キレイ2 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)


◎古田織部

 信長・秀吉・家康の家臣で、利休の弟子だった織部は、徳川将軍家に茶の湯を指南するとともに、窯元に奇抜で斬新な茶器等(織部焼)を創作させており、そこには形状や色彩の対比が取り入れられ、西洋文化にも影響されているといえます。
 織部焼は、不整だったりゆがんだ形、釉薬による青(緑色のこれが有名)・赤・黒等の多彩な色、幾何学模様やキズ等、不均衡・破調の美が特徴です。
 利休は弟子達に「茶の湯とは人とは違って作為すべし」といい、茶の湯は古典にしたがうのが自然で、もし作為するなら新鮮であるべきで、例えば利休は、秀吉に朝顔を主題に茶会せよと命令されたので、茶庭に咲いていた朝顔は全部切り、茶室の床の間に朝顔の花を一輪だけ生けて飾った逸話があります。
 織部は利休の教えを忠実に守り、大胆で自由な気風の茶の湯を生み出し、茶器にとどまらず、自分自身も「へうけもの」だったようで、そうなったのは、室町期から流行していた、武家の間でのバサラ、庶民の間でのカブキ者が影響しているのではないでしょうか。

 「へうけもの」とは、織部による伏見での茶会に招待された博多の豪商が日記で、そこで使用された茶碗をそう命名したのが由来で、ひょうげるとは、ひょうきんなことをいったりする、ふざける・おどけるという意味です。
 また、バサラ(婆娑羅)とは、南北朝期から流行しはじめ、身分・地位による秩序や権威を軽視し、派手で奇抜な衣装、遠慮なく身勝手気ままに行動する美意識をいい、当時の文化にも敏感で、その教養もあり、活動も熱心でした。
 室町幕府はバサラを禁止しましたが、これに抵抗する大名(バサラ大名といわれています)もおり、自由な振る舞いは、以後の戦乱の兆候ともいえます。
 さらに、カブキ者とは、戦国末期から江戸初期にかけて流行した風体や振舞で、当時の流行(時代によって和歌→連歌→茶の湯と変遷しました)に熱心な数寄(スキ)者よりも、さらに数寄に傾いた者(傾奇者=歌舞伎者)という意味で、派手・異様な外見、常識を逸脱して無法な行動をする連中のことです。
 戦乱では雑用として武士に奉仕しつつ、町・村で乱暴・略奪も横行しましたが、全国が統一されて社会が安定すると、かれらの居場所がなくなり、都市に出没するようになりました。
 庶民には、その行動は嫌悪されましたが、秩序への反発や仲間との結束等の精神は共感され、身分にかかわらず外見を真似するカブキ者も出現し(例えば歌舞伎の元祖といわれる、出雲の阿国が有名です)、幕府や諸藩の取締りで流行は終息しましたが、その斬新さ・華美さは歌舞伎に受け継がれました。
 つまり、織部と利休は、物(道具)や事(作法)を比較すれば対照的ですが、心(作為)はどちらも新鮮な境地を切り開き、独自の表現を確立しています。
 ちなみに、秀吉による利休の切腹と同様、織部も徳川方の軍議の秘密を、大阪城の豊臣方に内通した謀反の嫌疑から、切腹させられています。


◎小堀遠州

 秀吉・家康の家臣で、織部の弟子だった遠州は、徳川将軍家に茶の湯を指南するとともに、建築・庭園等の造営責任者として重用され、それらには安定した社会にふさわしく、貴族趣味を取り入れ、サビの中に優しさや華やかさのある風情で、作為を洗練した均整美を愛好しました(キレイサビ)。
 前々回に、茶の湯は足利義政と能阿弥から村田珠光→武野紹鴎→千利休へ、開放的な書院風から閉鎖的な草庵風へ変遷し、真行草にあてはめると、義政らは「真」、珠光は「行」、利休は「草」の茶といい、乱世ではその背景には禅の思想がありました。
 一方、治世になると、利休から古田織部→小堀遠州へ、草庵風から書院風へ逆流し、利休の「草」から織部の「行」・遠州の「真」の茶へと変化したといえますが、それは以前と同じ地点に引き返したのではなく、暗さのワビから明るさのサビへと通り抜け、違う地点に辿り着いたのではないでしょうか。

 遠州は、河内奉行や伏見奉行でもあったので、堺・大坂等に入港した外国人の接待も仕事のひとつで、そこから海外の最新情報が入手でき、西洋のデザインを自分が担当した建築や庭園に大胆に取り入れています。
 特に庭園では、従来のように自然を模倣するだけでなく、人工的に整形し、視覚美に特化した表現を追求しています。
 例えば、池に中島がなかったり、芝生や花壇・噴水を設置したり、幾何学的な形態や両極の色彩を対比させたり、左右対称に配置したり、軸線の延長線上に焦点となるものを設置し、その両側のものを先細りにして遠近感を強調したり、1対1.618の比率(黄金比)で平面を分割しています。


