蟹供養放生会 ─ 蟹満寺・令和6年4月18日 ─ | タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
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今回紹介するのは、京都府木津川市山城町の蟹満寺(かにまんじ)で4月18日に行われた『蟹供養放生会』のレポです。

蟹供養放生会は4月18日のことでしたが、実は蟹満寺へは昨年11月3日に参拝を一度させていただいていたのです。木津川市の蟹満寺はいわゆる南山城の古刹寺院で、昨年7月26日に鑑賞をし、8月17日の記事で紹介をした奈良国立博物館での特別展『聖地 南山城』で地域ナンバーワンの名宝・白鳳時代造の銅造釈迦如来坐像のことを知り、早々と南山城の白鳳仏を拝みたいと拝観をしたのです。

本当ならももっと早くに紹介すべき蟹満寺でしたが、その拝観の折りに4月の蟹供養放生会のことを知りまして、「蟹満寺のことは蟹供養放生会のレポをして、その時にブログで紹介をしよう」と、ここまで拝観レポを留保していました。この記事では今年4月18日の蟹供養放生会を中心に、併せて昨年11月の参拝の模様を併せたレポをしていきたいと思います。

 

蟹満寺とはユニークな山号の寺院ですが、実際にその由緒はカニと深い関わりがあります。それについては後述します。海の無い南山城で“蟹満寺はカニの寺”という触れ込みを地元ではされているようで、最寄り駅であるJR奈良線 棚倉駅にはカニのレリーフが。カニのお寺の里として地元を上げて盛り上げているという感じでした。

 

 

棚倉は最寄りの駅ですが、蟹満寺へ行くには棚倉駅からは1.5kmほど歩かないといけません。昨年11月には岩船寺や当尾の石仏群にも行ったので自家用車で行きましたが、4月18日は蟹供養放生会だけが目的だったので、電車を使って行ったのです。

 

 

途中、車と人がすれ違え難いような細い道もある中を、ダブルカメラをぶら下げて歩くこと30分、蟹満寺に到着しました。

決して広い境内を持たない蟹満寺ですが、本堂には五色の幕が張らていたり『蟹供養放生會』と書かれた登りが掲げられていて、すっかり法要の華やかな雰囲気となっていました。

 

 

 

 

ちなみに、下の画像は昨年11月3日の普段の日に撮影した蟹満寺の本堂です。ここから少し蟹供養放生会から離れて、蟹満寺というお寺について昨年の参拝レポと併せて書いてきます。

 

 

小生が参拝をした秋は『木津川市2023秋の特別公開』として、九相図などが公開されていると聞いて、白鳳仏の釈迦如来像と併せて拝観しようと訪れました。今年の蟹満寺は曇って日差しの無い一日となりましたが、昨年の蟹満寺は日差しがまぶしい快晴でした

 

 

山門の脇には鎌倉時代後期の十三重塔がひっそりと立てられていました。

 

 

蟹満寺は江戸時代初期に真言宗智山派の寺として再興され、厄除けの寺として信仰を集めて来ました。十三重の塔を横目に正面参道を通って、本堂に入ります。

本堂で特別公開されていた九相図ですが、九相図については図録もパンフレットにも解説は無く、現地に特に説明はありませんでした。ここで画像も説明もここでは省くことになります。『九相』とは複数の経典に書かれている、死体が腐り朽ちてゆく様を説いたもの。現世の肉体が不浄な物体であり肉体に執着する生への固執を諭すための教えです。本堂は江戸時代初期の建立ですが、平成22年に新築同様の大改築がされ、見た目にはピカピカの新築。堂内の須弥壇も無垢の白木が真新しくてきれいでした。

 

画像引用:KYOTO SIDE

 

本尊は『釈迦如来坐像』、像高240cmのいわゆる丈六仏(立った丈が1丈6尺(485cm)、座った丈が8尺(243cm))です。

年代は1300前の白鳳時代造とされ、かつて白鳳時代には多くの寺院の本尊として作られた銅造丈六仏でしたが、完全な形で現存するのはここと薬師寺の薬師如来しか無いという貴重な古仏。その芸術性もあり、国宝に指定されています。特別公開があるということで選んできた蟹満寺ですが、奈良国立博物館の特別展『聖地 南山城』でも出展されなかった、南山城の名宝中の名宝である釈迦如来坐像がお目当で参拝したというのが本音です。

 

画像引用:奈良国立博物館『特別展 聖地 南山城』図録

 

