無常から夢幻泡影(むげんほうよう)・浮世(うきよ)へ1 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 日本の歴史は、政治で時代区分するのが通例ですが、社会で時代区分してみると、14世紀の南北朝の動乱頃が大転換期といわれており、例えば村・町は、それ以前には散村や仮設の市(いち)でしたが、それ以後には集村(惣村)や常設の市(都市)が形成され、自治的な村・町の原型になりました。
 また、日本では古来より話し言葉は地域ごとで多様ですが、書き言葉は比較的全国均質で、平仮名交じりが多く(片仮名交じりは神仏・裁判等の口語で使用され、少ない)、平仮名は当初、貴族の女性が使用し、男性も私的文書に使用することで普及、公的文書は漢字のみなので、書ける人が限られました。
 海外でも、特権階級は、文字を独占すれば長年、国家を統治・人々を支配できるので、庶民にまで文字を普及させませんでした。
 ところが、鎌倉期から室町期にかけて産業・経済が発達すると、日本社会は文書でのやりとりが定着し、平仮名交じりなら下層の武士(妻や娘も)や上層の百姓にまで広がり、戦国期からは村・町が外部用の表帳簿と内部用の裏帳簿を作成、江戸期には藩校・寺子屋等で庶民にも識字習得が拡大しました。
 さらに、貨幣は鎌倉期から室町期にかけて流通するようになりましたが、それ以前は河原・中州や海浜・坂道等、共同体外で特定日時のみ市が開催され、そこは聖なる場で、物が人と切り離されて無縁になるため、共同体内での日常的な贈与と返礼の関係(互酬性)とは別の、商品交換が執り行われました。
 金融の起源も、はじめは古来より稲作で導入され、それは今秋最初に収穫された稲穂を神に奉納し(初穂)、神の媒介者の首長が神聖な倉庫に保管、来春に神聖な種籾として農民に貸与し、来秋の収穫から元本と利息の稲穂を返済する出挙(すいこ)で、かつては贈与と返礼に徴税が組み合わされていました。
 そこから派生し、有力寺社等の荘園領主が、財力を背景に金融業者となり(借上/かしあげ)、寺社所属の末端の人々が布教活動するとともに、神仏へ奉納された米等を貸し出すようになりました。
 しかし、貨幣流通以後には、しだいに市が常設化されて俗なる場となり、金銭も単なる商品との交換手段になり、商人と職人も分化、金融業者の大半は利銭をかせぐためだけに貸し付けて富裕化(土倉・酒屋等)、徳政令での借金の帳消と質物の回復も、そのような利銭をかせいだ金融業者が対象でした。
 つまり、かつての商業・交易・金融等は、神聖な行為とされていましたが、南北朝の動乱で武家勢力と公家(皇族・貴族)勢力が完全に逆転すると、現在のように世俗な行為となり、呪力よりも武力・財力が優位な社会へと移行しました。
 ただ、動乱以降は、武力・財力が各地へ分散した社会なので、朝廷・幕府等による中央の統治・支配がしだいに困難になっていきました。
 武家・寺社・庶民等、様々な勢力が並存し、戦国期にはそれらの勢力が地方ごとで細分化、戦争と同盟を繰り返し、結局は最も上下関係が明確なので、統率がとりやすい武家のうち、家柄よりも能力のある武将(信長→秀吉→家康)が天下統一を達成しました。
 そして、この時期に自治的な村・町が形成され、庶民が特権階級にも立ち向かい、特権階級と庶民の境目が流動化・曖昧だったので、天下統一後にも特権階級とともに、庶民の教養・文化が発展したのではないでしょうか。
 
