紫香楽宮大仏の聖地・甲賀寺はどこにあったのか | タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
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滋賀県甲賀市(旧・信楽町)の紫香楽宮についてこのブログの6月6日の記事で取り上げげました。紫香楽宮は奈良の東大寺の創建に尽力をした聖武天皇が、彷徨五年と呼ばれる天平12(740)~同17(745)年に平城京を離れて複数の京を転々と移った内の一つ。天平15(743)年に有名な『大仏建立の詔』を勅したことで知られています。

 

 

正史の続日本紀によると、聖武天皇は紫香楽京の京域に甲賀寺(こうかでら)という寺院を建立し、そこに大仏を造営しようと計画したという記述があります。天平16(744)年には実際に工事もはじめられたとありますが、火災や地震などの厄災が立て続けに起き、天平17年には聖武天皇は平城宮へ還ることとなり、紫香楽はわずか1年で廃都となってしまいました。結果紫香楽で頓挫した大仏の計画は平城京の東の外京で再開され、そうして建立されたのが東大寺、奈良の大仏なのです。

今回のブログ記事ではその甲賀寺について取り上げます。大仏建立が計画された甲賀寺とはどこだったのか、一般的に甲賀寺跡として知られているのは、史跡・紫香楽宮跡の南部、内裏野地区の寺院跡の遺構です。

 

 

内裏野地区は古代の礎石が露出していたこともあり、江戸時代には既に紫香楽宮跡として名所とされ、大正15(1926)年には紫香楽宮跡として史跡に指定されます。しかし、その後の発掘調査によって金堂に講堂・東塔などの伽藍が並ぶ寺院跡であることがわかり、現在はここを甲賀寺跡と推定する説が主流となりました。

 

しかし、小生は内裏野地区の寺院跡が、大仏建立が計画された甲賀寺だったという説には大いに疑問を持っているのです。その根拠として大きく以下の三つの理由が挙げられると思います。

 

① 大仏建立するには、金堂が小さすぎる。

発掘された金堂跡は幅79尺(約24m)、奥行41尺(約12.5m)、東大寺大仏殿の半分以下、丈六仏が本尊の薬師寺金堂の7割ほどの規模。建物の柱の跡からも、とてもここに大仏が建立されたとは考えられません。また寺域全体も面積も東大寺の三分の一程しか無く、遺構からは東大寺よりずっと小規模な寺院だったことがうかがえます。

 

②朱雀大路を塞いでしまう。

第二名神高速道路の工事現場から、都の中央を通るメインストリートである朱雀大路と目される大路の新宮神社遺跡が発見され、紫香楽宮の朱雀大路の位置がかなり特定されたのですが、その位置だと朱雀大路は内裏野地区の寺院跡が塞いでしまう、突き当たってしまうというおかしなことになってしまいます。朱雀大路は朝堂の正門である朱雀門と京の正門である羅城門との間に通される京のメインストリートであり、施設を建てて分断するなど、京の設計としてありえません。

 

 

すべての朱雀大路が特定されたわけでは無いので、寺院の所で朱雀大路が東西に少しずらされた可能性も否定は出来ませんが、それでは寺院跡が朱雀大路に面しているということになってしまいます。藤原京でも平城京でも平安京でも、大きな官寺が朱雀大路に面して建立されたという例はありません。

手元の資料にある復元イメージCGでは、朱雀大路が寺院で寸断されているという、摩訶不思議な推定図となっていました。

 

画像引用:シリーズ「遺跡を学ぶ」大仏造立の都 紫香楽宮(小笠原好彦著・新泉社刊)

 

③寺院は完成している

続日本紀によると、天平17(745)年の正月には紫香楽は新都として宣言がされたものの、地震や火事が頻発し、5月には朝議で平城京帰還が官人から奏上されることに。同月には聖武天皇は恭仁京へ、さらに平城宮に戻ってしまい紫香楽宮に還ることは無かったのです。「甲賀宮空しくて人無し。盗賊充斥し、火もまた未だ滅せず。仍て諸司および衛門の衛士らを遣わして官物を納めしむ」と続日本紀には記述があり、新都として宣言されたわずか半年弱でいかに紫香楽が荒廃していたかわかります。当然甲賀寺も紫香楽宮が廃都となったのに合わせて、建造途中で打ち棄てられてしまったと考えられます。

