幻の平安宮跡 ─ 京都 令和2年1月29日(2月22日補完) ─ | タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
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アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

奈良の世界遺産はお寺・神社以外では、参詣道である吉野の大峯奥駈道と春日山原生林。そして、もう一つ登録されているのが特別史跡・平城宮跡です。平城宮跡は大正年間から史跡となり、全体が国営の歴史公園として整備されて、往年の宮域を実感しやすくなっています。

 

平城宮跡歴史公園 撮影:平成24年4月5日

 

それに対して京都も『古都京都の文化財』として17の寺社が世界遺産に登録をされていますが、しかしその中には平安宮跡の名はありません。平安宮は平城宮以上の歴史上の重要な場所のはずなのですが、京都はどちらかと言えば、室町時代・安土桃山時代・江戸時代(特に幕末の動乱期)と中世以後の歴史の跡の方が身近で、平安宮は繰り返された戦禍などによって失われ忘れ去られた歴史の跡という印象を拭えません。

小生は奈良のお寺にずっとこだわって来たのは、お寺や仏像が好きというよりも、歴史を学びたいという気持ちからというのが小生のスタンスです。仏教勢力が歴史を左右した奈良時代を知るためには、その時代に栄華を極めたお寺を知ることだと思うのです

もちろん、奈良時代の政治の中心は平城宮ですから、お寺だけでは無く歴史をたどるため平城宮を散策したこともあります。しかし、奈良の歴史は平城宮だけでまわっていたわけではありません。奈良は奈良時代だけでは無く、平安時代においても重要な歴史を刻んでいます。そしてその平安時代の政治の中心であった平安京は奈良の歴史も含めた日本の歴史を語る上で欠かせない場所であったはずです。

 

上代の歴史を研究している自分は「一度平安宮をゆっくり歩いてみたい」と以前から思っていました。法隆寺金堂壁画の写真撮影を行った京都便利堂の三条富小路店を訪れるために今年1月29日に京都市街を訪れた小生は、せっかく京都に来たのだから、他に見ておきたい場所にも行ってみようと思い。これまでなかなか行く機会の無かった平安宮跡に行ってみました。なお、1月29日を補完するために2月22日にも平安宮跡を歩いています。今回の記事では1月29日の取材を中心とし、2月22日の取材によるレポと写真も交えて記事を書きたいと思います。

 

平安宮は大内裏と呼ばれることの方が多いのですが、この記事では平安宮と呼び方を統一します。

平安宮の歴史は延暦13(794)年11月の桓武天皇による平安遷都により始まります。以後400年に亘り日本の政治の中心を担いましたが、度重なる焼失により荒廃し、ついには南北朝時代に里内裏であった土御門東洞院殿が皇宮として定着し、明治維新を迎えるまで京都御所とされることとなったのです。

その結果、打ち捨てられてしまった平安宮の宮域には豊臣秀吉による聚楽第、徳川家康による二条城などが敷地内に築かれるなど様々な建物が建てられ、やがて平城宮は市街地の中に消えてしまったのです。

平安宮とはどのようなものだったのか。その推定図を今の京都市街のグーグルマップと重ねた画像を作ってみましたなお、平城宮の推定図の引用元はこちら

 

 

その宮域は北西は一条御前通、南東は二条大宮通の東西1.2㎞・南北1.4㎞。ちなみに、下の画像は上の地図と同縮尺の奈良の平城宮跡の地図です。広大な平城宮跡の歴史公園を歩いたことのある方ならば平安宮の広さを実感できるのではと思い、比較として用意しました。

 

 

史跡公園として整備された平城宮跡ならば広さも、往時のイメージもつかみやすいのですが、すっかり市街地化してしまった平安宮では千年前の姿を思い浮かべるのは容易ではありません。

平安宮跡へ行くための交通機関はJR西日本と京都市営地下鉄の二条駅で、駅から降りるとすぐに千本通りに出ます。千本通りは平城京を南北に貫いていた、メインストリート朱雀大路の跡を通る道路です。駅から千本通りを歩くと100mもしない場所に石碑が目に止まります。平城宮の正面入口である朱雀門跡です。

