紫香楽宮跡(甲賀市・旧信楽町) ─ 令和5年9月9日・ 10月10日─ | タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
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今回このブログ記事で取り上げるのは、滋賀県甲賀郡信楽町です。滋賀県南東部に位置する信楽と言えば、多くの人はタヌキの置物で有名な信楽焼の里というイメージされるでしょうが…

 

 

 

小生のような考古学ファンにとっての信楽は特別な場所、奈良時代の『紫香楽宮』という、かつて日本の首都があった歴史的に重要な場所なのです。

奈良時代に大仏を建立した聖武天皇は、巨大な宮城である平城宮において治世を送りましたが、天平12(740)年から同17(745)年の間、『彷徨五年』と称される平城京を離れ転々と宮遷りをした時期がありました。紫香楽宮はその宮が造られた地の一つで、有名な天平15(743)年の『大仏建立の詔』が発せられ、紫香楽の京域の甲賀寺に大仏を造る計画が実際に行われたと続日本紀には書かれています。奈良・東大寺の大仏の鋳造が始まったのは天平19(747)年9月と記録されています。紫香楽の甲賀寺での大仏鋳造は東大寺に先駆けての最初の計画であり、もしも計画が変更にならなければ、大仏は奈良では無く紫香楽にあったかも知れないのです。

『彷徨五年』で聖武天皇が都としたのは…

 

   恭仁宮(740-743)

   難波宮(744-745)

   紫香楽宮(745)

 

…の三箇所。このブログではその内の二箇所をこれまでに紹介しています。2023年10月19日の記事で恭仁宮を、同5月29日の記事で難波宮のことを取り上げ、聖武天皇の彷徨五年について書きました。今回の記事では三箇所目となる紫香楽宮を取り上げ、聖武天皇の彷徨五年の話の総括としようと思います。

 

信楽の里は国道307号線沿いに多くの窯元が建ち並び、焼きものの里として多くの人々が訪れますが、その紫香楽宮の遺構はその信楽の里の北部に、いくつか点在してあります。

 

 

 

今回の紫香楽宮跡のレポは2023年9月9日に行った時のことを中心に書きますが、この日は土曜日。後述する『紫香楽宮 関連遺跡群 調査事務所』が土日祝が休館だったので、補うために同年10月10日にも追加で訪れていまして、二回にわたる訪問を元にレポを書かせていただきます。

 

正史の続日本紀に『紫香楽宮』と書かれているくらいですから、信楽の里が紫香楽宮の跡地として注目されていたのはかなり古くからでした。

古来から紫香楽宮跡と考えられていたの黄瀬・牧地区。そのあたりの丘陵地区は「内裏野」とも呼ばれ、一部建物の礎石が露出していたことから古くから紫香楽宮の跡地と言われていたのです。江戸時代にはすでに、内裏野は紫香楽宮の内裏や大仏殿跡と記した歴史書も書かれていました。大正年間には『紫香楽宮跡』として国の史跡に指定され、今もガイドブックなどでは紫香楽宮跡と言えばこの内裏野のことを指しています。

まずは、内裏野地区の遺構から紹介をしていきます。国道307号線を北上し、分岐点で左の県道57号線へ進むと、すぐにあまりに立派な「紫香楽宮址」の石碑が立てられているのが見えます。

 

 

この石碑から林に入っていた先が『紫香楽宮内裏野地区』です。宮址には皇居跡を示す『紫香楽宮』を祀る社が建てられていました。大正時代以後はこの内裏野地区が紫香楽宮の皇居跡と見なされ社が祀られたのです。

 

 

しかし、その後発掘調査が進むにつれて、どうやら内裏野地区は皇居では無いことがわかって来ました。

 

紫香楽宮内裏野地区(GoogleMAPに遺構配置図を合成)

遺構配置図引用:https://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_oumikokubunji.htm

 