 

ところが、内裏野地区の寺院跡は七堂伽藍の建物跡が完全な形で出土しており、屋根に葺かれていた瓦も多く出土しています。この寺院は完成して落慶されていたのは間違い無いと思われます。

出土した寺院跡がもし甲賀寺とするなら、明らかに続日本紀の記述とは相違があるのです。

 

内裏野地区遺跡について解説する、紫香楽宮調査事務所 出土品展示室 展示パネ

 

そこで現在多く言われているのは、『甲賀寺の跡地に甲賀国分寺が建てられ、それが近江国分寺に寺格が移された』という説です。その根拠とされているのは正倉院文書(正倉院中倉が収蔵している1万数千点におよぶ文書)にいくつか見受けられる『甲可寺』の記述です。甲賀寺と同じと思われるこの記録が天平17年~19年の紫香楽宮廃都後の年月日で書かれていて、甲賀寺が廃都後も存続されていたことを見ることが出来ます。

さらに東大寺文書である奴婢見来帳に『甲賀宮国分寺』という記述が紫香楽が宮であった745年から6年後の天平勝宝3(751)年に見られ、一連の記録から甲賀寺は紫香楽宮廃都後も寺として存続され、甲賀国分寺として建立され、その後近江国分寺として運用されるようになったという説です。近江国分寺は伝教大師最澄が得度をした寺として知られていますが、場所は諸説あります。

この一連の文書を総合的に見て「甲賀寺は紫香楽宮が廃都になったあとも存続され、国分寺として運営されるようになった」とするのが、内裏野地区遺跡が甲賀寺跡とする裏付けとしていますが、これでは国分寺が紫香楽の京域に建立された裏付けになっても大仏建立が計画された甲賀寺であった裏付けにはなりません。

 

上記の三つの疑問点は小生独自の説では無く、内裏野地区の寺院跡が甲賀寺跡であることに否定的な意見を唱える研究者の共通の見解であります。もしも内裏野地区の寺院跡が国分寺であったとしても、甲賀寺だったするには否定的な要素はあっても、正しいと示す考古学的その他の裏付けは皆無と言っていいのです。内裏野地区が寺院が造営されたのは、やはり紫香楽宮が廃都となってその後というのが小生の見解です。

 

結局、聖武天皇は紫香楽宮のどこに大仏を建立しようとしたのでしょうか。それを考えた時に、そもそもとして聖武天皇はなぜ平城宮を離れ5年もの間彷徨をしたのかを知ることがその答えにつながると思ったのです。そして、昨年から始めた南山城(京都府南部)の仏教寺院めぐりで一つの仮説が立ったのです。

それは、京都府笠置町の笠置寺で本尊の弥勒菩薩磨崖仏を見た時に思いました。

 

 

恭仁京からもほど近い笠置寺の奈良時代の磨崖仏(崖を彫った仏像)は高さ15メートル。奈良の大仏の座高と同じで、正に大仏と呼ぶべき巨大な仏像。この笠置寺の弥勒菩薩磨崖仏を前にして思いだしたことがあったのです。

「奈良の大仏は、唐・洛陽の龍門石窟 奉先寺洞の盧舎那仏像をモデルにして造られた」

笠置寺の弥勒菩薩磨崖仏には、龍門石窟の巨大仏像を彷彿とさせると同時に、奈良時代の日本にも龍門石窟同様の磨崖仏の文化があることを知ったのです。もしかしたら聖武天皇は、磨崖仏で大仏を建立しよう考えていたのでは。そしてそれこそが、聖武天皇が恭仁京、紫香楽と平城京を離れて京を転々と遷した本当の目的だったので無いかと、そのような考えが浮かんだのです。

 

