ejiratsu-blog

ejiratsu-blog

人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

福沢諭吉「文明論之概略」要約

福沢諭吉「学問のすすめ」要約

福沢諭吉の本意

~・~・~

 

 人間の思想(内面、内心)は、自然・社会環境(外面、外形)に影響されるのが、大半ですが、当時に、その環境が共通認識となっていれば、それを詳細に説明することもなく、自分の思想だけが強調されがちなので、その主張を現在に読解する際には、当時の環境を勘案する必要があります。

 福沢諭吉(1834~1901年)は、『学問のすすめ』(1872~1876年、39~43歳)と『文明論之概略』(1875年、42歳)が有名ですが、両書をみると、次のように、当時は、農業社会から工業社会への移行期だったので、福沢は、道徳よりも、智恵を重視すべきと主張しました。

 

・農業社会:農作物の生産が有限 → パイの配分優先:為政者と人民が利益相反 → 道徳重視

・工業社会:工作物の生産が無限 → パイの拡大優先:経営者と従業員が相互利益 → 智恵重視

 

 これを前提に、『文明教育論』(1889年、56歳)をみていくことにし、現代語訳は、以下のようにしてみました。

 

 

■文明教育論

 

 

・今日の文明は智恵の文明にして、智恵あらざれば何事もなすべからず、智恵あれば何事をもなすべし。然(しか)るに世に智徳の二字を熟語となし、智恵といえば徳もまた、これに従うものの如く心得、今日、西洋の文明は智徳の両者より成立つものなれば、智恵を進むるには徳義もまた進めざるべからずとて、或る学者はしきりに道徳の教をしき、もって西洋の文明に至らんとする者あり。もとより智徳の両者は人間欠くべからざるものにて、智恵あり道徳の心あらざる者は禽獣(きんじゅう)にひとしく、これを人非人(にんぴにん)という。また徳義のみを脩(おさ)めて智恵の働あらざる者は石の地蔵にひとしく、これまた人にして人にあらざる者なり。

 

《今日の文明は、智恵の文明で、智恵がなければ、何事もなすことができない、智恵があれば、何事をもなすことができる。それなのに、世の中で智徳の2字を熟語とし、智恵といえば、徳(徳義、道徳)もまた、これにしたがうもののように、心得られていて、今日、西洋の文明は、智徳の両者により、成り立つものなので、智恵を進めるには、徳義(道徳上の義務)もまた、進めなくてはならないといって、アル学者は、しきりに道徳の教えを広げて、それで西洋の文明に至ろうとする者がいる。元々、智徳の両者は、人間に欠かすことができないもので、智恵があって道徳の心がない者は、鳥獣に等しく、これを人でなしという。また、徳義のみを修めて、智恵が働かない者は、石造の地蔵に等しく、これも、また、人であって、人でない者なのだ。》

 

 

・両者のともに欠くべからざるは右の如くなりといえども、今日の文明は道徳の文明にあらず。昔日(せきじつ)の道徳も今日の道徳も、その分量においてはさらに増減あることなく、啻(ただ)に増減あらざるのみならず、古書に載するところをもって果して信とせば、道徳の量はかえって昔日に多くして、末世(まっせ)の今日にいたり大にその量を減じたる割合なれども、かえりみて文明の程度如何を察するときは昔日に低くして今日に高しといわざるをえず。これに反して智恵の分量は古来今に至るまで次第に増加して、智識少なき時は文明の度低く、智識多き時は文明の度高し。阿非利加(アフリカ)の土人に智識少なし、ゆえに未だ文明の域に至らず。欧米人に智識多し、ゆえにその人民は文明の民なり。

 

《(智徳の)両者がともに欠かすことができないのは、右記のようになるといっても、今日の文明は、道徳の文明ではない。昔日の道徳も、今日の道徳も、その分量においては、少しも増減があることはなく、たんに増減がないだけでなく、古書に掲載していることを、本当に信用すれば、道徳の分量は、反対に、昔日に多くて、後世の今日に至って、大きくその分量が減っていく割合になるが、振り返って、文明の程度がどうかを推察する時には、昔日に低くて、今日に高いといわざるをえない。これに反して、智恵の分量は、古来より今に至るまで、しだいに増加して、智識が少ない時には、文明の度合が低く、智識が多い時には、文明の度合が高い。アフリカの土着民に智識は少ない、よって、まだ文明の領域に至っていない。欧米人に智識は多い、よって、その人民は、文明人だ。》

 

 

・されば今日の文明は道徳の文明にあらずして智恵の文明なること、また争うべからざるなり。また小児の概して正直にして、無智の人民に道徳堅固の者多きは、今日の実際において疑うべからざることなれば、道徳は必ず人の教によるものにあらず、あたかも人の天賦(てんぷ)に備わりて偶然に発起するものなりといえども、智恵は然(しか)らず。人学ばざれば智なし。面壁(めんぺき)九年能く道徳の蘊奥(うんおう)を究むべしといえども、たとえ面壁九万年に及ぶも蒸気の発明はとても期すべからざるなり。

 

《そうであれば、今日の文明は、道徳の文明でなくて、智恵の文明であることは、やはり、言い争うことができないのだ。また、子供が一般に正直で、智恵のない人民に道徳の頑固な者が多いのは、今日の実際において、疑うことができないことなので、道徳は、必ず人の教えによるものではなく、まるで人が天から賦与されて備え持って、偶然に発起するものなのだといっても、智恵は、そうではない。人は、学ばなければ、智恵がない。(達磨のように、)岩壁に対面して座禅で9年、充分に道徳の奥義を探究すべきだといっても、たとえ岩壁に対面して座禅が9万年に及んでも、蒸気機関の発明は、とても期待することができないのだ。》

 

 

※人間に不可欠な両者=智徳(智恵+道徳)

・昔日の文明(農業社会)=道徳の文明:人が先天的に具備

・今日の文明(工業社会)=智恵の文明:人が後天的に学習

 

 

・世に教育なるものの必要なるは、すなわちこのゆえにして、人学ばざれば智なきがゆえに、学校を建ててこれを教え、これを育するの趣向(しゅこう)なり。されども一概に教育とのみにては、その意味はなはだ広くして解し難く、ために大なる誤解を生ずることあり。そもそも人生の事柄の繁多にして天地万物の多き、実に驚くべきことにて、その数幾千万なるべきや、これを知るべからず。ただその物名のみにても、ことごとくこれを知る者は世にあるべからず。然(しか)るをいわんや、その者の性質をや。ことごとくこれを教えんとするも、とても人力にかなわざる所なり。人間衛生の事なり、活計の事なり、社会の交際、一人の行状、小は食物の調理法より大は外国の交際に至るまで千差万別、無限の事物を僅々(きんきん)数年間の課業をもって教うべきに非ず、学ぶべきに非ず。たとえ、その一部分にてもこれを教えて完全ならしめんとするときは、かえってその人の天資(てんし)を傷(そこな)い、活溌敢為(かんい)の気象を退縮せしめて、結局世に一愚人を増すのみ。今日の実際においてその例少なからず。されば到底この繁多なる事物を教えんとするもでき難(がた)きことなれば、果して世に学校なるものは不用なるやというに決して然(しか)らず。

 

《世の中に教育なるものが必要なのは、つまり、この理由で、人は、学ばなければ、智恵がないために、学校を建てて、これを教え、これを育てる意向なのだ。しかし、一般に、教育だけにおいては、その意味がとても広くて、理解しがたく、そのために、大きな誤解を生じることがある。そもそも、人生の事柄がとても多くて、天地の万物が多いのも、本当に驚くべきことで、その数は、何千・何万になるはずなのか、これを知ることができない。ただその物の名称だけでも、すべてこれを知る者は、世の中にいるはずがない。それなのに、ましてや、その物の性質も知るのは、なおさらだ。すべてこれを教えようとしても、とても人力では、かなわないことなのだ。人間は、衛生の事なのだ、生計の事なのだ、社会の交際、1人の品行、小は、食物の調理法から、大は、外国との交際に至るまで、種々様々で、無限の物事を、わずか数年間の学業・課程によって、教えることができるものではなく、学ぶことができるものではない。たとえ、その一部分であっても、これを教えて、完全に成し遂げさせようとする時には、反対に、その人の天性の資質を傷つけ、活発に敢行する気性を衰退・縮小させて、結局、世の中に1人の愚者を増やすだけだ。今日の実際において、その事例は、少なくない。そうであれば、到底、このとても多い物事を教えようとしても、できにくいことなので、本当に世の中に学校なるものは、不用なのかというと、けっしてそうでない。》

 

※智恵の詰め込み教育 → 天性の資質の発達や活発に敢行する気性を妨害

 

 

・もとより直接に事物を教えんとするもでき難(がた)きことなれども、その事にあたり物に接して狼狽(ろうばい)せず、よく事物の理を究めてこれに処するの能力を発育することは、ずいぶんでき得べきことにて、すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にありとのことをもってこれが標準となし、かえりみて世間に行わるる教育の有様を察するときは、よくこの標準に適して教育の本旨に違(たが)わざるもの幾何(いくばく)あるや。我が輩の所見にては我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず。

 

《元々、直接に物事を教えようとしても、できにくいことであっても、その事に当たって、物に接しても、取り乱さず、充分に物事の道理を探究して、これに対処する能力を発育することは、随分できえるべきことで、つまり、学校は、人に物を教えるところでなく、ただその天性の資質の発達を妨げずに、充分にこれを発育するための道具なのだ。教育の文字は、とても無理があり、これを発育と称するのがよいのだ。このように、学校の本旨は、つまり、教育にあるのではなく、能力の発育にあるということによって、これを標準とし、振り返って、世間で行われている教育の有様を推察する時には、充分にこの標準に適合して、教育の本旨と違わないものが、どれほどあるのか。私が見るところでは、わが国の教育の仕組みは、まったくこの本旨と違っているといわざるをえない。》

 

※学校:強制的な教育ではなく、自発的に物事の道理を探究・対処する能力を発育

 

 

・試(こころみ)に今日女子の教育を視よ、都鄙(とひ)一般に流行して、その流行の極(きわみ)、しきりに新奇を好み、山村水落に女子英語学校ありて、生徒の数、常に幾十人ありなどいえるは毎度伝聞するところにして、世の愚人はこれをもって教育の隆盛を卜(ぼく)することならんといえども、我が輩は単にこれを評して狂気の沙汰(さた)とするの外(ほか)なし。三度の食事も覚束(おぼつか)なき農民の婦女子に横文の素読(そどく)を教えて何の益をなすべきや。嫁(か)しては主夫の襤褸(ぼろ)を補綴(ほてい)する貧寒女子へ英の読本を教えて後世何の益あるべきや。いたずらに虚飾の流行に誘われて世を誤るべきのみ。もとより農民の婦女子、貧家の女子中、稀に有為(ゆうい)の俊才を生じ、偶然にも大に社会を益したることなきにあらざれども、こは千百人中の一にして、はなはだ稀有(けう)のことなれば、この稀有の僥倖(ぎょうこう)を目的として他の千百人の後世を誤る、狂気の沙汰に非ずして何ぞや。

 

《ためしに、今日の女子教育を見よ。都会も田舎も全般に流行して、その流行の極致は、頻繁に新奇を好み、山水の村落にも女子の英語学校があって、生徒数は、いつも数十人ある等というのを、毎度伝聞することで、世の中の愚者は、これによって、教育の隆盛を判断することになるだろうといっても、私は、たんにこれを批評して、狂気の行為とする以外にない。3度の食事も不安な農民の女性・子供に、横文字(英語)の素読を教えて、何の利益をなすことができるのか。嫁に行って、主人の夫の破れた衣服を補修する貧乏な女子に、英語の読本を教えて、後世に何の利益があることができるのか。無闇に空虚な装飾の流行に誘われて、世の中を誤るはずなのだ。元々、農民の女性・子供や、貧困家庭の女子の中で、まれに能力のある秀才を生み、偶然にも、大きく社会を利益することがなきにしもあらずだが、これは、千人・百人の中の1人で、とても稀有なことなので、この稀有の幸運を目的にして、他の千人・百人の後世を誤らせることは、狂気の行為でなくて、何なのか。》

 

※人によって実学を発育すべき:一律で無闇に空虚な装飾の流行を教育しない

 

 

・また、いたずらに文字を教うるをもって教育の本旨となす者あり。今の学校の仕組は、多くは文字を教うるをもって目的となすものの如し。もとより智能を発育するには、少しは文字の心得もなからざるべからずといえども、今の実際は、ただ文字の一方に偏(へん)し、いやしくもよく書を読み字を書く者あれば、これを最上として、試験の点数はもちろん、世の毀誉(きよ)もまた、これにしたがい、よく難字を解しよく字を書くものを視て、神童なり学者なりとして称賛するがゆえに、教師たる者も、たとえ心中ひそかにこの趣を視て無益なることを悟るといえども、特立特行(とくりつとっこう)、世の毀誉をかえりみざることは容易にでき難(がた)きことにて、その生徒の魂気(こんき)の続くかぎりをつくさしめ、あえて他の能力の発育をかえりみるにいとまなく、これがために業成り課程を終(おえ)て学校を退きたる者は、いたずらに難字を解し文字を書くのみにて、さらに物の役に立たず、教師の苦心は、わずかにこの活字引(いきじびき)と写字器械とを製造するにとどまりて、世に無用の人物を増したるのみ。

 

《また、無闇に文字を教えることを、教育の本旨とする者がいる。今の学校の仕組みは、多くが、文字を教えることを、目的とするようなものだ。元々、智能を発育するには、少しは、文字の心得もなくすべきではないといっても、今の実際は、ただ文字の一方にかたよって、もしも、充分に書物を読み、文字を書く者がいれば、これを最上として、試験の点数はもちろん、世の中の毀損・名誉もまた、これにしたがい、充分に難解な文字を理解し、充分に文字を書く者を見て、神童だ・学者だとして、称賛するので、教師である者も、たとえ、心の中で、ひそかにこの意向を見て、無益であることを悟ったといっても、独立・独行して、世の中の毀損・名誉を振り返らないことは、容易にできにくいことで、その生徒の根気が続く限り、尽力させて、あえて他の能力の発育を振り返る暇はなく、このために、学業を成し遂げ、課程を終了して、学校を卒業する者は、無闇に難解な文字を理解し、文字を書くだけで、少しも物の役に立たず、教師の苦心は、わずかに、生きた辞書と活字を印刷する器械を製造するのにとどまって、世の中に無用の人物を増やしただけだ。》

 

※智能の発育:難解な文字の読み書き(記憶力、知識の詰め込み)にかたよらない

 

 

・もとより人心全体の釣合を失わざるかぎりは、難字も解せざるべからず、文字も書せざるべからずといえども、本来、人心発育の理において、人の能力は一にして足らず、記憶の能力あり、推理の能力あり、想像の働ありて、この諸能力が各(おのおの)その固有の働をたくましゅうして、たがいに領分を犯(おか)さず、また他に犯されずして、よく平均を保つもの、これを完全の人心という。

 

《元々、人の心が全体のバランスを失わない限りは、難解な文字も理解させないわけにはいかない、文字も書かせないわけにはいかないといっても、本来、人の心の発育の道理において、人の能力は、ひとつだと不足で、記憶の能力があり、推理の能力があり、想像の働きがあって、この諸能力が各々、その固有の働きを力強くして、互いに領域を犯さず、また、他に犯されないで、充分に均整を保つもの、これを完全な人の心という。》

 

※能力の発育:ひとつにかたよらず、記憶力・推理力・想像力をバランスよく

 

 

