界隈 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 界隈とは、内外装材等の物体や、部屋・建築・都市等の空間自体で知覚するのではなく、人間の行動の集積によって規定される空間のことで、何となく大勢の人々が集まって賑やかな場所に使用され、地域の中心や境界はぼやけていますが、あえて範囲を特定すれば、徒歩で無理なく往復できる距離が妥当です。
 界隈は、単独の施設の魅力だけにとどまらず、無計画で自然発生的に、性格の類似・関連した施設が集合することで発生し、それが個人の行動を誘引する要因となるので、もし界隈を図示して表現するなら、動線の密度の濃淡で描き出すしかありません。
 そして、そこにいけば何かがあるという期待から、いく側はブラブラ歩き回って、幅広い選択肢の中から思案して目的に辿り着け、いる側は利益を当て込んで新たな施設が生まれ、双方の個人の経験の心象が積み重なって界隈のイメージができあがります。
 以上は、繁華街・商店街等の常設で常時的な界隈についての説明でしたが、かつては主に都市の外縁に仮設の市場が形成されたので、ある時期のある場所に人々が混み合う事例も、一時的な界隈として取り上げることにします。

 西洋では、運動における視覚を主題とし、それをはじめて空間化したのはバロック都市で、そこでは街路の中央を馬車が高速で円滑に通行できるよう、幅広で直線の街路を、幾何学的なパターンでネットワーク化するとともに、両脇の建物を整然と連続して配置することで、快適な交通を実現化しました。
 そこでは、視点が固定した、壮大な絵画のような構図より、視点が移動するにしたがって、景観が様々変化することが重要で、軸線と焦点を組み合わせて多彩な展開を創り出し、このバロック都市の段階があったからこそ、近代化による自動車交通にも対応できました。
 一方、日本では、古代の都城から近世の城下町までは、主に歩行者の都市でしたが、急速な近代化で、幅の狭い表通りのほとんどは、自動車に占領され、現代の界隈は、充分な歩道が確保されている表通りや、自動車が侵入できないか、低速で通行しなければならない裏通り・地下街等に限定されます。


■商業地域の変遷

 奈良の平城京・京都の平安京等、古代の都城では、商業空間は東市・西市しか許可されていないので、京内でも遠方には一日仕事の移動距離となるうえ、そこでの営業期間や取扱商品も制限されていたため、一時的な界隈は発生しましたが、生活上は大変不便でした。
 これはおそらく、かつては現在のような商品取引の意識ではなく、物品に生産・使用した人の、何らかの力が注入すると信仰され、各地域間で物資を交換する際には、その力が減衰する地域のハズレで、その力を取り除くため、神前での祭祀も執り行われ、そこでは知恵・技術等の情報も交換したでしょう。
 商業が本格化し、各地で市が立つようになっても、この仮設による祭祀的な性格は受け継がれ、都城では、天の神の子孫である天皇の政権が統制するのも当然でした。
 それが、奈良では、有力な大寺社群のある外京以外は、平安遷都で貴族が移り住むと荒廃し、興福寺・東大寺や春日大社等の周辺のみ、寺社関連の商工業者が生活するとともに、大勢の参拝客が往来するので、門前町として発達しました。
 また、京都では、遷都当初には、京内の東西市・東西寺が厳守されていましたが、しだいに貴族の屋敷での使用人に食料品・日用品等を提供しようと、行商人が売り歩いたり、京内に商売するための小屋(店)が建ち並び、寺社も立地するようになりました。
 そこで、豊臣秀吉は、平常時には宗教を管理しやすく、非常時には軍事拠点となるよう、市域の外周に寺院を移転し、その一例である京極の寺町の形成と、四条河原のみに芝居小屋の設置を許可したので、河原町界隈が発生しました。
 さらに、摂津と和泉の国境である大阪の堺や、太宰府の外港である福岡の博多等の港町も、寺社とともに商業都市として発展し、常時的な界隈の発生は、主に門前町が起源といえるのではないでしょうか。
 このように、古代では、貴族による農業を中心とし、儀式的・形式的な政策に固執していましたが、中世では、公的な権力が衰弱して私的な欲望が増強され、それが荘園開発や商業活動へと展開するようになり、武士は軍事とともに、それらの実利を取り入れて台頭し、政治の実権を掌握しました。
 そして、近世の城下町では、安定した秩序を維持するため、商業地域である町人地を、台地上の城郭を取り巻く武家地とは区分し、点在する寺社地とともに、その外縁の低地で、交通(街道と運河)の要衝に配置することで、身分(士と工商)と機能(政治・経済)を分離しました。
 現代でも、この地域区分は、武家地は官庁街・オフィス街、町人地は繁華街・商店街へと変化し、近代化により、前者は整然、後者は雑然とした景観で、界隈も主に、前者は公務員やサラリーマンが、朝夕の行き帰りや昼休みで一時的、後者は婦人や若者が常時的に通行するので、二極化は継続しているといえます。


■○○×景・宗教行事

 ○○×景は、時間と空間が結び付いた表現といえ、中国の伝統的な画題の名所であった瀟湘(しょうしょう)八景が起源ですが、日本では、和歌の題目とされた近江八景が最初に考案され、それ以降、奈良の南都八景・京都の洛陽十景等、全国各地に普及しました。
 特定の時期や事象にかぎって、景勝地を美的に評価し、端的に定型化しはじめたのは、本格的には江戸期からで、この時代は庶民も旅行がさかんになり、観光地の案内として認知されやすく、花見・蛍狩り・月見・紅葉狩り等の年中行事も、大勢の人々を引き寄せ、生活に定着するようになりました。
 また、山辺や水辺に立地する、神社の祭礼や寺院の法会等の宗教行事でも、参道・境内等で一時的に界隈が形成され、そこでは季節の変化を実感するとともに、町や人が普段より華やかな装いで飾り立てられました。