洛陽とは西安の東320kmにあり、長安と並んで各王朝の首都と定められた場所。5世紀の南北朝時代に文研記録上の中国最古の仏教寺院である白馬寺が建立され、洛陽は中国仏教の中心地として信仰を集めました。そして唐代には高宗皇帝の発願で龍門石窟に奉先寺洞が彫られたのです。高さ17.14mの大盧舎那像で有名な石窟仏像です。

 

龍門石窟奉先寺洞 大盧舎那像 画像引用:東大寺のすべて展(2002年・奈良国立博物館)図録

 

盧舎那仏は奈良時代最も最先端の仏法として尊ばれた華厳経の中心的な仏で、サンスクリット語のヴァイローチャナは『光明普遍』(世界を光であまねく照らす)は、この仏像は光を放ち世界中を救うと説かれ、その像が大きければ大きいほど、その光は広く世界を照らし人々は救われると考えられたのです。

聖武天皇は天平6(734)年に第十次遣唐使船で帰還した吉備真備や玄昉らから龍門石窟の大盧舎那仏のことを聞いていたのでは無いかと思われ、この大仏発願につながったと推測されます。

そして、笠置寺の大弥勒菩薩磨崖仏を見た小生は、そこから一つの推測を抱いたのです。

「聖武天皇が最初は、大仏を鋳造仏では無く、石窟像として造ろうと考えていたのではないだろうか」

もしそうなら謎とされている、五年間にもわたる聖武天皇の転々と京を遷した『彷徨五年』の理由を垣間見ることが出来ます。恭仁京も紫香楽も正に巨石の里であり、恭仁京からほど近い笠置寺には大仏と呼んでも良い、巨大な磨崖仏も造られています。聖武天皇は洛陽のような石窟仏を造れる仏教の聖地を選定するために京を転々と遷したのではと考えると、聖武天皇の不可解な行動もつじつまが合うと小生は推測しました。

 

しかし、続日本紀には甲賀寺の大仏が銅造の鋳造仏として計画されたことを示す記述が幾つかあり、小生の石窟で大仏が造られようとしたという説には反論があると思われます。

まずは、有名な天平15(743)年10月の聖武天皇の大仏建立の詔ですが(抜粋)…

 

ここに天平十五年歳癸未にやどる十月十五日を以て、菩薩の大願を発して盧舎那仏の金銅像を一躯造り奉る。国銅を尽して銅を鎔し、大山を削りて堂を構へ、広く法界に及ぼして朕が知識となす。…

 

また、初めて甲賀寺のことが記録に残る天平16(744)年11月の記事には…

 

十一月壬申。甲賀寺に始めて盧舎那仏の体骨柱を立つ。

 

…と記されています。鋳造された東大寺の大仏は、まず木柱の骨組みを組んでからそこに土型を造り、その土型に溶けた銅を流し込んで造像するという手順で造られました。この天平11年の記述は甲賀寺の大仏も同じ方法で造像されていたことを示しています。

 

画像引用:『東大寺Kid's』(東大寺HP)

 

続日本紀の記述を信じる限りは、甲賀寺に建立が計画された大仏は銅製の鋳造仏であります。それを踏まえて甲賀寺の大仏が、石窟仏で造営が計画されたいう説を持つ小生の見解を以下に書きます。

 

聖武天皇は後の状況による計画の変更で、紫香楽でも恭仁京でも無く平城京の東の外れである外京で建立しました。そして、続日本紀に見られる大仏建立の詔の内容は、明らかに東大寺での大仏建立を意識したと小生には読めます。「大山を削り堂を構へ」とありますが、現在甲賀寺の跡として主流になっている内裏野地区の遺跡はやや開けた場所で“大山”ではありません。

大仏建立の詔は東大寺建立という国家プロジェクトを成功させるための国威発揚のスローガンとして、東大寺造営の時にも使われていたのでは無いかと小生は思います。それが最初に発せられたのが聖武天皇が紫香楽にいた時だったので天平15年の記事に載ってしまったのであり、その内容は後の東大寺建立に沿ったものに、時代の状況に合わせて詔の文面が修正されたというのが小生の推測です。天平16年11月の甲賀寺の体骨柱の記事も同様の理由で書かれたもので、実際には立てられなかったのではと小生は考えています。