 ところで、動乱以降の教養・文化は、正統の禁欲的な系列と、その反動の享楽的な系列に大別でき、禁欲的な系列は、主に武士の間で、中世には禅が、近世には儒学が流行し、享楽的な系列は、中世には武士の一部でバサラやカブキ者が登場、それが近世の庶民文化の遊戯化等につながりました。
 禁欲的な系列は、高尚さから、記紀神話でのアマテラス・神道での柔和な面の和魂(にぎたま)・仏教での穏やかに優しく教えを説く菩薩を想起させ、享楽的な系列は、低俗さから、記紀神話でのスサノオ・神道での勇猛な面の荒魂(あらたま)・仏教での厳しく恐ろしく教えを説く明王を想起させます。
 でも、禁欲的な系列と享楽的な系列のいずれも、無常観から導き出されており、無常には、万物は絶え間なく移り変わる(転変性)という意味と、一切は有るようにみえるが実は無い(虚仮/こけ性)という意味があります。
 『般若心経』の色即是空(しきそくぜくう)・空即是色(くうそくぜしき)を、転変性で解釈すると、「あらゆるものは、永遠に継続するような実体などないが、永遠に継続する実体がないからこそ、瞬間的にはあらゆるものが存在する」となります。
 それを、虚仮性で解釈すると、「あらゆるものは、関係性のうえに成り立っているので、個々に実体はないが、個々に実体がないからこそ、関係性であらゆるものが存在する」となります。
 転変性からは、物も人も必死必滅だという宿命をただ受け入れるしかなく、虚仮性からは、この世は夢幻泡影(人生は夢・幻・泡・影等のように、はかない)だという思いを抱えるようになりました。
 夢幻泡影は、仏教の経典のひとつである『金剛般若経』の、「一切有為法(いっさいのういのほう)、如夢幻泡影(むげんほうようのごとし)、如露亦如雷(つゆのごとくまたかみなりのごとし)、応作如是観(まさにかくのごときかんをなすべし)」からの引用です。
 人々は、必死必滅や夢幻泡影を反映した死生観だけだと、絶望してしまいますが、そこから何とか抜け出して自分に希望を見い出し、他人も救済するため、拠り所を求めました。
 
 まず、貴族は、平安後期からしだいに没落していくと、かれらの過敏な感受性から、現世利益の密教(加持祈祷)だけでなく、来世利益の浄土教(西方の極楽浄土にいるとされる阿弥陀如来への信仰)も取り入れ、現実逃避していきました。
 貴族の感情が過敏なのは、変化=「生」、不変=「死」という日本特有の美意識があるからで、和歌でも四季の変化等、物が移り変わる瞬間を切り取り、それを心と呼応(一致・対比)させて表現し、そうすることで自然の摂理・循環と一体化させようとしました。
 かつての中央豪族達は、各々で武力を保持し、飛鳥期からの中央集権化でも、軍事は貴族が庶民を指揮しましたが、平安中期に中央集権を断念すると、貴族が政治(祭祀)に特化するとともに、朝廷の命令で、軍事は武士が負担するようになりました。
 よって、貴族達は、平清盛・源頼朝の時代以降、武力を背景に行動できなくなり、末法思想の影響もあって、現世は不浄な世界(穢土/えど)なので、来世に清浄な世界(浄土)へ往生できることを切望しました(厭離/おんり穢土・欣求/ごんぐ浄土)。
 
 つぎに、武士は、平安末期から台頭すると、鎌倉初期から現世利益の禅を取り入れましたが(後述)、戦乱だとかれらはいつも死に直面しているので、死ぬも生きるも大した違いがなく、自分は夢幻泡影だと、いさぎよくあきらめて勇猛果敢に戦闘しました。
 武士が生死をかけて主君に献身した究極の目的は、自分の戦死によって名声を獲得し、主君からの恩賞によって家制度(家系・家名・家族)を存続・繁栄させようとすることで、個人は早かれ遅かれ必死必滅ですが、かれらは家制度の永久不死不滅を希求しました。
 織田信長は、幸若舞(こうわかまい、能や歌舞伎の原型)の演目のひとつである『敦盛』の、「人間50年、化天(げてん、下天とも)のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり、ひとたび生をうけ、滅せぬもののあるべきか」という一節を愛好し、頻繁に謡い舞っていました。
 化天は、天上界の中でも人間界に近く、いまだ欲望に束縛された6つの天界(六欲天)の上から2番目の化楽天(けらくてん)の世で、住人の寿命は8000歳、下天は、六欲天の最下位の世で、住人の寿命は500歳とされ、どちらと比べても人生のはかなさが表現されています。
 信長を自害させた明智光秀も、辞世の漢詩に「55年の夢、覚め来れば一元に帰す」との一節があり、光秀を追討した豊臣秀吉も、辞世の句を「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速(なにわ)のことは夢のまた夢」と残して死んでいきました。
 ちなみに、豊臣家を滅亡させた徳川家康も、辞世の句を「嬉(うれし)やと再び醒(さ)めて一眠り 浮き世の夢は暁(あかつき)の空」と、この世を浮世と表現していますが、自分の死後も夢は、日の出前の暗い空が明るくなるように、はじまろうとしていると、息子に継承したと実感していたようです。
 ただし、実際は家制度も栄枯盛衰が不可避なので、為政者・有力者達は、天皇家・摂関家や平氏・源氏等の末裔だとすることで、家制度の正統性と永続性を主張しています。
 例えば、鎌倉幕府・執権の北条氏は平氏、室町幕府・将軍の足利氏は源氏(これのみ確実)、織田氏は藤原氏と平氏、豊臣氏は当初には平氏で、秀吉の関白就任の際には養子になって藤原氏、江戸幕府・将軍の徳川氏は藤原氏と源氏を自称していました。
 
