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人間の思想(内面、内心)は、自然・社会環境(外面、外形)に影響されるのが、大半ですが、当時に、その環境が共通認識となっていれば、それを詳細に説明することもなく、自分の思想だけが強調されがちなので、その主張を現在に読解する際には、当時の環境を勘案する必要があります。
福沢諭吉(1834~1901年)は、『学問のすすめ』(1872~1876年、39~43歳)と『文明論之概略』(1875年、42歳)が有名ですが、両書をみると、次のように、当時は、農業社会から工業社会への移行期だったので、福沢は、道徳よりも、智恵を重視すべきと主張しました。
・農業社会:農作物の生産が有限 → パイの配分優先:為政者と人民が利益相反 → 道徳重視
・工業社会:工作物の生産が無限 → パイの拡大優先:経営者と従業員が相互利益 → 智恵重視
これを前提に、『文明教育論』(1889年、56歳)をみていくことにし、現代語訳は、以下のようにしてみました。
■文明教育論
・今日の文明は智恵の文明にして、智恵あらざれば何事もなすべからず、智恵あれば何事をもなすべし。然(しか)るに世に智徳の二字を熟語となし、智恵といえば徳もまた、これに従うものの如く心得、今日、西洋の文明は智徳の両者より成立つものなれば、智恵を進むるには徳義もまた進めざるべからずとて、或る学者はしきりに道徳の教をしき、もって西洋の文明に至らんとする者あり。もとより智徳の両者は人間欠くべからざるものにて、智恵あり道徳の心あらざる者は禽獣(きんじゅう)にひとしく、これを人非人(にんぴにん)という。また徳義のみを脩(おさ)めて智恵の働あらざる者は石の地蔵にひとしく、これまた人にして人にあらざる者なり。
《今日の文明は、智恵の文明で、智恵がなければ、何事もなすことができない、智恵があれば、何事をもなすことができる。それなのに、世の中で智徳の2字を熟語とし、智恵といえば、徳(徳義、道徳)もまた、これにしたがうもののように、心得られていて、今日、西洋の文明は、智徳の両者により、成り立つものなので、智恵を進めるには、徳義(道徳上の義務)もまた、進めなくてはならないといって、アル学者は、しきりに道徳の教えを広げて、それで西洋の文明に至ろうとする者がいる。元々、智徳の両者は、人間に欠かすことができないもので、智恵があって道徳の心がない者は、鳥獣に等しく、これを人でなしという。また、徳義のみを修めて、智恵が働かない者は、石造の地蔵に等しく、これも、また、人であって、人でない者なのだ。》
・両者のともに欠くべからざるは右の如くなりといえども、今日の文明は道徳の文明にあらず。昔日(せきじつ)の道徳も今日の道徳も、その分量においてはさらに増減あることなく、啻(ただ)に増減あらざるのみならず、古書に載するところをもって果して信とせば、道徳の量はかえって昔日に多くして、末世(まっせ)の今日にいたり大にその量を減じたる割合なれども、かえりみて文明の程度如何を察するときは昔日に低くして今日に高しといわざるをえず。これに反して智恵の分量は古来今に至るまで次第に増加して、智識少なき時は文明の度低く、智識多き時は文明の度高し。阿非利加(アフリカ)の土人に智識少なし、ゆえに未だ文明の域に至らず。欧米人に智識多し、ゆえにその人民は文明の民なり。
《(智徳の)両者がともに欠かすことができないのは、右記のようになるといっても、今日の文明は、道徳の文明ではない。昔日の道徳も、今日の道徳も、その分量においては、少しも増減があることはなく、たんに増減がないだけでなく、古書に掲載していることを、本当に信用すれば、道徳の分量は、反対に、昔日に多くて、後世の今日に至って、大きくその分量が減っていく割合になるが、振り返って、文明の程度がどうかを推察する時には、昔日に低くて、今日に高いといわざるをえない。これに反して、智恵の分量は、古来より今に至るまで、しだいに増加して、智識が少ない時には、文明の度合が低く、智識が多い時には、文明の度合が高い。アフリカの土着民に智識は少ない、よって、まだ文明の領域に至っていない。欧米人に智識は多い、よって、その人民は、文明人だ。》