 

 

平城宮跡歴史公園では再建された立派な朱雀門が再現されており平城宮跡のランドマークの一つとなっていますが、平安宮跡ではこの石碑一つがあるだけに過ぎません。一体どのような壮麗な門が建っていたのでしょうか。

 

平城宮跡 復元朱雀門 撮影:平成25年7月17日

 

その朱雀門跡の近くの横断歩道から、千本通りを北に望みます。朱雀門の北約100mにあった応天門跡から、昭慶門跡までの470mが朝廷の政治の中枢だった朝堂院だった場所です。

 

 

平安時代にはこの風景に、朝堂院が広がっていました。この道路を挟んで左右に十二朝堂が立ち並び、遠くに見える千本丸太町の交差点付近に大極殿が建っていました。大極殿前庭では、平安王朝華やかりし時代、天皇即位式などが行われました。それがこの場所なのです。

 

朝堂院模型(平安京創生館・平安京ジオラマより拡大)

 

平城宮跡でも難波宮跡でも朝堂院朝堂の建物の跡には土檀が築かれ、建物がどのように建っていたのか実感出来るように整備されていますが、しかし平安宮にはそのような整備はありません。十二朝堂の中でも左右大臣と太政大臣の座があった『昌福堂』の跡を示す、住宅などが入り組んだ街角の中にうっかりしていると見逃してしまいそうなちょっと小さめの案内板一枚だけが、ここに朝堂があったことを伝えるのみです。

 

 

その朝堂昌福堂跡のすぐ北西、千本通りと丸太町通りが交差するのが千本丸太町交差点。この交差点の中心から少し北の道路上が、平城宮の正殿である大極殿が建っていた跡となります。

大極殿という呼称は中国道教にある宇宙の中心を示す太極に由来し、天の中心となる大極となる天皇が支配をする場所を指します。天皇を頂点とした律令国家において、国家儀式の場としての朝廷の正殿が大極殿でした。

大極殿という呼称は中国道教にある宇宙の中心を示す太極に由来し、天の中心となる大極となる天皇が支配をする場所を指します。天皇を頂点とした律令国家において、国家儀式の場としての朝廷の正殿が大極殿でした。

 

 

この交差点の歩道上には、ここが大極殿や朝堂院の跡であったことを示す説明板が複数設置されていました。

 

 

奈良の平城宮は宮域全体が歴史公園となり、大極殿の復元も旧大極殿跡に行うことが出来たのですが、京都は大極殿跡は上に主要道路が通り基壇すら残っていない現状となっています。平安時代、ここでどのような風景が広がっていたのか。そのイメージが体感できる場所を求めて、補完日であった2月22日に千本丸太町の他、もう一ヶ所京都の名所を訪れてみました。

 

 

京都市の東の郊外である岡崎に明治28(1895)年平安遷都1100年の年に創祀された平安神宮は、当時の研究による考証によって平安宮朝堂院を5/8のスケールで復元され建立されたものです。外拝殿は大極殿を復元して建てられました。千本丸太町と平安神宮の両方の地に訪れることで、千年前の平安宮をより想像を膨らませることが出来ます。

 

 

平安神宮の外拝殿は幅33.3m。平安神宮は平安京朝堂院の5/8のスケールで建てられていますから、大極殿は幅約53mと推定されていたようです。ちなみに平城宮大極殿は発掘調査の結果幅45mであることがわかってますから、その1.2倍の規模と推定されていたことになります。

もしも今の千本丸太町に平安宮大極殿が建っていたらどんな風景になるのか。千本丸太町の大極殿跡推定地に平安神宮外拝殿を大極殿と同じスケールにしてレタッチソフトで合成しイメージ画像を作ってみました。平安宮大極殿はこの場所にこのように建っていたのです。

 

 

 

国家の正殿としての威容を誇った大極殿は3度再建を繰り返し平安時代末期までこの地に建っていましたが、安元3(1177)年の“安元の大火”による焼失を最後にこの世から姿を消しました。