 最後に、庶民は、乱世への不安と恐怖を払拭しようと、平安末期から来世利益の念仏に救いを求め(浄土宗・浄土真宗=一向宗・時宗)、このうち浄土真宗は戦国前期から一向一揆等で、現世利益の行動をおこして他勢力と抗争、他力の浄土教に自力の禅を取り込んだ格好になっています。
 庶民は当初、貴族と同様、厭離穢土・欣求浄土でしたが、浄土真宗では現世と来世の両方が眺められ、確実に浄土へ行くことが約束された、来世からの阿弥陀如来の光と、現世からの念仏の声が出会う、生と死の中間地点を設定し、そこから見て考え行動すべきだといっており、それを実践しました。
 一方、鎌倉中期には題目をとなえれば、来世でなく現世で、すぐに成仏できるとする一派も出現し(日蓮宗=法華宗)、他宗派を批判、幕府からも迫害されましたが、戦国中期には法華一揆等で、他勢力と抗争を繰り返しました。
 
 このようにみてくると、貴族は、呪力(神仏等)による来世利益に踏み止まった一方、武士や庶民は、武力・財力による現世利益にも踏み込んでおり、そこから日本の教養・文化が、正統の高尚・禁欲的な系列と、その反動の低俗・享楽的な系列に、分岐していったようです。
 ここでは、中世・近世の禁欲性と享楽性について、それぞれみていきます。
 
 
■中世の禁欲性:禅
 
 禅が中国から日本へと本格的に普及しはじめたのは、武士が東国で政治を開始した鎌倉期からで(栄西が南宋から臨済禅を移入)、当初は無法者だった武士の教養(道徳・哲学等)として取り入れられ、室町期には幕府の庇護のもとで拡大(五山制度)、水墨画・枯山水・ワビ茶等の文化・芸術も発達しました。
 臨済禅での師弟関係では、弟子が尊敬できる師を選び、師は弟子が座禅・禅問答(公案)等の修行で悟りを開いたと認め、教義を受け継がせますが、これは武士間の御恩と奉公による主君と家臣の契約的な主従関係と類似しているので、受け入れやすかったのでしょう。
 家柄本位の鎌倉・室町期の武士達は、鎌倉五山・京都五山をはじめとする禅寺(禅林・叢林/そうりん)と結び付いた一方、実力本位の戦国期の有力武将達は、大徳寺・妙心寺等の五山制度に所属しない在野の禅寺(林下/りんか)と結び付き、禅僧を側近にすることもありました。
 
 仏教では普通に生きているだけで苦とされ、死ねば感情(煩悩)が取り除かれて楽になり、浄土教では他力(阿弥陀如来の加護)によって来世で、禅では自力(修行)によって現世で、無常の転変性や虚仮性の境地(無・空の境地)に到達し、他人も救済することが主題です。
 人は誰でも、その境地に到達することができ(仏性/ぶっしょう)、それは滅び尽きて無になった(浄土教では極楽往生できた、禅では悟りを開いた)状態で、そうなれば永久に平穏で安定した心境が獲得できるとされており(無心)、水墨画・枯山水・ワビ茶等は滅び尽きた表現といえます。
 しかし、煩悩を排除し、無・空の境地へ到達しようとする行為は、それ自体が欲望(煩悩)に執着していることになるため、それも修行で振り払うことになり、そうなると現実を否定し、それを再度否定したことになるので、現実を肯定することにまで行き着きます。
 それを実践したのは、室町中・後期の禅僧・一休宗純(いっきゅうそうじゅん)で、かれは奇怪な言動が顕著で破天荒といわれていましたが、現実を肯定し、天真爛漫な自然児のような無執着心で、あるがまま自由自在に生活しました。
 一休は、熱心に修行する持戒者であるとともに、飲酒・肉食・恋愛(女も男も)等にも明け暮れた破戒者でもあり、仏界と魔界の間を行き来し、臨終の際には「死にとうない」と生への執着を言い残したそうです。
 
