奥2 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)


■奥深さ

 地形や機能よりも、形式や美観に特化し、左右対称で遠近感のある都市や建築を創り出しても、自然の力や人々の力に押し切られて、崩れ去ることを経験した特権階級や宗教団体は、垂直的な高さと水平的な長さで、社会的地位を象徴するようになりました。
 しかも、特権階級の邸宅や寺社・城郭の輪郭は、周囲から庶民にも見えるようにしますが、それらの核心は、隠すことで奥深さを表現してきました。
 日本では、季節の移り変わりが顕著なため、冬の寒さ対策として、掘り下げた土間の竪穴で生活し、夏の蒸し暑さ対策として、高床で稲種を保存する等、高低差を微妙に使い分けていたので、それが格差の表現へと発展し、高いほど清浄・神聖とされました。
 また、山林からの養分が堆積した肥沃な平地は、農耕に最適ですが、長雨・豪雨等で河川が氾濫するため、家屋や集落をやや高所に立地したり、農民が共同で治水・利水するために、微細な地形を読み取り、田畑の整備に反映しましたが、その方法は、特権階級の邸宅や寺社・城郭等にも適用されました。
 さらに、寺院では基壇で、城郭では石垣で高台化して地形を改変したり、神社では鎮守の森で、寺院や城郭では大屋根で、高さを誇張していますが、それらはいずれも高い山を見上げた感覚を再現したといえるのではないでしょうか。
 一方、目的地点へ接近させる際には、階級の格差や聖俗の結界等の奥行を感じ取らせようとしていますが、核心はタマネギのように、たいしたものがあるわけでなく空虚で、むしろその間を移動する過程を儀式化することに意義があります。
 特権階級の邸宅や寺社・城郭は、聖なる方向への移動でしたが、これらとは対照的に、俗なる方向への移動もあり、城下町の町人地での庶民の住宅は、街区の内奥へも展開し、通りに面しては商売空間、街区の内奥は生活空間が段階的に構成されました。
 そして、表から裏への動線は、寺社の参道や城郭へのアプローチとともに、山の道に分け入った感覚を再現したといえるのではないでしょうか。

●特権階級の邸宅
 特権階級は、狩猟・採集生活から農耕生活へと移行し、マツリゴト(祭祀+政治)が不可欠になる段階で発生しますが、その格差は外観では屋根に、内観では段差に反映され、首長は切妻屋根の高床住居、庶民は寄棟または入母屋屋根の竪穴住居に分化して生活するようになりました。
 また、祭祀の儀式の場である寝殿造では、中心の身舎(もや)とその周囲の庇(ひさし)の間で、板張りの床面に段差をつけ、柱も身舎は丸柱、庇は角柱に差別化し、身分の上下によってそれらの空間への出入りを制限しました。
 さらに、対面の儀式の場である書院造では、寝殿造りでは可動していた家具・調度類を、座敷飾りとして固定化することで、地位や権威の不変を強調しつつ、装飾で荘厳化し、座敷飾り前は、そこでの最高権力者の座、地位の高低は、そこからの距離(近いと高く、遠いと低い)と畳の段差(上・中・下段の間)等で象徴化しました。
 そして、門・玄関から続き間の座敷へと到達する過程では、何層もの部屋の空気を体感することになります。

●神社
 神社の大半は、地域の比較的高所に立地し、鎮守の森で取り囲まれ、鳥居を通過し、参道から境内の拝殿へと移動しますが、そこへ到達する際には、坂道や階段を昇ることで高さを実感します。
 本殿に出入りできないのは、神道では、祭礼時にのみ神が降臨するからで、拝殿は常設でも、当初は仮設の社殿がほとんどでした。
 しかし、当時流行した仏教寺院や社殿のある神社の影響から、社殿も常設するようになりましたが、仮設的な表現に固執し、地面に井桁の土台を組んで、その上に柱を立て、土台を持ち上げれば、どこへでも運んで行けるオミコシ形式となりました。
 神道の起源は、農民や漁民にとって、天候は生活に密着しており、季節ごとの天気の変化や、それによる周囲の山々の状態が指標となっていたので、それらを天の神や山の神等として崇拝するようになり、神前では人々を平等に、神事(祭礼や寄合)では人々を協力・結束させるのに有効でした。
 ちなみに、伊勢神宮や出雲大社は、基壇や組物があり、瓦葺きの寄棟または入母屋屋根・赤や緑に着色された寺院と差別化しようと、当時の宮殿と同様、掘立柱で茅・桧皮葺きの切妻屋根・白木の表現としましたが、社殿を建て替えながらも恒久化したのは、両社とも祭神を擬人化していたからです。