大極殿が建っていた跡地の西側の住宅地の中にある内野児童公園の中には、平安神宮が創祀されたのと同じ明治28年・平安遷都1100年に立てられた『大極殿遺跡』の立派な石碑があります。多くのガイド本では平安京大極殿跡と言えば、この公園が紹介されています。決して広いとは言えない公園で、子供用の遊戯具越しに見る大極殿の石碑には、平安王朝栄華の夢の跡を感じてしまいます。

 

 

ちなみに内野児童公園の“内野”とは、荒れ果てた草木の覆い茂る荒野を意味する言葉だそうで、時代の流れと共に荒廃した平安宮に対する盛衰の哀れをそのような呼称で呼んだそうです。一見ありふれているような地名にも、あまりに深い歴史があるのも京都という場所なのです。

 

平城宮跡の交通機関の最寄り駅は幻の平安宮を知るために、小生は『平安宮創生館』という施設に立ち寄りました。平安宮大極殿跡の西約300mほどの場所にある京都アスニー(京都市生涯学習総合センター)1階に平安京を体感するをコンセプトに平成18(2006)年にオープンした施設です。

平安宮造酒司跡にビルが建てられたとうことで、建物入口の地面には柱跡などの発掘調査で確認された倉庫の遺構を示す模様がありました。

 

 

平安京創生館は平安京から発掘された遺構や復元模型などが多く展示し、行くと平安京を体感できる施設となっています。館内には岡崎の法勝寺や鳥羽離宮の模型、洛中洛外図屏風(上杉本)[米沢市上杉博物館蔵・国宝]や源氏物語車争図屏風[京都市歴史資料館蔵]といった平安京の風景を描いた絵画の複製陶板壁画が壁を覆い、在りし日の都の風景が展示されていました。

なお、館内で写真を撮る時には、係員から「商用使用は駄目おすえ」と念を押されましたので、このサイトに貼った画像の商用使用はダメですよ~。

 

 

特に1/1,000で再現した、平安京のジオラマは一見の価値があります。平成6(1994)年に京都市立美術館で開催された『甦る平安京展』のために作成された7.8×6.6mもの巨大な模型です。

 

 

平安京創生館を一回りし、平安宮についての知識を一通り学習してから、こちらの施設でいただいた何枚もの資料を手に、また平安宮巡りに戻ります。

 

大極殿跡の石碑が建つ内野児童公園には、近隣の平安宮の施設跡のマップが説明板にありました。

 

 

平城宮の推定図を見ると、大極殿の南には政務官が朝政を行っていた朝堂という舎殿が立ち並ぶ朝堂院が、大極殿院の西には賓客をもてなすための饗宴の施設、豊楽院があったことが伺えます。この説明板の地図や、平安京創生館で得た情報などを頼りに平安宮巡りをしてみました。

 

 

平安京創生館から出ると、まず、丸太町通りを挟んだすぐ南側の住宅地の中にある豊楽殿(ぶらくでん)跡へ行きました。豊楽殿は朝廷による饗宴や主要な儀式などを行う施設『豊楽殿』の主殿で、生活道路の中に跡地を示す説明板があり、発掘調査で遺構が確認されています。

 

 

豊楽殿は建物の規模が平城宮の第二大極殿とまったく同じだったことも確かめられ、平城宮の第二大極殿が移築され豊楽殿として転用されたという説もあります。

豊楽院を示すのはこの説明板と、その道を挟んで反対側に設置された豊楽殿の後房の清署堂と、清署堂と豊楽殿を結ぶ豊楽殿北廊を紹介する二か所の説明板のみです。それに豊楽殿北廊と豊楽殿と清署堂の一部基壇の場所を示す敷かれたブロック列しかありません。

 

 

豊楽院は平安宮では朝堂院に次ぐ規模を誇り、饗宴の他、新嘗祭や大嘗祭、節会などの儀式の場でもあった、宮中でも非常な重要な役割を持った場所でした。しかし現在では市街地となり住宅や道路が埋めたその現状では、院の規模どころか建物が建っていた場所すら察することは難しいと言わざるを得ません。