・されば今日の文明は道徳の文明にあらずして智恵の文明なること、また争うべからざるなり。また小児の概して正直にして、無智の人民に道徳堅固の者多きは、今日の実際において疑うべからざることなれば、道徳は必ず人の教によるものにあらず、あたかも人の天賦(てんぷ)に備わりて偶然に発起するものなりといえども、智恵は然(しか)らず。人学ばざれば智なし。面壁(めんぺき)九年能く道徳の蘊奥(うんおう)を究むべしといえども、たとえ面壁九万年に及ぶも蒸気の発明はとても期すべからざるなり。
《そうであれば、今日の文明は、道徳の文明でなくて、智恵の文明であることは、やはり、言い争うことができないのだ。また、子供が一般に正直で、智恵のない人民に道徳の頑固な者が多いのは、今日の実際において、疑うことができないことなので、道徳は、必ず人の教えによるものではなく、まるで人が天から賦与されて備え持って、偶然に発起するものなのだといっても、智恵は、そうではない。人は、学ばなければ、智恵がない。(達磨のように、)岩壁に対面して座禅で9年、充分に道徳の奥義を探究すべきだといっても、たとえ岩壁に対面して座禅が9万年に及んでも、蒸気機関の発明は、とても期待することができないのだ。》
※人間に不可欠な両者=智徳(智恵+道徳)
・昔日の文明(農業社会)=道徳の文明:人が先天的に具備
・今日の文明(工業社会)=智恵の文明:人が後天的に学習
・世に教育なるものの必要なるは、すなわちこのゆえにして、人学ばざれば智なきがゆえに、学校を建ててこれを教え、これを育するの趣向(しゅこう)なり。されども一概に教育とのみにては、その意味はなはだ広くして解し難く、ために大なる誤解を生ずることあり。そもそも人生の事柄の繁多にして天地万物の多き、実に驚くべきことにて、その数幾千万なるべきや、これを知るべからず。ただその物名のみにても、ことごとくこれを知る者は世にあるべからず。然(しか)るをいわんや、その者の性質をや。ことごとくこれを教えんとするも、とても人力にかなわざる所なり。人間衛生の事なり、活計の事なり、社会の交際、一人の行状、小は食物の調理法より大は外国の交際に至るまで千差万別、無限の事物を僅々(きんきん)数年間の課業をもって教うべきに非ず、学ぶべきに非ず。たとえ、その一部分にてもこれを教えて完全ならしめんとするときは、かえってその人の天資(てんし)を傷(そこな)い、活溌敢為(かんい)の気象を退縮せしめて、結局世に一愚人を増すのみ。今日の実際においてその例少なからず。されば到底この繁多なる事物を教えんとするもでき難(がた)きことなれば、果して世に学校なるものは不用なるやというに決して然(しか)らず。
《世の中に教育なるものが必要なのは、つまり、この理由で、人は、学ばなければ、智恵がないために、学校を建てて、これを教え、これを育てる意向なのだ。しかし、一般に、教育だけにおいては、その意味がとても広くて、理解しがたく、そのために、大きな誤解を生じることがある。そもそも、人生の事柄がとても多くて、天地の万物が多いのも、本当に驚くべきことで、その数は、何千・何万になるはずなのか、これを知ることができない。ただその物の名称だけでも、すべてこれを知る者は、世の中にいるはずがない。それなのに、ましてや、その物の性質も知るのは、なおさらだ。すべてこれを教えようとしても、とても人力では、かなわないことなのだ。人間は、衛生の事なのだ、生計の事なのだ、社会の交際、1人の品行、小は、食物の調理法から、大は、外国との交際に至るまで、種々様々で、無限の物事を、わずか数年間の学業・課程によって、教えることができるものではなく、学ぶことができるものではない。たとえ、その一部分であっても、これを教えて、完全に成し遂げさせようとする時には、反対に、その人の天性の資質を傷つけ、活発に敢行する気性を衰退・縮小させて、結局、世の中に1人の愚者を増やすだけだ。今日の実際において、その事例は、少なくない。そうであれば、到底、このとても多い物事を教えようとしても、できにくいことなので、本当に世の中に学校なるものは、不用なのかというと、けっしてそうでない。》
※智恵の詰め込み教育 → 天性の資質の発達や活発に敢行する気性を妨害
・もとより直接に事物を教えんとするもでき難(がた)きことなれども、その事にあたり物に接して狼狽(ろうばい)せず、よく事物の理を究めてこれに処するの能力を発育することは、ずいぶんでき得べきことにて、すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にありとのことをもってこれが標準となし、かえりみて世間に行わるる教育の有様を察するときは、よくこの標準に適して教育の本旨に違(たが)わざるもの幾何(いくばく)あるや。我が輩の所見にては我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず。
