日本の特徴4~3項並立・移行の形式 | ejiratsu-blog

ejiratsu-blog

人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

●3項並立・移行の形式

 

 2項並立が3項並立になると、往来から移行へと複雑化・多様化しますが、ここでも、空間的な隔たり(-で表記)と、時間的な流れ(→で表記)に、大別でき、2項並立の世界の延長上で、自然の摂理である循環と酷似しており、永久不死不滅なので、普遍性があるといえるのではないでしょうか。

 

 

○記紀神話:垂直的な天上-地上-地下の3世界+水平的な陸の此方-海の彼方の2世界

 記紀の神の世界は、垂直的な天上・地上・地下の3世界と、水平的な陸(地上)の此方(こなた)・海の彼方(かなた)の2世界に、大別できます。

天上の世界の高天原(たかまがはら)は、タカミムスヒ(元・皇祖神)や、イザナギ(国生みの兄)・アマテラス(現・皇祖神)がいます。

 地上の世界の葦原中国(あしはらのなかつくに)は、海の彼方の常世(とこよ)の国から渡来した、スクナヒコナとオオモノヌシの協力で、オオクニヌシが、陸の此方で国作りしましたが、国譲りしたので、ニニギ(アマテラスの孫)が降臨し、神武(初代、ニニギのヒ孫)以降、歴代天皇が統治しました。

 地下の世界の黄泉(よみ)の国・根の国は、イザナミ(国生みの妹)が最期に行き着き、イザナギは、一時来て地上に帰って、アマテラス・スサノオらを生み、スサノオも最期に行き着き、オオクニヌシは、一時来て地上に帰って国作り・国譲りし、出雲大社に祀られたので、最期に行き着いたとみられます。

 結局、記紀神話では、天上の皇祖神と、地上の天皇の、正統性の根拠が表現されていますが、それとともに、地下を通過(仮死→再生を経験)することで、イザナギは、アマテラスを生み、オオクニヌシは、国を作り、逆境の好転が描き出されています。

⇒ [*「古事記」読解1~3]

 

○中央から地方へ:天(あめ)-東(あずま)-鄙(ひな)

 『古事記』によると、雄略天皇(21代)が、大和・泊瀬(はつせ、初瀬)のケヤキの木の下で、新嘗(にいなめ)の宴会をした際、伊勢国三重郡の采女(うねめ)が、天皇に、落葉入りの酒を献上してしまい、斬殺されそうになりました。

 すると、采女は、「ケヤキは、上の枝が天を、中の枝が東を、下の枝が鄙を、覆っています。上の枝先の葉が中の枝に触れ、中の枝先の葉が下の枝先に触れ、下の枝先の葉が落ち、酒杯に漂っているのは、浮いた脂の海水を、画き回してできた(国生みの)オノゴロ島のようです」と歌うと、免責されました。

 また、『日本書紀』によると、崇神11年4月28日に、4道(北陸・東海・西道/山陽・丹波)将軍が、戎夷(ひな、鄙)の平定を、崇神天皇(10代)に奏上し、崇神48年4月19日に、天皇が、イクメを皇太子に立て、トヨキ(上毛野の君・下毛野の君の始祖)に東を治めさせました。

 そのうえ、都は、都会・中央(天皇がいて、大和政権のある)、鄙は、田舎(いなか)・地方で(辺鄙/へんぴ)、対比的な意味です。

 よって、崇神天皇の時代に、中部以東が鄙から東になり、雄略天皇の時代に、天は、都+西国(『古事記』の国生み範囲)、東は、東国、鄙は、蝦夷(えみし、東北)・隼人(はやと、九州南部)とするのが妥当です(雄略天皇とされるワカタケルの埼玉・稲荷山古墳の鉄剣+熊本・江田船山古墳の鉄刀を考慮)。

 つまり、都は、西国→東国→鄙の3段構成で序列化したとみられ、この東西区分は、防人(さきもり)の東国からの徴発から、鎌倉・江戸幕府まで、影響しています。

 