 

豊楽殿模型(平安京創生館)

 

豊楽院は他の宮中舎殿同様に10世紀には既に荒廃し、康平6(1067)年に全焼したのを最後に廃されました。

 

豊楽院跡を見終えた小生が次は、千本通りを挟んで大極殿の東側、下立売通りを歩いてみました。ここは天皇の私的な生活の場所『内裏』のあった跡です。内裏は千本通りの東、出水通りから下立売通りの間を中心に東西200m、南北300mの区画でありました。

 

内裏模型(平安京創生館・平安京ジオラマより拡大)

 

天皇が政治的発言力を持っていた時代には、平安宮全体が政務のための舎殿が立ち並ぶ大きなエリアとなっていましたが、後の摂関政治による公家による時代、幕府政治による武家による時代を迎え、天皇が君主として執政することが無くなるにつれ、内裏以外の平安宮は荒廃しました。平安宮で最後まで維持されていたのは内裏であり天皇の住まいということで言えば、平安宮の中でも内裏こそが本当の意味での皇居であり宮であったのです。

(下の画像は内裏推定図にグーグルマップを貼ったもの。内裏推定図は現地説明板より引用

 

 

禁裏の別名を持つ内裏は、簡単に足を踏み入れることが出来ない特別な場所であり、その周囲は内郭回廊で厳重に囲まれていました。下の写真はその内郭回廊跡の説明板ですが、説明文によると近辺には内裏の様々な施設を示す案内板がありますが、いずれも古地図からの推定地であるのに対し、この内郭回廊跡は建物の遺跡が実際に発掘された唯一確認できた内裏の遺構なのだそうです。

 

 

内裏跡は古い町家や真新しい住宅などが入り混じる、京都市内のごくありふれた町並みの住宅地となっていますが、ありふれた町と違うのは、その生活感あふれる町の中の至る所に内裏の舎殿の跡を示す石碑や説明板があることです。細い道路に入り組んだ建物という町の中ということで、いずれの説明板も見逃しそうな小さなものですが、いずれもが正史に記述があり、源氏物語の舞台として描かれている歴史ある場所ばかりなのです。ここからその町中にある説明板の一部を連続で紹介します。

 

内郭回廊跡のすぐ近くには、天皇事務の補佐を担っていた役人、蔵人(くろうど)の詰所である蔵人町屋敷の説明板です。跡地のマンションの名が…(笑)

 

 

内郭回廊や蔵人町屋敷跡から80mほど東に進むと、下立売通り右手に内裏内郭回廊の正面入口、正殿であった紫宸殿の前庭の正門であった承明門跡の説明板が立てられています。

 

 

その承明門跡の下立売通りの道路を挟んで向かい側に、内裏の正殿である紫宸殿の説明板があります。本当は看板の立っている場所は紫宸殿前庭にあたり、実際は説明板から25mほど北の住宅が建っている場所が紫宸殿跡地です。

 

 

本来は天皇の即位などの大礼は大極殿で行われていましたが、平安時代中期になるとそれらの儀式は紫宸殿で行われるようになるなど、平安宮が衰退すると紫宸殿が事実上の平安宮正殿に位置付けられるようになりました。

大極殿が国家的行事の主要儀式殿なのに対し、紫宸殿は天皇家の私的な区画の正殿というのが本来の役割であり、その大極殿が失われたということは、天皇家がもはや政治から退けられていたことを意味してます。京都御所には正殿は紫宸殿であり大極殿はありませんし、東京の皇居新宮殿の正殿も大極殿では無く紫宸殿を踏襲しているのです。

 

京都御所 紫宸殿  画像引用:Wikipedia 

 

紫宸殿跡の説明板のすぐ東の交差点を左に曲がると、内裏紫宸殿跡の東を南北に通る浄福寺通りに出ます。この道沿いには宜陽殿、綾倚殿といった、天皇の儀式のための建物の跡の石碑がいくつも立てられていました。

 

 

 

駐車場の角に石碑が立てられているのは昭陽殿跡です。昭陽殿は皇太子の在所である東宮御殿で、東宮の名の通り、内裏の東に位置しました。

 