 
■中世の享楽性:バサラ(婆娑羅)・カブキ(傾奇)者
 
 鎌倉後期の2度の蒙古襲来(元寇)の際、幕府はいずれも侵攻を阻止できましたが、領土を拡大・金銭を獲得したわけではないので、活躍した武士(御家人)に恩賞がないうえ、国防強化を口実に、執権の北条氏一門に権力が集中するようになりました。
 もともと武士は、複数の子供に分割相続していたため、生計維持のためには、世代交代するにつれて所領が必要で、鎌倉前期の承久の乱後までは、武家勢力が東日本から西日本へも拡大したので、問題ありませんでしたが、それ以降には戦争がなく、所領が増加せずに細分化され、収入が激減していました。
 御家人達は家督のみの単独相続に切り替えて対応していましたが、鎌倉中期からしだいに困窮化した御家人の不満が蓄積するようになり、領主に反抗する新興武士(悪党)も活発化、農民の抵抗運動も拡大し、そのような中でバサラ的な言動をする武士が登場しています。
 バサラとは、サンスクリット語でダイヤモンド(金剛石)を意味し、平安期には雅楽・舞楽で伝統を打ち破る自由な演奏をいっていたようです(ダイヤモンドは強く硬いので、何でも打ち破れることに由来)。
 それが南北朝期前後からは、体制・権威に反逆し、派手で奇抜な衣装で(かつて武士の飾り立てた服装はタブーでした)、遠慮せず自由奔放・傍若無人に行動する美意識をさすようになり、行動だけを取って見れば、武士が当初の野性的な無法者に立ち返ったともいえます。
 室町期にはバサラ的な言動をする足利氏の重臣(高師直/もろなお)や守護大名(近江の佐々木道誉/どうよ・美濃の土岐頼遠/ときよりとお)もいて、幕府はそれを禁止しましたが、反逆精神は戦国期に下克上のきっかけとなり、派手な外見は安土桃山期に信長・秀吉等の豪華な文化へとつながりました。
 
 どちらかというと、バサラは自分の武力・財力をもとに登場した一方、カブキ者は庶民と武士の中間だった人々から登場し、戦国期のはじまりの応仁の乱から戦争の主力になった、歩兵部隊(足軽)の一部が、異様な外見で暴徒化したのが由来のようです。
 日本の戦闘は、元寇をきっかけに、騎馬武者どうしの個人戦から、足軽どうしの集団戦へと転換し、足軽も活躍すれば出世できましたが(例えば秀吉)、生命を犠牲にするにもかかわらず、末端の隊員にまで充分な報酬は行き渡らないので、自由奔放・傍若無人に行動することで、現世を謳歌しました。
 カブキ者とは、派手な衣装で、常識を逸脱して無礼な振る舞いをする連中で、戦国末期から江戸初期にかけて流行し、戦時には武将に奉公しつつ、村・町で乱暴・略奪を繰り返し、不満を爆発させましたが、天下統一されて平時になると、かれらの居場所がなくなり、都市に出没するようになりました。
 庶民は、その行動を嫌悪しましたが、秩序への反発・仲間との結束等の精神は共感され、身分や地位にかかわらず外見を真似するカブキ者も出現し、幕府や諸藩の取り締まりで流行は終息しましたが、その斬新さ・華美さは歌舞伎等に受け継がれました。
 当時の流行に熱心な数寄(すき、好き)者よりも、さらに数寄に傾(かぶ)いた者なので、傾奇者(歌舞伎者)といわれるようになり、変化=「生」、不変=「死」という日本特有の美意識から、安定よりも不安定な「好き」や「傾き」へと揺れ動いたともいえます。
 
 万物は常時様々に変化・運動し、平穏・安定が長く続かず、思い通りにならないのであれば、反対に夢・幻・泡・影を自由に膨張・収縮させようとしており、物や人は必死必滅だからこそ、この世では死滅に対抗し、自在に行動しようとするバサラやカブキ者が出現しました。
 ここで注意したいのは、特定の階級だけでなく、上級から下級まで武士の一部が取り入れたことで、庶民もバサラやカブキ者の衣装・外見は受け入れており、それが簡素さと豪華さを兼ね備えた日本美の特徴となっています。
 ですが、かれらは旧秩序を破壊しようとしましたが、新秩序を創造しようとまではいかず、あくまでも禅的な幽玄やワビ・サビ等の正統の反動として作用するしかなく、正統の禁欲性と反動の享楽性を同時に追求したのが禅僧の一休といえます。
 
(つづく)