○古民家:土間-板の間-畳の間

 現在保存されている、伝統的な古民家は、一般庶民よりも裕福なので、竪穴住居由来の土間(タタキ)、高床住居での、寝殿造由来の板の間、書院造由来の畳の間(座敷)の、3段構成が通例で、土間は、作業用、板の間は、家族用で私的、畳の間は、主人・客人用で公的と、機能分化していました。

⇒ [*古民家の類型化1~3]

⇒ [*真行草2]

 

○空間配列:表-中-奥

 表と奥の二分は、人の場合には、公的領域と私的領域の空間的な隔たりのため、神仏の場合には、門口から鎮座への時間的な流れのためといえ、水平的な長さと、垂直的な高さで、地位を象徴し、それが大規模化すれば、表→中→奥の三分になります。

 たとえば、江戸期の大名屋敷の御殿は、表→中奥→奥の3段構成で序列化され、徳川将軍家の江戸城本丸御殿は、表が公的な幕府の儀礼の場、中奥が半公半私的な将軍の政務の場、大奥が将軍以外男子禁制の私的な生活の場でした。

 江戸前期の京都・二条城二の丸御殿は、儀礼・対面の大広間(障壁画が大和絵)→客間・広間の黒書院(大和絵)→居間・寝間の白書院(水墨画)の、雁行配置です。

⇒ [*奥1・2]

 

○仏教建築様式:和様-天竺様(大仏様)-唐様(禅宗様)

 仏教建築には、平安末期までに採用されていた和様(わよう)と、鎌倉初期から採用されるようになった天竺様(てんじくよう、大仏様)・唐様(からよう、禅宗様)の、3様式がありますが、日本・インド・中国の名称は、大工の伝承で、便宜上にすぎません。

 天竺様は、平氏の南都焼討(1180年)後の東大寺再建の際に、仏僧の重源(ちょうげん)が採用し、当時の中国・南宋系の建築様式で、奈良・東大寺南大門や兵庫・浄土寺浄土堂が現存しており、東大寺再建が達成されると、急速に衰退しましたが、和様に一部で取り入れられています。

 天竺様の主な特徴は、通し貫(ぬき、柱穴どうしに貫を通す)の多用、挿し肘木(さしひじき、柱に差し込んだ組物)・通し肘木(組物どうしを横材でつなぐ)、隅扇垂木(軒裏の四隅のみ放射状の垂木)、天井なしで、装飾過少・大胆な表現です。

 唐様は、禅寺が採用し、当時の中国・北宋系の建築様式で、下関・功山寺仏殿や鎌倉・円覚寺舎利殿が現存しており、幕末まで普及したので、和様と唐様が並立したといえます。

 唐様の主な特徴は、詰組(柱頭と柱頭どうしの間にも組物)、海老虹梁(えびこうりょう、柱どうしの間にエビのように湾曲した梁)、扇垂木(軒裏の全面が放射状の垂木)、鏡天井(中央最上部に縁なしの平板な天井)で、装飾過多・繊細な表現です。

⇒ [*真行草1]

 

○芸道の本体:真-行-草

 書道には、1点・1画を正確に書く楷書(真書・正書)体、早く書くために、それらを崩して簡略化する草書体、その中間で、それらをやや崩して書く行書体の、3書体があり、これらは、中国由来ですが、日本では、この3体を、芸道の表現形式にも、応用しています

 真は、複雑で要素の種類・数量が多い正式の表現、草は、単純で要素の種類・数量が極端に少ない略式の表現、行は、その中間の表現で、いずれも各要素を釣り合いよく、配置・構成することで、使い分けることになります。

 この3体は、物の外形(書体)は、違いますが、心の内実(意味)は、同じで、機能(内実)したうえでの美観(外形)が、真・行・草の成立条件になり、たとえば、書道では、字が通じたうえでの美しさが、施設・道具等では、役割を果たしたうえでの美しさが、必要です。