社が建てられている金堂跡の他、講堂跡、塔跡と、次々と見つかった建物跡遺構の配置から当初は皇居跡とされていた内裏野地区は、昭和5(1930)年には仏教寺院跡だったとわかったのです。

遺構は整備され、推定復元図もある全体図や各伽藍位置を示す碑が設置されていました。

 

 

金堂を中心に、南側に中門、北側に講堂。講堂を囲むように三面僧坊と、東側には塔院が置かれ塔の礎石が並びます。伽藍配置で言えば元興寺にも似ていますが、でも元興寺の食堂は金堂の真北にあったのに対し、この紫香楽宮内裏野地区の寺院跡は金堂の北東に食堂が建てられていました。

  

 

 

 

この食堂の位置は、東大寺と同じなのです。しかし、東大寺と同じ伽藍なら金堂の西側にも塔があるはずなのに、ここからは西塔の遺構は検出されず、研究者の間では「西塔は存在しなかった」という見方が強いということで、非常に謎の多い伽藍配置なのです。

 

CGで復元された内裏野地区寺院 画像引用:紫香楽宮パンフレット(甲賀市教育委員会刊)

 

思わぬ展開で見つかった奈良時代の寺院跡。歴史家の間では、紫香楽宮に建てられた『甲賀寺』ではないかと指摘されています。

甲賀寺が正史の続日本紀に記されているのは、天平16年11月の記事で『甲賀寺に始めて盧舎那仏像の体骨柱を建つ』というもの。甲賀寺に盧舎那仏像…すなわち大仏を、建立する計画だったと記録されているのです。。

奈良・東大寺の大仏の鋳造が始まったのは天平19(747)年9月と記録されています。紫香楽の甲賀寺での大仏鋳造は東大寺に先駆けての最初の計画であり、もしも計画が変更にならなければ大仏は紫香楽に建立され、奈良の大仏は存在しなかったかも知れないのです。

 

古来から紫香楽宮の跡と言われて来た内裏野地区でしたが、宮の中心である内裏や朝堂では無いことが発掘調査によって明らかになって来ました。

それでは紫香楽宮の主要部はどこにあったのでしょうか。それを知るために小生が訪れたのは、内裏野地区遺跡の2km北にある『紫香楽宮跡 関連遺跡群 調査事務所』です。紫香楽宮の発掘調査拠点の施設で、プレハブの建物です。

 

 

ここは紫香楽宮についての解説のパネルや、出土品などの展示室にもなっているのです。紫香楽宮について学ぶのに、必ず行くべきとされる場所となっています。失われた紫香楽宮とはどのようなものだったのか、小生もこちらの展示から大いに学ばせていただきました。

 

 

 

 

当初、紫香楽宮跡と目されていた内裏野地区ですが、裏付けとされたこの地名が江戸時代から呼ばれるようになったことが文献資料などからわかり(それ以前の地名は『寺野』)、発掘調査もあって寺院跡だったということが確かめられてしまったのです。

そこで始まった紫香楽宮の全貌を明らかにする調査、そのヒントとなったのが1970年代の圃場(農地)の整備事業で発見された『根柱』です。掘立柱の根の部分で、3本見つかった内の1本が、展示室にはその実物が展示されていました。

 

 

昭和59(1984)年にこの根柱の年輪年代測定法が奈良文化財研究所によって行われ、天平14~15(742~743)に伐採された木であることが判明したのです。天平17(745)年に遷都した紫香楽宮造営の時期とピタリと一致し、「紫香楽宮跡は信楽町宮町地区」と研究者たちは確信、昭和58(1984)年から宮町地区の絞られて大規模な発掘調査が繰り返し行われたのです。

 

 

画像引用:現説公開サイト 宮町遺跡第30次調査

 