◎歌舞伎

 歌舞伎の起源は、安土桃山期に神社の寄付を募り集める(勧進/かんじん)興行のため、カブキ者の風俗を取り入れ踊りを演じた出雲大社のミコだった(河原者だったともいわれています)阿国(おくに)で(カブキ踊り)、それは念仏踊りともいわれており、時宗とも関係があるのではないでしょうか。
 やがて、これをもとに女性(遊女)による女歌舞伎が登場しましたが(歌い舞う芸妓から歌舞妓と表記され、明治期に妓から伝統演劇の伎楽の伎に落ち着きました)、幕府は風紀を乱すので禁じられました。
 すると、少年が演じる若衆歌舞伎が盛んになりましたが、売春目的の集団が横行したので、これも幕府は禁止し、これ以降成人男性のみによる野郎歌舞伎となりました。
 若衆歌舞伎までは、舞踊中心の公演でしたが、幕府はこれが風紀を乱し、売春が横行したと判断し、野郎歌舞伎からは、演劇中心に転換させられましたが、これを契機に史実を題材にした時代物や、当時の世相を題材にした世話物の、面白い脚本が発達しました。
 歌舞伎の芝居小屋は、京・大坂(上方)と江戸に常設されるようになり、江戸前期には上方が、後期には江戸が最盛し、上方では繊細な表現や女形(和事)が、江戸では勇壮な表現(荒事)が得意な名優が活躍し、この差別化された芸風は今日まで受け継がれています。

 歌舞伎は能を起源としており、能は吹き放たれた野外の仮設舞台で、舞台のみに屋根があり、一日のみ興行する等、祭祀的な性格でしたが、歌舞伎は専用の芝居小屋で、客席にも屋根をかけ、一定期間興行する等、能の様々な制約を打ち壊しました。
 また、引き幕・回り舞台で場面を区分・転換し、複雑な物語も軽快に展開できるとともに、セリや花道で俳優と観客が交錯することで、舞台と客席が一体化でき、このような演出が視覚美や娯楽性に特化したからこそ、大衆化できたのではないでしょうか。
 江戸期になると、能は茶の湯と同様、将軍・大名等の特権階級や、一部の町人の間でのみ観賞されましたが、庶民には浸透せず、すでに古典芸能化していた一方、歌舞伎は庶民生活に溶け込み、支持され発展しました。


◎人形浄瑠璃(文楽)

 語る太夫(だゆう)、三味線を弾く人、人形を操る人(当初は1人で江戸中期から3人、首+右手・左手・両足を担当)が一体となって物語を展開し、太夫は物語を語って神仏の功徳を説いたのが起源で、太夫の芸は戦国中期には確立されていました。
 太夫の芸は、御伽草子(おとぎぞうし)の一種で、浄瑠璃姫と牛若丸の恋物語「浄瑠璃十二段草子」が評判となり、当初は扇子で拍子を取りながら語っていましたが、戦国後期には琉球から三線(さんしん)が渡来し、三味線が発達すると伴奏に取り入れられました(浄瑠璃)。
 江戸初期には人形芝居も取り入れて人形浄瑠璃となり、江戸前期には竹本義太夫が大坂・道頓堀に竹本座を開設し、江戸中期には近松門左衛門の脚本を上演することで、人形浄瑠璃は歌舞伎よりも流行、義太夫節も浸透、人形浄瑠璃の作品は歌舞伎の題材にもなりました。
 しかし、江戸後期には文化の中心が上方(京・大坂地域)から江戸へと移動するとともに、歌舞伎が優勢、人形浄瑠璃が劣勢となり、それは今日の状況までつながっています。

 そして、歌舞伎や人形浄瑠璃に共通する特徴は、非現実的な様式美で、いかに観客を物語に引き込み、現実の世界のようにみせるかで、非現実的な様式美は、荒唐無稽な空想にも対応できるとともに、取るに足らない物語をも成立させられます。
 非現実的な様式美は、神秘性・幻想性(幽玄)を取り入れた能にもあり、例えば世阿弥が大成した夢幻能では、現世の人物(ワキ、脇役)が能面をつけた来世の霊的な存在(シテ、主役)から無念さを聞き出す形式で、現世と来世を行き来させる物語としています。
 歌舞伎では、性的魅力のある女性や少年の出演が禁止され、舞踊から演劇へ転換すると、いかに男性の女形が女性のように自然な演技をみせるかが見所となり、人形浄瑠璃では、人形遣いが隠れなくなると(首+右手の担当が顔を出すようになります)、いかに人形の自然な動作をみせるかが見所となります。
 つまり、演劇の非現実な設定を乗り越えるのは、自然な演技・動作と観客の入り込み具合の両方で、これは優美な庭園と対局にある、滅び尽きた表現の枯山水を観賞するのと類似しているといえるのではないでしょうか。
 誰でも即座に美しいと感じられる物は想像が限定され、それ以上発展しにくい一方、欠如・不足の状態に物を演出し、そこに面白味が見い出せば、心に強く深く刻み込まれ、それが下地・基盤となって無限に多様な形や色を想像することができ、見る者が創る者に接近できる契機となります。
 能・歌舞伎・人形浄瑠璃も、現実を忠実に再現した物語(自然との一体化)や視覚美だけでは、なかなか観客を感動させにくく、脚本や演技の様式(人工による作為)で観客が「虚」と「実」を行き来することにより、魅力を生み出そうとしています。
 俳優の演技が上手か下手かということも、知名度のある俳優が芝居に出演し、あらかじめ考え抜かれた脚本で演技している時点で総体的には「虚」ですが、俳優それぞれがその役に成り切った自然な演技で(世阿弥のいう物真似)、いかに局所的には「実」へと差し迫れるかで、観客を「虚」と「実」で行き来させることができれば上出来でしょう。
 それとは反対に、無名の俳優を多用したり、脚本を現場で大幅に変更する演出は、「虚」よりも「実」を優先させた結果といえ、そうなると人形浄瑠璃の人形遣いの顔出しは「虚」が際立ちますが、有名な歌舞伎役者を目当てに観劇するのと同様、おそらく誰が主導して操るのか見せるために、そうなったのでしょう。
 そこでは「虚」が目立つなか、いかに人形の自然な動作で、観客を物語に引き込み、「実」とするかが醍醐味といえるのではないでしょうか。

(おわり)