《元々、直接に物事を教えようとしても、できにくいことであっても、その事に当たって、物に接しても、取り乱さず、充分に物事の道理を探究して、これに対処する能力を発育することは、随分できえるべきことで、つまり、学校は、人に物を教えるところでなく、ただその天性の資質の発達を妨げずに、充分にこれを発育するための道具なのだ。教育の文字は、とても無理があり、これを発育と称するのがよいのだ。このように、学校の本旨は、つまり、教育にあるのではなく、能力の発育にあるということによって、これを標準とし、振り返って、世間で行われている教育の有様を推察する時には、充分にこの標準に適合して、教育の本旨と違わないものが、どれほどあるのか。私が見るところでは、わが国の教育の仕組みは、まったくこの本旨と違っているといわざるをえない。》
※学校:強制的な教育ではなく、自発的に物事の道理を探究・対処する能力を発育
・試(こころみ)に今日女子の教育を視よ、都鄙(とひ)一般に流行して、その流行の極(きわみ)、しきりに新奇を好み、山村水落に女子英語学校ありて、生徒の数、常に幾十人ありなどいえるは毎度伝聞するところにして、世の愚人はこれをもって教育の隆盛を卜(ぼく)することならんといえども、我が輩は単にこれを評して狂気の沙汰(さた)とするの外(ほか)なし。三度の食事も覚束(おぼつか)なき農民の婦女子に横文の素読(そどく)を教えて何の益をなすべきや。嫁(か)しては主夫の襤褸(ぼろ)を補綴(ほてい)する貧寒女子へ英の読本を教えて後世何の益あるべきや。いたずらに虚飾の流行に誘われて世を誤るべきのみ。もとより農民の婦女子、貧家の女子中、稀に有為(ゆうい)の俊才を生じ、偶然にも大に社会を益したることなきにあらざれども、こは千百人中の一にして、はなはだ稀有(けう)のことなれば、この稀有の僥倖(ぎょうこう)を目的として他の千百人の後世を誤る、狂気の沙汰に非ずして何ぞや。
《ためしに、今日の女子教育を見よ。都会も田舎も全般に流行して、その流行の極致は、頻繁に新奇を好み、山水の村落にも女子の英語学校があって、生徒数は、いつも数十人ある等というのを、毎度伝聞することで、世の中の愚者は、これによって、教育の隆盛を判断することになるだろうといっても、私は、たんにこれを批評して、狂気の行為とする以外にない。3度の食事も不安な農民の女性・子供に、横文字(英語)の素読を教えて、何の利益をなすことができるのか。嫁に行って、主人の夫の破れた衣服を補修する貧乏な女子に、英語の読本を教えて、後世に何の利益があることができるのか。無闇に空虚な装飾の流行に誘われて、世の中を誤るはずなのだ。元々、農民の女性・子供や、貧困家庭の女子の中で、まれに能力のある秀才を生み、偶然にも、大きく社会を利益することがなきにしもあらずだが、これは、千人・百人の中の1人で、とても稀有なことなので、この稀有の幸運を目的にして、他の千人・百人の後世を誤らせることは、狂気の行為でなくて、何なのか。》
※人によって実学を発育すべき:一律で無闇に空虚な装飾の流行を教育しない
・また、いたずらに文字を教うるをもって教育の本旨となす者あり。今の学校の仕組は、多くは文字を教うるをもって目的となすものの如し。もとより智能を発育するには、少しは文字の心得もなからざるべからずといえども、今の実際は、ただ文字の一方に偏(へん)し、いやしくもよく書を読み字を書く者あれば、これを最上として、試験の点数はもちろん、世の毀誉(きよ)もまた、これにしたがい、よく難字を解しよく字を書くものを視て、神童なり学者なりとして称賛するがゆえに、教師たる者も、たとえ心中ひそかにこの趣を視て無益なることを悟るといえども、特立特行(とくりつとっこう)、世の毀誉をかえりみざることは容易にでき難(がた)きことにて、その生徒の魂気(こんき)の続くかぎりをつくさしめ、あえて他の能力の発育をかえりみるにいとまなく、これがために業成り課程を終(おえ)て学校を退きたる者は、いたずらに難字を解し文字を書くのみにて、さらに物の役に立たず、教師の苦心は、わずかにこの活字引(いきじびき)と写字器械とを製造するにとどまりて、世に無用の人物を増したるのみ。