その結果、宮町地区からは奈良時代の多くの建物跡が見つかり、平成12(2000)年には内裏の主要施設と思われる大型建物の跡が発見され、紫香楽宮の中心部は宮町地区であることがほぼ確実となりました。下の画像は宮町地区の遺構の図と、GoogleMapを合成したものです。黄色が建物跡が発掘で見つかった場所で、特に主要施設は赤で示しています。

 

 

小生は出土品展示室で得た情報を元に、紫香楽宮遺跡調査事務所の200メートル西に位置する、地域の集会所となっている宮町会館へと行きました。

 

 

集会所である宮町会館ですが、建物の壁面には紫香楽宮に関するパネルがいっぱい掲示されていました。

この集会所のある場所が発掘調査によって紫香楽宮正殿前庭であるとわかり、宮の主要施設がこの集会所をぐるっと囲むように建っていたのです。そのこともあって、この集会所が内裏野に代わる紫香楽宮の跡地となっているのですが、まだ史跡として整備されていないので、その代わりに集会場にこのようなパネルが掲げられています。

 

 

 

 

朝堂院の主要建築は北に前殿と後殿の二棟の建物と、西脇殿と東脇殿の掘立柱の柱列跡が発掘されました。朝堂院正殿と思われる前殿は東西37.1×11.9メートル。平城宮大極殿の44.0×19.5メートルより一回り小さく、正式に大極殿として機能していたのかは検討の余地がありますが、注目されているのは朝堂院の東西に建てられた東西脇殿です。

南端が未調査なので正確な建物の規模は不確定ですが、両脇殿は南北100メートル以上と考えられています。それまで当時最大と言われていた新薬師寺金堂の幅68メートルを超える、奈良時代で最も長大な建造物の跡が見つかり、それまで「急造りの仮宮では」とも目されていた紫香楽宮が本格的な宮城であったことが解り、大きなニュースとなりました。

 

紫香楽宮朝堂院跡出土を伝える新聞記事(毎日新聞 2001年11月14日)


宮町遺跡からは、数多くの木簡(木の板に書かれた墨書き)も出土しています。その中には「造大殿」(宮造営の大殿の造営をする部署)や、「皇后職」(光明皇后立后の翌年に設置された皇后の家政機関)といった文字が書かれた、宮町遺跡が皇宮であることを証明する木簡も見つかっています。

 

 

 

紫香楽宮調査事務所の出土品展示室には、残念ながらこれらの木簡の実物の展示はありませんでした。展示室にあったのは『あさかやま木簡』と呼ばれる裏表に和歌の書かれた木簡の複製品でした。

 

 

(表)安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

(裏)難波津に 咲くやこの花 冬ごもり いまは春べと 咲くやこの花

 

安積香山の歌は万葉集巻16 3807番に、難波津の歌は古今和歌集に掲載されており、古来よりこの二首は書道の初学の手本として用いられていました。ただ、この木簡は万葉集が編纂されるより前に書かれたと考えられ、万葉集成立のルーツと知る貴重な資料なのです。

 

この発見によって内裏野地区のみ指定されていた紫香楽宮跡の国の史跡は、平成17(2005)年宮町地区も追加指定されました。ただ、宮町地区は内裏野地区と違ってほとんど整備はされておらず、宮町会館のパネルだけが朝堂院跡であることを示すものとなっています。

 

 

宮町会館に朝堂院をCGで再現した画像のパネル展示がありましたので、この再現画像と同じ方向から宮町遺跡を写真に撮ってました。かつてはこの場所に上のような朝殿が立ち並んでいたのですが、現状ではその往年の姿をイメージするのはかなり難しくなっています。

 

 

昭和からスタートした発掘調査は宮町地区と内裏野地区だけでは無く、広範囲で行われ数多くの紫香楽宮の遺構が発見されています。いずれも看板が立っていたので紹介をします。