・然(しか)るに毎人の能力の発育に天然の極度(きょくど)ありて、甲の能力はよく一尺に達するの量あるも、乙はわずかに五寸にとどまりて、如何なる術を施(ほどこ)し、如何なる方便を用うるも、乙の能力をして甲と等しく一尺に達せしむること能わず。然り而(しこう)して一尺の能力ある者は、これをその諸能力に割合して各二寸また三寸ずつを発育し、これをして一方に偏せしめざるをもって教育の本旨となすといえども、もしこの諸能力中の一個のみを発育する時は、たとえその発育されたる能力だけは天稟(てんぴん)の本量一尺に達するも、他の能力はおのずから活気を失うて枯死(こし)せざるをえず。文字を教うるは、ただ人の記憶力によるものにて、ただこの記憶力のみを発育する時は、他の推理の力、想像の働等はおのずから退縮せざるをえざるがゆえに、文字を教うるは、決してこれを有害のものというべからずといえども、ただこの一方に偏してこれを教育の主眼とする時は、人心の釣合を失して、いたずらに世に片輪者の数を増すの恐れあり。はなはだ慎むべきものにこそ。

 

《それなのに、人ごとに、能力の発育には、天性の限界があって、甲の能力は、充分に1尺(約30.3㎝)に達する量があっても、乙は、わずかに5寸(1尺の半分、約15.2㎝)にとどまって、どんな技術を施し、どんな方策を用いても、乙の能力を、甲と等しく、1尺に達させることはできない。それで、そうして、1尺の能力がある者は、これをその諸能力に分割して、各2寸または3寸ずつを発育し、これを一方にからよらせないことによって、教育の本旨とするといっても、もし、この諸能力の中の1個だけを発育する時には、たとえ、その発育された能力だけは、天性の資質の根本の量が1尺に達しても、他の能力は、自然に活気を失って、枯れて死なざるをえない。文字を教えることは、ただ人の記憶力によるもので、ただこの記憶力だけを発育する時には、他の推理力、想像の働き等は、自然に衰退・縮小せざるをえないので、文字を教えることは、けっしてこれを有害のものというべきではないといっても、ただこの一方にかたよって、これを教育の主眼とする時には、人の心のバランスを失って、無闇に世の中に、弊害のある者の人数を増やすおそれがある。とても慎むべきものなのだ。》

 

※能力の発育:人によって天性の限界あり → 1個にかたよれば、他が自然に活気を損失・枯死

 → 記憶力・推理力・想像力をバランスよく

 

 近代(戦前)の先進諸国の議会(国会)は、ダブルチェックのため、ほぼ二院制(両院制)で、一方は、国民に選挙された議員からなる議院(日の衆議院、英の庶民院、仏の国民議会、米の代議院、下院)、他方は、下院と差別化した議院(日・英の貴族院、仏・米の元老院、上院)としました。

 このうち、フランスは、国王を殺害し、アメリカは、国王が元々いないので、上院は、下院と別の方法で、国民から選出されています(フランスは、国民議会が直接選挙、元老院が間接選挙で、アメリカの上院は、各州で同数の代表者です)。

 一方、イギリス・日本は、国王を殺害せずに温存し、国王の権威のもとで、国民の代表が権力をもつ、立憲君主制に改変した際(「君臨すれども統治せず」)、上院よりも、下院を優越させたうえで、旧来の特権階級を上院の議員にしています。

 この手法は、一見すると、なぜ、一気に特権階級を、政治から追放しなかったのか、疑問だということができます(日本は、戦後に貴族院から参議院へ、改変しましたが、参議院には、解散や優越がなく、選挙区が広範囲という程度で、衆議院とあまり差別化されていません)。

 しかし、もし、国王や特権階級を追放すれば、かれらが困窮する等して、かれらを庇護する別組織が出現し、新政権よりも、旧政権を取り込んだ別組織に、国を統治する正当性があると、主張されるおそれがあるので、時代を逆行させないための、現実主義的な工夫と推測できます。

 そうであれば、近代のイギリスや日本は、旧来の勢力の代表である貴族院が、新興の勢力の代表である庶民院・衆議院に、お墨付きを与えている「形」にしているようにみえます。

 そこから振り返って、前近代の日本をみると、天皇が征夷大将軍(将軍)を任命し、鎌倉・室町・江戸の3幕府が樹立・滅亡しましたが、次期幕府・政府が、時代を逆行させないよう、いかに政権交代していったのかを、みてみたかったので、ここで取り上げました。

 

 なお、前近代の中国は、もし、民意で広域の反乱になれば、天意が悪政とみなし、王朝交代を容認し、別の有徳者が、土着民か外来民か不問で、善政すべきとされているので(天命思想・易姓革命)、中国の歴代皇帝は、血統(「ある」こと)よりも、儒教道徳(「する」こと)が優先されたのです。

 なのに、戦時中の日本が、満州事変(1931年)で中華民国から中国東北部を占領し、傀儡政権の満州国を建国(1932年)した際、清王朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を、満州国の皇帝にしたのは(1934年)、清の再興と位置づけ、清のかつての本拠地の統治の正当性を主張するためだったとみられます。

 よって、日本は、中国の天命思想・易姓革命には、無知だったようにもみえ、王朝交代もあった中国の皇帝を、血統が絶対の天皇のように、把握していたのではないでしょうか。

 けれども、満州国の建国理念のひとつに、王道楽土(儒教による徳治で土地を安楽に)があるので、儒教道徳が優先されていたのは、理解していたようです。

 満州国の建国理念のもうひとつに、五族協和(満州・モンゴル・漢・日本・朝鮮の5民族が協力)がありますが、これは、「名」ばかり・「形」だけで、「実」は、日本の関東軍が軍事・政事を独占支配していたので、国際連盟・欧米は、侵略と判断し、日本による統治の正当性が破綻しています。

 

 

●鎌倉幕府の最後

 

 執権(将軍の補佐)・連署(執権の補佐)等で「実」のあった、北条氏一族は、東勝寺合戦(1333年、後醍醐天皇の倒幕運動の最後)で自害し、「名」ばかり・「形」だけの宮将軍父子は、出家・死去したので、時代を逆行させる因子は、ありませんでした。

 

○鎌倉幕府最後の将軍:9代・守邦(もろくに)親王(在職:1308~1333年)

 8代将軍・久明(ひさあき)親王(89代・後深草天皇の息子、持明院統の系列)と7代将軍・惟康(これやす)親王(6代将軍・宗尊/むねたか親王の息子で、88代・後嵯峨天皇の孫)の娘の間の息子で、8歳で将軍に就任し(1308年)、鎌倉幕府滅亡まで、約25年在職しました。

 しかしながら、当時の鎌倉幕府は、北条得宗家と取り巻きの武士が、実権を掌握しており、将軍職は、名ばかり・形だけで、守邦親王の事績は、ほとんどありません。

 したがって、後醍醐天皇(96代、91代・後宇多天皇の息子で、90代・亀山天皇の孫、大覚寺統の系列)の倒幕運動(1333年)の際には、討伐の対象を北条氏(14代執権・高時)とし、守邦親王を無視しています。

 これは、後醍醐天皇が大覚寺統の系列で、守邦親王が持明院統の系列と、対立関係にありますが、皇統が同類なので、宮将軍を除外したとみられます。

 承久の乱(1221年)でも、後鳥羽上皇(82代)は、討伐の対象を北条氏(2代執権・義時)とし、摂関家出身の4代将軍・藤原頼経(よりつね、九条道家の息子)を無視しています。

 鎌倉幕府が滅亡すると、北条氏一族は、自害した一方、守邦親王は、将軍を辞任・出家し(1333年)、滅亡の3か月後に33歳で死去しましたが、詳細不明で、守邦親王の息子も、出家しており、ほぼ詳細不明で、鎌倉幕府滅亡の45年後に、死去しました(1378年)。

 鎌倉幕府滅亡後には、後醍醐天皇の建武の新政(1333~1336年)・足利将軍家の室町幕府(1336~1573年)・南北朝の分裂(1336~1392年)となりましたが、守邦親王の系列は、完全に消滅したので、時代を逆行させる因子がなくなっています。

 

 

●室町幕府の最後

 

 戦国期の群雄割拠から、信長→秀吉が「実」をもつようになり、「名」ばかり・「形」だけになっていた足利将軍は、最終的には、秀吉が臣下にすることで、時代を逆行させませんでした。

 

○室町幕府最後の将軍:15代・足利義昭(よしあき、在職:1568~1588年)

 12代将軍・足利義晴(よしはる、11代将軍・足利義澄の息子)と近衛尚通(ひさみち、5摂家のひとつ)の娘の間の息子で、当初は、出家していました(興福寺一条院門跡)。

 ですが、三好3人衆の勢力が、同母兄の13代将軍・足利義輝を殺害すると、足利義栄(よしひで、11代・義澄の孫)を14代将軍に擁立しました。

 その際に、義昭は、幕臣の援助で、南都を脱出・還俗し、そののち、織田信長の擁立で上洛、32歳で将軍に就任しました(1568年)。

 でも、義昭は、そののち、信長と対立し(1572年)、挙兵・反信長包囲網を誘導したので(1573年)、京都から追放され(1573年)、流浪の末、毛利輝元の所領の、備後国・鞆(とも)の浦に定着すると(1576年)、断続的に反信長包囲網を誘導しています。

 信長が本能寺の変(1582年)で自害すると、義昭は、信長の家臣の中で、豊臣秀吉と敵対する、柴田勝家に協力しましたが、勝家が自害すると(1583年)、しだいに秀吉の勢力が絶大になり、輝元が秀吉と和睦し、朝廷が秀吉を関白に任命しました(1583年)。

 秀吉と義昭の地位が逆転すると、義昭は、九州・薩摩の島津氏に、秀吉との和睦を斡旋することで、秀吉との関係を修復しようとし、秀吉が九州を平定すると(1587年)、秀吉は、義昭を京都に帰還させ、将軍職を朝廷に返上させ、室町幕府が滅亡しました(1588年)。

 そののち、義昭は、出家し、秀吉から山城国・槇島(まきしま)1万石の所領が分与され、大大名以上の殿中待遇で、秀吉の相談相手の側近(御伽衆/おとぎしゅう)になるぐらい厚遇され、朝鮮出兵(文禄の役・1592-73年)の際には、名護屋城まで出陣し、61歳で病死しています(1597年)。

 ここまでみると、秀吉は、旧来の2大勢力である、天皇(関白として補佐)と将軍を庇護することで、天下統治の正当性と、時代が逆行しないことを、担保したのがわかります。

 

 

●徳川幕府の最後

 

 新政府軍が、「実」のあった旧幕府軍を滅亡させ、「名」のある公家・武家の既存勢力を、華族として庇護するとともに、名誉職の貴族院に組み込むことで、時代を逆行させませんでした。

 

○徳川幕府最後の将軍:15代・徳川慶喜(よしのぶ、在職:1866~1867年)

 常陸国水戸藩主9代・徳川斉昭(なりあき)と有栖川宮(ありすがわのみや)織仁(おりひと)親王(112代・霊元天皇の息子)の娘の間の息子で、30歳で将軍に就任し(1866年)、大政奉還(1867年、将軍職も朝廷に返上)まで、わずか1年の在職でした。

 慶喜は、新政府に参入したかったのですが、王政復古の大号令(1868年)が徳川排除だったので、それに反発し、旧幕府軍に加担しました。

 それなのに、鳥羽伏見の合戦(戊辰戦争の最初)で、旧幕府軍が新政府軍に惨敗すると、慶喜は、江戸へ逃亡し、降伏して謹慎になり、江戸城が無血開城され、箱館戦争(戊辰戦争の最後)で、旧幕府軍が新政府軍に降伏しました(1869年)。

 戦乱が終結すると、慶喜は、謹慎が解除され(1869年)、まず静岡、つぎに東京へ移住し(1897年)、公爵になり、貴族院議員に就任(1902年)、隠居時に辞任し(1910年)、77歳で死去しています(1913年)。

 ここまでみると、慶喜は、謹慎後には、すでに無力化していたので、新政府は、むしろ、巨大な勢力の公卿・大名等を、華族として庇護したとみることができます。

 

 明治維新政府は、王政復古で、一君万民を標榜しましたが、実際には、新旧の勢力を華族として、特権階級化しており、旧勢力を取り込んだのは、時代を逆行させないため、新勢力を組み入れたのは、権力をもち、政事・軍事を主導した、薩長中心の藩閥を、権威化するためと推測できます。

 こうして、新興の勢力は、まず、権力で「実」(実績、「する」こと)をあげれば、つぎに、権威の「名」・「形」(名誉・地位、「ある」こと)がほしいのです。

 版籍奉還後には、皇室の近臣として、公卿・大名等を華族とし(1869年)、そののち、明治維新後の政事・軍事等に勲功のあった人(元勲・元老等)にも拡大し、5爵制(公爵→侯爵→伯爵→子爵→男爵)が規定され(1884年)、爵位をもつ者は、貴族院議員になりえる等、世襲で特権がありました。

 つまり、近代日本(戦前)には、旧来と新興の特権階級が顕著でしたが、それが戦中の「一億総特攻」・「一億総玉砕」や敗戦直後の「一億総懺悔(ざんげ)」で、一君万民化され、現代日本(戦後)でも、「一億総中流」、最近でも、「一億総活躍」と、平等意識が標榜されています。

 なので、前近代から近代へと転換する際に、なぜ、一気に特権階級を政治から追放しなかったのか、疑問だというのは、現在の平等意識からみた発想といえ、時代を逆行させないための、現実主義的な工夫とみることも、できるのではないでしょうか。

 

丸山真男の「~である」こと/「~をする」こと

理論段階での自然の形式から実践段階での人間の思想へ

人の利用価値/存在価値と人間の思想/自然の形式

人の利用価値/存在価値と「論語」の知/仁

人の利用価値/存在価値と信長型・秀吉型・家康型

~・~・~

 

●政治・経済の位置づけ

 

 私は、かつて、物事の価値基準には、次のように、外面の様相からみた、「何であるか」の存在価値と、内面の作用からみた、「何をするか」の利用価値の、両面があるとし、文化(芸術・スポーツ)・宗教は、存在価値を優先し、政治・経済は、利用価値を優先すると、各分野を対比させました。

 

※物事の内外両面

・外面の様相=「何であるか」の存在価値(非合理性):文化・宗教 ~ 「花」:過程重視

・内面の作用=「何をするか」の利用価値(合理性):政治・経済 ~ 「実」:成果重視

 

 文化は、芸術が型、スポーツがルール、宗教は、儀礼・教義と、既存の物・形が前提で、非合理性を受け入れ、芸術の美しさ・スポーツの楽しさ・宗教の救済が、漠然とした目的ですが、根拠・基準が曖昧で、型・ルールや儀礼・教義の変化もあり、過程が重視され、「花」があるかを評価します。

 たとえば、宗教の祭主や、古典芸能の家元を、能力で継承せず(能力で継承しても、疑似的親子という体裁をとりがちです)、血統で継承するのは、血統しだいは、絶対的・明確な判断なので、わかりやすく、能力しだいは、相対的・曖昧な判断なので、対立・分裂のおそれがあるからです。

 

 一方、政治は、政権が国民安寧、経済は、会社が利潤増殖と、目的が明確・不変で、その手段を知識・智恵・技術等で工夫することになり、合理性を追求し、成果が重視され、「実」があるかを評価するとしました。

 つまり、政治・経済は、政権・会社が、国民安寧・利潤増殖しないと(「する」ことをしない)、存続できず、政権交代・会社倒産になるので(「ある」ことがなくなる)、利用価値が本質なのです。

 国民安寧・利潤増殖が、かろうじてでも、できていれば、政治・経済でも、身分・家柄・血筋・人格等、「誰(何)であるか」の存在価値(品格)が容認されるのです。

 

 特に、日本の政治・経済は、農業社会では、土地経営が基本だったので、為政者(皇室・貴族・武士等)をはじめ、農民・商人・職人も、家単位で生業し、つぶれた家や、成り上がろうとする家は、力のある家に再編され(国も同様)、疑似的な家族が形成されていました。

 すなわち、朝廷は、天皇家の延長(天皇家と取り巻きの貴族が主導)、院庁は、上皇(治天の君)の延長(上皇と取り巻きの院近臣が主導)、幕府は、将軍家の延長(将軍家と取り巻きの武士が主導)といえますが、工業社会になると、政権や会社が、しだいに家の延長でなくなりました。