平安時代に罹災した後が痛々しく残っています。この仏像がいつどこでどういう目的で造像されたのかは記録が無く、現在も諸説議論が行われています。

 

画像引用:古寺巡礼 京都南山城の仏たち(京都 南山城古寺の会編・東京美術刊)

 

平成17(2005)の発掘調査で本尊の台座は白鳳期のものという調査結果が出たので、現在のお寺の由緒にも「白鳳時代からの本尊、不動の旧仏」と書かれています。しかし、平成20(2008)年の再調査で本堂下から江戸時代の地盤が発見され、不動の旧仏の可能性は薄くなりました。

また、蟹満寺に伝わる由緒の多くは観音菩薩の霊験にまつわるものばかりであり、元の本尊は観音菩薩だったようです。…となると、いつから白鳳時代の釈迦如来像が蟹満寺の本尊になったのか、この釈迦如来像は元はどこにあったのか。新たな謎となっています。

戴いた御朱印も釈迦如来でした。

 

 

本堂では本尊の銅造釈迦如来坐像の他、聖観音菩薩像や如来型坐像などを拝観することが出来ました。聖観音菩薩像は像高141cmの木彫像。元の本尊とされ、昭和前期までは独立した観音堂が建てられていましたが、現在は本堂須弥壇右が安置場所となっています。この像は平安時代造ですが、当初から残るのは頭部のみで、ほとんどが後補となっています。

 

画像引用:蟹満寺パンフレット

 

如来型坐像は脱乾漆像を木彫で表現しようとした、あまり他に類の見ない技法で造られた像。奈良時代後期~平安時代初期の作と推定され、市の指定文化財となっています。昨年の奈良国立博物館での特別展『聖地 南山城』に、蟹満寺からはこの像が出展されました。

 

画像引用:蟹満寺パンフレット

 

蟹満寺の文化財を紹介すると以上となりますが、それよりもこのお寺の寺号『蟹満寺』こそがこのお寺の名物。「カニのお寺」それが蟹満寺の評判となっています。

海の無い南山城で何故蟹満寺か。学術的には蟹満寺がある綺田(かばた)という地名が古くは「かにはた」「かむはた」と読まれ、それが訛ったとするのが有力と言われています。しかし、寺はその縁起として「カニの恩返し伝説」というのを伝えています。以下、蟹満寺の縁起である、カニの恩返し伝説を紹介します。

 

昔むかし、南山城のこの地に観音信仰の深い父母と娘の三人家族がおりました。ある日その家族の娘が村に出掛けていると、村人がカニをいじめていたので、信心深い娘は命をいたわるようにと村人を諭し、家の糧を差し出してカニを助け逃がしてやりました。

その後日、家族の父が農作のために田に出ていると、ガマガエルを咥え、今にも飲み込もうとする蛇に出会いました。信心深い父もガマの命を救おうと蛇に命乞いを求め、その想いの末に「ガマを救えば、我が娘をおまえの嫁にやろう」という約束することに。ガマの命は救うことは出来ましたが、一家は蛇に娘を嫁がさねばならなくなってしまったのです。

家に帰った父は家族に打ち明け、蛇に備えて厳重な戸締まりをすることに。日没が近づいた刻を迎えて正装の貴公子が一家の家に。田での約束を果たすように一家に迫りますが、一家は厳重な戸締まりで対抗します。

すると貴公子は正体を現し、大蛇になって家を壊そうと激しく攻撃を繰り返して来たのです。絶体絶命の一家は家に閉じこもり、一心に祈ると観音菩薩が出現。「慈悲の心深く善良なそなたたちには、救いがあるだろう」と一家に告げました。

すると、大蛇が暴れていた家の外が、謀らず静かになったのです。恐る恐る一家は家の外に出ると一家がそこで見たものは…。

何万ものカニの死骸と、そのカニに切り刻まれた大蛇の亡骸がありました。いつか娘が救ったカニが、一家を助けるために加勢をして戦い一家を救ったのです。

観音菩薩の功徳と身を挺して一家を守ったカニのため、一家は観音菩薩を崇め一家を守ったカニの供養をするための寺を建立しました。それが蟹満寺の始まりです。

 

蟹の恩返し挿絵 引用:蟹満寺パンフレット

 

この奇譚は平安末期頃に編纂された『今昔物語集』の巻第十六に書かれているエピソードで、平安時代には既に蟹満寺がカニの奇譚の伝説を持つ寺であったことがわかります。

「カニの恩返し伝説の寺」として知られる蟹満寺は、とにかくカニの寺として有名。軒瓦や賽銭箱に見られる蟹牡丹の紋や、手水や蟇股に彫られた彫刻など、境内のいたる所カニ、カニ、カニ。カニをモチーフにしたデザインでいっぱいなのです。

