真行草1 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 西洋では、その当時の精神を表現した固有の様式によって時代を区分し、新様式の大半は、旧様式の否定として登場し、新様式が定着すれば、旧様式は採用されなくなるのが通例で、そこには対立を克服することが進歩だという歴史観があるようです。
 一方、日本では、様式は変化しても消滅することはなく、新旧の様式が時代をこえて共存する傾向にあり、それらの様式は真行草として形式化(定型化)され、表現方法が使い分けられています。
 真行草とは、中国の真書(楷書)・行書・草書という漢字の3書体が起源ですが、日本特有の技法となり、真は複雑で要素の種類や数量が多く正式の表現、草は単純で要素の種類や数量は極端に少なく略式の表現、行はその中間の表現で、いずれも各要素を釣り合いよく配置・構成すれば創り分けられます。
 これは、物(様式)は異質だが、自然(宇宙)の摂理にしたがって調和させるという心(意識・意図)は同質であり、物が生から死へと移り変わり、再生する過程として把握したり、物の種類や数量を省略しつつ成立させるには、機能を兼帯しなければならないと理解するとわかりやすいです。
 真行草のように定型化することで、独創性は多少低下しますが、専門的な技法を大衆にも普及する際に、できるだけ水準を維持しておくためには有効な方法といえます。


◎仏教建築様式

 日本の仏教建築は、鎌倉期に天竺様(大仏様)・唐様(禅宗様)が登場することで、平安期までを和様としてひとまとめにするようになり、これ以降近代化するまでは、この3様式が共存・折衷しました。
 名称はアジアの主要な3国である、日本(和様)・インド(天竺様)・中国(唐様)としていますが、いずれも当時の中国の様式を移入しているので(それぞれ南宋・北宋と唐が起源です)、これらは様式の特徴を反映しておらず、ただ便宜上あてはめたにすぎません。
 これ以降の主要な仏教建築は、創建より再建や増改築・修理等が主で、そうなれば既存の様式を無視できず、奈良と京都の双方で大工技術も情報交流していたので、様式と関係のない名称にしたのは、相互に影響しあった中で、いかにそれらを調和させるかが美の主題だったからではないでしょうか。
 また、かつて組物や垂木は、深い軒の出を実現するための、意匠と構造が一体となった表現でしたが、技術の進歩により、意匠と構造が分離し、装飾の一部として取り扱われるようになりました。
 例えば、屋根の自重を利用し、テコの原理で軒先を跳ね上げる方式(桔木/はねぎ)が出現すると、構造上の野垂木と意匠上の化粧垂木に役割分担させるようになりました。
 これまでは、意匠が構造に制限されていましたが、この段階ではじめて表現が自由化され、様式を選択・折衷することが、美に直結するようになります。
 そして、これらの様式を取り入れたのは、主に旧仏教(南都六宗や密教・浄土教)や臨済宗で、仏教再興・興隆のためには、施設の築造は重要であり、それによって供養・維持管理する僧侶やその財源が必要となり、それを口実に荘園を寄進させたいので、建築美を重視する傾向にあります。
 一方、鎌倉期の新仏教は、路上での庶民への布教が主で、講話や念仏・修行できる施設であればよく、この時期は建築美には無頓着でした。
 ここでは、3様式が成立した背景と、その特徴について、それぞれ説明します。

○和様
 大陸文化は当初、主に朝鮮半島(百済)や中国(隋・唐)から移入していましたが、唐の衰退にともなって遣唐使が廃止すると(894年)、これまでの技法をもとに、日本独自の(国風)文化が生み出され、建築様式も優美な方向へ洗練化されていきました。
 和様の特徴は、伝来当初には仏堂は土間でしたが、床が張られ周囲に縁がつけられることもあり、床座となることで、やや柱は細め天井は低めになり、柱と柱の間は開口の上下を長押(なげし)で補強し、細部の装飾は多すぎず少なすぎず、全体と部分のバランスに配慮して彫刻していたようです。
 床の土間から板敷へは、かつては梁の長さに限界があり、奥行の深い空間は困難で、仏堂の前面に同じ幅の礼堂を並行に設置していましたが、やがて仏堂の前面まで庇を延長して葺き下ろして礼堂を取り込み、さらに大屋根で一体化するようになったので、その過程で変化したのではないでしょうか。

○大仏様(天竺様)
 貴族間の内紛を、武力で制圧することを契機に、武士の権力・地位が向上し、このうち平氏は急速に勢力を拡大して政権を奪取・官職を独占したので、そこから排除された有力貴族は、大寺院の僧兵等と結集して平氏と対抗しましたが、奈良の東大寺と興福寺は平氏の軍勢に焼き討ちされてしまいました。
 平氏が滅亡し、新興勢力である源氏の援護のもと、東大寺の再建に採用されたのが大仏様で(ちなみに興福寺は和様で再建されています)、有能な僧侶(重源)の活躍により事業が達成されると、大仏様は急速に衰退しましたが、従来の様式にはない力強さが刺激となって、和様に取り入れられました。
 大仏様の特徴は、まず和様の欠陥である軒先の垂れ下がりを改善しようと、柱を屋根の直下まで延長し、柱と柱の間は縦横に貫(ぬき)を貫通させて連結、組物は柱に挿し込んだ肘木(挿し肘木)を横に広げず何層も重ねて深い軒を支え、組物間にも肘木を通して(通し肘木)強固にしました。
 また、目に入る高さの、柱と柱の間のやや湾曲した梁(虹梁/こうりょう)は円形断面で太く、天井は張らず垂木を表し、垂木は隅部分のみ扇状に配置(扇垂木)、細部の装飾はやや抑え気味の彫刻です。

○禅宗様(唐様)
 日本の禅宗のうち、座禅修行を重視する道元の曹洞宗は、主に地方の豪族・武士(特に下級)や庶民に普及したのとは対照的に、師匠が弟子に悟りを伝達する修行(禅問答で問題を考え抜いて悟りに到達します)を重視する栄西の臨済宗は、主に中央(幕府)の武士(特に上級)に支持されました。
 ちなみに、朝廷(貴族)はこの時期、主に天台宗や真言宗と親密でした。
 臨済宗での師匠と弟子の上下関係は、武士間の主従関係(御恩と奉公)と類似しているので、武家政権を安定させるうえで受け入れやすく、鎌倉・室町幕府では、臨済宗の寺院を序列化し、格式が高位の禅寺を保護・管理し、政治や文化の発展に利用しました。
 禅宗様の特徴は、組物を柱頭だけでなく、柱と柱の間にも密集配置して軒裏を埋め尽くし(詰組)、目に入る高さの、柱と柱の間はエビのように湾曲した梁(海老虹梁)を使用しています。
 また、表した垂木は、ほぼ全面を扇状に配置(扇垂木)しますが、部材が集中して見苦しくなる中央最上部のみ天井を張り(鏡天井)、細部の装飾は様々な部材に多様な形状の彫刻を散りばめています。

 このようにみてくると、それぞれの様式を安易に真行草に対応させることはできませんが、和様を中間として、大仏様は装飾過少だが大胆な表現、禅宗様は装飾過多で繊細な表現といえ、和様の優美さだけでは言い表せない技法が習得できたことで、表現の範囲が拡張できたのではないでしょうか。

(つづく)