 ただし、明治維新当初の、政府は、天皇家と取り巻きの元勲・元老が政権を主導し、財閥は、創業家と取り巻きの有能者が経営を主導しています。

 政治は、君主制ならば、「ある」こと(身分・家柄・血筋・人格等の品格)が優先で、為政者を反乱・暴力でしか改変できませんが、民主制ならば、「する」こと(能力)が優先で、為政者を選挙・非暴力で改変できます。

 それが理由で、先進諸国は、暴力の君主制から非暴力の民主制へ進展させましたが、いずれでも、政治で改変が断行されるのは、利用価値が本質だからです。

 経済は、経営者が、民主制のように、社員に選出されることがないので、君主制に類似しているといえますが、経営不振ならば、有能でないとされ、社長交代なので、利用価値が本質です。

 そうして、為政者・経営者は、発言・行動の能力が必要ですが、農業社会での農作物は、生産が有限なので、パイの配分が大切になり(政権と国民が利益相反)、道徳を重視し、工業社会での工作物は、生産が無限なので、パイの拡大が大切になり(経営者と社員が相互利益)、智恵を重視しました。

 

 

●為政者・経営者

 

 物事に、内外両面があるように、人にも、内外両面があり、政治・経済は、利用価値が本質でしたが、次のように、為政者・経営者も、利用価値が本質で、それは、政権・会社での善行(「する」こと)で判断され、そこで、もし、存在価値を優先すれば、保身(「ある」こと)になります。

 

※為政者・経営者の内外両面

・外面の様相(「ある」):保身

・内面の作用(「する」):善行 ~ 本質

 

 よって、為政者の善行は、国民の生命・財産を保障し、国民が安心・快適に生活できる、善良な政治をすることなので、首相になりそうな党首は、理知的に、善政の能力がある人物を選出すべきですが、感情的に、議員が選挙で当選するのに有利な、人気のある人物を選出するのは、保身からです。

 これは、国民が、候補者の能力不明から、人気のある人物を当選させる、ポピュリズム(大衆迎合主義)と類似しており、もし、そうなれば、感情で扇動された大衆を愚劣というように(反知性主義の扇動政治・愚衆政治)、議員も、選出に理知がないので、愚劣といえるでしょう。

 そうすれば、為政者は、道徳と智恵をもつので、政権を担当する正当性があり、国民は、愚劣なので、それに、したがうべきだという、従来の構図が、成り立たなくなりつつあります。

 かつては、為政者と国民の間に、圧倒的な情報格差があったので(文字の読み書きの格差、情報量・質の差、時差)、たとえば、戦争・交渉等では、誰かに一任するという手法が有効でした。

 ですが、マスメディアの発達で、情報格差がかなり縮小されてきたので、政権がしっかり情報公開すれば(現在の公文書の短期廃棄は、まるで権威主義国のようで、逆行しています)、間接民主制から、重要法案・首相公選等、限定的な直接民主制へと、つながる可能性もみえてきます。

 

 なお、政権による国民安寧は、わかりにくいので、保身から、為政者が居座り続けやすいですが、会社による利潤増殖は、わかりやすいので、保身から、社長や経営者が居座り続けにくいのが、現実です。

 

 

●国民・正規社員(公務員も)

 

 政治・経済や、為政者・経営者は、利用価値が本質ですが、国民・正規社員は、それらとは異なり、以下の理由から、存在価値が守られていることに、注意すべきです。

 

○政治:生活保護で、国民の生存権が守られている

 現行憲法25条1項には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とあり、全国民に、生存権が保障されています。

 生活保護法1条には、「この法律は、日本国憲法第25条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。」とあります。

 したがって、財産・労働能力のない生活困窮者には、生活保護(現金給付)があり、国民は、存在価値が本質だと、法律で規定されています。

 なので、政権は、まず国民の存在価値(「ある」こと、生存権)を前提とし、つぎに国民の利用価値(「する」こと、3大義務)を誘発しなければならず、「風(治者、君子)が草(被治者、小人/しょうじん)をなびかせる」(『論語』顔淵12-297)ことが必要になります。

 

○経済:整理解雇の4要件で、正規社員の雇用安定が守られている

 解雇には、普通解雇(労働者が労働契約内容に違反)、懲戒解雇(就業規則の処分の中で最重大)、整理解雇(業績悪化等の会社の事情での余剰人員削減)があり、普通解雇と懲戒解雇は、労働者側の理由で、整理解雇は、経営者側の理由です。

 ちなみに、公務員の解雇には、懲戒免職と分限免職があり、懲戒免職は、労働者側の理由で、分限免職は、経営者側の理由です。

 労働契約法16条には、「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。」(解雇権濫用法理)とあります。

 裁判の判例には、無闇に解雇されないよう、整理解雇が有効だと認められるために、当初は、人員削減の必要性・解雇回避努力・人員選定の合理性・解雇手続の相当性、の4要件を満たす必要がありましたが、最近は、4要件を総合的に検討し、妥当ならば有効と、緩和されつつあるようです。

 このように、会社には、整理解雇の4要件があるかぎり、社員を無闇に解雇できないので、正規社員は、まず存在価値(「ある」こと、雇用安定)が前提で、つぎに利用価値(「する」こと、業務)を遂行することになり、利用価値の有無が判断されるのは、雇用採否時のみです。

 

 以上から、為政者・経営者は、利用価値が本質だったのとは対照的に、国民・正規社員は、存在価値が本質といえ、次のようです。

 

※国民・正規社員の内外両面

・外面の様相(「ある」):生存権・安定雇用 ~ 本質

・内面の作用(「する」):3大義務(勤労・納税・教育)・業務

 

 余談ですが、子供の教育・学習も、大人と同様、まず存在価値(「ある」こと、生きていること)が本質・前提で、つぎに利用価値(「する」こと、善くすること)を誘発・遂行するのが、日本社会であり、人生だと、浸透させるべきです。

 ただ、子供の学校・地域のクラブ活動等で、運動系も文化系も、個人競技は、参加費を払えば、全員出場できますが、集団競技は、出場にメンバー選考があり、各々の利用価値が問われるので、一見すれば、利用価値が本質だとしてしまいがちです。

 でも、集団的には、そもそも、ヨリ多くの人数という、存在価値がいて、各々が練習して、はじめて、ヨリ善いプレーという、利用価値が成り立つのだと、共通認識させる必要があり、たとえば、高校野球(全国大会のベンチ入18人)の常連校は、部員が50~100人程度いるのが、大半です。

 クリエイティブな仕事も、複数・大量のボツの案を作成・検討して(「ある」こと、存在価値)、はじめて、自信・確信をもって、最善・唯一の案を提示でき(「する」こと、利用価値)、熟練とともに、ボツ案が減少するものですが、必要な無駄があるのです。

 また、個人的には、利用価値でみれば、望みが報われなければ、努力が無駄になり、才能・適性がなかったか(先天的)、努力の仕方が悪かった(後天的)となります(善の否定)。

 ところが、これを、存在価値でみれば、それに向いてなかったか(先天的)、マズい努力の仕方(後天的)を、知ることができたので、今後のために、良かったとなります(生の肯定)。

 そうして、人生は、まず、存在価値(「ある」こと、生きていること)を重視し、現在の状況を認識すると、つぎに、利用価値(「する」こと、善くすること)を重視し、それをもとに、発言・行動すべきで、この往来を繰り返しながら、生活していくことになるのです。

 企画書のフォーマットも、これと同様で、まず、現状(「ある」こと)を観察・分析し(客観的)、つぎに、方針・提案(「する」こと)を主張します(主体的)。

 PDCAサイクルも、Plan(計画、「ある」を自然にみる)→Do(実行、自然に「する」)→Check(評価、「ある」を作為でみる)→Act(改善、作為で「する」)→…を、循環させるので、これも同様です。

 

 

●外国人労働者・非正規社員

 

 為政者・経営者は、正規社員を自由に解雇できないので、外国人労働者や非正規社員を、雇用の調整弁とみていますが、かれらが大勢になると、社会の総体で、貧富の格差が拡大します。

 その成れの果ては、貧困者達が、社会に不満を爆発させるか、生活保護を受給するか、の選択になり、政権・財政を圧迫させるので、計画的な政策が不可欠なのです。

 

 外国人労働者の受け入れは(特に非熟練者)、どの程度の人数・割合にするのか、どの程度の労働法規・社会保障にするのか、高失業率や人権侵害にならないようにすべきで、生活に行き詰まれば、容易に帰国できないので、残留し、生存のために、犯罪・暴動につながりやすくなります。

 だから、非正規社員以上に(日本人の非正規社員は、引き籠もりでも、何とかなるでしょう)、失業対策(転職紹介・生活支援)を強化しなければならないと、想定しておくべきでしょう。

 外国人への生活保護は、裁判の判例では、生活保護法の対象外とし、実際には、人道的観点から、自治体の裁量で、永住・定住資格をもつ等の外国人には、支給されていますが、就労の在留資格をもつ外国人には、支給されないので、政権の眼中は、利用価値のみで、存在価値がないのです。

 それが顕著なのは、外国人の技能実習生制度で、これは、転職不可が原則だったため、劣悪な職住環境・金銭トラブルや人権侵害等により、失踪者数が増加しており(建設関係が約半数)、このままでは、国が把握できていない人達が大勢、裏・陰・闇で生活することになります。

 これを早急に改善するため、政権は、旧制度の不備を認め、失踪者が一定期間内に申し出れば、「既往をとがめず」とすることで、不法滞在の違法を許し、制度を改良したうえで、できるだけ失踪者を新制度に組み込まないと、従来の対策強化ならば、やがて、深刻な治安の悪化につながるでしょう。

 

 他方、日本の雇用者は(役員を除外)、正規が6割、非正規が4割と、政権・会社は、近年、非正規社員を急増させています。

 非正規社員にも、正規社員と同様に、労働契約法が適用され、前述の4要件がありますが、整理解雇になれば、正規社員よりも、率先して解雇され、契約が短期ならば、期間満了で更新せずに、雇い止めになることもあるので、非正規社員は、利用価値が本質といえます。

 

 

●人の利用価値/存在価値と評価の方法

 

 以上をまとめると、次のようになり、政治・経済的にみれば、日本には、上・中・下の3階層の者が生活しているといえ、高収入の上の者で、利用価値が本質なのは、宿命ですが、低収入の下の者で、利用価値が本質なのは、懸念すべきです。

 下の者は、中の者よりも、冷遇された条件なので、ここでは、あえて格下と表現しています。

 

・上の者=為政者・経営者:利用価値が本質

・中の者=国民・正規社員:まず存在価値が本質・前提で、つぎに利用価値を誘発・遂行

・下の者=外国人非熟練労働者・非正規社員:利用価値が本質

 

 人は、物のように、使い捨てにできず(失業した外国人労働者を帰国させるのは、容易ではありません)、残留・生存するので、社会の総体からみれば、下の者を中の者に、昇格させる智恵が必要になります。

 上の者と中+下の者の関係は、中+下の者には、法(内規)的責任のみがある一方(それが普通解雇や懲戒解雇につながることもあります)、上の者には、それとともに、道義的(道徳的・倫理的)責任や、結果責任(経営不振)・管理責任(不祥事)もあります。

 決定権をもつ、上の者は、悪知恵を働かせては困るので、智恵だけでなく、道徳(道理・仁徳)・倫理も必要で、たとえば、福沢諭吉は、『学問のすすめ』で、儒教の古い道徳を軽視しましたが、智恵(実学)とともに、新しい道徳も重視しました。

 本文では、「才徳」(才能+人徳、初・2・3・17編)、「智徳」(智恵+道徳、初・4・7・10・14・17編)・「無智無徳」(13編)・「智識道徳」(15編)・「上智上徳」(17編)・「才知・徳義」(17編)のように、智恵と道徳を、再三並置させています。

 そのため、上の者は、成果の段階で、智恵があって、どんなに功績を多く上げても、過程の段階で、道徳がなく、中+下の者を抑圧してはダメで(パワハラは、社会・職場の持続可能性を妨害する行為です)、道徳と智恵の両方が要求されます。

 道徳は、世の中の弊害を少なくできる受動的な側面で、智恵は、世の中の利得を多くできる能動的な側面といえ、その両面が必要です。

 道徳には、限界があるうえ、前近代日本の農業社会では、多少すでに備え持っていた一方、智恵には、限界がないので、近代日本の工業社会では、肥大化させました。

 しかし、現代は、智恵を肥大化させすぎたので、上の者から中+下の者への要求が、能力の利用価値に偏重しがちですが、そもそも日本は、前述のように、人権の存在価値を前提とした社会なのです。

 それを根本とすれば、日本では、昔も今も、中の者(国民・正規社員)どうしで、身近な人を、「仕事ができるか、できないか」で評価したがりますが、それをしてもいいのは、交換可能で、利用価値が本質の、上の者と下の者だけです。

 そのような評価を、中の者(国民・正規社員)にしても、いなくさせることができない法律なので、無駄・不毛なのです。

 国民・正規社員は、まず存在価値が本質・前提で、つぎに利用価値を誘発・遂行することになるので、「仕事ができるか、普通か」で評価し、仕事ができる人を出世させればよく、「仕事ができるか、できないか」で評価すれば、職場での人間関係の悪化につながるので、禁止すべきなのです。

 仕事ができないといわれる人は、いつもそこにいるのに、何もしていないということはなく、何かをしており、そのした物事が、時間的に早いか・普通か・遅いか、量的に多いか・普通か・少ないか、質的に善いか・普通か・悪いかだけのことで、できていないのではないのです。

 質的に善いのは、できていて、普通や悪いのは、できていないと、みるかもしれませんが、悪い案があることで、善い案がわかるので、必要な無駄ともいえます。

 むしろ、国民・正規社員を、利用価値が本質だとみている人は、日本の法律を理解しておらず、智恵(知識・工夫)もなく、道徳(仁愛・慈悲)もなく、社会・職場の害悪で、善行を邪魔する人といえます(その人の存在価値は、認めつつも、利用価値は、低いとみるべきでしょう)。

 

実家の改修1~3

実家の改修4~6

実家の改修7~10

実家の改修11~13

実家の改修14

~・~・~

 

(つづき)

 

 

●ホワイトを基調とした理由

 

 今回のリフォームは、1階北半分の玄関・水廻り・ダイニングキッチンと廊下・階段で、日当たりが、あまりよくないので、まず、部屋の暗さを、明るくするために、壁・天井等をホワイトで塗装している。

 また、増設した洗面台ブースの壁や、新設したトイレの壁・天井、キッチンの一部の壁は、白っぽい、シナ合板にした。

 つぎに、部材のチープな(印刷した)木目調が嫌いなので、メーカー品の戸(便所の片開き戸・トイレの片引き戸)や、システムキッチンの扉・洗面台の面材は、ホワイトにしている。

 さらに、便器の陶器や、バスタブの人造大理石・洗い場のタイル等、衛生設備も、ホワイトにしている。

 つまり、ホワイトを基調にした理由は、部屋を明るくする、部材のチープさを隠す、設備の衛生さ、の3つだ。

 

 ホワイトの塗装が定着したのは、近代建築からで、たとえば、視覚的に、色をホワイトで、ニュートラル(中立的)にしたうえで、形の構成に注目させた、最も有名なのが、フランスの建築家のル・コルビュジェだろう。

 コルビュジェは、『建築にむかって(建築へ)』で、建築家は、プラン(平面、構想)という内実をもとに、トレース・レギュレーター(指標線、規整線)という手段によって、ヴォリューム(立体)・サーフェス(面、表面)という外形を表現すべきだと、主張している。

 つまり、空間の機能性がよいのは、もちろんだが(「住宅は住むための機械である」)、色をホワイトとし、素材感を消去することで、建築のヴォリュームやサーフェスといった、形の幾何学的な美を、芸術性として追求した。

 そして、コルビュジェが、都市に、緑のある高層住宅を提案したのは、過密で光(太陽殺菌)や風(空気除菌)が確保できず、劣悪化していた住環境を、スラム・クリアランス(貧民窟を再開発)するためでもあった。

 