もしも、内裏野地区から大仏が建立されたことを示す遺構でも見つかれば、大仏は石窟では無く鋳造仏として建立された証明になるかも知れませんが、現在のところ考古学見地からの発見はありません。

 

ここまで、小生が紫香楽に建立が計画された盧舎那大仏が鋳造仏か石窟仏かについての持論を書いてきました。小生が石窟仏説を推していることはもう十分に説明が終わったので、ここからはいよいよ「内裏野地区の寺院跡が甲賀寺跡では無いとしたら、大仏建立が計画された甲賀寺はどこにあったのだろうか」という本題に触れていきます。

先に断っておきますと、甲賀寺がどこであったかは(内裏野地区の遺跡も含めて)現在特定はされてはいません。ここから先に書くことはあくまでも、小生の推論であって、証明はまったくされていないとお断りした上で話を進めます。

 

甲賀寺の大仏が石窟仏として造られたとしたら、当然それは平地では無く岩山に築かれたということになります。そこで調べるとこの信楽という場所は全体が花崗岩地質だという、注目すべき情報がわかりました。この花崗岩の長石が良質な陶器の材料として、信楽は焼き物の里として発展をしたのです。そう思うと大石窟仏を建立する場所として信楽は適所と都に選ばれたと考えられます。

 

画像引用:甲賀市HP

 

紫香楽宮からほど近い岩山であることが条件になりますが、平城宮と東大寺との位置関係を考慮すると、小生が推定する甲賀寺は紫香楽宮の丑寅…つまり北東か、あるいは北の山です。本場・洛陽の龍門石窟は洛陽城の南に流れる伊河の川沿いにありますが、信楽の地形と日本の都市計画のスタイルを考えると、小生は大仏は宮の後ろに建立されたのでは無いかと思います。

それらのことを踏まえて紫香楽宮近辺の地図をあらためて見直して見ると、気になる場所が一つ見つかりました。

 

 

紫香楽宮朝堂院跡から北東に約3kmにある“飯道山”(はんどうざん)という山です。位置関係で言えば、平城京朝堂院と東大寺に類似しています。この山に祀られている“飯道神社”(はんどうじんじゃ・いひみちじんじゃ)は、創建は奈良時代初期、和銅年間に熊野本宮から分霊したと伝えられ、奈良時代初期には開けていたことがうかがえます。

 

地勢的な面から気になった飯道山で「もしかしたら、ここが紫香楽の東大寺があった場所では」と思い、よくよく調べてみました。するとここが甲賀寺だったのではと思わされるような要素が、次々と出てきたのです。以下にそれらを列記します。

まず、地質的なことを言いますと、飯道山は全山が花崗岩からなる岩山であります。おそらく山肌を彫れば、大石窟仏を彫るにふさわしい大きな岩崖も出てくるでしょう。実際に登山道には露出した岩を多く見ることが出来ます。

 

 

そして飯道山はただの岩山では無く、岩の信仰の山でもあります。日本の古代宗教の原点と言われる神を神体である岩に見立てて信仰する『磐座信仰』の地としても知られ、飯道山の参道入口近くには飯道神社の境外社の岩尾神社という神社もあります。岩尾神社は神を祀る祠が無く、巨岩がご神体となっている典型的な磐座信仰の神社となっています。

 

 

『巨石信仰の聖地』それが小生の飯道山の印象でした。平安以後は修験道の霊場として栄えたようで、飯道神社を神宮寺とする飯道寺という寺号の寺もありました。飯道山は険しい岩山として、修験道者の道場として修行の場とされたのです。

 

正に神聖なる盧舎那大仏(石窟仏)を建立するにふさわしい巨岩の聖地でありますが、奈良時代の遺構などの遺跡などは確認されていないようで、ここが内裏野地区に代わる甲賀寺の跡地と見る発見は残念ながらありません。しかし、飯道山と東大寺を結びつける大きな証拠は存在します。

