幽玄1 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 日本人は抽象的な概念を、具体的な現実の事物に置き換えて受け入れる傾向にあり、思想・哲学でも古来から、超越的な存在を自然として理解しようとしました。
 幽玄は、他界への入口を意味し、当初は仏教や老荘思想において、真理は深遠でとらえがたいことでしたが、やがて奥深さを表現する言葉として、日常で使用されるようになりました。
 それが芸道でも多用されるようになり、まず幽玄は和歌の主題として洗練され、つぎに能の主題へと深化し、さらに茶の湯・俳諧等のワビ・サビへと展開しました。

 和歌は長歌・短歌等、5音と7音で形式化した日本固有の詩歌で、中国伝来の漢詩と比較されますが、平安期以降には短歌以外ほとんど詠まれず、和歌といえば短歌を指すようになりました。
 表現しつくすことで、自分の欲求を満足させる長歌とは対照的に、あえて表現が制限された短歌は(俳諧も)、自分の限界を乗り越えるための手段としても利用され、はじめは純粋に永久不滅の生命力をもつ自然の優美さを絶賛し、やがて自然の無常・衰滅にも関心が移行しました。
 しかし、自然界にある物の美を、完全に再現すれば、一見すると不変で永遠を手に入れたようですが、それだけでは、かえって物の変化を停止させてしまい、必死必滅のままです。
 そこで、四季の微妙な移り変わりを繊細・鋭敏に感受し、その物の現象の面影を、心でひたすら思い続け、和歌で観念に変換すれば、永久不滅となります。
 例えば、藤原俊成や定家らは、仏道のように歌道に精進し、美辞麗句で飾り立てず、自然界での物の流転を、心の流転と一致するように詠み込んだ和歌を評価し、幽玄はその尺度として取り上げました。
 そこには、感性的な優しさ・弱さの美だけでなく、悟りを開いて無の境地に到達しようとする、知性的な厳しさ・強さの美も兼ね備えていなければならず、神道的な優美と仏教(禅)的な幽玄を統一・調和し、理念化したものが幽玄美といえます。

 一方、能は奈良期に大陸文化とともに移入され、雑多な芸能が入り混じった散楽が起源で、当初は朝廷が散楽師の養成機関を設置し、宮中で上演しましたが、猥雑さから廃止されると、散楽師達は社寺・街角等で披露するようになり、このうち滑稽な物真似芸を中心に発展したのが猿楽といわれています。
 猿楽は、農村で田植え前に豊作を祈願し、歌い踊ったものを遊芸化した田楽とともに、歌舞音曲が組み合わされて庶民の人気となり、一座を組織して公演を開催する集団も各地に出現しました。
 猿楽の演者は最下層の人々(主に河原者)で、一部の猿楽の座は社寺に庇護され、当初は祭礼・法会等の際の余興程度でしたが、しだいに社寺の由来や、神仏と人々の生活との関係を解説する寸劇としても披露されるようになりました。
 公家や武家らは、はじめ田楽を庇護していましたが、観阿弥は物真似芸による面白き能に、優雅な田楽(一忠)の舞や、曲舞(くせまい)の歌と音曲(物語に節回しをつけた謡)を取り入れると人気となり、猿楽も庇護されました。
 そして、世阿弥(観阿弥の長男)は、観阿弥による他分野の物真似段階(自然の優美さを日本庭園で模倣したような感覚)から深化し、書き残された作品や評論には、妖艶な風情や切迫した情念だけではない、多面的な幽玄美が描き出されています。
 それらをまとめると、世阿弥の幽玄美は、第1に、自然な演技となるよう、無心になること、第2に、魅力を取り入れつつ、視点を反転して照射すること、第3に、余情が醸し出されるよう、未完にすること、を主題としたのではないでしょうか。


◎無心

 世阿弥は、まず能で自然な演技をするためには、動作の型を習得することが基本だといい、型を身に付けることで、様々な場面にも応用でき、そうしてはじめて個性が発揮できるようになります。
 例えば技芸の稽古において、一生涯には守破離(しゅ・は・り)の3段階があり、守では基本型の動作を忠実に反復し、破では基本型に独自の解釈を付加し、離では基本型を忘却することで自由の境地に到達できます。
 能では、子供の時には、舞と謡(うたい)(二曲)を渾然一体化させることが理想で、清純な稚児の名残を保持できれば、幽玄な風情が現れ出るようになり、大人の時には、物真似の基本型である老体・女体・軍体(三体)を体得するのが本道だといっています。
 能は観客を楽しませたり喜ばせるのが基本なので、物真似といっても、ただ単純に動作を模写してしまうと、見苦しくなってしまう配役は、異質な感情を結び付け、品がなくならないようにすることも必要だそうです。
 また、能の進行にも型があれば、全体を把握しやすいと同時に、部分の根拠が明確になり、演技に専念しやすくなるので、元々は雅楽の演奏で、1曲を3つの楽章に分けて考える序破急(じょ・は・きゅう)という型を借用しました。
 序は緩やかな導入部、破は豊かな展開部、急は華やかな結末部のことで、この経過は早苗を育て田植えし、手間をかけて稲穂を実らせる稲作に例えられ(田楽の影響でしょうか)、序破急は一日の演目・一曲の構成や一生の稽古の流れに適用できます。
 しかし、このような型を実際の興行で、そのまま再現するわけではなく、当時は野外の仮設舞台なので、観客の気分が散漫して注目されていないこともあり、空気感は移り変わるので、鋭敏で繊細な感覚のもと、柔軟に対応することも要求されます。
 そして、その究極は、無心になって、そのものへと素直に成り切ってしまえば、もはや似せて舞おうとする意識も不要で、初心にかえって、純粋無垢な少年の魅力を取り戻すことが重要だといっています。
 ちなみに、観阿弥の幼名は観世丸ですが、当時の人々は、清純な色気のある稚児(少年)の美しさに、観世音菩薩(一心にその名を唱えれば、その音声で人々の苦悩を観じ、救済しようと様々な姿で出現する仏)の化身を見て神聖視しました。
 また、古来から祭祀・法会等の神事・仏事では、純粋無垢な稚児や巫女が出演したり、僧侶や公家・武家達の間では、稚児は性愛の対象でもあり(男色)、足利義満による美少年だった世阿弥への過剰な寵愛(ちょうあい)も、技芸自体だけでなく、これと同種の感情もあったようです。
 男色は当初、密教の高僧の間で本格的にひろまり、表向きでは、寺院にいる見習いの小僧を、儀式(稚児灌頂)で観世音菩薩と同格とし、高僧が稚児と性的に触れ合うことで、救済してもらおうとする行為で、裏向きでは、女人禁制なので、刑罰の対象とならない稚児で性欲を解消する行為でした。
 それは、公家の間にも拡大し、命を賭けて戦う武士の間では、主君を臣下の少年が心身ともに尽くして仕える表現となり、特に戦乱期には顕著でした。
 さらに、室町期に流行した曲舞でも、稚児や女性が舞い踊った妖艶さに人気があり、観阿弥は女曲舞師(乙鶴)から、曲舞の歌と音曲を習得しています。
 つまり、この時代は人生において、美少年のような振る舞いが理想とされ、技芸においても、永遠の若さを保つため、いつも初心や未熟で失敗した経験を忘れず残しておけば成長することができ、絶え間なく型の構築と破壊を繰り返しながら発展していくイメージがあったようです。

(つづく)