●寺院
 神社では、鳥居と鎮守の森が結界の役割で、自然の木々を分け入って境内に到着しますが、寺院では、山門への参道の両側に形成された門前町で、人々や商売の間を分け入る感覚を体験することになります。
 寺院本体は、築地塀で取り囲まれ、山門を通過すると、境内の本堂へと移動し、本堂の大屋根は周囲の家屋を圧倒する巨大さですが、全国各地にある中小規模の寺院は、最初からこのような立派な大屋根だったわけではありません。
 寺院は当初、中央(奈良・京都等)での大規模な伽藍が主流でしたが、しだいに政権が貴族から武士に取って代わられると、地方で実権のある武家も密教寺院を創建するようになりました(鎌倉期の新仏教が登場する以前です)。
 中小規模の寺院では主に、仏堂(仏像が安置されます)と付属施設の構成となりますが、しばしば仏堂の前面に同じ幅の礼堂を並行に設置することがあり(双堂/ならびどう)、これはかつて梁の長さに限界があり、奥行の深い空間が困難だったからだそうです。
 それが、やがて仏堂の前面まで庇を延長して葺き下ろし、礼堂を取り込むようになり(庇礼堂/ひさしらいどう)、さらに大屋根で一体化して、境内から本堂の向拝・外陣と内陣という形式が誕生しましたが、大空間を包む込む大屋根とすることで、内観と外観も一体化した表現となります。
 この形式は、鎌倉期の新仏教にも採用されていますが、それは最澄が開創した比叡山延暦寺で、鎌倉期の新仏教の開祖である法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(法華宗)が若い頃に修行していることがあげられます。
 それらの宗派に共通しているのは、頭で欲望を排除するのではなく、凡人にもできる体で決別しようとしていることです。
 最澄(日本天台宗)は、唐から戒律・禅・念仏・密教を持ち帰りましたが、当時の貴族の最大の関心だった密教は修学が不備だったため、空海(真言宗)と交流して修得しようとしましたが実現せず、その弟子達が唐で密教を修学して本格的に取り入れたので、密教建築の本質は修行のための道場です。

●城郭
 城は当初、山上に土塁・空堀・木柵等で取り囲んだ城郭、山麓に普段生活する居館を分離して配置し、戦時のみ立て篭もって防御していましたが(山城)、領国を統治・支配するには不便なうえ、戦闘も日常化するようになり、火縄銃が攻撃に導入されはじめた時期でもあったので、機能不全となりました。
 そこで、城は支配しやすい水陸交通の要衝へ立地するようになり、比較的高所に地形を利用して石垣・水堀・土塀等で取り囲んだ城郭、その周辺に城下町を形成しました(平山城/平城)。
 城下町では一般に、都市のほぼ中心に城郭、その周囲に広大な武家地と狭小の町人地、その境界に寺社地や遊興施設等が配置され、このころは士農工商の身分が明確になった時期なので、身分・地位ごとに居住地域を区分するようになりました。
 庶民にとって、都市の中心付近は、生活とは無縁な地域で、主にその周縁で生活し、境界には聖なる寺社地と俗なる遊興施設が近接していたので、そこでは表向きには祈り、裏向きには遊びの両方が経験できました。
 城郭は、大手門から三の丸・二の丸、本丸の天守へと折れ曲がりながら上っていき、地位の高い武士は城郭(城内)で、その中でも大名領主の住宅は最も高く、側近の家臣団の住宅はその次で、地位の低い武士は城下町の武家地(城外)で居住しました。
 また、武家屋敷も、地位によって住宅の規模や門の形式、玄関の間口と構造、座敷での長押の有無や畳の種類等が規定されていたようです。
 この山城から平山城・平城(水城)への移動は、統治の主力を農業から商業へと移行することでもあり、農業は土地が有限なので、そこでの収穫に限度がありますが、商業は商品が豊富にあれば、取引による利益は無制限となります。
 そこで、大名領主は、これまで既得権をもち、独占していた商工業者を排除して自由取引市場を保護・拡大し(楽市・楽座)、新興の商工業者を育成したり、税を減免したり、商人による自治を許可する等、規制緩和と商業統制を操作することで、庶民の経済も活性化しました。
 それとともに、城郭は、大名領主の権力を誇示するためだけでなく、地域の象徴的存在にもなるよう、石垣・土塀や幾重もの瓦屋根とし、組物がなく装飾が抑制されているのは、新たな聖なる山として地形を創り出そうとしたのではないでしょうか。

●庶民の住宅
 京都では、遷都時には、約120m四方の正方形街区が基準となり、貴族の寝殿造は、1街区以上を使用し、庶民の住宅は、街区の中間に南北道路を貫通させ、1街区を東西4・南北8区画に分割、各宅地へは東西からアプローチし(四行八門)、いずれも道路境界は築地塀と取り決められていました。
 しかし、貴族の勢力が衰退するとともに、邸宅も荒廃し、塀の一部が取り壊され、道沿いには間口が狭く奥行も浅い、両側の壁を共有した庶民の小屋が建ち並び、道に面した部分を店や、様々な祭り見物のための桟敷として使用するようになり、居住部分も併設しようと、しだいに奥行が深くなります。
 当初は商売上、沿道に建物が密集しますが、やがて街区の中央の空地(会所地)にも庶民が居住するようになり、そこへは表通りから路地を引き込み、木戸を設置し、袋小路となりますが、やがて一般の人々も通り抜けられるよう、行き止まりの路地を貫通するようになりました(辻子または図子/ずし)。
 路地や辻子は自然発生し、徐々に形成されたので、直角や鍵の手に折れ曲がったり、途中で道幅が変化したり、通路を家屋が覆い被さる等、計画的な碁盤目状の表通りにはない、多様で個性ある裏の表情になります。
 ちなみに、京都では、大路や小路の一部を庶民が占拠して田畑化・宅地化することもあり(巷所/こうしょ)、人々の活力がいかに手強いかの実例といえます。
 また、江戸下町の町人地でも、主に約120m四方の正方形街区で(平安京の街区寸法を継承しています)、表通りに面して町家が建ち並び、その奥の大部分には、地主が裏長屋を規則的に詰め込み、庶民に賃貸していました。
 裏長屋へは、町家脇から路地を引き込み、木戸を設置し、共同の井戸・便所・芥溜(あくため、ゴミ置場)を設置しましたが、屎尿やゴミのほとんどが再利用されていたので、スラム化せず清潔でした。
 つまり、京都・江戸や全国各地に共通するのは、沿道側は商売(ハレ)の場で、そこから内奥へと向かうにつれて生活(ケ)の場となり、序列化(徐々に日常化)されていることです。

(おわり)