それは現在も東大寺で見ることが出来ます。お水取りが行われる東大寺二月堂にはその鎮守である三社の神社があるのですが、その一社がなんと飯道神社。二月堂の南の石段を登った南側の広場、その広場に面して祀られています。二月堂の飯道神社は、この甲賀の飯道神社から分霊し勧請されたのです。

 

 

甲賀の飯道神社が二月堂の鎮守として勧請されたかについては、東大寺は江戸時代の元禄年間に編纂された『東大寺諸伽藍略録』に東大寺要録の記録を引用し、宝亀2(771)年に大仏殿動揺防止工事でお水取りの祖と言われる実忠が紫香楽の材木で行われたことから飯道神社が鎮守とされたと書かれており、東大寺はその由緒を飯道神社が二月堂鎮守になった理由としています。

二月堂の飯道神社について調べてみましたが、一部に紫香楽宮との関わりを指摘する解説はありましたが、紫香楽大仏の甲賀寺との関わりを指摘する研究は見つけられませんでした。

甲賀寺が飯道山に建立される計画があったのかはともかく、飯道神社が二月堂に祀られていることは、二門の大仏建立寺院を結びつける大きな鍵だと指摘する研究者がいないことが、小生にはむしろ不思議に感じています。

小生は山を背にした紫香楽宮、その背後の山には盧舎那大仏を望む。それが聖武天皇が望んだ仏の世界、仏教に篤く傾倒した聖武天皇が求めた理想郷だったのではというのが、小生のイメージする紫香楽宮の姿です。

 

紫香楽宮復元CGに龍門石窟奉先寺洞を合成したイメージ画像

画像引用::MIHOミュージアム HP(紫香楽宮復元CG)

 

東大寺二月堂の鎮守三社と言いますと、飯道神社・興成神社・遠敷神社の三社でそのうち興成神社と遠敷神社は若狭国ゆかりの神社です。お水取りは若狭の遠敷明神が若狭の水を東大寺まで引いたという伝承により始まった行事と言われています。これらの三社を祀ったのは東大寺初代別当だった良弁の高弟でお水取りを始めたと伝えられる実忠和尚と伝えられています。小生はむしろ三社は良弁ゆかりの神社では無いかと思います。

 

良弁上人坐像(東大寺開山堂所蔵)[平安時代・国宝]

画像引用:東大寺のすべて展(2002年・奈良国立博物館)図録

 

東大寺に伝わる良弁は出身が近江国の百済氏の出身、または若狭国小浜下根来生まれとされ、伝承は見事に二月堂鎮守と場所が合致します。さらに疑問を上げますと、東大寺の由緒は聖武天皇が亡き子である基皇子を追善するために建立をした奈良若草山の麓に建てた金鐘寺という山房に始まり、良弁はその九人いた金鐘寺の僧の一人だったと言われています。でも、大仏は当初は平城京では無く紫香楽に建立される計画だったのでは…? さらに良弁が近江国出身という伝承もあるとすれば、紫香楽宮は良弁の地元ということに。

となると、聖武天皇と良弁との接点は紫香楽宮時代に端を発するか、もしかしたら紫香楽遷都を推したのは良弁…という可能性も出てくるのです。もしも飯道山近辺に奈良時代の遺構が見つかるなんてことになれば、東大寺の歴史が大きく塗り替えられる可能性もあると小生は思っています。

 

今回のブログでは、紫香楽大仏が計画された甲賀寺が定説となりつつある内裏野地区には無かった。そして可能性として飯道山に石窟仏として建立されようとしていたのでは無いかという説を説きました。

発掘調査でも文献上でも、小生の説を裏付けるものは何もありません。しかし小生は、内裏野地区が甲賀寺であるという説もまた、同じだと思っています。裏付けが何も無いのに、まるで内裏野地区の寺院跡が定説のように言われることが多いという今の状況に、一石投じたいという思いもあり今回の記事になりました。

 

今回は小生の自説を語るのみの記事となりましたが、実は昨年の秋に小生が甲賀寺跡では無いかと考えている飯道山に実際に行って来ました。飯道山とはどういう場所なのかの現地レポ、そして紫香楽大仏について改めて記事に書きたいと思います。

 

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