 以上は、近現代の建築家達による、内外装の造形美の面だが、ホワイトには、機能美の面もある。

 部屋を明るくするのは、たとえば、フィンランドの建築家のアルヴァ・アアルトが、北欧では、日照不足で暗いため、内外装にホワイトを多用している。

 部材のチープさを隠すのは、前近代には、石・木等の素材感や装飾を表出し、近代には、コンクリート・鉄・ガラスが登場するとともに、無装飾になり、現代には、自然素材の本物が高価なので、使用できない中で、「~風」・「~調」といった人工素材の偽物が嫌いだからだ。

 設備の衛生さは、コッホ+パスツールによる細菌学の発展以降、感染症(疫病)の流行を阻止するため、保健・衛生(健康を保ち、生を衛/まもる)が発達した。

 病院では、ホワイトを多用し、ゴミや汚れを見つけやすくして、掃除で清潔にしているが、住宅の水廻り(サニタリー)でも、それと同様に、便器・洗面台等の衛生陶器やタイルを、ホワイトにするようになった。

 

 以上は、欧米でのホワイトの事例だが、日本でも、柳田国男が、『明治大正史 世相篇』の「第3章・家と住み心地」の「3・障子紙から板ガラス」で、次のように、衛生のホワイトについて、言及している。

 

 明かり障子の便利はよほど前から知られてはいたが、紙が商品にならず経済がその交易を許さぬ間は、農家ではこれを実地に応用することができなかった。奇妙な因縁でこれがまた小児の手引きによって、追い追いに小家へも入ってきたのである。近世の草双紙の絵を見ると、きまってこういう家の障子には、いろはになどと清書の紙が貼ってある。それが明治の中ほどになるまで、あの多くの村の実際の光景であった。そうして子供が学校に行くようになって、初めてまたこの端居(はしい、端にいてくつろぐこと)というものが必要になってきたのである。

 家が明るくなったということは、予想以上のいろいろな結果をもたらした。第一には壁や天井の薄ぎたなさが眼について、知らず知らずにこれを見よくしようという心持ちの起こってきたことである。障子に日の影の一ぱいにさす光は、初めて経験した者には偉大な印象であったに相違ない。ちょうど同じころから勝手元(台所)の食器類に、白く輝くものが追い追いに入ってきたことは、必ず相映発する(引き立て合う)ところがあったろうと思う。いわゆる白木の合子(ごうし、フタ付の小さい容器)は清いのは最初の一度だけであった。初めて染まったものは永久のしみになって残った。粗末でも塗り物の拭(ぬぐ)うてもとにかえるものを、農家が使おうとしたのも同じ刺戟(しげき)からであろう。

 茶釜鑵子(かんす、ツル付の湯釜)の類を磨き抜くことは、今日は主婦の常の作業であるが、これなども特に必要が多くなったことと思う。これからいろいろの什具(じゅうぐ)の形と好み、よそで見たものと同じのが欲しくなることも、しだいに多くなってきたわけである。家を機会あるごとに少しでも大きくし、押入れを仕切ったり縁側を添えたり、内からも外からも見た目をよくしようとしたのも、実際はまたこのころからのことであった。これはとにかくに改良には相違ないが、そのお蔭に以前の小屋が簡素なる本式の住居となり切って、これでもどうやら住めるという小満足に達したことが、ちょうどまた町の長屋の人と同じであった。すなわち貧農が一つの定まった世態(世間の状態)となったのである。

 

 白紙の流通で障子が普及し、障子から光が差し込み、暗かった家が明るくなると、薄汚さが目立つようになったので、台所で、白木の器は、シミが染まって残るため、白く輝く食器類や塗物を使用したり、掃除で清潔にするようになり、内圧・外圧で(自他とも)、見た目を良くしはじめたそうだ。

 これは、特に、大正デモクラシーの、中流家庭での生活改善運動で、顕著だったとみられ、ホワイトを基調とした理由は、この延長線上にある。

 

(つづき)

 

内容(内面)のない・みえない外形(外面)は独り歩きする

内容(内面)を外形(外面)の一部とみて、内外一体とする

ロラン・バルトの「表徴の帝国」

~・~・~

 

■内容(内面)のない・みえない外形(外面)は独り歩きする

 

 フランスの哲学者のロラン・バルトは、『表徴の帝国(記号の国)』(原題は、L'Empire des signesなので、『記号の帝国』の和訳が最適でしょう)で、西洋を、意味の国、日本を、意味が喪失して空虚な、表徴(しるし、記号)の国と、対比させています。

 記号論で、記号(シーニュ)は、次のように、外面の様相の記号表現と、内面の作用の記号内容の、両側面が結び付いたものと定義され、たとえば、言葉は、外面の表徴・しるし(意味するもの、シニフィアン)と、内面の意味(意味されるもの、シニフィエ)に、二分しています。

 

※記号の両側面(内外面)

・外面の様相=記号表現:言葉の表徴・しるし

・内面の作用=記号内容:言葉の意味

 

 そして、たとえば、信号標示は、青(外面)が進め(内面)で、赤が止まれを意味し、永久不変でしょうが、言葉は、意味(内面)が表徴(しるし、外面)とズレて変化したり(「大和魂」は、弱さから強さへと変化)・追加したり(「ハト」は、鳥に平和の象徴が追加)、することがあります。

 それで、言葉での、表徴と意味のズレ(内外面一体でない)は、商品・芸術作品での、外物・外形と価値のズレと同様です。

 商品・芸術作品は、意味・価値があらかじめ内在しているのではないので、想定以上に売り切れたり・感動されたりする反面、売れ残ったり・つまらなかったりする危うさも併せ持っており、特に内面のない・みえない外面は、独り歩きすることがあります。

 たとえば、高級外車・海外高級腕時計等は、利用価値の使用欲から、観賞欲を経て、所有欲の存在価値へと進み、収集自体を目的化する人々がいて、彼らは、それらに魅力・魔力があるとしか、理由・根拠を説明できないでしょう。

 つまり、実際(実践)では、言葉の意味や、商品・芸術作品の価値は、それ自体に単独にあるのではなく、他との差異で規定され、それに力(魅力・魔力)があったとし、その力の有無は、場所(空間)や機会(時間)によって異なり、それは、事前に測り知れない、人知を超越した領域です。

 一方、分析(理論)では、商品が売れたり・残ったり、芸術作品が感動されたり・つまらなかったりした、意味・価値を後付することになり、これは、事後に測り知った、人知の領域です。

 だから、内面(作用)は、外面(様相)の一部にすぎず、内面が不明とする必要があるので(意味が内在するのではありません)、内外面一体とし、本体(個体)=様相+作用とみて、価値は、個体どうしの相互関係性によって形成され、外在すると想定すべきなのです。

 

 さて、日本は、バルトが指摘するように、物・事・人等の意味(内容、内実)を追求せず、理由・根拠なく、型・掟・慣習・伝統等(外形、外物)にしたがう傾向にあり、内容(内実)がなかったり、みえなければ、外形(外物)が独り歩きしがちで、それらをまとめると、次のようです。

 

※日本の両側面(内外面):個体=様相+作用 → 独り歩き、空気が醸成

・外面の様相(「ある」)=表徴(しるし、記号)

・内面の作用(「する」)=意味:喪失・空虚 → 理知がなければ、感情が入り込む

 

 日本では、よく空気が醸成されるといいますが、前近代の中国や、近現代の欧米は、内容(内実)の意味(理由・根拠)・理知をもとに、外形(外物)を表現するので、内外面一体になり、内容(内面)重視の国(意味の国)といえます。

 他方、日本は、昔も今も、外形(外物)の表徴(記号)に、内容(理知)がなかったり、みえなければ、そこに感情が入り込み、内外がズレて独り歩きし、空気が醸成されやすい、外形(外面)重視の国(表徴の国)といえます。

 

 

●天皇の神聖化

 

 バルトは、日本を「表徴の帝国」とし、皇居を空虚な中心だというだけで、天皇制は、取り上げられていませんが、日本で最も、内容がないとみえたり、内容があるとみえずに、外形が独り歩きしているのは、天皇ではないでしょうか。

 「現代も歴史は繰り返す3」では、《大勢の天皇は、「ある」こと(存在価値)が、本質(第一)で、「する」こと(利用価値)は、副次(二の次)としてきた》といいましたが、現代(戦後)日本での象徴天皇制も、「君臨すれども統治せず」なので、次のように、内面がなく、外面のみといえます。

 

※天皇の両側面(内外面) → 独り歩き、神聖化

・外面の様相(「ある」)=しるし:君臨、象徴、唯一の超希少性 ~ 存在価値=本質(第一):先行

・内面の作用(「する」)=意味:統治しない ~ 利用価値=副次(二の次):後付

 

 ただし、天皇には、日本統治に関与すれば、空間的にヨリ広く、時間的にヨリ長く、日本を安定させてきた、先例があるために、日本で唯一の超希少性で、その力によって君臨でき、内面のない・みえない外面が独り歩きするので、超越的な存在として、日本人に神聖化されたりもするのです。

 その代償に、天皇は、政治に関与できないので、たとえば、皇室報道で、天皇の知(理知)・情(感情)・意(意欲)等、何かを表出すれば、政治性と結び付けられるおそれがあるので、当り障りのない言葉や、外見のファッション(衣装)を、取り上げるのです。

 また、天皇は、積極的に「する」こと(内面の作用)ができないので、信じる・祈る・待つ・受ける等、消極的に何もしていないようにすることで、「ある」こと(外面の様相)を保持・永続しているのです。

 

 

●憲法9条の神聖化

 

 現行憲法9条は、戦争放棄(1項)+戦力不保持・交戦権否認(2項)という外形(外面の様相)が、規定されていますが、改憲せずに、警察予備隊の発足→保安隊・自衛隊への改編や、個別的自衛権→限定的な集団的自衛権と、条文解釈という内容(内面の作用)を、度々変更してきました。

 そうして、内容を容易に変更すれば・するほど、条文解釈に重大さがなくなった一方、9条の条文自体の外形が独り歩きし、神聖化してしまい、改憲が相当困難になる結果になり、それらは、次のようです。

 

※憲法9条の両側面(内外面) → 独り歩き、神聖化

・外面の様相(「ある」)=表徴:戦争放棄+戦力不保持・交戦権否認

・内面の作用(「する」)=意味:条文解釈を度々変更

 

 そのうえ、自民党は、現行憲法がGHQの押し付けだという外形や、改憲したいという外形が、先行し、改憲の内容を検討するのは、後付なので(いまだに未定)、つくづく日本は、外面の名(名目)ばかり・形(外形)だけで、内面の実(内実、実質)・理(理知、道理)がないことがわかります。

 防衛費のGDP(国内総生産)比1%から2%への引き上げも、金額という外形(外枠)が先行し(主要諸国の国防費を比較し、根拠を他国に依存)、軍備という内容(中身)が後付なので、『この国のかたち(外形)』(司馬遼太郎)重視・内容軽視という、日本らしい異様な対応といえるでしょう。

 余談ですが、保守層といわれる人達が、選択的夫婦別姓制度に反対するのも、家族同姓が、伝統だとか、公的制度だとか、家族の一体感・絆を生むだとか、家族の外形(外枠)ばかりに固執し、内容(中身)がないことがわかります。

 家族の一体感・絆は、中身しだいだと思っている、多くの夫婦にとって、他人の家族の事情に踏み込むのは、「大きなお世話」なのです。

 

 

●先の大戦での理知停止・感情移入

 

 日本は、昔も今も、「名ばかり・形だけで、実・理がない」のが、蔓延していますが、内容のない・みえない外形が独り歩きし、空気が醸成され、それが最も、多大な犠牲となったのが、先の大戦だったといえ、政治・軍事で、名目(外形)と実質(内容)がズレたのが、極悪非道のはじまりです。

 当時の政府・軍部は、政策という外形に、根拠という内容がなく、理知が停止され、アメリカの物質主義を、日本の精神主義で、乗り越えようとする、感情の移入が支配的でした。

 開戦で日本は、次のように、「自存自衛」や「輸入が禁止された石油を確保するため」と、外形を標榜しましたが、前方の戦闘重視・後方の兵站軽視で、守備できない範囲まで戦線を拡大し、餓死者・病死者が大半だったり、石油運搬船が次々に撃沈させられる等、内容のない作戦が露呈しました。

 

※戦争の名実:ズレ

・外面の名目(外形):自存自衛、輸入禁止の石油確保

・内面の実質(内容):前方の戦闘重視・後方の兵站軽視で餓死者・病死者大半、石油運搬船撃沈

 

 それに、敗戦濃厚になると、次のように、天皇主権のもとで、政府・軍部は、「国体の護持(天皇制の永続)」という外形のため、「一億特攻」・「一億玉砕」という内容を主張するようになり、天皇尊崇・国民(臣民)無視(人権なし)でした。

 

※戦前の天皇主権:虚

・外面の名目(外形):国体の護持(天皇制の永続) ~ 天皇尊崇

・内面の実質(内容):一億特攻・一億玉砕 ~ 臣民無視(人権なし)

 

 しかし、そもそも、天皇だけがいて、国民がいない、異様な国家が、成立するとでも思ったのでしょうか(国体明徴声明で、相対的な、天皇機関説を捨て、絶対的な、天皇主体説を取ったのも、誤りです)。

 よって、自国で、「一億特攻」・「一億玉砕」を主張していれば、敵国に、原爆や大空襲で、国民(民間人)の生命・財産を、一気に殲滅させられても、とても文句は、いえなくなるのです。

 なので、戦後には、次のように、虚を捨て、実を取り、国民主権のもとで、「国民の生命・財産の保障」という外形のため、「国土防衛(軍隊)・治安維持(警察)・訴訟裁判(司法)の整備」という内容に、正常化しており、国民の基本的人権が保障されるようになりました。

 

※戦後の国民主権:実

・外面の名目(外形):国民の生命・財産の保障(人権あり)

・内面の実質(内容):国土防衛(軍隊)・治安維持(警察)・訴訟裁判(司法)の整備

 

 ちなみに、イタリア・ルネサンス期の政治思想家のマキャベリでさえ、『君主論』で、戦時には、道理から逸脱し、極端に過激化することもあるが、君主は、大勢の民衆を味方につけないと、政権を保持できないとし、国民の生命・財産の保障は、昔も今も、国家の存在意義の本質(第一)なのです。

 

 

●箱物行政の公共事業

 

 「名ばかり・形だけで、実・理がない」のは、戦前だけでなく、戦後にも、受け継がれており、たとえば、中央の国(政府)や、地方の自治体での、箱物行政の公共事業が、それです。

 特に、地方での箱物行政の公共事業は、自分の自治体が、隣接する自治体と、平等に、同じようなものを作るか、見栄で、大きく作るか、感情に支配されがちだったり、都道府県と政令指定都市で、近場に重複した施設を整備したりしました。

 したがって、有効に利活用されず、そこには、自治体の状況が異なるので、その自治体に最適な、各々違う施設を作るという、理知がなかったようで、公共施設が「ある」ことを重視し、機能的・効率的に「する」ことを軽視した結果といえ、それらは、次のようです。

 

※公共施設

・外面の様相(「ある」)=表徴:空間・形態・構造・設備

・内面の作用(「する」)=意味:機能・効率 → 感情あり・理知なしで、有効に利活用されず

 

 これは、各国の状況が異なるので、自国に最適な、違うGDP比の防衛費になるという、理知がなく、主要諸国の国防費を比較し、金額の根拠を他国に依存するという、感情に支配されるのと、共通しています。

 

 

●東京都知事選(2024年)の石丸現象

 

 経済には、商品(物)の流行(ブーム)があるように、政治には、為政者(人)のブーム(流行)があり、ブームも、内容のない・みえない外形が独り歩きする現象で、内容で理知が停止し、感情が移入するので、予想以上に外形の影響が肥大化することになり、戦後で顕著なのは、次の事例です。

 

・2001~2006年=小泉純一郎内閣:自民党・公明党

・2008~2011年・2011~2015年=橋下徹の大阪府知事・大阪市長:大阪維新の会

・2016年~=小池百合子の東京都知事:都民ファーストの会

 