 

 

 

 

話を今年の4月18日に戻しますが、そのカニの恩返し伝説にまつわる縁起を讃え、観音菩薩の功徳と創建の伝説にまつわるカニの供養を目的として行われるのが、毎年4月18日に行われる『蟹供養放生会』ということです。

放生会(ほうじょうえ)とは狩猟で捕獲した鳥獣を野に放ち、不殺生を戒めるという儀式。このブログでは奈良の興福寺一言観音堂の放生会を2015年4月16日の記事で紹介したことがあります。興福寺の放生会は金魚を猿沢池に放流するのですが、蟹満寺では境内南東隅に立てられた蟹供養塔と石造観音菩薩像にある手水鉢にサワガニを放流します。

 

 

蟹供養塔の所に立てられたのぼり旗をよく見ると、大阪の有名なカニ専門店『かに道楽』施主の文字が。

蟹供養放生会にはカニ業者をはじめ漁業関係・宿泊飲食業者など、全国のカニに関わる業者の協賛があり、参道や本堂の周囲には多くの関係業の奉賛のぼり旗が立ち並ぶのです。

 

 

蟹供養当日は本堂正面の扉が開放され、普段は拝観料を払って拝観をする本尊釈迦如来像を前庭から拝むことが出来ました。貴重な機会です。

…と言っても、この日だけは旧本尊だった観音菩薩が、事実上の本尊として法要が行われます。蟹満寺の聖観音菩薩は厄除け観音として家守りの霊験があると信仰を集めています。

 

 

 

本堂前には毛氈縁台が並べられ、さながら茶席のような雰囲気で参拝者を迎えられていました。以前は尺八演奏や抹茶接待も正午過ぎくらいからあったそうですが、コロナ禍以後は規模が縮小され午後2時からの本堂内の護摩法要の後、蟹供養塔での放生会だけとなっていました。

 

 

講の方には記念品もあったようですが、小生のような一般参加者には茶菓子のキットカットが配られました。

 

 

 

午後2時からの法要は堂内で行われます。法螺貝が鳴らされ厳粛な雰囲気の中、僧の列が正面から入堂されます。

 

 

蟹供養の法要は、本尊釈迦如来横の聖観音菩薩像前で真言宗らしい護摩法要が行われます。堂内に入れるのは招待された講の方のみなので、小生は前庭から法要の模様を伺うことになりました。

 

画像引用:KYOTO SIDE

 

30分ほどで法要は堂内での護摩法要から、蟹供養塔での放生会へと進行します。そして、このタイミングで放生会の主役、カニさんの登場。

場内にはカニを放生するためのプラスチックのカップは早くから置いてありましたが、ここでカニの入ったガラス水槽が持ち込まれ、中には何百匹ものサワガニが。持ち込まれたカニは一匹一匹、放生用のカップへと移されて行きます。

 

 

 

 

蟹供養塔の前には供え物として、立派なタラバガニが供えられます。(カニの供養に供え物がカニとは…)

 

 

 

そして、護摩法要が終わった僧侶の皆さんが本堂から出て来られて…

 

 

本堂前から山門前の席までのお練りとなります。法螺貝を鳴らし読経をされながら練り歩かれます。

 

 

そして、山門前で散華が撒かれます。

 

 

 

僧侶のみなさんは山門前の席に着席し、読経をして放生を迎えます。放生するのは一般の参拝者で、蟹供養塔の観音像の前に列を作ります。

 

 

放生をする参拝者は、列の最後尾に置かれた長机で受け取ったサワガニが一匹入った放生用のカップを受け取り、蟹供養塔前の水受け鉢に放すのです。

 

 

 

小さな手水鉢はたちまちサワガニで一杯に。池に放流すると生態系に影響すると思われてか、放生はこの小さな手水鉢ということですが、ここでは水槽と何ら変わらないということで、カニたちはみんな鉢の外に逃げようとゾロゾロと出てくるのでした。

 

 

観音菩薩の使いのように恩のある親子を大蛇から救ったという、カニたちを供養するという『蟹供養放生会』。「カニの恩返し」というユニークな伝説がこの行事を生み出したと考えると、この法要が語り部のように伝説を後世に伝える役を担っているのでしょうか。

去年の秋からずっと行きたかったこの法要、よい思い出となりました。

 

 

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