まずは鍛冶屋敷地区、第二名神高速道路の信楽インターのすぐ南に位置し、高速道路の建設に際しての大規模な発掘調査によって、18基以上の鋳造工房が発見されました。紫香楽は大仏の鋳造が計画されたことが記録にあり、鍛冶屋遺跡は大仏建立が計画された甲賀寺跡と目されている内裏野遺跡からも近く、鋳造施設の遺構は大仏鋳造との関連も考えられ注目されています。

 

 

鍛治屋敷地区の遺跡と第二名神高速道路を挟んで反対側となる北側に看板が立つのは『新宮神社遺跡』。

近くの鎮守の神社から名付けられた遺跡で、朝堂院跡の宮町遺跡と甲賀寺跡と目されている内裏野遺跡との中間に当たり、朱雀通りに該当する紫香楽京の南北のメインストリートがあったと推測されている場所。

平成12年にここから幅18メートルもの大路の跡と、この時代ここを流れていた川に架けられていた橋の跡が見つかり、検出された橋脚の残存木材から天平16(744)年伐採されていたことが調査によって明らかになっています。聖武天皇が平城宮に帰還し紫香楽宮が廃都となったのが天平17(745)年ですから、紫香楽宮が造営途中の段階で打ち棄てられてしまったことが、ここからも確かめられているのです。

鍛治屋敷遺跡と新宮神社遺跡は紫香楽宮跡として、平成22(2010)に史跡に追加指定されました。

 

 

また新宮神社遺跡から約1km西で発掘されたのが『北黄瀬地区遺跡』で、ここからは井戸の木枠の遺構が良い保存状態で発見されました。井戸は2メートル四方という破格の大型サイズで、このような大きな井戸が一体どのような目的で整備されたのか注目を集めます。

 

 

 

紫香楽宮調査事務所には職員の方がおられて、パンフレットなどをいただきながら少しお話もさせてもらいました。「発掘調査はこれからもさらに行われるのですか」と聞きましたら、職員の方は「調査はほぼ一段落をしていまして、これからは整備の方に向かうと思います」というちょっとうれしいお話をいただきました。

甲賀市のHPを見てみても、“史跡紫香楽宮調査整備委員会”が設置されたという広報が令和2年3月30日の公示がありました。宮町遺跡の整備事業は実際に始まっているようです。

しかし、実際の整備計画の公開されている資料を見ると「宮町遺跡の発掘調査の報告書がまだ出来上がっていないので、整備協議は出来ない」との意見も協議会から上がっているようです。どうも、整備事業は長期の事業と捉えられているようで、実際に整備計画がいつ実現するかはなかなか見えないようです。

 

画像引用:https://www.city.koka.lg.jp/secure/31593/R4.3siryou.pdf

 

聖武天皇の『彷徨五年』の三都で、整備が進んだのは大都市の都市公園として整備された、難波宮跡だけ。現在も市街地とは言えない恭仁宮と紫香楽宮の整備は費用や整備による効果を図れないというのが実情でしょうか。

小生としては元々信楽焼の里として観光地となっている紫香楽宮跡などは、焼き物の里という観光資源とタイアップして町おこしに使ってもらえないかと思ったりしてしまいます。

 

三回にわたる聖武天皇・彷徨五年の宮跡めぐりのラストとして、今回紫香楽宮跡を紹介しました。これで終わりと言いたいところですが、紫香楽宮について実はもう一つ書きたいことがあるのです。

聖武天皇が『大仏建立の詔』を発布し、大仏建立が計画された紫香楽の甲賀寺。現在、内裏野地区で見つかった寺跡がその甲賀寺跡というのが最も有力と言われていますが、小生はその内裏野地区の寺跡が甲賀寺だという説には大きな疑問を持っているのです。

なぜ内裏野地区の寺院跡が甲賀寺では無いのか、そして内裏野地区の寺院跡が甲賀寺では無いのなら、甲賀寺はいったいどこにあったのか。次のブログ記事では小生の紫香楽大仏についての考察を、そして小生が甲賀寺と予想する場所のレポを書いていきたいと思います。

 

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