 これらは、それぞれ約5年・7年・8年(現時点)と、比較的長いので、ブームをおこし、定着させる力(魅力・魔力)があったと後付でき(力は、善か悪か、政治的な評価とは無関係です)、支持勢力を確保しています。

 なお、戦後の55年体制(自民党:社会党=2:1の構図)以降、政権与党のほとんどが自民党で、自民党が野党になった、一過性のブームは、次の事例です。

 

※8・10党派連立政権

・1993~1994年=細川護熙(もりひろ)内閣:8党(日本新党・他)

・1994年=羽田孜(つとむ)内閣:10党(新生党・他)

 

※民主党政権

・2009~2010年=鳩山由紀夫内閣:民主党・国民新党・他

・2010~2011年=菅直人(なおと)内閣:民主党・国民新党

・2011~2012年=野田佳彦(よしひこ)内閣:民主党・国民新党

 

 こちらは、それぞれ約2年・3年と、比較的短いので、ブームをおこす力しかなく、この自民党以外の2政権の間に、2大政党制のために、小選挙区制が導入されています(1996年、橋本龍太郎内閣の時)。

 

 ところで、日本は、一元的だと、それ以上に発展性がないので、嫌悪され、たとえば、一元的なキリスト教やマルクス主義は、結局、あまり定着せず、神道・仏教・儒教等が、雑多に習合するのを愛好してきました。

 さらに、日本は、保守/革新の思想対立がなく(戦後の共産党の政党支持率は、せいぜい2~4%程度)、その都度、善いことを残し、悪いことを変えようとするので、革命もなく、最低限、二項が並存・往来する二元的、多元的なのが、特徴です。

 ですが、現在の日本の不幸は、民主党が、下野で分裂してしまったので、自民党がダメでも、支持の受け皿にならず、政権交代を任せられないことにあります(政党支持率が立憲+国民民主党で、わずか6%なのに、すぐに政権交代を主張するのは、おこがましい)。

 

 ここまでみると、最近の東京都知事選で、石丸伸二氏が次点になったのは、既成政党や閉塞社会の打破への期待感もありますが、公約・政策の内容を街頭で深く語らないことで、ほぼ無名の外形を、独り歩きさせ、ブームをおこすことができた結果といえます。

 近代の工業社会は、「何をするか」の内面の作用を優先するので、公約・政策という内容を重視しがちですが、後近代(現代)の情報社会は、「何であるか」の外面の様相を優先するので、その人がまとう雰囲気という外形を重視しがちです。

 現在は、たとえば、ネットでのユーチューブやティックトックでは、たいした意味・内容のない情報がバズっており、彼の何ともいえない雰囲気が、支持につなげたのではないでしょうか。

 ただ、石丸氏は、次点で落選なので、特定勢力の支援もなく、ほぼ無名だったうえ、そもそもネットの中心にいる若年層の有権者が、それほど人数がいないので、ネット選挙のみでの限界も顕在化しました。

 ブームでの人気は、期待で上がり、現実で下がる傾向にあるので、そのブームが定着するかは、実力・内容しだいになります。

 

 

●AIへの欧米と日本の対応

 

 このように、日本は、「名ばかり・形だけで、実・理がない」のが、多々あり、今後、それで悪化しないか、注意すべきですが、最近のAI活用でも、欧米が規制する中、無防備な日本は、入力で学習させた内容に無関心で、出力した外形のみ、神の啓示のように、信じて行動しがちになるでしょう。

 そうなるのは、欧米が、内容・「する」ことや理知を優先し、日本が、外形・「ある」ことや感情を優先するからですが、AIを悪用しないことや、AIの外形が先行しても、人間が後付で、内容(理由・根拠)を解いて吟味することが、必要です。

 

(つづき)

 

皇統断絶後の儒教摂取

母親非皇族の古代天皇の仏教・記紀依存

天智系の世界観1

~・~・~

 

■血統がやや希薄な天皇は、実績をつくりたがる

 

 物・事・人等には、外面の様相(「ある」)という側面と、内面の作用(「する」)という側面の、両側面が想定できます。

 このうち、天皇は、血統という外面(外形、「ある」)を、皇位継承の正当性(正統性)の根拠としていますが、もし、天皇の血統がやや希薄で弱体であれば、実績という内面(内実、「する」)で、強化したがるのが、日本史上の経験則といえます。

 天皇には、最初から明確な役割があるのではなく、各自で功業を後付しますが(たとえば、神仏への祈祷・祭祀、被災地訪問・戦没者慰霊)、時の為政者達が天皇を庇護するのは、天皇が日本統治に関与すれば、空間的にヨリ広く、時間的にヨリ長く、日本を安定させてきた、先例があるからです。

 天皇の両側面は、次のように、まとめることができ、この中のXは、実績内容で、後述する、古代の5事例でのXが該当します。

 

※天皇の両側面(内外面)

・外面の様相(「ある」)=血統:皇位継承の正統性の根拠(先行) → やや希薄で弱体

・内面の作用(「する」)=実績:X(後付) → 強化したがる

 

 古代には、次のような、血統のやや希薄な天皇が、実績をつくっています。

 

・継体天皇(26代):応神天皇(15代)の5世孫で非皇族 → X=儒教摂取

・用明・推古の2天皇(31・33代)同母兄妹:母が蘇我氏本家 → X=仏教興隆

・持統・元明の2天皇(41・43代)異母姉妹:母が蘇我氏分家 → X=記紀神話編纂

・聖武・孝謙(称徳)の2天皇(45・46=48代)父娘:母が藤原氏 → X=鎮護仏教

・桓武天皇(50代):母が渡来系氏族 → X=唐風制度導入(讖緯/しんい説・郊祀祭天の儀)

 

 継体天皇(26代)以降の6~8世紀は、天皇の父と母の両方の血統が、皇族かどうか、意識された時代で、自分の両親ともが非皇族か、母親が非皇族の天皇は、儒教・仏教・記紀神話・唐風制度を取り入れることで、やや引けを取りがちな天皇の威光を、引き揚げようとしたと推測できます。

 当時の天皇には、神聖で霊力・呪力があるとされ、その血のつながりのある、父子間か兄弟間が、皇位継承の最善・最良でしたが、父母とも皇族だと、その血が濃く、母が非皇族(豪族出身)だと、その血が半分に薄まったとみられ、父母とも非皇族だと、かなり希薄だと判断されました。

 ただし、当時の大和政権は、天皇と諸豪族の連合体制だったので、天皇が有力豪族と、ほぼ対等に渡り合えるよう、年齢が30歳以上の、ある程度人生経験のある皇族を、天皇即位の条件にしていました。

 天皇を若年齢化できたのは、壬申の乱(672年)で、政権中枢の有力豪族を一掃し、天皇家の意向を大幅に反映できる譲位でも、皇位継承できるようになった、天武天皇(40代)以降です。

 やがて、天皇家に政治権力はなくなりましたが、現代でも、前述した、日本史上の経験則は、大幅に縮小・変形して継承されているようで、天皇家の直系の愛子内親王より、傍系の悠仁親王は、血統(外形)がやや希薄なので、高学歴志向で実績(内実)をつくろうとしているようにみえます。

 

 

●応神天皇(15代)の5世孫で非皇族の、継体天皇(26代)が、儒教摂取

 

 歴代天皇131人中(126代+北朝5代)、天皇経験者からの男系の血統は、5世孫での皇位継承が継体の1人のみ、玄孫での継承がおらず、ヒ孫での継承が孝徳(36代)・皇極=斉明(35・37代)・後花園(102代)・光格(119代)の4人で、他の全員が、子か孫の継承です。

 つまり、歴代天皇の中で、最も血統が希薄化したのは、武烈天皇(25代)と継体天皇の間での皇統断絶で、そこには、皇位継承の正統性の弱体を強化する実績が最も必要で、そのために摂取したのが、儒教だったのではないでしょうか。

 血統という外形が特に弱いので、儒教道徳(徳行)という内実で強くし、かなり引けを取りがちな天皇の威光を、引き揚げようとしているようにみえます。

 『日本書紀』(「紀」、以下同)・『古事記』(「記」、以下同)によると、儒教摂取の記事は、次のようです。

 

※15代・応神

・応神16(285+120=405)年2月:ワニ(王仁)が来日、皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師とし、諸々な典籍を学習、通達しないことがない、ワニは書(ふみ)の首(おびと)等の始祖(「紀」)

・応神段6:百済のショウコ(照古、13代)王が、アチキシ(阿知吉師、阿直/あちきの史/ふびと等の祖先)を派遣し、牡馬1頭・牝馬1頭・横刀(たち)・大鏡を献上、百済に賢人の献上を要請すると、ワニシキ(和邇吉師、文/ふみの首/おびと等の祖先)+『論語』10巻・『千字文(せんじもん)』(1000字が異種の漢詩)1巻、計11巻を献上(「記」)

 

※26代・継体(「紀」)

・513(継体7)年6月:百済が、五経博士のダンヨウニ(段楊爾)を貢献

・516(継体10)年9月:百済が、五経博士のアヤノコウアンモ(漢高安茂)を貢献し、博士のダンヨウニ(段楊爾)との交代を要請

 

 儒教摂取の最初の記事は、実在性が不確実な応神天皇(15代、後世に八幡神として信仰)の時代ですが、そこから応神天皇の5世孫・継体天皇の時代まで、儒教摂取の記事がまったくありません。

 倭は、4世紀終り~5世紀初め以降、朝鮮半島で断続的に戦争し、敵方は高句麗、味方は百済でしたが、当時はまだ『千字文』(6世紀前葉成立)がなかったので、最初の記事の信憑性が疑問視され、継体天皇の儒教摂取と結び付けるために、応神天皇の時代に潤色したとみることができます。

 記紀神話によると、皇統断絶したのは、武烈天皇に子供がいないからとされていますが、数々の極悪行為があるのは、断絶も当然と正統性を主張するため、潤色しているようにもみえます。

 皇統断絶前の武烈天皇を悪、皇統断絶後の継体天皇を善(徳行)と、対照的に記述できるのは、記紀神話を編纂した皇統が、16代・仁徳から25代・武烈までとは、別系列だったことがあるのではないでしょうか。

 ちなみに、儒教は、両統迭立から南北朝分裂にかけても、持明院統・北朝と大覚寺統・南朝で、血統という外形に大差がなかったので、儒教道徳(徳目)という内実の優劣を主張しました。

 たとえば、三種の神器をもっていた南朝は、北畠親房が『神皇正統記』で、鏡を正直、玉を慈悲、剣を智恵、の徳目だと結び付けています。

 

 

●母が蘇我氏本家の、用明・推古の2天皇(31・33代)同母兄妹が、仏教興隆

 

 父母とも皇族の欽明・敏達の2天皇(29・30代)は、仏教の国家祭祀化の是非を、賛成の蘇我氏と反対の物部氏・中臣氏に質問しましたが、導入せず(552/欽明13年10月、584/敏達13年9月~585/敏達14年3月30日)、まず、母が非皇族の用明天皇が、仏教に帰依しました(587/用明2年4月2日)。

 つぎに、蘇我氏と天皇家が、物部氏を滅亡させると(丁未/ていびの乱・587年)、母が非皇族の推古天皇は、皇太子の厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子、父は用明、母は欽明の娘、祖母は父方・母方とも蘇我氏)+大臣の蘇我馬子とともに、仏教興隆に着手しました(594/推古2年2月1日)。

 この時期には、遣隋使を派遣し(「隋書」俀国伝・600年、「紀」607/推古15年7月3日~608/推古16年4月+俀国伝・607年、「紀」608年9月11日~609/推古17年9月+俀国伝・「隋書」煬帝紀・608年、煬帝紀・610年、「紀」614/推古22年6月13日~615/推古23年9月)、仏教を摂取しています。

 また、畿内前方の四天王寺‐中間の法隆寺‐後方の飛鳥寺等、仏寺が建立され、約30年間で仏寺46、僧(男性)816人・尼(女性)569人の合計1385人が記録されています(624/推古32年9月3日)。

 そうして、母が非皇族(蘇我氏本家)で、やや引けを取りがちな天皇の威光を、仏教興隆で引き揚げようとしています。

 

 

●母が蘇我氏分家の、持統・元明の2天皇(41・43代)異母姉妹が、記紀神話編纂

 

 記紀神話には、不思議な箇所があり、それは、人代の初期歴代天皇が男系の継承なのに、神代のアマテラスからニニギへは、祖母と孫息子の継承になっていることです。

 アマテラスがニニギに、天上から地上へ降臨・統治させたのは(「紀」神代下・段9、「記」神代段6‐3)、次のように、表では、持統天皇から孫の文武天皇(42代)へ、裏では、元明天皇から孫の聖武天皇(45代)へ、譲位で皇位継承した、史実の正当性を主張するためとみられます。

 

※表:天皇家のみが対象

・アマテラス:持統、703年に59歳で死去

・タカミムスヒ:該当なし(天智?)

・アメノオシホミミ(アマテラスの息子):草壁(天武と持統の息子)、689年に28歳で死去

・タクハタチジヒメ(タカミムスヒの娘でオシホミミの妻):元明(天智の娘で草壁の妻)、記52歳・紀60歳

・ニニギ(オシホミミとタクハタチジヒメの息子):文武(草壁と元明の息子)、707年に25歳で死去

 

※裏:天皇家+藤原氏が対象

・アマテラス:元明、記52歳・紀60歳

・タカミムスヒ:藤原不比等、記54歳・紀62歳

・アメノオシホミミ(アマテラスの息子):文武(草壁と元明の息子)、707年に25歳で死去

・タクハタチジヒメ(タカミムスヒの娘でオシホミミの妻):藤原宮子(不比等の娘で文武の妻)、不明

・ニニギ(オシホミミとタクハタチジヒメの息子):聖武(文武と宮子の息子)、記12歳・紀20歳

 

‐「古事記」完成712年時の年齢:記~歳

‐「日本書紀」完成720年時の年齢:紀~歳

 

 ここで注意すべきは、持統天皇も元明天皇も、母が非皇族(蘇我氏分家)で、天皇の威光が、やや引けを取るうえ、孫への皇位継承が、やや強引なので、史実と神話を重ね合わせようとしたことで、天皇家ならば表、藤原氏ならば裏で、理解すれば、両者が納得できる、両義的な構成といえます。

 「古事記」は、元明天皇の時代の711(和銅4)年9月18日に着手し、712(和銅5)年1月28日に完成したとあります(序・段3)。

 一方、「日本書紀」は、天武天皇(40代)の時代の681(天武10)年3月17日に着手し、元正天皇(44代)の時代の720(養老4)年5月21日に完成なので(「続日本紀」)、アマテラスとニニギの逸話を、創作・挿入することも可能です。

 

 

●母が藤原氏の、聖武・孝謙(称徳)の2天皇(45・46代)父娘が、鎮護仏教

 

 推古天皇の仏教興隆は、畿内中心でしたが、聖武天皇・光明皇后夫妻は、国家鎮護のため、全国の地方にも、国分(僧)寺・国分尼寺を建立・並存させるとともに、中央の平城京に、総国分僧寺としての東大寺と、総国分尼寺としての法華寺を、建立・並存させました。

 聖武と光明の娘の称徳(孝謙)天皇も、平城京に、僧寺の西大寺と、尼寺の西隆寺を、建立・並存させ、父母を踏襲するとともに、仏僧の道鏡を寵愛するほど、仏教に相当傾倒しています。

 そのうえ、聖武天皇は、中国・唐から、授戒できる高僧の鑑真を招聘し(733年の遣唐使で、高僧の来日を勧誘し、753年の遣唐使帰国で鑑真来日)、754年に聖武上皇・光明皇太后・孝謙(称徳)天皇の父母娘の3人が、菩薩戒(在家信者用で、出家信者は具足戒)を授与され、威光を強化しました。

 736年には、インド出身の菩提僊那(ぼだいせんな)・ベトナム出身の仏哲・中国出身の道璿(どうせん)が来日し、752年には、3人が東大寺大仏の開眼供養を主導しており、道璿は、伝戒師(正統な戒律を伝授する高僧)でしたが、日本で授戒が本格化したのは、鑑真の来日以降です。