《また、無闇に文字を教えることを、教育の本旨とする者がいる。今の学校の仕組みは、多くが、文字を教えることを、目的とするようなものだ。元々、智能を発育するには、少しは、文字の心得もなくすべきではないといっても、今の実際は、ただ文字の一方にかたよって、もしも、充分に書物を読み、文字を書く者がいれば、これを最上として、試験の点数はもちろん、世の中の毀損・名誉もまた、これにしたがい、充分に難解な文字を理解し、充分に文字を書く者を見て、神童だ・学者だとして、称賛するので、教師である者も、たとえ、心の中で、ひそかにこの意向を見て、無益であることを悟ったといっても、独立・独行して、世の中の毀損・名誉を振り返らないことは、容易にできにくいことで、その生徒の根気が続く限り、尽力させて、あえて他の能力の発育を振り返る暇はなく、このために、学業を成し遂げ、課程を終了して、学校を卒業する者は、無闇に難解な文字を理解し、文字を書くだけで、少しも物の役に立たず、教師の苦心は、わずかに、生きた辞書と活字を印刷する器械を製造するのにとどまって、世の中に無用の人物を増やしただけだ。》
※智能の発育:難解な文字の読み書き(記憶力、知識の詰め込み)にかたよらない
・もとより人心全体の釣合を失わざるかぎりは、難字も解せざるべからず、文字も書せざるべからずといえども、本来、人心発育の理において、人の能力は一にして足らず、記憶の能力あり、推理の能力あり、想像の働ありて、この諸能力が各(おのおの)その固有の働をたくましゅうして、たがいに領分を犯(おか)さず、また他に犯されずして、よく平均を保つもの、これを完全の人心という。
《元々、人の心が全体のバランスを失わない限りは、難解な文字も理解させないわけにはいかない、文字も書かせないわけにはいかないといっても、本来、人の心の発育の道理において、人の能力は、ひとつだと不足で、記憶の能力があり、推理の能力があり、想像の働きがあって、この諸能力が各々、その固有の働きを力強くして、互いに領域を犯さず、また、他に犯されないで、充分に均整を保つもの、これを完全な人の心という。》
※能力の発育:ひとつにかたよらず、記憶力・推理力・想像力をバランスよく
・然(しか)るに毎人の能力の発育に天然の極度(きょくど)ありて、甲の能力はよく一尺に達するの量あるも、乙はわずかに五寸にとどまりて、如何なる術を施(ほどこ)し、如何なる方便を用うるも、乙の能力をして甲と等しく一尺に達せしむること能わず。然り而(しこう)して一尺の能力ある者は、これをその諸能力に割合して各二寸また三寸ずつを発育し、これをして一方に偏せしめざるをもって教育の本旨となすといえども、もしこの諸能力中の一個のみを発育する時は、たとえその発育されたる能力だけは天稟(てんぴん)の本量一尺に達するも、他の能力はおのずから活気を失うて枯死(こし)せざるをえず。文字を教うるは、ただ人の記憶力によるものにて、ただこの記憶力のみを発育する時は、他の推理の力、想像の働等はおのずから退縮せざるをえざるがゆえに、文字を教うるは、決してこれを有害のものというべからずといえども、ただこの一方に偏してこれを教育の主眼とする時は、人心の釣合を失して、いたずらに世に片輪者の数を増すの恐れあり。はなはだ慎むべきものにこそ。
《それなのに、人ごとに、能力の発育には、天性の限界があって、甲の能力は、充分に1尺(約30.3㎝)に達する量があっても、乙は、わずかに5寸(1尺の半分、約15.2㎝)にとどまって、どんな技術を施し、どんな方策を用いても、乙の能力を、甲と等しく、1尺に達させることはできない。それで、そうして、1尺の能力がある者は、これをその諸能力に分割して、各2寸または3寸ずつを発育し、これを一方にからよらせないことによって、教育の本旨とするといっても、もし、この諸能力の中の1個だけを発育する時には、たとえ、その発育された能力だけは、天性の資質の根本の量が1尺に達しても、他の能力は、自然に活気を失って、枯れて死なざるをえない。文字を教えることは、ただ人の記憶力によるもので、ただこの記憶力だけを発育する時には、他の推理力、想像の働き等は、自然に衰退・縮小せざるをえないので、文字を教えることは、けっしてこれを有害のものというべきではないといっても、ただこの一方にかたよって、これを教育の主眼とする時には、人の心のバランスを失って、無闇に世の中に、弊害のある者の人数を増やすおそれがある。とても慎むべきものなのだ。》
※能力の発育:人によって天性の限界あり → 1個にかたよれば、他が自然に活気を損失・枯死
→ 記憶力・推理力・想像力をバランスよく