 

浄福寺通りを昭陽殿まで北へ歩くと、交差点を左に曲がり紫宸殿の裏に出ます。この辺りに建っていた承香殿やし弘徽殿といった建物は後宮の跡です。天皇の妃である高貴な女性たちがここで暮らしていました。

 

 

 

そして弘徽殿の南には清涼殿が建っていました。天皇の日常生活のための御常御殿という、紫宸殿に次ぐ内裏における重要な建物だったのですが、説明板は紫宸殿同様に小さなもので、なかなか見つけられず少し探して歩きました。自分は菅原道真の怨念によって起きたと語られている、歴史に名高い『清涼殿落雷事件』があったとして印象に残っている場所です。

 

 

すべての舎殿が失われた平安宮において最後まで残っていた内裏でしたが、源平合戦による戦乱によって戦火の被害と朝廷の財政的困窮というダブルパンチに見舞われ、鎌倉時代前期の安貞元(1227)年の内裏全焼を最後に平安宮はこの世から姿を消したのです。

 

住宅がひしめき合いイメージを膨らませながら歩くことも困難となった平安宮跡は、かつての壮麗な風景を想像することは容易ではありませんでした。しかし、平城宮跡歴史公園が世界遺産に登録されていることを考えると、もしもここが平城宮跡のように整備がされていれば、確実に世界遺産に登録されているでしょう。本当に世界遺産に値する場所が町になりそこで人々が暮らしていると思うと、何とも言えない不思議な気持ちになります。小生だったら「畏れ多くて、ここで住むのは恐い」と思うかも知れません。

 

奈良平城宮の第一次大極殿院は国土交通省が管轄となる国の事業として復元事業が行われ、ています。その目的は古代律令国家が完成をみた奈良時代前期の国家主要儀式などが行われた場所である大極殿院を、奈良時代を今に感じる場所を創生し、その歴史・文化を体験的に学べる場所にすることがコンセプトでした。

 

平城宮跡復元第一次大極殿 撮影:平成24年4月5日

 

しかし平城京は70年余という短命の都だったのに対し、平安京は千年以上の長きにわたり都として天皇を擁して来ました。今回歩いた平安宮も400年間朝廷として存在した、京都の中心地と言うべき場所。歴史上最も重要な施設を今に甦らせ歴史文化に触れて学べる場所を設けるというという目的ならば、最も優先的に再建されるべきは平城宮では無く平安宮大極殿ではないかと思うのです。それも、元々の大極殿が建てられていた跡にです。

実は平安宮の復元が試みられたことが過去にありました。先に紹介をした岡崎の平安神宮ですが、本当は平安宮跡に創祀する計画だったのです。それは平安京朝堂院の復元事業と言ってもよいものだったのですが、用地買収に失敗をしやむを得ず当時は郊外だった岡崎に建立されたという苦い歴史があるのです。平安神宮が創祀されたのと同じ年に、内野児童公園に『大極殿遺跡』の碑が立てられたのも「本当は平安宮を復元したかった」という想いの表われに他なりません。

荒地であった平城宮跡と違い、市街地となってしまった平安宮跡の復元は今では困難となってしまいました。しかし、それでも京都市のために、やはり大極殿再建の夢は捨てるべきではないと小生は思っています。

「平安京跡は市街地になり、大極殿跡は重要な道路になっているから無理」ということなのでしょうが、それこそパリの凱旋門のように環状交差点にして、交差点中央に建てるくらいの思い切った都市計画をするべきと思うのです。

 

参考画像 パリ 凱旋門  画像引用:http://toolbiru.web.fc2.com/kousou-p/garaly-39.htm 

 

平安宮大極殿とはそれほどの再建すべき理由も価値もある建物と小生は思います。先日火災で焼失した首里城正殿や今度木造復元が進められているという名古屋城天守など、その都市の歴史的象徴である建築物はその都市の人々の精神的支柱ともなります。小生は平安宮大極殿は京都の、そして日本という国の精神的支柱となるに値する建築物だと考えます。

 

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