 「梵網経」には、国王が菩薩戒を授与されれば、国家が仏教に加護されるとあり、3人の授戒は、則天武后(5-6代の間、3代・高宗の皇后)+その息子2人の中宗(4・6代)・睿(えい)宗(5・8代)の唐(則天武后は周)皇帝3人が、鑑真の師匠筋から菩薩戒を授与さたのを踏襲しました。

 このように、聖武・孝謙(称徳)の2天皇父娘は、いずれも母が非皇族(藤原氏)なので、やや引けを取りがちな天皇の威光を、鎮護仏教で引き揚げようとしています。

 なお、元正天皇(44代、母は元明天皇)までは、父母とも皇族が意識されていましたが、聖武天皇からは、母が非皇族なのがほとんどになりました。

 それにともなってか、天武天皇(40代)・天智天皇(38代)の子・孫達は、大半が母不詳の皇族だと記録されており、藤原氏が、父母とも皇族の子孫達を隠蔽し、皇位継承から排斥した可能性も、捨て切れません。

 

 

●母が渡来系氏族の、桓武天皇(50代)が、唐風制度導入

 

 桓武天皇は、母が非皇族の渡来系(百済の武寧王/25代の子孫)だったうえ、皇位継承で、天武系が断絶し、天智系に転換したので、古代中国の王朝交代を意識し、讖緯(しんい)説・郊祀祭天の儀等、唐風の制度を導入しました。

 また、国家の中心では、平安京の内裏を造営し、周縁では、東北地方で反乱する蝦夷(えみし)を討伐する等、数々の実績で、かなり引けを取りがちな天皇の威光を、引き揚げようとしています。

 讖緯説は、中国・漢代に流行した、未来を予言する学説で、十干十二支のうち、辛酉(しんゆう)を革命、甲子(かっし)を革令、戊辰(ぼしん)を革運とし、いずれも異変が起こりやすいとされ、為政者達は、先手を打って改革することで、未来の予言を封じ込めようとしました。

 天智系の始祖・光仁天皇(49代)は、辛酉の年(781年)の辛酉の日(1月1日)に、天応へ改元し、同年に、息子の桓武天皇に譲位しており、桓武天皇も、長岡京は、甲子の年(784年)に、平安京は、794年の辛酉の日(10月22日)に、遷都しています。

 郊祀祭天の儀は、桓武天皇が、次のように、冬至に2回、渡来系の百済王(こにきし)氏の本拠地・河内国交野郡柏原で、執り行わせた儀礼です(そののち、文徳天皇/55代も1回/856年11月23日、執り行わせました)。

 

※50代・桓武(「続日本紀」)

・785年11月10日:天の神を交野の柏原で祭祀、前々から執り行ってきた御礼の祈祷(賽宿祷)

・787年11月5日:藤原継縄(つぐただ、南家・武智麻呂の孫)を派遣し、天の神を交野で祭祀、光仁天皇も祭祀

 

 古代中国には、天は円形、地は方形という、天円地方の宇宙観があるので、漢代には、冬至に、都の郊外南方の円形の壇上で、天を祭祀し、夏至に、都の郊外北方の方形の壇上で、地を祭祀する、郊祀が執り行われ、このうち、冬至の天の祭祀は、天子である皇帝が主催すべき行事でした。

 

 

●天皇家の直系の愛子内親王よりも、傍系の悠仁親王が、高学歴志向

 

 皇室典範によると、新・旧とも(明治期以降)、皇位継承は、天皇家の血統の男系男子のみで、現在の皇位継承の順位は、秋篠宮文仁親王→悠仁親王→常陸宮正仁親王ですが、先例によると、男系女子も皇位継承しているので(10代8人)、皇室典範を改正すれば、愛子内親王も皇位継承が可能です。

 しかし、もし、現時点で皇室典範を改正し、天皇を長子継承に変更すれば、男系の男子がいるのに、男系の長女がずっと皇位継承すると、そのうちに、皇族外(5世孫)となる男系男子がでてきてしまうこともあり(皇族の範囲は、玄孫/やしゃごまで)、彼は、税金で庇護されなくなります。

 ところが、彼は、先例だと(継体天皇が5世孫)、天皇になれるので、彼を庇護する勢力が出現すると(外国人もありえます)、先例により、女系天皇を庇護する政権は、「偽物の日本」で、皇族外の男系男子を庇護する勢力が「本物の日本」だと、自称されるおそれがあるのです。

 したがって、皇位継承の正統性が強い男系男子を、税金で庇護しておく必要があり、その中で最も血統の濃い男系男子に、皇位継承させるべきなのです。

 これらを勘案すれば、天皇家の男系男子の血統が、完全に断絶しなければ、長子継承に変更することはできず、男系男子のいる、秋篠宮家への皇位継承が必須なのです。

 ですが、直系の愛子内親王は、天皇にしたいほど、国民に人気がある一方、傍系の秋篠宮家自身は、血統がやや希薄になるからか、高学歴志向で実績をつくりたがっているようにもみえ、これは、血統という外面(外形)の弱体を、実績という内面(内実)で強化する振る舞いともいえます。

 愛子内親王は、幼稚園から大学まで、皇室ゆかりの学習院ですが(中学校・高校は女子科)、悠仁親王は、幼稚園・小学校・中学校をお茶の水女子大学附属、高校を筑波大学附属、大学を高偏差値の有名大学を希望するのは、学歴を実績とみなしているとすれば、高学歴志向の理由が説明できます。

 

 

●日本史上での歴代天皇の立場

 

 最後に、日本史上での歴代天皇の位置づけをみていきますが、天皇は、古代後半から、しだいに政治(内面の作用)に直接関与しなくなると、宮廷の儀式や、神仏への祈祷・祭祀(外面の様相)に特化するのが、顕著になりましたが、これを選択したことが、天皇制の生き残れた要因ではないでしょうか。

 そうしたのは、おそらく、権力をもつ為政者の政事・軍事(顕事/あらわごとは、合理的)で、吉(善)から凶(悪)になっても、権威をもつ天皇の祈事・祭事(幽事/かくりごとは、非合理的)で、凶から吉に回復させ、それを交互に反復させれば、永遠だという発想からでしょう。

 政事・軍事は、失敗すれば、責任追及されるので、天皇は、歴代の最有力な為政者に、名目上委託し(実質上は、政権奪取です)、その為政者に庇護され、失敗がなく、責任追及されない、祈事・祭事に特化したことが、結果的に現在まで、万世一系と政権交代が両立する、日本の特徴ができました。

 今の天皇も、合理性が優先される、政治・経済に一切関与せず、非合理性が優先される、文化(芸術・スポーツ)や被災地訪問・戦没者慰霊等に関与するのは、昔の天皇が、神仏へ祈祷・祭祀した、その延長線上にあるといえます。

 そして、政治・軍事・経済は、物的・量的な満足を請け負い、祭祀・文化・宗教は、心的・質的な満足を請け負うことになります。

 これらをまとめると、日本の内外両側面と、天皇の内外両側面は、それぞれ、次のようです。

 

※日本の両側面(内外面)

・外面の様相(「ある」)=天皇の祈事・祭事:非合理性、責任追及なし→皇室交代なし(万世一系)

  ~ 存在価値:聖、尊貴性、天皇には仁愛・慈悲が必要(「ある」の肯定)

・内面の作用(「する」)=為政者の政事・軍事:合理性、責任追及あり→政権交代あり

  ~ 利用価値:俗、機能性、為政者には道徳・智恵が必要(「する」の肯定)

 

※天皇の両側面(内外面)

・外面の様相(「ある」):日本統治に関与し、ヨリ広く・ヨリ長く、安定させてきた君主「である」

  ~ 存在価値:本質

・内面の作用(「する」):昔は神仏への祈祷・祭祀、今は被災地訪問・戦没者慰霊等「をする」

  ~ 利用価値:副次

 

 以上より、大勢の天皇は、「ある」こと(存在価値)が、本質(第一)で、「する」こと(利用価値)は、副次(二の次)としてきたのです(だから、御所に引き籠っていても、天皇制が成り立ったのです)。

 

(つづく)

 

 

 「歴史は繰り返す」は、古代ローマの歴史家のクルティウス・ルフスの言葉とされ、「歴史は繰り返さないが、韻(いん)を踏む」は、アメリカの作家のマーク・トウェイン(『トム・ソーヤの冒険』で有名)の言葉とされているようで、歴史は、似たようなことが起こるという意味です。

 ここでは、日本で、過去と類似した事例が、現代も発生していることを、取り上げていきます。

 

 

■求心力が低下すると、権力は分裂する

 

 前近代の日本史を大雑把にみると、主導した政権(政治権力)は、おおむね、天皇親政→摂関政→院政→武家政と、次々に変化しましたが、新勢力が主導するようになると、旧勢力は、しだいに形骸化していきました(実がなく、名ばかり・形だけに、有名無実化しました)。

 摂関政から院政へ移行すると、やがて、摂関家が分裂し(5摂家)、院政から武家政へ移行すると、やがて、天皇家が分裂しています(両統迭立→南北朝)。

 つまり、権力の求心力が低下すると、その権力が分裂する傾向にあり、これは、現代でもみられます。

 自民党から民主党等の連立へと政権交代した際に(2009年)、自民党は、分裂しなかったので、政権奪還できましたが(2012年)、民主党は、下野すると、やがて、分裂してしまいました(立憲民主党・2017年、国民民主党・2018年)。

 

 

●摂関政から院政へ移行すると、摂関家が分裂

 

 院政の開始は、8歳の息子の堀川天皇(73代、母が藤原師実/もろざねの養女)へ譲位した(1086年)、白河上皇(72代)からですが、当初は、息子への譲位が目的で、上皇が政権を主導するつもりはなく、摂政・関白の師実(頼通/よりみちの息子)・師通(もろみち)父子が政権を主導しました。

 しかし、師通が38歳で急死し(1099年)、息子の忠実(ただざね)がまだ22歳と若年で、大臣未経験だったうえ、師実も60歳で死去したので(1101年)、上皇(治天の君)が天皇の家父長として、政権を主導するようになり、忠実が関白を後継したのは、父の死から6年後の28歳でした(1105年)。

 この時期には、摂関家にかわって、上皇の権力が強化されたので、院政の開始は、師実・師通父子の影響が完全になくなった1101年からで、これ以降、摂関政は、しだいに形骸化していくとともに、摂関家が分裂し、摂政・関白の就任は、各家交替で、幕末まで継続されましたが、有名無実でした。

 摂関家の分裂は、保元の乱(1156年、忠実の息子・頼長/よりながが戦死)・治承3年の政変(1179年、平清盛が後白河院政停止、松殿基房/もとふさが関白解任→2代目の近衛基通/もとみちが就任)・建久7年の政変(1196年、九条兼実/かねざねが関白解任→基通が再任)がきっかけです。

 まず、藤原忠通(ただみち、忠実の息子)の息子が3派(近衛家・基実/もとざね、九条家・兼実、松殿家・基房)に分裂し、そのうち、松殿家は、2代目・師家(もろいえ)で断絶しました。

 つぎに、近衛家の3代目・家実(いえざね)から、鷹司家・兼平(かねひら)が、九条家の3代目・道家(みちいえ)から、二条家・良実(よしざね)と一条家・実経(さねつね)が、分派したので、5摂家の分裂になり、しだいに摂関家の求心力が低下していきました。

 

 

●承久の乱後、朝廷・院庁が衰退し、幕府が隆盛すると、天皇家が分裂

 

 承久の乱(1221年)で、鎌倉幕府軍が、後鳥羽上皇(82代)軍に戦勝したのをきっかに、幕府は、東日本から西日本へも勢力拡大すると、朝廷・院庁を掌握・統制していったので、しだいに天皇家の求心力が低下しました。

 そのような中で、後嵯峨天皇(88代)は、息子2人の後深草天皇(89代、1246年)・亀山天皇(90代、1259年)に、次々譲位し、院政しましたが、亀山の息子・後宇多天皇(91代)を皇太子にして、死去しました(1272年)。

 そして、兄の後深草(持明院統)と弟の亀山(大覚寺統)の確執がきっかけで、まず両統迭立(兄弟の子孫どうしで対立し、両派が皇位継承の請願合戦・幕府が裁定)、つぎに南北朝分裂(1336年)になりました。

 

 

●自民党が政権を奪還すると、民主党が分裂

 民主党は、下野すると(2012年)、維新の党と合併し、民進党を結党しましたが(2016年)、希望の党との合併が破断になると(2017年)、一時5派に分裂、現在は、立憲民主党と国民民主党に2分されています。

 よって、せっかく2大政党制のために、小選挙区制を導入し(1996年)、一方がダメならば、他方を支持できる体制を、いったん成立させたのに、民主党自体が崩壊(自壊・自爆)してしまったのは、責任重大で、必要な時に、選択肢がないのが、現在の状況です。

 自民党にとっては、与党だった民主党を、「悪夢」の3年3ヶ月といったりしますが、国民にとっては、下野で分裂してしまったので、自民党がダメでも、支持の受け皿にならず、政権交代を任せられない民主党を、今後の「悪夢」とみるでしょう。

 衆議院議員の総選挙は、政権選択の選挙といえるので、敵対する政党・勢力どうしの合戦とみれば、投票する国民の関心は、政権を担当する勢力が、一枚岩になっているかを、最重要視するのではないでしょうか。

 権力集中(集権、一枚岩)の勢力が戦勝し、権力分散(分権)の勢力が敗戦したのは、飛鳥期の白村江の合戦での唐・新羅連合軍が倭・百済連合軍に勝利、戦国期での武家勢力が寺家(僧兵)勢力に最終的勝利・天下統一、江戸期の大坂の陣での徳川家康軍が豊臣秀頼軍に勝利、の先例があります。

 

 

●現在の政権交代の可能性

 

 最後に、日本での政権交代の可能性を、みていくことにします。

 まず、日本と、先進諸国の、世論調査での政党支持率は、次に示す通りです。

 

※日本の政党支持率(2024年8月NHK、小数点以下を四捨五入)

・日本:自由民主党30%、公明党3%、立憲民主党5%、国民民主党1%、日本維新の党2%、日本共産党3%、他10%、無党派46%

 

※先進国の政党支持率(5%単位で簡略化、5%以下は他)

・アメリカ:民主党30%、共和党30%、無党派40%

・イギリス:労働党45%、保守党20%、自由民主党10%、リフォームUK10%、緑の党5%、他10%

・フランス:国民連合30%、アンサンブル15%、社会党15%、不服従のフランス10%、共和党5%、緑の党5%、再征服5%、他15%

・ドイツ:キリスト教民主・社会同盟30%、ドイツのための選択肢15%、社会民主党15%、緑の党15%、ザーラ・ワーゲンクネヒト同盟5%、自由民主党5%、他15%

 

 先進国では、英米のような2大政党制でなくても、第2・3党が10~15%もあり、日本では、与党(自民+公明)が33%・1/3で、先進国の第1党とほぼ同じですが、無党派が46%・1/2で、異様に多いのが特徴です。

 なので、民主党(立憲+国民)が、わずか6%なのに、すぐに政権交代を主張するのは、おこがましく、再結集がなければ、私は、そのうちに、ネットを駆使し、世論調査を反映した、直接民主制(世論の割合で賛否を配分するのが党議拘束)の政党が登場して、無党派を取り込むとみています。

 

(つづく)

 

利己的/利他的

~・~・~

 

 何かを主張する際には、「こうしたほうがいい」・「こうすべきた」等といいますが、それが無限定・普遍的に通用するとはいえず、適用範囲があるので、それは、場所・機会によりますが(空間的・時間的に限定)、それとともに、そのバランスにも注意する必要があります。

 一元的に主張し、それを普遍だとするのは、神仏・自然科学の領域で、人間・社会科学の領域は、多様なのが現実なので、物事を2項対立・2項往来の中で思考する等、最低二元的にみて、もし、一元的な主張であれば、その背景も勘案し、見せたものとは対照的な、隠したものを想定すべきです。