 この3体を、…→増進期→最盛期→減退期→仮死・再生期→…の、自然の摂理である循環でみれば、真は、最盛期の、草は、仮死・再生期の、行は、減退期か増進期の、状態の表現ともいえます。

⇒ [*真行草1]

 

○正統から異端へ:書院-数寄(すき)-傾奇(かぶき)

 建築では、住宅の格式化した座敷を書院造といい、それを崩したものを数寄屋造という一方、芸道では、風雅を愛好することを数寄(好き、数奇)といい、その好きより、さらに傾くことを傾奇(歌舞伎)というので、これらを前述の真・行・草に当て嵌めると、真が書院、行が数寄、草が傾奇になります。

⇒ [*無常から夢幻泡影・浮世へ1]

⇒ [*キレイ2]

 

○畿内の古墳群:前方の百舌鳥・古市→中間の磯長谷・馬見+佐紀盾列→後方の大和・柳本・纏向

 奈良・纏向遺跡により、大和政権は、2世紀終り~3世紀初めに出現したとみられ、まず、3世紀前半から、奈良盆地の南東部~中東部に、纏向古墳群・柳本古墳群・大和古墳群を形成しました。

 つぎに、4世紀後半から、盆地北側出入口に、佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群、盆地西側出入口に、馬見(うまみ)古墳群、盆地西側出入口の前方に百舌鳥(もず)古墳群と古市古墳群を形成しました。

 さらに、6世紀前半から、百舌鳥+古市古墳群と馬見古墳群の中間に、磯長谷(しながだに)古墳群を形成しました。

 これらは、交通の要衝を相当意識し、おおむね後方が先、前方が後の順で配置され、前方西側に百舌鳥+古市古墳群、中間西側に磯長谷+馬見古墳群、前方北側に佐紀盾列古墳群、後方に大和+柳本+纏向古墳群の、3段構成です。

⇒ [*天武系の世界観]

 

○飛鳥期の仏寺:前方の四天王寺→中間の法隆寺→後方の飛鳥寺

 推古天皇(33代)・皇太子の聖徳太子・大臣(おおおみ)の蘇我馬子の3者は、前方に四天王寺(593年創建)、後方に飛鳥寺(596年創建)、その中間に法隆寺(607年創建)と、大和政権の主要仏寺を3段構成で配置しました。

 この仏寺の3段構成の配置は、前述の古墳群の3段構成の配置を、踏襲したとみられ、特に都への来訪者には、古墳群と仏寺伽藍の視覚的な相乗効果を発揮したでしょう。

⇒ [*天武系の世界観]

 

○芸道の師弟伝承:守→破→離

 守(しゅ)・破(は)・離(り)は、芸道を一生涯、修業する際の3段階で、守では、師の教え・基本型の動作を守って忠実に反復し、破では、師の教え・基本型に独自の解釈を加味して破り、離では、師の教え・基本型から離れることで、自由な境地に到達できるとしています。

 ここで、もし、破や離がなければ、弟子が師を超えられず、芸道がしだいに衰えてしまい、中興の祖も登場しないので、離で個性・独創性を発揮すれば、新流派になる可能性があり、この伝承を繰り返せば、芸道が拡大・発展できます。

⇒ [*幽玄1]

 

○演奏・演技の構成:序→破→急

 序(じょ)・破(は)・急(きゅう)は、演奏・演技の3段構成で、序は、緩やかな導入部、破は、豊かな展開部、急は、華やかな結末部とし、雅楽が発祥のようです。

 この過程は、早苗を育てて田植えし(緩やかな序)、生長して穂が実り(豊かな破)、稲刈りする(華やかな急)、稲作にたとえることができ(田楽の影響でしょうか)、生→住→異→滅の自然の摂理では、生が序、破が住→異、急が滅に当て嵌まるのではないでしょうか。

⇒ [*幽玄1]

 

(つづく)