理論段階での自然の形式から実践段階での人間の思想へ | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

人の利用価値/存在価値と人間の思想/自然の形式

透過的/不透過的な世界観

丸山真男の「~である」こと/「~をする」こと

丸山真男の「なる」「うむ」「つくる」

構造主義・記号学(論)と外面/内面

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 物・事・人等の見方は、内面と外面の両面に二分することが、常套手段です。

 まず、宗教は、内面の教義(思想)と、外面の儀礼(形式)の、両面があり、神道は儀礼のみ、儒教は教義のみ、キリスト教・仏教は両面ですが、仏教は煩悩(欲望)という思想を除去するので、形式化され、神道は形式のみなので、日本での神仏習合が容易でした。

 つぎに、価値には、内面の能力重視で、「何をするか」の利用価値と、外面の品格(家格・人格)重視で、「何(誰)であるか」の存在価値の、両面があり、物事には、内面の人間特有で、意志での作為(「つくる」)と、外面の生命通有で、自然な生成(「なる」)の、両面があります(丸山真男)。

 さらに、記号(言葉)には、外面の記号表現(表徴=しるし)と、内面の記号内容(意味)の、両面があり、これらを内面と外面に二分してまとめると、次のようになります。

 

※両面:宗教、価値、物事、記号

・内面:思想(教義)、能力・利用価値(何をするか)重視、人間特有・意志での作為、意味(記号内容)

・外面:形式(儀礼)、品格・存在価値(何であるか)重視、生命通有・自然な生成、しるし(記号表現)

 

 そうすると、近代的な人間中心主義・ヨーロッパ中心主義は、内面の思想等の系統に偏重し、その批判として、構造主義は、外面の形式等の系統に偏重したことがわかりますが、それなら、どのような流れで進めていけばよいのかを、ここで取り上げることにします。

 

 

●理論段階:現象学的還元(他分野の関心を括弧に入れて見る)

 

 ドイツの哲学者のイマヌエル・カントは、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』で、認識構造において真か偽か、道徳法則において善か悪か、美的感情において快か不快か、物事を判断する際の3つの基準を取り上げました。

 人間がその3つの判断基準を、同時に持ち併せているとすれば、それらを混同させると、理解困難になるので、一時的に整理するためには、他分野の関心を括弧に入れて(留保して)見ることと(理論段階)、その括弧を外して行うことが(実践段階)、大切になりますが、これには訓練が必要です。

 たとえば、文学小説や演劇・映像ドラマ等で、荒唐無稽な設定や、不倫・殺人の場面があっても、それらを科学的におかしいとか、道義的・法的にふさわしくないと批判するのは、文化分野で科学的・道義的・法的関心を括弧に入れて見ていない発言といえます。

 芸術分野での裸婦の絵画や、医療分野での産婦人科医は、性的関心を括弧に入れて見る訓練が不可欠で、医者は、学術の段階には、道義的・美的関心を括弧に入れて、患者の物(身体)を見て処置し、応対の段階には、その括弧を外して、患者の心(精神)を見て説明することで、切り替えるのが通例です。

 ここでは、認識構造・道徳法則・美的感情の、3つの判断基準をみていくことにしますが、3つを比較すると、美的感情は曖昧、認識構造は明確で、道徳法則は、その中間の判断基準といえそうなので、この順で取り上げていきます。

 

○美的感情(科学的・知的+道義的・法的関心を括弧に入れて見る):快/不快

 芸術文化は、個人の主観による感覚的趣味の快適かどうかが判断基準になり、作品の評価は、専門家・収集家等の集団間の、対話と合意による共通感覚で、何となく決定され、この決定過程は、議論対立と合意形成による民主政治と類似し、この価値は、一定の空間・時間に限定したものといえます。

 なので、その対話と合意に、他者が新規参入すれば、その都度、空間的・時間的に価値が変化することになります。

 

○認識構造(道義的・法的+情緒的・美的関心を括弧に入れて見る):真/偽

 環境・生物等を認識することが主題の科学は、比較的真理が明確な、自然・生命科学(自然環境系)と、比較的真理が曖昧な、社会・人文科学(社会環境系)に、大別できます。

 ですが、両方とも、まず自己が仮説を実証し、つぎに他者が反証できなければ、それが真理になるので(理系の普遍的な真理に比べれば、文系は緩い真理といえます)、その決定過程は、対話と合意による芸術文化の共通感覚や民主政治と類似しています。

 こうして、諸現象の各要素の性質と構造の相互関係性(法則)、形態(外面の様相)と機能(内面の作用)等が、科学的に解明され、事実が認識されていきます。

 

○道徳法則(科学的・知的+情緒的・美的関心を括弧に入れて見る):善/悪

 道徳は、他律的(強制的)な道徳と、自律的(自発的)な道徳に、大別できます。

 他律的な道徳は、自然の摂理・天の道理(形式)に強制されただけで、人間に主体・自由意志がない(責任もなし)とする見方で、集団(共同体)存続のための個人の規範(掟/おきて)と、個人・集団の幸福・利益追求のための倫理(最大多数の最大幸福、功利主義)が、よく取り上げられます。

 ここでは、人間に主体・自由意志がないとしましたが、物事を認識しようとする主体・自由意志のみはあるとします(オランダの哲学者のバールーフ・デ・スピノザによる)。

 一方、自律的な道徳は、人間の意志(思想)で自発したとみなし、主体の自由がある(責任もあり)とする見方で、自他とも自由であれという義務(至上命令)があるので、自己の言動が他者を侵害すれば、道義的・法的責任が発生します。

 

 

●実践段階

 

 以上より、芸術文化・民主政治・科学は、対話と合意で、それぞれ評価(快適)・法案+政策・法則(真理)が決定し、他律的な道徳は、主体なし・責任なしなので、認識が主題の科学と同類になりますが、それら以外の自律的な道徳等は、次のような流れで進められるのが、一般的です。

 

・理論段階=原因の認識

 :不可抗力でそうなってしまった、その構造を分析(責任の追及なし) → 自然(生命)の形式

 

・実践段階=責任の追及

 :言動に選択の自由があったとみなし、道徳・法に違犯すれば、謝罪・刑罰 → 人間(社会)の思想

 

 こうして、理論段階での原因の認識から、実践段階での責任の追及への、流れを進めることで、善悪を判断します。

 刑事裁判では、まず、被告人の境遇・背景を調査したうえで、情状酌量の余地を検討し(自然に見る)、つぎに、被告人の言動から、罪状・罪名と刑罰を判決します(意識して行う)。

 また、企画書でも、まず、現状を認識し(自然に見る)、つぎに、方針を提案する(意識して行う)のが、通例です。

 したがって、理論段階では、外面での自然の形式で見る(生成、主体・責任なし)ことになり、実践段階では、内面での人間の思想で行う(作為、主体・責任あり)ことになり、この理論と実践を繰り返します。