 

 

●自分7割・他人3割

 

 さて、自己と他者を考察する場合、利己的が悪で、利他的が善のように、言及されがちですが、人は、利他だけでは、長く続けられず(外面の「ある」の限界)、利己だけでも、行き詰まってしまいます(内面の「する」の限界)。

 私は、日常生活の心得として、自分7割・他人3割が、ちょうどよいバランスとみており、利他の心が不可欠なソーシャルワーカーでさえ、心の割合が、この程度でないと、持続可能にならないのではないでしょうか。

 「他」が3割なのは、新しくて良いもの・古き良きもの等、別のものが入る余地・余裕を残しておくべきで、「自」が7割なのは、次のような根拠を列挙してみました(多少のこじつけもあります)。

 

○江戸前期の3公7民

 「何公何民」とは、江戸時代の年貢率を表現した言葉で、公の数字は、村の全収穫量のうち、各藩か幕府が徴収した年貢の割合、民の数字は、農民の手元に残る取り分です。

 それ以前の安土桃山期に、豊臣秀吉は、太閤検地で年貢を、領主が百姓と相談して取り決めさせ、それが困難な場合には、領主が石高の2/3(6.7割)、農民が石高の1/3(3.3割)の比率にするよう、規定していました。

 徳川家康も当初は、「農民は、生かさぬよう、殺さぬよう」といったように、7公3民でしたが、しだいに6公4民・5公5民と低下し、新田開発がさかんだった江戸前期には、3公7民で豊かに富み、庶民の生活も安定しており、江戸中・後期には、おおむね4公6民程度が、一般的だったようです。

 この江戸前期の3公7民は、自分7割・他人3割とほぼ合致します。

 

○日本の家計収支

 2019年の総務省「家計調査」によると、総世帯のうち、勤労者世帯(平均世帯人員2.60人、有業人員1.53人、世帯主の平均年齢47.8歳)の実収入は、1世帯あたり1ヵ月平均512,534円で、消費支出は、1ヵ月平均280,531円、非消費支出(直接税・社会保険料等)は、1ヵ月平均95,554円でした。

 間接税(消費税等)を消費支出の10%とみれば、1ヵ月平均28,053円なので、実収入に対する公的支出の割合は24.1%(=123,607×100/512,534)となり、おおむね自分7割・他人3割に近似します。

 

▽家計収支の内訳

 

○日本の労働規制

 仕事は、事業者が、使い切れないほどの商品・サービス(売り手にとっては非使用価値、買い手にとっては使用価値)を、貨幣で調達・準備し、それをすべて売り切れる保証は一切ないので(だから、マルクスは、商品と貨幣の等価交換を「命がけの飛躍」といいました)、純粋な利他とみるべきでしょう。

 なので、事業者の従業員の仕事も、利他が基本で、日本には、1日8時間・1週間40時間の労働規制があり、1日24時間・1週間168時間なので、生活に対する労働の割合は、23.8%(=40×100/168)となり、おおむね自分7割・他人3割に近似します。

 

○平安貴族の土着系7割・渡来系3割

 平安初期編纂の古代氏族名鑑の『新撰姓氏(しょうじ)録』によると、京・畿内の貴族1182氏のうち、皇別(神武天皇/初代以後の天皇家の分家)335氏、神別(神武天皇以前の神代での天皇家の分家)404氏、諸蕃(渡来系)326氏(漢163氏・百済104氏・高句麗41氏・新羅9氏・任那9氏)でした。

 それだと、渡来系氏族の割合は、27.6%で(自己申告だったようなので、渡来系は、それ以上だったと推定されています)、平安貴族は、土着系7割・渡来系3割といえ、日本は単一民族だと、よく主張されますが、古代には和魂漢才で、多様性があった史実を理解すべきでしょう。

 

○世阿弥の「動十分心、動七分身」

 能の大成者の世阿弥は、芸論書の『花鏡(かきょう)』で、「心は10割で動かし、身は7割で動かせ」と主張し、自分の身体の動作を、控えめに抑制することで、心情が表出したり、残りの3割を、観客(他人)の想像が埋め合わせるのを、想定していたようです。

その未完・余情が、幽玄美につながります。

 

(つづき)

 

 

■知徳合一

 

 ソクラテスといえば、知徳合一といわれていますが、知とは、知識・知恵を、徳(アレテー)とは、優れた魂(プシュケー、生命、息・気)をいい、ソクラテスは、徳を備え持ち、知を愛し求め(愛知・求知=哲学)、善く生きる(正しく・美しく生きる)べきだと主張しました。

 したがって、知徳で、善悪・正邪・美醜を、判断することになります。

 

 

●知:限界が無知

 

 『弁明』での知は、以下のように、人知(人間並みの知恵、5)・人為には限界があり、人は皆、問答法によって、無知を意識・自覚することに終着するので(6)、それとは別の、人知を超越した、全知全能(人間並み以上の知恵、5)の唯一神が想定でき(9)、そこは、自然な無意識・無自覚です。

 

・人知を超越:自然な無意識・無自覚 → 唯一神:全知全能(人間並み以上の知恵)

・人知(人間並みの知恵):人為の意識・自覚 → 限界・終着:無知

 

 ところで、中国には、以下のように、体(本体)という本然的・一元的な見方と、外面の相(様相)と内面の用(作用)からなる分節的・二元的な見方があり、物・事・人等を外面とすれば、知(理知)・情(感情)・意(意志)や理・心・魂等の、内面があると解こうとします。

 しかし、それらの内面では説明できない、人為(人知)を超越したものもあり、それらは、外面の装いに、観念的な霊・聖・神の力(魅力・魔力)が付着し、それが自然に働いたと信じるしかなく、それらは、以下のように、まとめることができます。

 

※内外面合一:体(本体)=内面を外面の一部とみる

・外面:相(様相、「ある」)=物・事・人 → 霊・聖・神の力が付着

 ~ 自然な無意識・無自覚、信、ソクラテス(私人)

・内面:用(作用、「する」)=知・情・意、理・心・魂

 ~ 人為の意識・自覚、解、アテナイ市民(公人)

 

 ここで、アテナイ市民(知者)の知は、知らないのに、知っていると思っていることなので、これは、外面の様相(「ある」)を、内面の作用(「する」)の知で解けるとみています。

 一方、ソクラテスの無知の知は、知らないことを、知らないと思っていることなので、内面の作用がないため、外面の様相に、神の力が付着していると、信じるしかありません。

 たとえば、物・事・人等を、知・情・意や理・心・魂等の作用で、積極的に説明できなければ、信じる・祈る・待つ・受ける等の様相で(いずれも効用が不確実です)、消極的に表現するしかありません。

 それを、宗教では、人には皆、超越した神(仏)が内在するとし、絶対的な神(仏)に帰依・依存することで、安心・幸福になろうとします。

 

 さて、ソクラテスは、以下のように、公人として、ポリスの民会に参加・勧告・行動せず、神の命令を信じて奉仕するのが、大きな善で(17)、本当の正義だとし、私人として、交際(私交)の形で、ポリスの市民と問答しました。

 

○神によって私交の形で、魂を立派にするよう説得

 ところで、私がまさに、神によってこの国都(ポリス)に与えられたような者であるということについては、次のようなところから、諸君のご理解が得られるかもしれない。すなわち、私は、すでに多年に渡って、自分自身のことは一切顧みることをせず、自分の家のこともそのまま構わずに、いつも諸君のことをしていたということは、それも、私交の形で、あたかも父や兄のように、一人一人に接触して、魂(いのち)を立派にすることに留意せよと説いてきたということは、人間だけの分別や力でできることとは見えないからです。(『弁明』18・p.50)

 

○私交の形で勧告し、公にポリスへ勧告せず

 それにしても、たぶん、おかしなことだと思われるかもしれません。私が、私交の形では、今お話ししたようなことを勧告して回り、余計なおせっかいをしていながら、公(おおや)けには、大衆の前に現われて諸君のなすべきことを国家社会(ポリス)に勧告することをあえてしないというのは。しかしこれには、わけがあるのです。(『弁明』19・p.51)

 

○公人でなく、私人として行動するのが本当の正義

 むしろ、本当に正義のために戦おうとする者は、そして少しの間、身を全(まっと)うしていようとするならば、私人としてあることが必要なのでして、公人として行動すべきではないのです。(『弁明』19・p.52)

 

 なお、柄谷行人は、『哲学の起源』で、ソクラテスに禁止的な警告を合図したとされるダイモンは、アテナイのデモクラシーで抑圧された、イオニア由来のイソノミア(無支配)が、無意識・無自覚に回帰したものだと指摘しており、以下のように、まとめることができます。

 

・私人=イオニアのイソノミア(無支配):ソクラテスの問答法(無知の知)

 ~ 自然な無意識・無自覚、倫理的・非政治的

・公人=アテナイのデモクラシー(直接民主制支配):市民の民会・法廷での弁論術(知)

 ~ 人為の意識・自覚、政治的・非倫理的

 

 以上より、3つの対比(人知を超越/人知、外面/内面、私人/公人)は、それぞれ上・下どうしが対応しています。

 

 

●徳:正義

 

 『弁明』での徳は、優れた魂で、ソクラテスは、徳を備え持ち、正義(善いこと)と法律を遵守し、言動すべきだと主張したので、裁判が不正でも、不正な脱獄で対処せず、死刑を受け入れました。

 つまり、ソクラテスの中では、正義(ロゴス)のもとで、神々や自然(ピュシス)と、法律や慣習(ノモス)は、不可分だとしています。

 それで、徳は、以下のように、対比して説明されています。

 

○優れた魂(徳)

 そしてその時の私の言葉は、いつもの言葉と変わりはしない。――世にも優れた人よ、君は、アテナイという、知力においても武力においても最も評判の高い偉大な国都(ポリス)の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判地位のことは気にしても思慮真実のことは気にかけず、(いのち)をできるだけ優れたものにするということに気も使わず心配もしていないとは。

 とこう言い、諸君のうちの誰かがこれに異論を差し挟み、自分はそれに心を用いていると主張するならば、私は、その者をすぐには去らしめず、また、私も立ち去ることをせず、これに問いかけて、調べたり、吟味したりするでしょう。そしてその者が、優れたもの()をもっているように主張しているけれども、実はもっていないと思われたなら、私は、一番大切なことを一番粗末にし、つまらないことを不相応に大切にしていると言って、その者を非難するでしょう。……(『弁明』17・p.45)

 

○優れた魂

 つまり、私が歩き回って行っていることはといえば、ただ、次のことだけなのです。諸君のうちの若い人にも、年寄りの人にも、誰にでも、ができるだけ優れたものになるよう、随分気をつかうべきであって、それよりも先に、もしくは同程度にでも、身体金銭のことを気にしてはならない、と説くわけなのです。そしてそれは、いくら金銭を積んでも、そこから、優れた魂が生まれてくるわけでなく、金銭その他のものが人間のために善いものとなるのは、公私いずれにおいても、すべては、優れていることによるのだから、というわけなのです。(『弁明』17・p.46)

 

 これらから、ソクラテスは、以下のうち、外形の物的・量的な生き方よりも、内実の心的・質的な生き方を選択するのが、正義だとしており、これは、ただ長く生きるのではなく、生き甲斐・生きる意味を尊重することです。

 

※内外:生死

・外形=金銭・評判(名誉)・地位・身体(健康):物的・量的な生き方(「生き延びる」)、死への恐れ

・内実=思慮(知)・優れた魂(徳)・真実:心的・質的な生き方(「善く生きる」)、死を恐れず

 

 よって、弟子や友人は、脱獄・国外逃亡による生存を希求しましたが、ソクラテスは、以下のように、不正義と、優れた神・人への不服従は、醜悪なので、譲歩したことがなく、不正義を受け入れれば、損害・大災悪になると言明しています。

 

○不正と優れた神・人への不服従は醜悪

 しかし私は、諸君よ、その点で、この場合も、たぶん、多くの人達とは違うのです。だから、私のほうが人よりも何らかの点で知恵があるということを、もし主張するとなれば、私は、つまりその、あの世のことについてはよく知らないから、その通りにまた、知らないと思っているという点をあげるでしょう。これに対して、不正をなすということ、神でも人でも、自分より優れている者があるのに、これに服従しないということが悪であり醜であるということは、知っているのです。だから私は、悪だと知っているこれらの悪しきものよりも、ひょっとしたら善いものかもしれないもののほうを、まず恐れたり避けたりするようなことは、けっしてしないでしょう。(『弁明』17・p.43-44)

 

○不正は害悪・大災悪

……もし諸君が私を殺してしまうなら、私はこれからお話しするような人間なのですから、それは、私の損害であるよりも、むしろあなた方自身の損害になるほうが大きいでしょう。(中略)というのは、優れた人間が劣った人間から害を受けるというようなことはあるまじきだと思うからです。

 (中略)むしろ、この男(メレトス・アニュトス)が今しているようなことをするのが、はるかに災悪の大なるものだと思うのです。つまり、人を不正な仕方で殺そうと企てることがです。(『弁明』18・p.48)

 

○不正義に譲歩せず

……つまり私は、正義に反することは、何事でも、未だかつて、何人にも譲歩したことはないのでして、私を中傷する人達が私の弟子と言っている者どもの何人に対してもまた、譲歩したことはないのです。(『弁明』21・p.56)

 

 裁判では、以下のように、ソクラテスに不正・犯罪がないのに、一日での結審だったので、自分への中傷を払拭し、陪審員を納得させるまでの時間がなかったと弁解しています。

 

○不正・犯罪なしだが、時間不足

 私の確信では、世の何人に対しても私は故意に不正を加え、罪を犯すようなことはしていません。ただ、その点をあなた方になかなか納得してもらえないでいるのです。これは、お互いに話し合えた時間がわずかしかなかったからです。というのは、私の考えでは、もしあなた方の法律が、他の国でも見られるように、死刑の判決はただの一日でするのではなくて、幾日もかけることになっていたなら、あなた方の納得も得られたことでしょう。しかし今は、わずかの時間で重大な中傷を解こうとするのですから、容易なことではありません。……(『弁明』27・p.69-70)

 

 当時のアテナイの裁判では、まず無罪か有罪かを判別し、つぎに量刑を決定しますが、ソクラテスは、わずかな時間で、陪審員や聴衆を説得しようとしました。

 でも、有罪が決定すると、自分の信念を押し殺すのは、恥辱なので、家族・友人の出廷や、現実的な減刑で、哀訴嘆願せず(23)、逆に当初は、市の迎賓館で食事を受けられることを、科料として要求して挑発し(26)、そののち、罰金刑を申し出ましたが(28)、反感を買ってか、死刑になりました。

 

 最後に、ソクラテスは、以下のように、徳を問答・吟味するのが善だといい、無罪放免のための厚顔無恥な言葉で弁明・説得しませんでしたが、これは、最上の知者とされたソクラテスでさえ、知の限界に終着した瞬間といえます。

 

○徳を問答・吟味するのが善

……さらにまた、人間にとっては、徳その他のことについて毎日談論するという、このことが、まさに最大の善きことなのであって、私がそれらについて問答しながら自分と他人を吟味しているのを諸君は聞かれているわけであるが、これに反して、吟味のない生活というものは人間の生きる生活ではないと言っても、私がこう言うのを諸君はなおさら信じないであろう。しかしそのことは、まさに私の言う通りなのです、諸君。ただ、それを信じさせることが容易でないのです。(『弁明』28・p.72-73)

 

○無罪放免のための厚顔無恥な言葉で弁明・説得せず

……諸君よ、諸君はたぶん、私の敗訴になったのは、言葉に窮したからだと考えておられるでしょう。つまり私が、どんなことでも言い、どんなことでも行って、無罪放免にならねばならぬと思ったなら、それを用いて諸君を説得したかもしれないような、そういう種類の言葉の不足から、私は敗れたのだというのです。

