これはダメでしょ」という感想も持ったのであります。釈迦八相は確かに稀有な芸術作品。見るだけで魂が引き込まれるような、迫力を持つ世界観に圧倒されるほどの魅力を感じました。
しかし、これは完全な現代芸術なのであります。 
 
東面 成道(部分) 画像引用:釈迦八相像〈西塔果相〉図録
 
技法においても、造形においても、平成の釈迦八相は白鳳・天平時代のものとはまったくかけ離れていると言わざるを得ません。当時主流だった唐や朝鮮の様式では無く、人物はインドの人物通りのコーカソイド系の面立ち。近代的な写実的な人物表現には上代の様式はまったく見られません。復興伽藍である西塔は基本設計はもちろん、用いられている釘や木材加工のために使用された大工道具に至るまですべて創建時に用いられていた物を復興させるという徹底ぶり。「時間を超えて、白鳳時代の伽藍を現代に蘇らせる」というコンセプトで整備されたのが、薬師寺の白鳳伽藍であったはずです。
本来ならたとえ推測の範囲であったとしても、限界まで創建当時の様式を研究調査して、同じ技法を用いて同じ様式の塑像を蘇らせるべきでは。どれほど素晴らし作品であったとしても、現代芸術作品を常時置くべき場所では無い。特に現在解体修理中の東塔にも、修理完了後の初層に中村氏による釈迦八相、前半生の『印相』の四場面が同じように置かれると聞いた時には「絶対にダメ。白鳳を現代に蘇らせた宮大工のこころざしを台無しにしかねない」くらいに考えたのです。
 
ただ、その後もじっくりと考えたのですが、たとえば源平合戦の時代の平家の南都焼き討ちの後、鎌倉時代初期に行われた復興事業では、奈良の寺院には数多くの仏像が造られました。上代では装飾や彩色の豪華さ優美さに重きを置いた仏像でしたが、鎌倉期の仏像は筋肉の表現など人間の肉体そのものの美しさがポイントとなりました。
もしかしたらこの時代に「創建時とかけ離れた様式。本来の様式を重んじるべき」という意見を持っていた人もいたかも知れません。しかし、鎌倉時代復興期に造られた奈良の多くの仏像。現在では紛れもない“日本の至宝”として誰もが認めるに至っています。
中村晋也氏の釈迦八相も、遠い遠い未来に日本を代表すると言われる鎌倉時代の仏像のように、日本の至宝と評されるのかも知れません。
 
西面 涅槃(部分) 画像引用:釈迦八相像〈西塔果相〉図録
 
この釈迦八相の価値を決めるは、もしかしたら何百年も先の未来の人たちなのかも知れません。長い長い歴史の途上に常にいる歴史ある寺院では、現代の人間の価値などすぐに過去の時間の中へ消え去ってしまうのかも知れません。

 

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