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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 前回の中間領域の説明では、各領域間の相互関係に主眼がありましたが、今回は各領域間を行き来する際の境界について考察していきます。
 西洋では、内部と外部の境界は、重く厚く強固で明確なもので一度だけ区画し、その間の移動は瞬時に転換させます。
 これは、内部と外部で要求されるものは反対の概念で、それらを段階的に変化させて連続させても、その対立は解消しないという認識だからといえます。
 一方、日本では、内部と外部の境界は、比較的軽く薄く軟弱で曖昧なもので数度にわたって仕切り、その間の移動は徐々に転換させます。
 これは、内部も外部の自然と一体化することが基本なので、両者が相互浸透し、未分化・不定形の状態で、間仕切自体も自然素材で、その隙間を多重に創り出すことで空気を流動させ、隙間にも自然を介在させようという認識だからといえます。
 中国では、特権階級の社会的地位を維持するため、都市・建築の骨格や軸線を強調して権威・格式を誇示し、日本でも古代には中国の影響から方位を根拠にして、都市や建築が整然と秩序づけられましたが、やがて高さと長さを組合せ、奥を創り出すことで、象徴化(徐々に神秘化)するようになります。
 それらは、あくまでも自然に対応するよう、幾重にも包み込むように段階的に仕切り、聖なる場では、中心へ近づくほど何らかの力が強くなり、俗なる場では、周縁へ遠のくほど何らかの力が弱まったり、別の力が働いていることが実感できるようにしました。


■方位

 日本ではじめて方位にもとづく左右対称の配置を本格的に取り入れたのは、古代の政治都市(都城)と仏教建築群(伽藍/がらん)で、いずれも南端中央に主要な門があり、そこからの景観が最も壮麗になるよう演出されていますが、この段階では外国からの来訪者の視線をかなり意識しているといえます。
 それは、近代での鹿鳴館と同様、先進文化が発達していると外国人が理解すれば、征服するのが困難と予想され、その意欲がなくって軍事衝突も回避でき、対等な外交へと誘導できるからです。
 また、宗教での左右対称の配置は、信仰の象徴として強化されますが、影響力のある発願者の権威を誇示するためにも有効な手段でした。
 しかし、完全で完成された美観本位の理想は永く続かず、機能本位の現実に引き戻されていき、都城・伽藍配置の対称性がくずれていきましたが、そうなったのは自然の力(地形・水系・植生等)は絶大なうえ、人民が無心になって生き営んた活力が作用したからといえます。
 そこから、日本人は、構築の意志が唯一で強力だと、運営・管理体制が確立していなければ、維持は大変困難で、すぐに崩壊してしまうと認識し、複数の力を介在させ、釣り合いよく調和させる、不完全・未完成の美を追求するようになったのではないでしょうか。

●都城
 都城は、中国(唐)の律令制とともに、中央集権による安定した国家体制を確立するために導入され、碁盤目状の道路で整然と区画し(条坊制)、神の子孫である天皇の宮殿や官庁施設を、北端中央で南面して人民に君臨、そこから南端の門までは、一直線の幅広道路が貫通する左右対称の町割としました。
 宮殿は、これまで掘立柱の草・桧皮葺き等でしたが、はじめて耐久性を向上させる、基壇・瓦屋根が採用され、木材には赤や緑で着色されました。
 条坊制は、中国の風水(四神相応の思想)が起源で、都市・建築や墓地等を、東に流水・西に大道・南に湖沼・北に高山のある場所に立地すれば繁栄するといわれています。
 しかし、日本では、当時の政局悪化(氏族間での権力闘争や皇族の近親結婚による病死)や社会不安(天変地異や飢饉・疫病)等から、頻繁に遷都され、そのたびごとに宮殿・官庁施設や寺院等を移築・移転してきました。
 そして、平城京では当初、庶民は国家から公有地を分け与えられて耕作したので、生活が安定し、人口が増加しましたが、食糧不足も深刻になり、農地拡大のため、新規に田畑を開発すれば私有地にしてよいと国家が許可すると、大寺社は開墾(荘園開発)に乗り出し、耕作と交易で勢力を拡大しました。
 特に仏教(顕教)寺院は、経典を根拠に高尚な哲学で政治に介入し、戒律を遵守させる一方、寄進・荘園等で財産を蓄積するだけの堕落した存在でした。
 そこで、平安京では、政治から寺社勢力を排除するため、京内は東西2つの寺院に限定し、他の寺社(主に氏族の氏寺や氏神)の移転を禁止しましたが、都城造営事業と政府に帰属しない東北地方(蝦夷/えみし)への派兵で国家財政が逼迫、庶民も過大な負担で疲弊し、それらを途中で打ち切りました。
 平城京は、平安遷都後には、対称性からはみだし、寺社が集積する東側(外京)が、門前町として市街地に発展する以外、急速に衰退していき、平安京もしだいに、東側(左京)では市街地が京外に張り出して発展した一方、西側(右京)では荒廃し、対称性がくずされたそうです。
 さらに、都城だけでなく、そこでの宮殿・官庁施設や貴族の寝殿造等の配置も、当初はほぼ左右対称でしたが、美観上必要でも、機能上不要な部分が簡略化されると、しだいに対称性がくずれていきました。