 とんでもない。私が敗訴になったのは、不足は不足でも、言葉のそれではなくて、厚顔と無恥の不足のためなのです。つまり、諸君が聞くのを最も好まれるようなことを、諸君に言うつもりになれなかったからなのです。諸君が求めておられるのは、私が泣いたり、わめいたりすることであり、その他色々、私に相応しくないようなこと――だと、私は主張するのであるが、そういうことを行ったり言ったりすることなのであって、それこそまた、諸君が他の人間から聞き慣れておられることなのです。(『弁明』29・p.74-75)

 

(おわり)

 

(つづき)

 

 

●裁判:中傷・嫉妬での告訴

 

 最初に注意すべきなのは、メレトス・アニュトスによる偽りの訴え以前に、「ソクラテスは、天上地下のことを探究し、弱論強弁を教え、青年に悪影響を与えた」と、ウソのウワサを撒き散らした、厄介至極の連中がいることです。(2)

 そのために、ソクラテスは、裁判で、陪審員ではなく、アテナイ市民へ弁明しています(2)。

 そして、まず、ソクラテスは、自分が、金銭を受け取り、交際・教育し、感謝される、ソフィスト(知者)ではなく(4)、貧乏だとし(18)、以下のように、自分は、人並みの知者なのに、世間は、自分を人並み以上の知者だとウソをつき、中傷していると主張しました。

 

○自分を人間並み以上の知者にして中傷

 というのは、アテナイ人諸君、私がこの名前(知者)を得ているのは、とにかく、ある一つの知恵をもっているからだということには間違いないのです。すると、それはいったい、どういう種類の知恵なのでしょうか。それはたぶん、人間並みの知恵なのでしょう。なぜなら、実際に私がもっているらしい知恵というのは、おそらく、そういう知恵らしいからです。

 これに反して、私が今しがた話題にしていた人達というのは、たぶん、何か人間並み以上の知恵をもつ知者なのかもしれません。それとも、何と言ったらよいか、私にはわかりません。なぜなら、とにかく私は、そういう知恵を心得てはいないからです。それをしかし、私が心得ていると主張する人があるなら、それは嘘をついているのです。そういうことを言うのは、私を中傷するためなのです。(『弁明』5・p.14-15)

 

 つぎに、ソクラテスは、以下のように、自分の問答で知者の無知が暴露されるので、青年・若者が寄り集まるようになり、問答を勝手に真似されたりもしたので、世間は、大本の自分を、猛烈に中傷するようになったとみています。

 

○知者の無知が暴露されるので、猛烈に中傷

 なおまた、その他に、若い者で、自分は暇もたくさんあり、家には金もたくさんあるといったような者が、何ということなしに自分達のほうから私に付いて来て、世間の人が調べ上げられるのを興味をもって傍聴し、しばしば自分達で私の真似をして、そのため、他の人を調べ上げるようなことをしてみることにもなったのです。そしてその結果、世間には、何か知っているつもりで、その実、わずかしか知らないか、何も知らないという者が、無闇にたくさんいることを発見したのだと思います。

 すると、そのことから、彼らによって調べ上げられた人達は、自分自身に対して腹を立てないで、私に向かって腹を立て、ソクラテスは実にけしからんやつだ、若い者によくない影響を与えている、と言うようになったのです。そして、それは何をし何を教えるからなのですか、と尋ねる人があっても、そんなことは知らないし、答えることもできないのです。しかし、その困っているところを、そう思われないように、学問をしている者についてすぐに言われるような、例の「空中や地下のこと」とか、「神々を認めない」とか「弱論を強弁する」とかいったものを持ち出すわけなのです。それはつまり、彼らが本当のことを言いたくないからだろうと思うのです。なぜなら、そうすれば、知ったかぶりをしていても、何も知らないのだということが暴露するからなのです。そこで彼らは、負けん気だけは強いですから、激しい勢いで、多人数をなし、組織的かつ説得的に、私について語り、以前から今日に至るまで、猛烈な中傷を行って、諸君の耳を塞いでしまったのです。(『弁明』10・p.24-25)

 

 なお、メレトスは、青年に対して有害な影響・害悪が与えられていることに、一度も関心がなく、心配もしていないので、ソクラテスは、メレトスを、ふざけていながら真面目なふりをしているので、犯罪人だと主張しています(11)。

 それに、メレトスは、青年を立派な善い人間へと導くのが、ソクラテス以外の市民だといいましたが、ソクラテスは、自分1人だけが害悪を与えて、それ以外の市民が利益を与えていたならば、世間は、幸福になるはずだと反論しました(12)。

 また、悪い人は、自分に近い者に悪いことをし、善い人は、自分に近い者に善いことをしますが、自分に近い者から、利益を受けるよりも、害悪を受けようと欲する者はいません(13)。

 そのうえ、自分に近い者に悪いことをしたら、その者から、悪いことを受け取る危険もあるのを、知っているので、故意に害悪を作り出さないといっています(13)。

 万一、ソクラテスが、青年に、悪影響を及ぼしているのならば、それは、不本意な誤りなので、メレトスが、ソクラテスと個人的に会って、教え諭すのが普通の方法ですが、裁判に引っ張り出したのは、懲らしめるためなのが、確実だとしました(13)。

 

 さらに、ソクラテスは、以下のように、悪影響を与えたとされる人々は、自分の問答の聴衆か、自分が質問に回答しているだけで、師弟関係でないので、責任を負う必要がなく、聴衆は、知者の無知が暴露されるのを、おもしろがって寄り集まり、自分の問答は、神託によると主張しています。

 

○師弟関係でないので、責任なし

 なおまた、私は、未だかつて何人の師となったこともありません。しかし誰か、私の本業としての私の話を聞きたいという人があるなら、老若を問わず何人にも、聞かせることを惜しんだことは、未だかつてありません。また、金銭をもらえば問答に応ずるけれども、もらわなければ応じないというようなことはしないで、金持ちからも、貧乏人からも、同じように質問を受けることにしているのであって、また、もし希望があれば、私の言おうとしていることについては何でも答え手になって聞いてもらうことにしているのです。そして、それらの人達について、私は、誰が善くなろうと、なるまいと、まだ誰にも何の知識を授ける約束もしたことはなし、また実際に教えたこともないのだとすれば、責任を負う筋はないということになるでしょう。また、もし誰かが、私のところから、他の誰でも聞いているのとは違う何か別のものを、個人的に教えてもらったとか、聞いたとか言っても、いいですか、諸君、その言うことは本当ではないのです。(『弁明』21・p.56)

 

○聴衆は知者の無知の暴露がおもしろい、問答は神託

 しかしそれなら、好んで私と一緒に長い時間を過ごす者があるのは、いったい、どうしてなのでしょうか。そのわけは、すでに聞かれた通りです、アテナイ人諸君。私は諸君に、その真実をすべてお話ししたはずです。つまり彼らは、知恵があると思っている人が調べられて、そうでないことになるのを、聞いているのが、面白いからなのです。確かに、面白くないことはないのですからね。

 しかしそれは、私にとっては、私の主張では、神によってなせと命じられたことなのです。それは神託によっても伝えられたし、夢知らせによっても伝えられたのです。また、他に、神の決定で、人間に対して、まあ何であれ、何かをなすことが命ぜられる場合の、あらゆる伝達の方法がとられたのです。(『弁明』22・p.57-58)

 

 もし、青年が、ソクラテスに、害悪を受けたならば、年長になった彼らや、彼らの親類縁者が、仕返しするはずですが、実際には、法廷へ助けに来ているので、それを、メレトスが虚偽で、ソクラテスが真実だという、正当・正義の理由としています(22)。

 ただし、ソクラテスは、神を信じているので、最後は、神に委ねており、判決を陪審員に一任しています(24)。

 当時のアテナイは、スパルタ的な反民主制から直接民主制への復活後で、報復の連鎖を断ち切るため、「政治的な既往はとがめず」という原則を宣言していたので、以下のように、市民がソクラテスを我慢できず、嫌悪していたので、ソクラテスを神への不敬罪で訴訟したと推測できます。

 

○市民が自分を我慢・嫌悪

……あなた方は、私の同市民だけれども、私が日常していること、特にその言論を我慢することができなくなっており、それは諸君にとって、ますます耐えがたく嫌悪すべきものとなってしまい、今はそれから解放されることを諸君は求めておられる……(『弁明』27・p.71)

 

 しかし、ソクラテスは、理知的でなく、感情的に裁定した陪審員が、やがて、真実によって、兇悪(きょうあく)と不正の刑を負わされ(29)、以下のように、吟味の逃避・解放に、懲罰が下されて、辛い思いをするとみています。

 

○市民が吟味の逃避・解放に懲罰が下されて辛い思い

私の言うことは、すなわち、こういうことです。諸君よ、諸君は私の死を決定したが、その私の死後、間もなく諸君に懲罰が下されるでしょう。それは、諸君が私を死刑にしたのよりも、ゼウスに誓って、もっと辛(つら)い刑罰となるでしょう。なぜなら、今諸君がこういうことをしたのは、生活の吟味を受けることから解放されたいと思ったからでしょう。しかし実際の結果は、私の主張を言わせてもらえば、多くはその反対となるでしょう。諸君を吟味にかける人間はもっと多くなるでしょう。彼らを今まで私が引き止めていたので、諸君は気づかないでいたわけなのです。そして彼らは、若いから、それだけまた手ごわく、諸君もまたそれだけ辛い思いをすることになるでしょう。

 というのは、もし諸君が、人を殺すことによって、諸君の生き方の正しくないことを人が非難するのを止めさせようと思っているのなら、それはいい考えではないでしょう。なぜなら、そういう仕方で片づけるということは、立派なことではないし、完全にできることでもないのですから。むしろ、他人を押さえ付けるよりも、自分自身をできるだけ善い人になるようにするほうがはるかに立派で、ずっと容易なやり方なのです。(『弁明』30・p.77-78)

 

 最後に、ソクラテスは、他人を死・殺人で押さえ付けるのではなく、自分が善く生きるべきだと主張しています。

 

 

●死:無知なので、恐れず・免れず

 

 ソクラテスは、ペロポネソス戦争(ソクラテスが38~65歳の時)に3度出陣・活躍し、裁判で死刑を受け入れたので、死への恐怖がないようですが、それは、以下のように、死を知らないので、恐れていないのだといっています。

 

〇死を知らないので、恐れず

 なぜなら、死を恐れるということは、いいですか、諸君、知恵がないのにあると思っていることにほかならないのです。なぜなら、それは、知らないことを知っていると思うことだからです。なぜなら、死を知っている者は誰もいないからです。ひょっとすると、それはまた、人間にとって、一切の善いもののうちの最大のものかもしれないのですが、しかし彼らは、それを恐れているのです。つまり、それが害悪の最大のものであることをよく知っているかのようにです。そしてこれこそ、どう見ても、知らないのに知っていると思っているというので、今さんざんに悪く言われた無知というものにほかならないのではないでしょうか。(『弁明』17・p.43)

 

 ソクラテスには、政務審議会の一員だった経験があり、そこでの違法な措置に、自分だけが反対しており(20)、以下のように、死よりも、法律・正義の遵守を優先しました。

 

○死よりも、法律・正義の遵守を優先

……これを諸君が聞かれたなら、私が死を恐れて正義に反した譲歩を行うというようなことは、いかなる人に対してもありえないだろうということを、しかし、もし譲歩しなければ、同時に身を亡ぼすことになるだろうことを、知られるでしょう。……

(中略)

……私は、拘禁や死刑を恐れて正しくない提案をしている諸君の仲間となるよりは、むしろ法律と正義に与(くみ)してあらゆる危険を冒さなければならないと思っていたのです。

(中略)

 その時は、しかし私は、言葉によってではなく行動によって、もう一度こういうことを示したのです。つまり、私には死は、ちっとも――と言って乱暴すぎる言い方にならないのなら――気にならないが、不正不義はけっして行わないということ、このことにはあらゆる注意を払っているということです。つまり、当時の支配者達は、あれほど強力なものでしたが、私を脅かして不正を行わせることはできなかったのです。(『弁明』20・p.52-54)

 

 ソクラテスが、法律・正義の遵守を優先したのは、以下のように、死を恐れて免れようとすれば、その工夫は、たくさんあり、それが行き過ぎてしまうと、体(物質)は、生き残りますが、魂(精神)は、劣ってしまうからで、ソクラテスは、優れた魂(徳)を備え持つべきとしています(後述)。

 

○死を免れる工夫

 なぜなら、裁判の場合にしても戦争の場合にしても、私に限らず他の誰でも、死を免れるためには何でもやるというような工夫は、なすべきものではないからです。というのは、戦場においても、ただ死だけを免れるというのならば、武器を捨てて追い手の情けにすがればできるということが、幾度も明らかにされているからです。そして他にも、危険のそれぞれに応じて、あえて何でも行い、何でも言うとなれば、死を免れる工夫はたくさんあるのです。(『弁明』29・p.75-76)

 

 こうして、ソクラテスは、死に無知なので、恐れず・免れずとしていますが、以下のように、死後の世界を想像しており、感覚のない無か、別の場所へ移り変わるか、とすることで、死を最大の害悪とみていないのです(17)。

 

○死後は無か別の場所か

 しかし、考えてみようではないですか。また、こういうふうにしても、それが善いものだということは、大いに期待できるからです。つまり、死ぬということは、次の二つのうちの一つなのです。あるいは、まったくない無といったようなもので、死者は何も少しも感じないか、あるいは、言い伝えにあるように、それは魂にとって、この場所から他の場所へと、ちょうど場所を取り変えて住居を移すようなことになるわけなのです。

 そして、もしそれが何の感覚もなくなることであって、人が寝て夢一つ見ないような場合の眠りのごときものであるとすれば、死とは、びっくりするほどの儲(もう)けものであるということになるでしょう。(中略)

 また他方、死というものが、ここから他の場所へ旅に出るようなものであって、人は死ねば誰でもかしこ(彼処)へ行くという言い伝えが本当だとすれば、これよりも大きい、どんな善いことがあるでしょうか、裁判官諸君。(『弁明』32・p.80-81)

 

 死後の世界が、もし、感覚のない無であれば、それは、夢も見ないくらいに熟睡した夜のようだとし、その夜よりも、もっと善くて楽しい生涯は、ごく数えるほどしかないので、その夜がずっと続くほうがよいといっています(32)。

 他方、死後の世界が、もし、別の場所へ移り変わるのであれば、以下のように、来世でも、現世と同様に問答・親交し、知者の無知を吟味して、幸福に生活しようとしています。

 

○かの世でも問答・親交・吟味

……またそのうえ、最大の楽しみとしては、かの世の人達を、この世の者と同様に、誰が彼らのうちの知者であり、誰が知者とは思ってはいるがそうでないのかと吟味し、検査して暮らすということがあるのです。(中略)それらの人達と、かの世において、問答し、親しく交わり、吟味するということは、測り知れない幸福となるでしょう。(『弁明』32・p.82)

 

 でも、ソクラテスは、以下のように、来世の知者は、不正義をしていないので、幸福なうえ、現世でも不死だとみています。

 

○来世の知者は不正義でないので幸福、現世でも不死

 何にしても、そのために死刑にするというようなことは、かの世の人達は、きっとしないでしょう。というのは、他の点でも、かの世の人は、この世の者に比べて、もっと幸福にしているのですが、特にまた、その後生(ごしょう)においては、もし言い伝えが本当だとすれば、彼らはすでに不死なのですからね。(『弁明』32・p.82-83)

 

 ここまでみると、人々は、死を恐れて免れようとするあまり、悪く生きてしまいがちで、不幸になるので、ソクラテスは、以下のように、善く生きれば、幸福なうえ、死んでも善い希望があるとし、神々の配慮が受け取れることを期待しています。

 

○善く生きれば、死んでも善い希望あり

 しかしながら諸君にも、裁判官諸君、死というものに対して善い希望をもってもらわなければなりません。そして善き人には、生きている時も、死んでからも、悪しきことは一つもないのであって、その人は、何に取り組んでいても、神々の配慮を受けないということはないのだという、この一事を、真実のこととして、心に留めておいてもらわなければなりません。(『弁明』33・p.84)

 

(つづく)