●伽藍配置
 寺院の主要な諸施設は、相互連携のために接近して配置しますが、仏教伝来当初は朝鮮半島の影響から、塔や金堂を回廊で取り囲んで左右対称にしたり(飛鳥寺・四天王寺・薬師寺)、塔と金堂を左右で対比させましたが(川原寺・法隆寺)、やがて塔が回廊の外へ出るようになりました(興福寺・東大寺)。
 これらは、大半が平城京内に立地していたこともあり、伽藍を方位にあわせ、対称や対比の構成で整然と配置していますが(南都仏教)、南の門だけに出入りを制限することで、仏像を安置する金堂(本堂)を中心に、仏教世界の雄大さ・華麗さを表現しているといえます。
 これ以降も、寺院は信仰の象徴なので、左右対称の伽藍配置が主流となりますが(例えば、院政での法勝寺や禅宗での鎌倉建長寺・京都東福寺が有名です)、地形を巧妙に利用し、軸線が様々に変化した密教建築や、禅宗伽藍の周辺に徐々に軸線がずれながら増殖された塔頭等、例外も散見できます。
 密教とは、主に心身修行によって超自然力(呪力)を体得しようとする仏教で、発生当時は皇族や貴族の死亡が相次ぎ、天皇の超生命力(呪力)が極度に低下していた時期だったうえ、平安京では堕落した南都の仏教勢力を排除するためもあり、天皇や貴族達が密教に帰依したのがきっかけで普及しました。
 ちなみに、密教の加持祈祷が有効だったのは、各地での修行で様々な天候の変化を経験したり、漁師から見聞きして今後の天候が予測できるようになったり、唐の長安に留学の際、薬草の知識を習得し、それを活用する等したからだそうです。
 南都仏教とは対照的に、密教建築は、僧侶の仏道修行・修学の道場(その中央に仏像を安置)が中核なので、山中に立地し、諸施設は方位に関係なく簡素で、自然の地形に対応しながら流動的に配置され、そこでの生活は山岳修行のようです。
 特に空海は、道場を内陣と外陣に区分し、内陣には仏像を安置、外陣には一般庶民が礼拝できるよう開放し、今日の本堂形式を確立しました。
 道場では、炉で木を焚き、火の薄暗い光・燃える音や煙の匂い、僧侶の荘厳な読経が鳴り響き、華麗な袈裟(けさ)が揺れ動く等、欲望(煩悩)を焼却し、往生・成仏した気分を体験させてくれ、これが庶民にとっての修行となります。
 一方、禅宗寺院では、中心には、ほぼ南北方向を軸線とする左右対称の伽藍が配置されますが、その周辺には、高僧の墓所とその礼堂(開山堂)や、住職の隠居所(方丈)・有力大名や商人の菩提所として脇寺(塔頭/たっちゅう)が徐々に築造されました。
 やがて塔頭には、住職の居間・寝間等の居住施設だけでなく、修行の場も併設するようになり、流派の修行はそこで執り行われ、中心の本堂では、一門の儀式のみの場となりました(京都大徳寺・妙心寺)。

(つづく)